音の向こうの景色

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ヴェルディ オペラ「ドン・カルロ」より 「むごい運命よ」 O don fatale

2012-11-25 21:43:01 | オペラ・声楽
 やっと、永竹先生にお線香を上げさせていただいた。半年も経ってからでごめんなさい、と心の中でお詫びをしながら。そして、他では絶対見られないような、先生らしい戒名に、思わずふっと笑いながら。手を合わせているうちに、先生との他愛もない会話ばかり思い出した。恩返しは何一つできなかった。
 オペラ解説家の永竹由幸先生。今年の5月にお亡くなりになった。私がお世話になったのは、大学2年から4年の2年間ほど。当時オペラのプロデューサーになりたいと思い始めていた私は、丁稚奉公をさせていただくという形で、1年近く先生の事務所で勉強させていただいた。「インターン」というより「弟子入り」という感じだった。
 まず、先生の事務所にある膨大なお宝映像資料の整理を少し。それから、大学院オペラ科の講義録を取ったり、打ち合わせに同行したり、見よう見真似で企画書を書いたり。オペラの招待券が届くと、よく連れて行ってくださったし、あちこちでご馳走になった。お寿司の食べ方を直されたことも。「マッキナ、おまえ、本当に美味しかったら『Squisito』ってんだよ~。ちったあ、いい言葉も覚えなきゃ。」
 はじめは私の名をイタリア語風に「マッキナ(Macchina:車、機械)」と呼んでくださったのだが、そのうち呼び名は「菜っ葉」になった。私が大きな声で返事だけしてモタモタしていると、「おい、なっぱ、『菜っ葉の肥やし』って知ってるか?」と、歯切れの良い江戸弁で叱られた。しょっちゅう怒鳴られながら、華やぐオペラの世界を覗き見していた。
 永竹先生との出会いは、先生が企画された音大生のオペラツアーだった。ひょんなことから部外者の私が混ぜてもらえることになり、2度参加した。2週間、観光して、食べて、飲んで、オペラを観る、その繰り返し。とにかく博学な先生の歴史解説が面白い。私は先生の話が聞きたくて、いつも隣に席を陣取った。作品の外側からオペラという「文化」を見る楽しさ。素人にも嬉しい下世話な話題も多く、歌科のお姉さんたちと毎日ひたすら笑った。酔っぱらうと、みんなで「ナブッコ」の序曲を歌いながら、肩を組んでラインダンスしながら歩いたりした。
 1度めのツアーの際、ボローニャの歌劇場で「ドン・カルロ」を見た。その日のエボリ公女はルチアーナ・ディンティーノ。爆発的で、素晴らしい歌だった。アリア「むごい運命よO don fatale」に圧倒され、体の芯まで感動した。まったく興奮が冷めず、その夜は先生とソプラノのCちゃんと3人で、明け方まで飲んだ。先生お得意のヴェルディ。オモシロ解説が冴えわたり、恋愛談義に花が咲いた。
「おれイタリア語がよくわからないころ、O don fataleのdonって、donna(女)だと思ってたんだよ。女はこわいな~、って(donna fataleだと、魔性の女といった意味になる)」私たちは夜中のホテルのバーで大声を上げて笑い、「女に乾杯!」とワイングラスを鳴らした。O don fataleは、ヴェルディの中で最もかっこいいアリアの一つだが、私はときどき先生のこの話を思い出して、ニヤリとしてしまう。
 私は、ちょうど先生のところで勉強させていただいている間に、大学院を受験した。色々なところで話しているのだが、博士課程に進んだのは永竹先生の一言がきっかけだった。勉強しなさい、と大いに背中を押してくださった。ところが学部の卒業前に、ちょっとした意見の食い違いがあって、急に疎遠になってしまった―確か、青臭い私が食ってかかり、強情を張ったような気がする。その後、風の噂でご活躍は耳にしていたのだが、結局10年以上お目にかからないまま、お別れしてしまった。
 それが今年の8月末、不思議なご縁で、先生のお嬢さんに出会った。ここで会ったが百年目。ほぼ初対面だったのだが、私は堰を切ったように話した。先生にどれだけお世話になったか。どんなに感謝しているか。それなのに、なぜ、お葬式に伺えなかったか。お嬢