音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

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ありがとうございました

2014-03-02 23:20:52 | その他
このブログを読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。

2005年の11月から8年ほどの間、駄文を綴ってまいりました。食事の席で話す笑い話を「書き留めておいたほうがいいよ」と言ってくれた、クラリネット奏者佐々木麻衣子ちゃんのひとことがきっかけで、何気なく始めたエッセイでした。2、3年ほど前から、「よし、100回を目標に書こう」と思い始めました。私にとっては、書くことで自分の思い出を整理する貴重な時間になりました。

この2月で、とうとう100回を迎えました。みなさまのあたたかい励ましのお声のおかげです。感想を送ってくださった方、コメントを投稿してくださった方、そして勝手に「登場させられちゃった方」に、深く御礼申し上げます。最後のほうはなんだか反省文大会みたいだったね、と笑ってくれた友人にも、ありがとうと言いたいです。おすすめの名曲はまだまだ数限りなくありますが、ここでいったん、筆をおきたいと思います。


音楽を私に与えてくれた両親、先生方、友人たちに、心からの感謝をこめて。

2014年3月2日

加藤牧菜
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ラヴェル 「マ・メール・ロワ」より 「妖精の園」

2014-02-28 00:20:03 | ピアノ
 大学3年の頃、オルガンの道に進んだ後輩Nと仲良くしていた。ある晩、2人で小さなチャペルを訪ねた。夜のチャペルはしんと静まりかえっていたが、なぜだか少しあたたかい気がした。Nはピアノのふたを開け、近くの灯りをつけると、「連弾しようよ」と言った。私達は「マ・メール・ロワ」の終曲を弾いた。終わると、Nは晴れやかな顔をして「この曲、気分がふわーっとして、いいよね」と言った。私達はもう一度、弾いた。
 ラヴェルのピアノ連弾曲集「マ・メール・ロワ」の終曲「妖精の園」は、眠れる森の美女に題材を取っている。静かに夜が明け、王女が長い眠りから醒める。王子と王女はめでたく結ばれ、祝福される。曲の最後に出てくる上下のグリッサンドは、2人のまわりを飛び交う妖精たち。作曲者の手によるオーケストラ版もあり、こちらはかなり壮大になっている。いずれにしても、暁の美しい情景が浮かんでくる、素晴らしい小品だ。
 チャペルでNとこの曲を弾いた頃、私は人生で初めて「大切な人を失う」経験をし、何か月も足元がふらついていた。人を傷つけた自分の幼稚さと愚かさが悔しくて、ただ、もがいていた。それをうまく口にすることもできず、ただ、夜ごと自分の腕を叩いた。私の夜明けは、まだ遠かった。
 人を傷つけずに大人になれたら、どんなにいいだろう。情けないことに私は、過去の素行を思い出すと青くなることばかりだ。自分の思い通りにならない相手を、「感情を持った一個の人間」として扱うことが、できなかったのだ。自分のしたいことを相手に「してあげる」ことが愛であると、長いこと勘違いしていた。
 自分と他人が違うものだと認識するのは2歳ごろだと聞いたことがあるが、私は30歳を過ぎてやっと、分離し始めてきたような気がする。フランス語を少しかじったとき、moi(わたし)とtoi(おまえ)の区別の厳密さに驚いたことがあるが、最近になって、ようやっと「他人と自分は、本当に、まったく違う世界を生きているのだ」と体得的に理解できるようになった。
 あるとき、私の尊敬する音楽家が「自分の生徒が練習しようがしまいが、知ったこっちゃない」と言い放つのを聞いて、はっとした。そうか。他人の人生は、他人が生きるのだ。どんなに大事な相手でも、どんなに愛していても、どんなに心配でも、相手の幸せは、相手に任せなくてはいけないのだ。「人を幸せにできると思うなんて傲慢だ」と繰り返し言っていた友人の言葉が、急に腑に落ちた。
 相手の自由を、手放しで尊重する。それは、おそろしく難しいことのように思えた。まずは、山崎まさよしの「セロリ」を、部屋で何度も何度もかけてみた。♪もともと何処吹く他人だから 価値観はイナメナイ――― 相手を変えようとするより、自分が変わるのが先ということか。なにかこう、眠りから覚めるような思いがした。
 鷲田清一さんが『想像のレッスン』(NTT出版)という本の中で書いている。「ゆとりとは、じぶんが自由にできる時間をもつということではなくて、意のままにならないもの、それは物であったり別の生き物であったり記憶であったりするが、そういうもののひとつひとつに丁寧に接するなかで生まれてくるものであるはずだ。それは、じぶん以外の何かを迎え容れうる、そういう空白をもっているということであって、くつろぐ、つまりじぶんの気に入ったもので回りを満たすという態度とは正反対のものなのである。」
 大人というのは、どうにもできない相手、決して変えられない他人と、上手な距離を取って生きるものなのだな、と思う。どんなに大事でも、愛していても、まったく別の個体として生きていることを、楽しめるぐらいの大らかさを持って。
 私の人生の夜明けは、握りしめた「あなた」と「わたし」を解き放つ過程だった。長い眠りから醒めてみると、世の中は思いがけない煌めきに満ちていた。ままならぬ他人と生きる世界は、朝焼けに燃える「妖精の園」のように輝いていたのだ。
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岩谷時子/平尾昌晃 「ともだちがいる」

2014-01-30 22:37:14 | オペラ・声楽
 昨年末に、女声合唱団を立ち上げた。私は事務局と練習ピアノ担当で、月3回、幸せな時間を過ごしている。互いに見ず知らずだった20名ほどのメンバーは、回を追うごとに会話を増やし、今や和やかに歌っている。指導する駒井さんが軽口をたたいて皆を笑わせ、皆がそれに応えて面白いことを言い返す。笑顔になれば自然と声がのびる。合唱ってこんなに楽しいものだったかな、とつくづく思う。
 中学3年間、1月の末にクラス対抗の合唱コンクールがあった。私は中1、2と指揮をし、中3のときはピアノを弾いた。毎年懸命に頑張ったのだが、クラスを引っ張る人間としては、最悪だった。拍子に合わせて腕を振り回す「指揮」が下手くそだっただけではない。「大勢で歌を作り上げるということ」そのものに対する考えが間違っていた。
 練習が始まるともう、音を正しく歌うということ以外、頭になかった。少人数で練習して音程が下がっている人は名指しで注意したし、ピアノを強く叩いて苛立ってばかりいた。「マジメに取り組まない輩」に腹を立て、練習に来なかったクラスメイトの名前を教室の後ろの黒板に書き出したこともある。そもそも自由曲の選び方からして、なっていなかった。自分に指導力がないことを棚に上げて、「難しいハーモニーは歌えないに決まっている」と高をくくっていたのだ。
 中3のときは、音楽的技術は諦めて情緒的な内容で勝負しようと考えて、曲を選んだ。大中恩の「月のうさぎ」。ドラマティックに作られた素晴らしい曲で、内容はお釈迦様に身を捧げた兎の話だ。起承転結がはっきりしていて、皆が感情移入しやすいという点では悪くなかったのだが、結局勝てなかった。優勝したのは、湯山明の「宝石の歌」を歌ったクラス。和声の難しさと、アカペラ部分があるという理由で、曲選びの早い段階で私がさっさと候補から外してしまった曲だった。そのときにはまだ、まったく気づいていなかった。心から人を信じれば、その人は想像以上の力を発揮してくれるのだということを。
 高校時代、ミュージカルの部活での合唱指導も、まあ酷いものだった。後輩の言葉を借りると、「いつも音楽室のドアを開けて『キタナイ~』と言って、ぴしゃりとドアを閉めて去っていく」ばかりだった。同級生が必死になって、後輩たちの間に「連帯感」を生み出そうしているのを、冷めた目で見つめていた。裏で彼らに「私達がせっかく作り上げた輪を乱さないで」と窘められても、「下手なものに下手と言って何が悪い」と開き直っていた。自分の書いた編曲の拙さなど、1ミリも頭をよぎらなかった。
 大学に入ってコーラスグループを組んだときも、状況は一向に変わらなかった。歌えるメンバーが揃った分、私の受容性が激減した。練習に集まったメンバーが音楽づくりに関係ないことを喋るのを見るだけで嫌気がさした。自分自身が弾けるかどうかは二の次で、なぜ一生懸命考えて歌おうとしないのかと仲間を責めた。それぞれが、それぞれのやり方で歌を楽しんでいるということが、微塵も理解できなかった。たぶん自分がこの世で一番エラいと思っていたのだ。勝手に、孤独だった。
 プロの音楽家を志す仲間たちと一緒に舞台をやるようになって初めて、音楽に対する「温度差問題」を感じずに済むようになった。企画をするにも、舞台の裏方をするにも、演奏するにも、彼らの容赦ない情熱に「ついていく」という喜びがあった。私が楽しくなってきゃぴきゃぴしていると「仲よしこよしでやってるわけじゃないんだ」と、叱られたことさえあった。何時間も飲まず食わずで合わせをし、ときには喧嘩腰で議論した。いずれにしても、私は居場所を見出した思いで、やっと息をついた。
 しかし、あれから10数年。音楽の企画でお金をいただくようになり、お仕事で演奏家を派遣するようになり、たくさんの音楽家と一緒に時間を過ごすようになって、やっとわかるようになった。目標達成のために全員が決死の覚悟でいる必要なんてない。肝心なのは、各人が気分よく能力を発揮できる環境であり、あたたかい人間関係であり、心からの信頼とそれに応えようとする想いなのだ。それぞれが羽を広げられることなのだ。
 中1の合唱コンクールのとき、となりのクラスが歌っていた「ともだちがいる」。悪友Cの指揮で、みんながニコニコと練習しているのを聞いて、衝撃を受けた。昭和50年度のNHK全国学校音楽コンクールの課題曲だった合唱曲だ。岩谷さんのやさしい詩と、平尾さんの素直なメロディーと弾むようなリズム。1組のみんなは、歌う喜びを自然に共有していた。私にはそれがとても不思議で、ただただ、うらやましかった。そのときすでに、自分の方向性は間違っていると、心の奥では感じていたのだ。それでも私は長いこと、「みんなを信頼する」という勇気が持てなかった。
 ♪みどりの風の中 わたしたちはいる 目と目でほほえむ ともだちがいる ―――あの歌詞の意味が、やっと、本当にわかる気がする。言葉を交わさなくとも、微笑み合う仲間がいる。プロだろうとアマチュアだろうと、本番があろうとなかろうと、一緒に歌を歌い、音楽ができるということは、この世の奇跡ともいうべき時間なのだ。♪光と風の中 わたしたちはいる やさしくよんでる ともだちがいる――― あの日講堂で聞いた「ともだちがいる」は、今、私に教えてくれる。人と共に生きる喜びと、人を信じるうれしさを。 ♪ちいさな思い出は 青い海こえて 心と心 つないでくれる―――
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グルック オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」より エウリディーチェを失って

2013-12-30 00:49:39 | オペラ・声楽
 久しぶりに「ケファロ」の伴奏をした。この有名なアリア「Che farò senza Euridice(エウリディーチェを失って)」は、グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の終盤で歌われる。素直な美しい旋律で、声楽の初学者も良く歌うアリアだが、なかなかドラマチックな曲だ。
 オペラの元ネタは、有名なギリシャ神話。音楽家のオルフェオが、亡くなった妻・エウリディーチェを取戻しに黄泉の国へ赴く。彼の音楽は地獄の霊たちをも動かし、妻を地上に連れ帰ることが許される。条件はただ一つ。【日の光を見るまで、妻を振り返って見てはならない。】しかし地上に着く前に、オルフェオは後ろを振り向いてしまい、妻は消え失せる。そのとき歌われるのが、このアリアだ。「♪愛しいエウリディーチェがいなくなった今、僕はどうしたらよいのだろう?」と嘆く。
 実はこの10年ほど、このアリアを聴くと気持ちが落ち込んでいた。本棚に並ぶ数種類の「オルフェオとエウリディーチェ」のヴォーカルスコアを手に取るたびに、うっすらと罪悪感のような重たい気持ちを感じていた。割とあっけらかんと生きてきた私にも、小さな挫折があったことを思い出すからだ。「やらなかった後悔」を心の中で蒸し返していた。
 2001年、大学院生のとき、オペラのプロデューサーになるのが夢だった頃、若手を集めてオペラ公演をやろうと企画した。少々無謀な点もあったが、「なんとかする」が口癖だった私は、とにかく走り出した。上演する作品はグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」。企画書を書き、予算書を作り、舞台監督と会場を下見してまわり、めぼしいホールを押さえた。東京文化の練習室を借りて、指揮者と演出家と3人で、オーディションもした。ひとつひとつの手順が楽しかった。
 その夏の終わり、9.11が起きた。頼りにしていたスポンサーの当てが外れ、私は急に不安になった。ほんの数日悩み、あっさりと中止を決断した。すばやく関係者全員に謝りの電話を入れたが、誰も私を責めなかった。誰もが「よくあること」のように流してくれた。翌年、我々が予約していたホールは突如閉館になり、「むしろキャンセルして良かったね」と言う友人もいた。ただ、自分だけは、わかっていた。「やろうと思えば、なんとかできたんじゃないか。」
 毎日を普通に生きていたら「あのとき、本当はもっとできたんじゃないか」と思うことは、いくらでもある。母の最期の看病だって、大学院の研究だって、今年一年間の生活だって、「もっと頑張れたはず」と思う。しかし大概は「その時はそれで精いっぱいだったのだから」と一人で納得する。より良い方法なんて、後になってからよくわかるものなのだから、仕方がない。
 ところがオペラの一件だけは、どうしても、そう思えなかった。今だったら有志を集めてオペラをやるなんて、簡単に実現可能だろうが、実際やろうとは思わない。あれは24歳の私の、その瞬間の情熱だったのだ。企画中止によって人に迷惑をかけたことよりも、そのときの自分の情熱に嘘をついたような罪悪感のほうが、深く残ってしまった。小さな躓きが、なぜか長く尾を引いてしまった。
 今日「ケファロ」の伴奏をしながら、サルトルの戯曲「蠅」のことが、ふと頭をよぎった。ギリシャ悲劇のオレステス物語を、サルトル節全開で翻案した作品で、キリスト教が痛烈に皮肉られている。登場する群衆たちは「自分は罪深い」と後悔し、哀れな己れを断罪し続ける。その気持ち悪さと言ったらない。彼らに反旗を翻すエレクトラは言う。「あの人たちは自分たちの苦しみを愛しているの、身近なひとつの傷痕を汚い爪で引っ掻きながら、後生大事に持っていることが必要なんだわ。」
 ちょっと待て。私もあの群衆の類ではないか。自分のちっぽけな後悔に酔って、可哀想ぶった群衆の一人になっていたんじゃないか。「蠅」の中で狂言回し的に登場する大神ユピテルは笑う。「その怖れ、そのやましさは、神々の鼻孔にはなんとも言えぬ香気です。さよう、その哀れな魂こそ神々のお気に召すわけなんですよ。」私は自分の滑稽さに、寒気がする。
 この戯曲の中では、主人公オレステスが、「実存の自由」に目覚めるシーンが非常に印象的だ。「おとなしくすること。静かにすること。いつも『ごめんなさい』と『ありがとう』を言うこと」が善だというのか、と彼は問う。オレステスの台詞は、サルトルの思想を代弁する。「僕は自由だ、エレクトラ。自由が電撃のように僕に襲いかかった。」「僕は、もう自分の道しか辿ることができないんだ。なぜなら僕は人間だからさ、ユピテル、人間はみんなそれぞれ自分の道を発見していかなければならないんだ。」後悔しているヒマなどない。
 「ケファロ」のアリアは、オッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄」に引用されている。「天国と地獄」は、「地獄のギャロップ」(♪カステラ1番電話は2番)で有名だが、筋はオルフェオの神話のパロディだ。神話の設定は完全にコケにされ、「ケファロ」は刺激的なアイロニーとして使われている。「キライな妻を取り戻したくない」オルフェが、しぶしぶ神々の前で歌ってみせるのだ。「世論」役はオルフェオをなんとか『常識的に考えて可哀想な人』に仕立て上げようとするが、神々も人間も皆、自分の生を謳歌するのに忙しくて、構っていられない。自己断罪を好む哀れな人間は、これぐらいのあしらいでちょうどいいのだ。
 サルトル「蠅」の幕切れで、オレステスは蠅のようにぶんぶん唸る「罪悪感」を、ハーメルンの笛吹きよろしく連れ去って行く。「ケファロ」を朗々と歌い上げる友人の横で、私はピアノに向かって一人ほくそ笑んだ。くだらない後悔など、どこかへ行ってしまえばよい。いついかなる瞬間も、次の一歩は、各人の自由だ。オレステスの台詞をもうひとつ思い出したい。「人間の生命は、絶望の反対側から始まるのだ。」
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ドナルドソン My blue heaven (私の青空)

2013-11-29 00:26:14 | その他
 先日、十数年ぶりに旧友に再会した。彼に初めて逢ったのは、私が17の夏。当時、輝く瞳の小柄な美少年だった彼は、今や自分の店を持つ立派なお父さんになっていた。昔話に花が咲き、記憶の底をひっくり返しているうちに、私は体の奥から、もやもやとした灰色の塊が湧きあがってくるのを感じた。17歳の気持ちが、蘇ったのだ。消化不良の憂鬱が、胸から口元までを塞いだ。
 17の頃、私は「My blue heaven」という歌をよく口ずさんでいた。日本語タイトルは「私の青空」。昭和のはじめに二村定一や榎本健一が歌ってヒットした。「♪狭いながらも楽しい我が家」という歌詞が有名なポピュラーソングだ。高3になった春、私は「洒落男たち(モダンボーイズ)」という演劇をBS放送で見て、この歌を覚えた。この舞台作品が、私の青春に、むしろ私の人生に、劇的な影響を与えた。
 舞台に描かれているのは、昭和初期の浅草。戦争へ向かう時代の中で、レビューを続けようとしたエノケン一座の舞台裏だ。「ベアトリ姐ちゃん」「東京行進曲」「ダイナ」「恋はやさし野辺の花よ」「洒落男」など、当時のヒット曲の断片が随所に散りばめられている。エノケン役は最後まで登場せず、主役は実在のレビュー作家・菊谷栄だ。
 ある日一座のもとへ、菊谷と同郷の若いマルクスボーイ・矢萩が逃げ込んでくる。一座は彼を匿うために、慌てて学生服を脱がせ、コーラスボーイに変装させる。小屋へ踏み込んで来た警官の前で、この帝大生は強いられて歌を歌う。それが「My blue heaven」。予想外の歌のうまさを買われた青年は、早速舞台に駆り出され、一躍レビューの寵児となる。
 しかし、世相は日に日にキナ臭くなり、元左翼として目をつけられた菊谷は、検閲に台本の書き直しを命じられるようになる。主義者の同士たちが弾圧され、次々と獄に投じられていくというのに、自分たちはレビューなんておちゃらけたことをやっていていいのか? 音楽を愛し、レビューを愛しながら、菊谷と矢萩は悩む。とうとう矢萩は立ち上がり、「無知なる」一座を焚き付け、シュプレッヒコールをあげさせる。赤い鉢巻きを締めて集まったレビューの仲間は、「大まじめに」インターナショナルを歌う。
 そこへ、皆から先生と慕われる菊谷が、顔を白く塗ってピエロの格好で現れる。「ぼくたちは、まじめにレビューをやろうよ!」レビューなんて、くだらない、ばかげてる、何の役にも立たないものかもしれない。それでも「劇場のドアを開け続けよう」と、切々と訴える。もしかしたら、社会に居場所のない誰かが、レビュー小屋の片隅でそっと心の重荷を下ろすかもしれない。極悪人だって、レビューの底抜けの明るさとナンセンスな「あちゃらか」で、ほんの一瞬笑うかもしれない。菊谷自身もそうであったように、暗い時代の中、レビューでほんのひとときの安堵を覚えるかもしれない。それは劇場に起こるひとつの奇跡なんだと、菊谷は説く。
 闘争から逃げてレビューをやるのか。社会に弱者があふれ、問題は山積しているのに、目を逸らしていいのか。矢萩青年が「まっとうな問い」を激しく繰り返す中、ヒロインの女性が叫ぶ。「逃げてなんかいないわ、好きなものに向かって走っただけよ!」
 まるで次元は違うのだが、進路に悩む17の私には、この言葉がまるで鋭いナイフのように突き刺さった。音楽がやりたい、舞台の世界にいたい、楽しいことがやりたい、と思う一方で、免罪符のように理系進学への準備をしていた私は、完全に打ちのめされた。検閲に言われるがまま台本を書き直し、なんとしてでもレビューを続けようとする作家の姿は、好きなものに向かって走ることができないでいる私を、強く揺さぶった。
 芝居のラスト、徹夜で台本を直し続ける菊谷のもとに、召集令状が届く。彼は「最後までレビュー人として、ものを見てきます」と言って、出征する。一座は「私の青空」を歌って送り出す。舞台の背景は一面の青空。そこに爆撃機の音が聞こえる。彼は、戻らなかったのだ。史実では、35歳で戦死している。
 「洒落男たち」の中で、浅草の舞台人たちは、語り合う。ジャズやシャンソンを身体にしみつくまで聴き込めば、きっと日本人にもできるようになる、と。たとえ自分たちの時代には無理でも、手足が長くて、歌が歌えてダンスが踊れる世代が現れる。そして、いつかは自分達のオリジナルミュージカルもできるようになる、と。そんな彼らの思いが、21世紀には当たり前に実現しているではないか。それは、当時の彼らの情熱があったからこそなのだ。どんな状況でも舞台をやり続けた先人がいたからこそ、日本の音楽シーンは今こうして花開いているのだ。
 「私の青空」を歌いながら、思いを馳せる。戦前にジャズを輸入した人達、戦中に必死で音楽を続けた人達、そして戦後に音楽を復興させた人達。幾重にも重なった舞台人達の熱い思いが、伝わってくるような気がする。生き残った私達には、彼らの魂を受け継ぐ末裔として、劇場のドアを開け続ける役目がある。
 17歳の葛藤は、今、私をもう一度揺さぶる。「まじめに」やりなよ。どんな形でもいいから、一生懸命、音楽をやりなよ。楽しい舞台を作りなよ、と。もう、言い訳も、贖宥状もいらない。好きなことをやろう。奇跡が起こる場所にいられることに、ただ感謝しよう。
 1928年に「私の青空」の訳詞をした堀内敬三は、理系の修士を取ってから、音楽業界の偉人になった。彼もきっと「好きなものに向かって走った」に違いない。
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オッフェンバック 「ホフマン物語」より オランピアのアリア

2013-10-31 23:51:23 | オペラ・声楽
 私は基本的にお酒を飲まない。よほどのことがない限り、口もつけない。もっぱら「食べる」専門である。人がグラスを空けている間に、私はせっせと箸を動かす。大いに満足だ。
 大学に入って最初の新歓合宿のでイッキをさせられ、単純に「筑波では絶対飲まないぞ」と心に決めた。そこで学生時代に酌み交わしたのは、音楽や舞台の仲間たち。オペラの話を肴に最終電車までねばったものだ。自覚はなかったが、私は割と強かったようで「あんたは、ざる」とよく言われていた。年上の男性に誘われて初めてビヤホールに行ったときには、2口3口で真っ赤になった相手を前にして、20歳の女の子が何杯飲んでも顔色を変えないのは失礼かと思い、化粧室へ頬紅を塗りに行った。
 京大に勤めていた頃、イベントの打ち上げで、向かいに座った大学院生の子に言われた。「牧菜さんて、飲んでも飲まなくても、テンション変わんないっすね。」飲む前から騒がしいので、特に飲む意味がない、と。それではっとした。じゃあ、飲まなくていいや。その方が経済的だ。以来、アルコールを口にしなくなった。
 というわけで、酔って失敗したオモシロ話もないが、良い酒の思い出というのも数えるほどしかない。ひとつ、ポルトガルで行われた学会の際に求めたポルトワインが美味しくて、初夏のテラスで延々とちびちびやったこと。ふたつ、オペラツアーで訪ねたマルツェミーノの酒蔵で、香り高いワインを試飲しまくったこと。ちなみにこれは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」最終幕の晩餐で♪Versa il vino! Eccellente Marzemino!(ワインを注げ、最高のマルツェミーノを!)と歌われるワインだ。
 そしてもうひとつは、冬のドイツで飲んだキルシュだ。その晩私は、雪道を和服で駆け抜けて歌劇場へ向かった。舞台に一番近いボックス席で道行きを脱いだら、平土間のお客さんが一斉にこちらを見上げた。王侯の気持ちになって、気取って微笑んでみた。
 演目は、オッフェンバックの「ホフマン物語」。私にとっては、何度見ても腑に落ちない、しっくりこないオペラだ。幻想的で、退廃的で、かなり怖い。有名な「ホフマンの舟歌」など美しい曲もあり、飽きることはないのだが、見終わった後はいつもどんよりとした気持ちになる。
 第一幕は「歌劇場の隣の酒場」という設定だが、その夜は演出上、非常にリアルな歌劇場内のセットが組まれていた。つまり、舞台裏が舞台の上にあった。前日、稽古場の見学に行って仲良くなったばかりの歌い手さんたちが出演していて、なんだか奇妙な感じがした。虚の世界の実が、実の世界の虚の上にある。私はその境目に座っている気がした。
 舞台がはねると、すぐそこにある虚構の世界から、生身の人間が帰ってくる。私はうまく現実に戻れずぼんやりしたまま、友人とチキンを食しアルトビールを飲んだ。飲み進むうちに恋愛話に夢中になり、気づくと夜中の1時をまわっていた。店には我々しかいない。あわてて会計を済ますと、店の主人に呼び止められた。
 小さなグラスに透明の液体が注がれた。キルシュをご馳走してくれたのだ。度数40度。ちびりと舐めて「うわっ」と舌を出すと、「一気に飲め」とのジェスチャーが返ってくる。よし、と気合を入れて飲み干す。かあっと喉が熱い。私はこぶしをぐっと握って「へっちゃら」のポーズをしてみせた。店の主人はにこりと笑うと私の手を取って、友人の肩に擦りつけた。私がきょとんとしていると、友人が訳してくれた「力を与えてあげて、って言ってる」。
 力を与える、か。その言葉がなぜか、私の心にすっと染み透った。草履で雪を踏みしめて真夜中の道を歩く。「力を与える。」その言葉だけが独り歩きして、私の中に一つの火をつけた。私は誰かに「力を与える」ことができるんだろうか。誰かに「力を与える」にはどうしたらいいんだろうか。私にも人のために何かできることがあるのだろうか。キルシュが効いてきて、体が火照る。ぐるぐる考えても答えが出ないので、凍りつく空を見上げてオランピアのアリアを口ずさんだ。
 「ホフマン物語」の2幕で、人間そっくりに作られた機械人形のオランピアが歌う、技巧的なアリア。コロラトゥーラ・ソプラノの軽業の極致で、人形振りをしながら歌われる。この曲を目当てにオペラに足を運ぶ人も多いはずだ。曲はいかにも人工的で、見世物的なのだが、私はなんとなく好きで、よく鼻歌で歌ってしまう。
 「ホフマン物語」は酒場に始まり、酒場に終わる。ストーリーは、いわば飲んだくれ男の恋の思い出話大会だ。それも絶望的で、酷い話ばかり。もちろん、人生は所詮酔っ払いの虚構、と言ってしまえばそれまでだ。それでも、オランピアのアリアを聞くたびに、「人間にはこんな凄いものが歌えるんだから、まだ面白いじゃないか」と思う。私だって人間として生まれたんだから、何かできるんじゃないか。キルシュと共に差し出された運命的な言葉の答えを、私は今も探している。
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モーツァルト 「皇帝ティートの慈悲」より 「参ります! 待って! セストが!」

2013-09-27 22:19:33 | オペラ・声楽
 人生には「あちゃー、やっちまった」という瞬間がある。「考える前に行動」派の私は、人と比べたら、この「あちゃー」がかなり多いほうだと思う。何かまずいことが起こると、一瞬、頭が真っ白になるが、すぐに善後策か言い訳を編み出すために、頭がフル回転し始める。そんなときは、なるべく自分を冷静に保つため、深呼吸をする。以前はよく「どうしよう、どうしよう」と百万回繰り返して、周りの人間に煩がられていたが、これは自分自身をも焦らせて良くないと気付いた。最近はなるべく、ふーっと息を吐くようにしている。
 失敗したことは、私は大概とっとと忘れてしまうのだが、他人がよく覚えていることもある。特に小さい頃の失敗談は、なんだかんだと繰り返し語られる。私が幼稚園のときに白金の八芳園の池に落ちた事件は、友人たちが事あるごとに引っぱり出してきて笑うので、今では友人の子供達にまで「まきなって、八芳園で池に落ちたんでしょ」と言われる。私としては、そのとき一緒にいたふーちゃんのパパが、大人の胸までの深さの池に、頭から飛び込んで助けてくれたという「いい話」のほうを残してほしいのだが。
 大人になってからは、どうも「格好をつけている」ときに、失敗が起こりやすい気がする。新しいパンツ・スーツに身を固め、髪を結い上げ、ばっちりお化粧をして、「私、今日はカッコイイかも」と思って浮かれている日に限って、間違えて男子トイレに入ってしまう。さらにはそこで仕事先の人と鉢合わせしたりする。「今日は男装ですか?」と訊かれたときには、穴があったら入りたかった。
 おニューの洋服に、おニューのかばん、おニューのピアスを揺らして、「ちょっと、私、お洒落じゃない?」などと勘違いして、頭を上げて足早に歩けば、前方不注意。一度、大井町駅校内で、鉄杭に激突した。ちょうど股の高さだった。一応こちらは「格好をつけている」ので、痛かった素振りも見せずに、電車に乗り込む。心の中で「恥骨骨折だ…」と思って脂汗をかいた。「気取っているから、こんなことになるんだ…。」ただの打撲だけで済んだのだが。
 友人宅で、気がきくふりをして窓を開けようとしてすっ転び、カーテンにしがみいてカーテンレールを引き剥がしたこともあった。天井から落ちてきたカーテンレールの下敷きになって、マンガのようにぱったりと倒れながら、恥ずかしさのあまり動けなくなった。「生まれて初めて、人の家を壊した…」パラパラと降ってくる漆喰が背中に積もる。「だから、カッコつけちゃだめなんだってば…」打開策は何一つ思い浮かばなかった。
 そういえば、オペラの中にも、「あちゃー」のシーンがいくつもある。私が真っ先に思い浮かぶのは「皇帝ティートの慈悲」の三重唱。先帝の娘ヴィッテリアは、皇帝ティートと結婚したいが、皇帝は別の娘に気が行っている。嫉妬したヴィッテリアは自分に思いを寄せるセストという青年を唆し、皇帝を殺害するように命じる。セストが決死の覚悟で部屋を出たところに、「皇帝がヴィッテリアを妃に選んだ」という知らせが舞い込む。喜んだヴィッテリアは早速にも出かけようとするが、はっとして、自分がセストに皇帝殺害命令を出したことを思い出す。♪…待って! セストが! ああ(Ahimè!)
 この「Ahimè!」は、「ああ」とか「おお」とか言う感嘆詞だが、「なんてこった」とか「やばい」と訳してもよいだろう。私だったら、まさに「あちゃー」である。ヴィッテリアの切羽詰まった独白に、知らせを持ってきた2人が事情を知らずに「おめでたいねえ」と歌い加わり、三重唱になる。歌にも伴奏にも非常に緊迫感があり、聞き甲斐のある曲だ。ヴィッテリアのパートもちょっとヒステリックで、華やかだ。こういう場面を描くモーツァルトはすごい。
 とにかく人生には「あちゃー」がつきものなので、何か手を打つまで時間の猶予がある場合には、とにかく冷静でいようと心がけている。できたら、歌でも口ずさんでみる。これが心を落ち着けるにはちょうどよい。今度はヴィッテリアの旋律でも歌おう。いや、むしろその前に「あちゃー」が起こらないように慎重に行動するべきか。
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劇団四季 ミュージカル「ドリーミング」より「生まれるってどんなこと?」

2013-08-30 23:44:55 | その他
 夏の終わりが苦手だった。まだ日差しは強いのに、空の色が変わって見える。雲が少し遠ざかり、気づくと蝉の声が違う。垣根にわんさか咲いていた槿が、なんとなく疲れを見せ始める。今年も夏が終わる。「あれをやろう、これをやろう」と気合いを入れていたのに、結局何も果たせないまま、夏が終わる…。何かキラキラしたものが、静かに過ぎ去っていく。そんな季節が苦手だった。
 学校を卒業して長い夏休みがなくなり、宿題もなければ旅行もなく、ただ暑い日々を過ごすようになってもからも、やっぱり夏の終わりは苦手だった。なぜかうっすらと寂しい気持ちになった。ここ数年、不思議と感じなくなったのだが、これは精神の変化というより、気候の変化かもしれない。東京では、猛暑からいきなり初冬のようになるので、このアンニュイさをあまり感じずに済む。まあ私が詩人や歌人だったら、ちょっともったいないのかもしれないが。
 何かが終わってしまう寂しさ、何かが行き過ぎてしまう切なさを、私は人一倍感じる子だった気がする。思い出の品をやたらに取っておいたのも、そのためかもしれない。高校時代に親友から「終わることばっかり考えないで、もっと今を楽しみなよ!」と諭されたこともあった。今が楽しいからこそ、これが消えてしまうのが嫌なんだ、と反論していた。まったく幸せな悩みだ。しかし『オモシロいことの次には、もっとオモシロイことが来る』と考えられるようになったのは、最近になってからだと思う。
 話は変わるが、私は子供の頃よくミュージカルを見に連れて行ってもらった。劇団四季が大好きで、「キャッツ」や「オペラ座の怪人」を最初に見たときの衝撃は、体に沁み込んでいる。中でも印象に残っているのが、青山劇場の杮落しで上演された「ドリーミング」という四季のオリジナル作品だ。筋書きはメーテルリンクの「青い鳥」の哲学的な物語で、劇場の設備を駆使したカラフルな舞台だった。錚々たる作詞家・作曲家たちが書いた名曲に彩られ、一度聴いたら忘れられないメロディーに満ちていた。
 チルチル・ミチルが旅の最後に立ち寄る場所が、生まれる前の子供のいる「未来の国」。全身空色の衣装を着た、生まれる前の子供たちがニコニコ転がりながら歌っていた。―♪生まれるってどんなこと? こんにちはを言うことなの? それともさようならをすること?(詞:岩谷時子)― フラット5つ、きれいな3度ハモリ、これ以上ないほど明るい声。小学3年生の私は、これを聞いた瞬間、なぜだか涙がぽろぽろとこぼれて、止まらなかった。隣に座る母に悟られないようにするのが精一杯だった。
 生まれる前の子供たちは、チルチルたちを見つけて「あー、生まれた子供だ!」と叫ぶ。私は、自分自身がすでに「生まれてしまった側」であることに気づき、「あそこにはもう戻れない」という寂しさで息が詰まった。もう生まれてしまったのだ。どうやっても、あの純粋無垢な世界には戻れない。あの時代は過ぎ去ってしまった。
 思えば私は当時まだ、「生まれる前の子供」と年齢的に近かったのだ。心のどこかで、彼らの気持ちがわかる気がした。どんな運命が待ち受けようとも、定められた時に生まれなくてはならない。楽しみではあるけれど、不安もある。―♪地球ってどんなとこ?― そこへ「時のおじいさん」がやってきて、もうすぐ生まれる子供たちを連れていく。舞台奥から、子供を迎えるお母さんたちの歌声が聞こえてくる。9歳の私は、劇場の椅子に埋もれながら、ただただ涙を流していた。
 子供時代の鑑賞体験がきっかけで、中高ではミュージカルの部活に夢中になった。特に高校2年の夏休みは、完全に部活漬けだった。8月末、例の季節の寂しさを引きずりながら、部活の帰りに自転車を押していたときのことだ。西日が照りつける坂道の途中で、ふと急に「夏って必ず、いつかの夏とつながってる」と思った。汗をぬぐいながら、茂みのしぼんだ露草を見て涼を取る。幼い頃、両親の田舎で大量に露草を摘んで、押し花にしたことを思い出す。「今年の夏は、いつかの夏とつながってる。」空を見上げて、なんの理由もなく、ただそう思った。
 制服で坂道に立ち止ったあの夏の瞬間は、この夏の私とつながっている。今年も少し薄まった空色を見上げて、立ち止まる。ふと思いついた。もしかしたら、この「夏の終わりの寂しさ」は、9月にもうすぐ生まれる胎内の私の記憶につながっているのかもしれない。これから生まれる不安を、思い出しているのかもしれない。そう思ったら可笑しくなった。大丈夫、生まれてきたら、オモシロイことがいっぱいあるから。もうオモシロイことばっかりだから。空色の私に、言ってあげたい。
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中田喜直 汽車は走るよ

2013-07-28 21:13:46 | ピアノ
 先日、ある小学校のコンサートで「グリーン・グリーン」を弾いた。体育館に集まった子供たちと、プロの歌手が一緒になって大きな声で歌っていた。歌手たちからは「楽譜そのままの伴奏ではダサいから、コードを変えてかっこよく弾いて」と言われていたので、少しだけ手を加えて弾いた。この曲を弾いたのは、20数年ぶりだ。あの頃は、Iのコードで始まる以外、考えられなかった。
 5年生ぐらいだったと思う。私はある日、どうしてもこの「グリーン・グリーン」を「合唱で歌いたい」と思った。テレビで児童合唱団が歌っているのを聴いたか、どこかのコンサートで耳にしたのか、きっかけは思い出せないのだが、とにかく歌いたいと思い立った。自分の学校では教わらなかったし、家の物置をあさっても楽譜がない。そこで、銀座のヤマハの合唱譜売り場でねばり、1冊買ってもらった。商品棚の楽譜の山から必死になって見つけ出したのは、混声4部の譜面だった。
 家へ帰ると、真新しい6段の五線ノートを開き、歌の部分だけを書き出した。ト音記号で書かれた上の2声を写し、必要なところは音を変えて、2部合唱にする。音符の下に歌詞のスペースを作るような芸当は、もちろんできなかった。歌詞は、楽譜の下に縦書きで5番まで写した。それを、父の会社のコピー機でコピーしたのだと思う。
 私は「合唱団」を作ることにした。どうやって仲間を集めたのか、まったく記憶にない。とにかく、自分が一緒に歌いたいクラスメイトに声をかけて、学校の音楽室の隅にあるアップライトを囲んで歌った。6,7人の友人たちを背に、自分がピアノを弾きながら歌っている場面だけ、鮮明に覚えている。五線ノートの表紙には「グリーン合唱団」と書き、楽譜の上には「グリーン合唱団団歌」と書いた。
 この即席「合唱団」が1週間続いたのか、2週間続いたのか、覚えていない。特に成果を発表する場もなく、ただ楽しく歌う小さな試みとして終わったはずだ。私は、この曲のメロディーの奥に潜む「かっこいい和音」の存在を確信しながら、ついにそれを見つけることはできなかった。ただ、人を巻き込んで何かやってみた、という感触だけが残った。
 という話を、レコード会社ではたらく友人にしたことがある。友人はさもありなんという顔つきで頷き、「牧菜さんって、やっぱPなんスよ」と言い切った。私は意味がわからず、聞き返した。「Pって、放送禁止用語?」友人はあきれて、Pはプロデューサーのことだと説明してくれた。昔からそうやって「何かを仕掛ける」のが好きなんでしょう、と問われて、否定はできなかった。考えてみれば、グリーン・グリーン以前にも思い当たることがあった。
 4年生のとき、友人のピアノ発表会で中田喜直の「汽車は走るよ」という連弾曲を聞いき、感激して楽譜を買ってもらった。汽車が汽笛を上げて勢いよく走り、いろいろな場所を通り、最後にしゅーっと止まるまでを描いた楽しい曲だ。小学生の心をときめかせるポイント満載で、最後にはグリッサンドの見せ場もある。私は毎日、一緒に弾く人をつかまえては、教室の足踏みオルガンに陣取り、これを弾いた。
 鍵盤を撥ね飛ばす勢いで弾いていたある日、親友のえりが、曲に合わせてコミカルな振りを付けて踊り始めた。名付けて「モンキーダンス」。つられて周りの何人かが、笑いながら踊り出す。音につられて、廊下から何人か入ってきて踊りに加わる。ほうきを持って、踊る友達もいたし、担任の村野先生まで一緒に踊ってくれた。
 まもなく、えりはお父様の仕事で日本を離れることになった。そこで私は早速、赤緑黄色の画用紙でポスターを作り、「放課後の楽しみ作りませんか?」とキャッチコピーを書いた。名付けて「さようなら“えり”ダンスクラブ」。うまいへた関係なく楽しく踊ろうよ、と呼びかけた。木曜の放課後、1度か2度は、4年2組の教室で踊ったはずだ。
 クラスで行ったえりの送別会のプログラムには、「モンキーダンス」が採用された。えりを中心に、楽しそうに踊り狂うクラスメイトの写真が残っている。私はオルガンを弾きながら、満面の笑みで踊りを見ている。その写真を見ると、確かにPの気質かも、と思ってしまう。私にとって最初の「親友」だったえりと共に、「何かを仕掛けた」ことは間違いない。「汽車は走るよ」を聞くと、何かおもしろいことをやりたくなる。血が騒ぐのだ。
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木下牧子 Enfance finie ~過ぎ去りし少年時代~

2013-06-28 13:14:10 | オペラ・声楽
 親しい人から聞いた話を、まるで自分が体験したかのように覚えていることがある。たとえば、学生時代の友人たちの恋の話。劇的なドラマなどではなく、告白前の些細な出来事や、ときめいた瞬間のシーン。どきどきしながら聞いたそれらの断片が、私の記憶の底に溜まっていて、あるときふと思い出したりする。一度も会ったこともない人なのに、「あの人、その後どうしているかな」と想像したりする。特に6月、紫陽花の季節になると。
 くちなしの甘い香りが街に漂い出すと、大学の学部時代を思い出す。1学期末の試験がある6月は、筑波にいる時間が多かった。キャンパスに緑のエネルギーがみなぎる季節だ。湿気た草っ原には赤いポピーが群れて揺れ、タイサンボクやユリノキが大きな花を咲かす。大教室のある棟の裏にあったオニグルミは、ふさふさと雄花を垂らしていた。昼休みは、池のほとりの桂の木陰で本を読みながら、ゴハンを食べたりした。
 午後の実験が終わると、たまに仲間と学食で「ごほうび」の夕張メロンソフトクリーム。青い空に、梢を抜ける風、レンガの校舎。ベンチに座って、お互いに「好きな人」の話をする。日が差して、気持ちのいい時間が流れる。何か、切り取って、とっておきたいような気がして、八重のくちなしを一輪摘んで帰り、アパートのコタツの上に飾った。
 甘い香りが広がった畳の部屋で、夜になると東京の友達と次々電話をした。例によって「恋の話」だ。友人たちは皆、臨場感たっぷりに、微に入り細にわたって話す。「そのとき、私はドアの内側に立ってたんだけど、突然○○さんが廊下から入ってきて…」といった具合だ。こちらは最大限に想像力を使って聞く。どきどきした気持ちを共有する。いつの間にかそれが、自分の体験した出来事のように、心のどこかに残ってしまった。
 当時、10歳近く年上の仲良しが、ひとつのカセット・テープを貸してくれた。木下牧子の男声合唱組曲「Enfance finie ~過ぎ去りし少年時代~」。三好達治の詩につけられた4曲。「切ない」という言葉しか浮かんでこない歌。私は初めて聞く男声合唱の豊かな響きに魅せられ、筑波の部屋の小さなラジカセで繰り返し繰り返し聞いた。テープを貸してくれた友人が大学時代に所属していた、グリークラブの定期演奏会の録音だった。
 友人は「この歌を聞くと、大学時代の思い出がよみがえるんだ」と言って、問わず語りに話をしてくれた。好きな人が下宿の階段を上ってくる足音、お昼休みに食べに行った蕎麦屋のおばちゃんのこと、卒業前に恋人と離れることになったときの会話、二度とかえらないキラキラした青春の日々…。それがなぜか私の心にじーんと沁み込んで、この合唱組曲の言いようのない切なさと、つながってしまった。
 「ああそれらの日ももうかへつては來なくなつた……」もう戻らない少年時代の透明な感覚を、遠く思い出すように綴られた詩。三好達治の言葉のひとつひとつを、手ですくいたくなる。その世界が、見事に音楽になっている。得も言われぬさびしい気持ちに襲われる。いくら振り返っても、もうそこにない過去。
 特に4曲目の「乳母車」の詩は、私にとっては鮮烈だった。「母よ―/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり…(中略)…母よ/私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕陽にむかって/轔々と私の乳母車を押せ」合唱はやさしく「母よ」と繰り返し、呼応する。友人は「この詩は男にしかわからない」ときっぱり言った。母親と男の子の関係は特別なのだ、だからこれは男声合唱なんだ、と。私は理由もなく納得した。そしてこの組曲は、さらにもう一歩私の「手の届かない」領域で輝き続けることになった。
 結局、人間は自分の人生しか体験できない。それでも誰かの体験を横糸にそっと織り込みながら生きている。たとえ完全に理解することはできなくても、文学や舞台芸術を通して、他人の生を少しなぞる。友人に共感して、彼らの生をほんのひとかけら取り込む。それが知らず知らずのうちに、自分のものになる。三好達治の詩も、友人たちの恋の話も、私の大切な一部なのだ。
 今では、少女時代も、大学時代も、遠くにかすむ「かへつて來なくなつた」日々になった。学生時代とは、また違う切なさを感じながら、友人にもらった録音を聴く。紫陽花の色と、くちなしの香りと共に、記憶の澱をそっとのぞいてみる。そこには、実際に体験したことのない数々の「思い出」が、ゆらめいている。
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ドビュッシー ビリティスの歌

2013-05-30 23:44:21 | オペラ・声楽
 昨年から、ドビュッシーの「ビリティスの歌」を聴く機会が多い。この美しい歌曲集の第1曲「パンの笛」の冒頭を聞くと、なぜか子供のころ住んでいたマンションの風景が浮かぶ。――深い曇りの日の、遅い午後。居間は音もなく静か。大きな窓のカーテンに、風が吹き抜ける。白い布越しに、ベランダの草木の影。不思議な世界への入り口が開く―― おそらく当時、家でレコードがかけられていたのだろう。ピアノの前奏に、古い記憶がふわりとよみがえる。
 父がフランス音楽、とくにフランス歌曲好きだったので、小学生のころから、よく聴く機会があった。演奏会にも連れて行ってもらった。しかしフランス語は1語も知らないし、訳詩を読んでも意味がさっぱりわからない、入ってくるのは耳からの音楽情報だけである。少しリズムがあると楽しい気持ちになるので、あるソプラノさんがドビュッシーの「回転木馬」をアンコールで歌ってくれたときには、子供心にうれしかった。しかし、この曲の最後のほうは、なんで「ちょっと変な感じ」になるのだろうと思った。当時の私にはまだ「幻想的」という語彙がなかった。
 数年前に、友人に連れられてオール・ドビュッシーのピアノ・リサイタルを聴きに行ったときに、急に思い出した。そういえば、子供のころは、ドビュッシーがこわかった。不思議な音階、不安げな和音、いつまでも解決しない靄のような世界。いつも途中で「おうちに帰りたい」という気持ちを催させた。足場がなくなるような感じ、森の中で迷ってしまったような感じ、見てはいけない魔術をのぞき見てしまうような感じ。考えてみれば、ドビュッシーは大人な音楽だな、と思う。
 小学3年生のときだ。松尾さんというピアニストが、我が家にいらした。父の友人たちが集まっていた記憶があるので、音楽を聴く小さな集いだったのかもしれない。とにかくそのとき彼女がドビュッシーの「ミンストレル」という曲を弾いてくれた。衝撃だった。子供時代に聞いたピアノ曲で、もっとも衝撃的だった。おもしろい! 思わずなんだか笑ってしまう。一体このリズムは、なんなのだ。わーっと進んで行ったかと思うと、もたついてみたり、人を小ばかにしたような音になったり。頭の中がぐるぐるして、寝つけなかった。小学生の私には、刺激が強すぎた。
 それなりに大人になった今、やっぱり私がフランスものに惹かれるのは、軽い恐怖も含めた幼少期の鑑賞体験があってこそだと思う。ミュージカルが面白いと思い、オペラが面白いと思い、やっぱり舞台の総合芸術だ、と思って学生時代を過ごしたが、ここ数年は、やっぱりフランス歌曲が面白いと思うようになった。体の奥底で「いいな」と感じるだけでなく、文学や絵画や、ほかの芸術のことを知るようになって、途端に面白くなってきたのだ。つまり「大人ならではの楽しみ方」がわかるようになったからだ。子供時代に感じた「不安な感じ」や「気味悪さ」も、今はもう少し多めの語彙でキャッチできる。18禁の内容も、もう大丈夫だ。
 先日、フランス歌曲のコンサートを企画した。私も色々な人にヒントをいただいて面白くなってきたのだから、「ちょっと解説があると楽しいですよ」というコンサートにした。準備のために、詩の背景を調べるのは楽しく、音を繰り返し聞く喜びも格別だった。大人ならではの「感性」と「知性」に訴えてくるフランス歌曲の世界に、一歩足を踏み入れた気がしている。ああ、「ビリティスの歌」の第1曲冒頭が開いてくれたのは、この世界への入り口だったのだ。
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中田喜直 むこうのきしへ

2013-04-24 23:42:25 | オペラ・声楽
 急に親子コンサートをやることになり、久しぶりに童謡を弾いている。それも私の好きな童謡ばかりだ。私が幼い頃に十八番として歌っていた曲もある。前奏を弾いていると、もう飛び出して行って大声で歌いたくなる。小学校にあがる前の記憶があれこれと蘇り、一緒に演奏するメンバーと、それぞれの子供時代の話に花が咲く。
 うちの両親も祖母たちも、よく歌を歌ってくれた。我が家には童謡のレコードやテープがたくさんあった。私はもちろん、歌うのが大好きな子供だった。父が若い頃、佐藤義美先生(「犬のおまわりさん」の詩人)にお世話になっていたこともあり、私は特に1950年以降に作られた、いわゆる「現代童謡」をしっかり体の中に蓄えて育った。初めてそれに気が付いたのは、中学3年のときだった。
 ある日、6時間目が終わった後、私はふと鼻歌を歌った。確かとても暑い日で、「どうぶつえんは38ど」を歌ったのだと思う。「何? そのヘンな歌」隣の席のはんちゃんが訊いた。私は「え、知らないの?」と言って、最後まで歌った。はんちゃんが声を上げて笑った。子供の頃は当たり前に聞いていたが、冷静に歌ってみれば、なかなか面白い歌詞ではないか。そこで、同じレコードに入っていた童謡を次々歌ってみせると、はんちゃんがお腹を抱えて笑った。「まきな、よくそういう歌知ってるね。」言われた瞬間、はっとした。私は一体、何曲ぐらい童謡を知っているのだろうか。
 クラスで終礼が始まるや否や、手元にあった紙切れに、片っ端から知っている子供の歌を書き出した。唱歌と童謡の区別もわからなかったが、とりあえず「テレビの歌」や「アニメの歌」でない子供の歌だけ、書くことにした。一心不乱に曲名を並べて、紙がいっぱいになったところで数えたら、200曲ほどあった。自分はこんなにもたくさんの歌を覚えて、育ったのか。他人と比べて、自分がより多く知っているのかどうかは不明だったが、両親と、学校と、それまで生きてきた環境に、初めて本気で感謝した。
 我が家には、現代童謡集の楽譜が2冊ある。父がこれをよくピアノで弾いてくれて、幼い私はカラオケのように歌いまくった。目次を見ると、代表的な詩人は、義美先生のほか、まどみちおさん、サトウハチローさん、阪田寛夫さん。作曲家で言うと中田喜直さん、大中恩さん、山本直純さん、湯山昭さん。他にも早々たる顔ぶれの作品が並ぶ、宝石箱のような童謡集だ。
 私がもっともよく聞いたレコードは、中田喜直さんと、大中恩さんの曲集だったと思う。父はレコードからカセットテープにダビングして、車の中で流してくれた。運転席と助手席の間から顔を出しながら、私は延々と歌い続けたらしい。歌っていないときは、ひたすら喋っていたので、よく母に「お願いだから、時計のこの文字が5になるまで、黙ってて」などと言われたものだ。さらに高速道路でときどき車のチャイムが鳴ると、「ほら、マキ、おしゃべりお休みしなさいって、車が言ってるよ」と父が言った。時速100キロを超えると車の警告チャイムが鳴るという秘密は、長いこと明かされなかった。
 さて、幼い私の十八番の中の十八番は、中田喜直さんの「むこうのきしへ」だったらしい。母の話によると、福島の祖母宅で、座布団を重ねてお立ち台を作り、独演会状態でこれを歌っていたそうだ。いまだに、いつ歌っても、心から好きな歌だと思う。名曲である。
 この歌は「こどものための8つのうた」という歌曲集に入っていて、子供が歌う童謡というよりは、「子供に歌ってあげる大人の歌」である。いずれも歌詞はやさしいが、変拍子があったり、和声も複雑だったりして、音楽は純粋な芸術歌曲の体だ。8つの曲のうち、この「むこうのきしへ」だけが、子供でも歌える素朴な有節歌曲になっている。
 ♪むこうのきしの もものはなのみつが なめたいのかな ちいさなちょうちょさん ―小さなちょうちょが、大きな河を渡ろうとしている。危なげだけれど大丈夫かな。自分はただ祈るような気持ちで見守っている― そんな歌だ。大人になった私は、この歌が究極の愛の詩のように思えてならない。親はみんな、こんな気持ちで子どもを歩かせ始めるのではないかと、想像するのだ。
 我が家の現代童謡集の楽譜には、クレヨンの派手な悪戯書きが残っている。犯人は、この楽譜を開くのが好きだったに違いない、幼い私だ。30年以上経っても、この楽譜を開いて演奏ができることに、もう一度感謝する。やさしい親御さんたちにそっと見守られながら、元気に歌ってくれる子供たちに会えるのが、とても楽しみだ。
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ワルトトイフェル スケーターズ・ワルツ

2013-03-24 23:30:08 | オーケストラ
 スケーターズ・ワルツのメロディを聞くと、跳ねるペンギンの後ろ姿が思い浮かぶというあなた。おそらく私と同世代だ。いわゆる、ファミコン世代である。コナミの「けっきょく南極大冒険」というファミコン初期のゲームでは、南極の氷の上を滑るペンギンが、クレバスを飛び越え、アザラシを避けながら、ひたすら進んで行った。制限時間内に次の基地まで辿りつかないとゲームオーバー。BGMが、スケーターズ・ワルツだった。
 先日、老人ホームでコンサートをさせていただいた際に、仲間とファミコンの話になった。現在、70~80代の人たちは、聞けば一人残らず「ああ懐かしい!」と思う曲がいくらでもあるようだ。ところが我々の世代では、巷に音楽が溢れかえり、趣味も多様化して、全員が「ああ懐かしい!」と思うような国民的ヒットが少ないのではないだろうか。そこで、我々世代にとっての最大ヒット曲は何か、仲間と一緒に考えて思いついたのが、「スーパーマリオ・ブラザーズ」と「ドラゴン・クエスト」のテーマだった。確かにこれを聴けば、ほぼ全員が同じような光景を思い浮かべるのではないか。あの威力は凄まじかった。
 私が小学校の頃は、ちょうどファミコン全盛期だったのだが、うちにはファミコンがなかった。以前もこのエッセイで書いたが、私が小1のときにサンタさんにもらったゲーム機は「MSX」だった。ソフトの多様なファミコンをうらやましく思う時期もあったのだが、高学年になったころには自分がMSXユーザーであることに誇りを持っていた。学校の同級生でMSXを持っていたのはおそらく4人だけ、そのうち1人は悪友C。もう1台は、日曜日になるとお邪魔していたまーちゃんの家にあった。
 まーちゃん宅の大きなテレビの前に、まーちゃん姉弟と一緒に陣取って、さんざんゲームをした。ドラクエも、悪魔城ドラキュラも、MSX版ですっかり楽しんだ。といっても、操作するのは大抵まーちゃんの弟くんで、女チームはただ大きな声で彼を励ましたり、けなしたりするだけ。「そこだ!」「いけ!」「やった!」と、外野はとにかくわいわい騒いでいた。
 新しい物好きのまーちゃんのパパは、ある日レーザーディスクと連動する革新的なMSXのゲームを買ってきてくれた。私たちはオーディオセットの裏に潜り込んで、子供なりに必死になって接続を手伝った。思えばLDだってまだ珍しかった頃だ。私は映像を見て、唖然とした。それは最高に美しい宇宙空間を背景にしたシューティングゲームで、SF映画のような自機と敵機が飛んでいた。ゲームの世界と現実の感覚が入り混じるような、不思議な体験だった。初めての宇宙旅行だった。
 さて、まーちゃん家から借りてきたソフトの中に、件の「けっきょく南極大冒険」があった。ファミコン版より先に発売されているので、ゲームはより単純で、アイテムも少ない。それでも私は長いこと飽きずに遊んでいた。家のテレビの前に椅子を置いたり、ゲーム機を置く台を用意したりして、自分なりの最適環境を作り上げた。延々とスケーターズ・ワルツが流れ続け、スペースキーを叩く音が響いた。とうとう南極を1周したときには、じわーっとうれしかった。
 私がこのスケーターズ・ワルツという曲の全貌を知ったのは、ごく最近のことだ。全曲を通して聞いてみたら、驚くほどいい曲だった。作曲家のワルトトイフェルは「女学生」というワルツでも有名だが、調べてみたらマスネと同級生のフランスの作曲家だ。最初のメロディしか知らないという方は、ぜひ1曲全部をお聴きいただきたい。口ずさもうとしたら、思わずオペラ声になってしまいそうな美しい旋律に彩られた、魅力的なワルツである。
 何度聞いても、やっぱりいい曲なのだが、私はどうしてもペンギンの後ろ姿が脳裏に浮かんでしまう。そしてふと思う。私の人生は、あのゲームのような感じかもしれない、と。なんとか障害物を避けて、おいしい魚をキャッチしながら、次の基地まで走る。クレバスに落ち込んでしまったら、よいしょと這い出す。アザラシにぶつかれば「おっとっと」とよろける。それでも走る。目的地にたどり着いたら旗を揚げ、また次の目的地まで走る。そんな単純なことの繰り返しだけれど、それが楽しい。
 きっと、アクションゲームのように敵をやっつけながら進む人生を送っている人もいるだろう。謎解きをして、経験値を上げて、竜王を倒すような人生の人もいるだろう。難易度が上がるようなパズルを解き続ける人生もあるだろう。私は結局、「けっきょく南極大冒険」のような、ごく単純だけど、ひとつひとつが楽しい、そんな人生を送っているような気がする。そのBGMに、スケーターズ・ワルツのような名曲が流れていたら、もう最高じゃないか。
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ガーシュイン Nice work if you can get it

2013-02-26 21:48:23 | その他
 大学院に入るまで、「国際的」という言葉は、自分にはまったく関係のないような気がしていた。そもそも「国際的な人」は、はじめから自分とはちょっと違うと思っていた。小学生のときの親友の一人はアメリカに行き、もう一人はイギリスに行ったが、2人とも考え方が大人で、自由で、身軽に見えた。世界に出る人はこういう人なんだと、ぼんやり思っていた。
 ところが、なんと私にも「国際化の波」がやってきた。大学4年から大学院の5年間、お世話になった研究室の教授は、ニュージーランド人だった。私の所属する学部で生命倫理を教えていたのは、彼一人しかいなかった。一年の半分ぐらいは日本にいないような教授で、いつも一風変わったお土産を持って帰ってきた。この教授に連れられて国際学会に参加し、彼の主催する国際学会を手伝って、様々な国の人に出会うようになった。
 研究室の同僚の国籍も、インド、タイ、中国、台湾、フィリピン、ブルガリア、イラン…といった状態で、セミナー室はいつも不思議な空間だった。常に異文化交流だった。私は彼らに、せっせと変な日本語を教えては楽しんだ。新しく研究室に入る人に、私はよく「日本語お上手ですね」と褒められた。一体、どこの人だと思われたのかは不明である。
 というわけで、研究室の公用語は英語。日本人の奥様を持つ教授は、ある程度の日本語はできるのだが、なるべく英語でコミュニケーションを取れと言う。セミナーの間、「日本語発したらペナルティとして10円」という冗談がいつも交わされていたが、私にとっては割と切実な問題だった。
 人と話すのも物を書くのも大好きだったが、「英語が得意」だと思ったことはあまりなかった。高校時代も、単語を調べ、熟語を覚え、文法を覚えて、学校の授業についていくのがやっとだった。だいたい高校2、3年の頃は、英語のクラスの半分が帰国子女で、先生よりきれいな発音で流暢に喋っていた。こちらは、授業中に指されて教科書を読むのさえ気恥ずかしかった。仕方ないので、マザー・テレサの物真似をして読んだりしていたものだ。
 特に変わった勉強法はなかったが、私にとって最も大事な教材は、ミュージカルのCDだったような気がする。部屋で聴き続けていると、ある日急に単語が聞き取れたり、文章の区切りがわかったりする。それに歌で覚えたフレーズは、記憶にちゃんと残った。教科書の味気ない例文よりも、ずっとイキイキとして、なんだかやる気が出た。
 次々と押し寄せる関係代名詞だの不定詞だのでアップアップしていた頃、劇団四季の上演する「Crazy for you」がヒットし出した。ガーシュインの「Girl Crazy」というミュージカルをベースに、新たに構成されたミュージカルだった。舞台転換にも、ピアノ協奏曲の一部が使われ、全編がガーシュインの音楽でできあがっている。私は1度見に行ってたちまち憑りつかれ、ブロードウェイ版のCDを買ってきた。
 しかし、ひとつも英語が聞き取れない。思い立って、お気に入りのナンバーの歌詞を、クレヨンで落書帳に写してみた。四季の公演パンフレットの日本語訳で、大体の意味を確認するも、英語があまりにステキなので、どこがどうやってその意味をなしているのか、まったくわからない。とりあえず、黙々と写し続け、落書帳の紙を20枚ほど、部屋中の壁に貼った。私はこの壮観に大いに満足し、文字だらけのポスターはただの装飾になった。
 それでもおそらく、見るともなく見ていたのだろう。部屋がジョージ&アイラ・ガーシュイン一色になって、大分経ったある日「Someone to watch over me」のtoが何なのか、はっとわかった。「when it comes to」というフレーズが、練習問題の長文に登場した。文法書の中でしかめ面をしていたcould とかwouldのニュアンスが、ちょっとつかめた。そして何より、西洋の詩には「韻」があることを知った。それが、体感として気持ちが良いということに、やっと気づいた。
 大学の生命倫理の授業で、ヒト・クローンについてのレポートが出た。思うように書けずもどかしい英作文だったが、落書帳で覚えた「Embraceable you」の中の「irreplaceable(代わりがきかない)」という単語を使った。自分の言いたいことにぴったりの単語がひとつでも、それも歌の中から出てきたことに、何とも言えない嬉しさがあった。レポートにAがついた。ガーシュイン万歳! 心の中で叫んだ。
 その後も変わらず、私はガーシュイン兄弟作品のファンである。大好きな歌は数えきれないのだが、オススメをいくつか。映画「Shall We Dance?」から「Let's Call The Whole Thing Off」。些細なことで喧嘩するのやめようよ、という楽しい歌。そして同じ映画に出てくる「They All Laughed」。「大きなことをやろうとした偉人を、世間が笑った。僕も君に恋をして、みんなに笑われた。でもいまや、僕が笑う番なんだ!」それから、ミュージカル「Oh, Kay!」の「Heaven on Earth」。聞けば元気が湧いてくる。「思い切り愛して、生きよう! 今、ここを天国にしよう!」
 一番好きな曲はと訊かれたら、「Nice work if you can get it」。落書帳に書いて覚えた1曲だ。コード進行が秀逸で、最高に洒落た歌だ。「この世で一番素敵なことは、恋をすること。やってみたら、きっとできる!」有名なヒットナンバー「I got rhythm」の最後にある「Who could ask for anything more?(それ以上何を望む?)」というフレーズが、この歌のサビにも出てくる。このメロデイーを歌うと、思わず恍惚とする。
 結局、英語を勉強して、「国際人」になれたかどうかは甚だ疑問だが、こうしてガーシュイン兄弟の作品を少しでも味わえることが、私にとっては何よりの幸せだ。Who could ask for anything more?
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メトード・ローズ・ピアノ教則本 上巻より 「ブーレ」

2013-01-30 22:31:20 | ピアノ
 久しぶりに、生まれ故郷の街を歩いた。「故郷」と仰々しく言っても、今住んでいるところから自転車で20分とかからないところだ。ただ、数年に一度も行かないので、まさに「近くて遠い」。この界隈には、ここ数年の間に新しい高層マンションが建ち、高級スーパーができ、だいぶ雰囲気が変わった。それでも、当時私たち一家が住んでいたマンションは、そのまま残っている。遊び慣れた近くの公園には子供たちの声が響き、20数年ぶりに訪れた小さな貝塚遺跡の展示も、変わらずにひっそりと佇んでいた。
 中学1年まで暮らした街、高輪。まぎれもなく、私の故郷。「家に帰る夢」に見るのは、決まって同じ道だ。田町方面から聖坂を登り切って、伊皿子の交差点へ向かって歩くと、視界が開ける場所。―ああ、もうすぐ家に着く― 母に手を引かれて信号が変わるのを待った。その場所に立って、目を上げると、なぜかほっとする。
 私が交わった最初の「経済社会」は、この伊皿子交差点付近の商店だった。まず、パン屋さん「パネーラ・キムラヤ」。おこづかいを握りしめて、お菓子を買いに行くと、おじさんは「いつも元気だねえ!」と目を丸くしていた。わたガムやトゥインクルチョコレートの売り場に背を向けて、初めてエンゼルパイを買ったときの「大人になった」感覚が、からだの奥に鮮明に残っている。
 道の反対側に、食料品店「いせや」さん。「スポロン」という三連の乳酸菌系ジュースがほしくて、私はよく冷蔵庫の扉の前でぐずぐずした。一人でおつかいに行くようになると、おじさんは静かにほほえみながら、豆腐をビニール袋で包んでくれた。成人式の日にこの街を歩いたときには、まだお店があった。私の振袖姿に、おじさんはまた静かにほほえんでくれた。
 長いこと「おだんごやさん」と呼んでいた和菓子の松島屋さん。明るく元気なお兄ちゃん(私が幼かった頃の「お兄ちゃん」だが)が継いだこのお店はまだ健在だ。お客さんが来ればここの豆大福、お祝いごとがあればここのお赤飯、夏にはここのかき氷と葛桜。「皇室ご用達」のお店だと知ったのは、割と最近のことだ。なんと贅沢だったのだろう。
 交差点の角にはお魚屋さん。背の高いおじさんはクールな風貌だったが、小2の社会の宿題につきあってくれた。私はお掃除の様子をじっと観察させてもらい、明らかに仕事の邪魔になるところに陣取って商品棚を写生した。その向かいはお肉屋さん。おつかいに行って、意味もわからず「ぶたばらさんびゃく」という呪文を唱えると、カウンター越しにおじさんのあたたかい笑顔がのぞいた。必ず少し多めに包んでくれた。
 そして、八百春のおばあちゃん。私が一人で行くと、いつも果物をおまけしてくれた。朝、学校へ行く時間に、おばあちゃんは交差点で待っていてくれる。バスと徒競走するために、私は横断歩道の手前でスタンディング・スタートのポーズをとる。走り出す背中に、おばあちゃんが声をかけてくれた。「今日もいいことあるよ!」絶対にいいことがある気がした。
 交差点から伊皿子坂を下りかけたところに、私が初めてピアノを習った先生のお宅がある。おそらく1年半ほどは通ったはずの、古いお宅の木戸がある。確かに覚えていることは、3つだけ。「めぐみ先生」というお名前だったこと、4歳の誕生日が来るまで習い始めるのを待ったこと、「メトード・ローズ」という濃いオレンジの本を使ったこと。
 表紙にバラの絵のついた教則本「メトード・ローズ」には、フランスの民謡や、フランスの物語を題材にした練習曲が詰まっていた。私は中でも、「ブーレ」というタイトルの曲が好きで好きで仕方なかった。ブーレというのは、17世紀フランスの舞曲だが、楽譜の下には「古い田舎の踊りの曲で、重い木沓を吐いて踊るのです。」とあった。オーベルニュの人々がこの木沓を鳴らして踊っているのを、以前何かの映像で見たことがある。
 バッハのチェロ組曲で有名なブーレは2拍子系だが、私が覚えた「ブーレ」は3拍子。左手の和声がIのまま、バグパイプ的に5度を弾くだけで変わらない。その土くささを幼稚園生なりに感じたのか、指が簡単で楽しかったのか、かなり粗っぽく弾いていた。大きな声でメロディーを歌いながら、いつまでも、いつまでも弾いていた。それが、楽しくて楽しくて仕方なかった。
 高輪を歩いていると、このブーレのメロディーが浮かんでくる。おそらく私にとっての「故郷」の一曲なのだ。そしてこの素朴な曲とともに、人の笑顔ばかり思い出す。なんとたくさんの人に愛されていたのだろう。なんと多くの人に支えられて育ってきたのだろう。聞くところでは、私はちょろちょろ走って電信柱にぶつかっては、街中に響く声で泣く、お騒がせ者だったらしい。大勢の大人の目に守られて、のびのび育てられたのだと気付く。
 ブーレを口ずさみながら、交差点を渡る。八百春のおばあちゃんの声が聞こえる気がして、ふと振り向く。「今日もいいことあるよ!」そうだ。今度は私が、誰かにそう言ってあげよう。
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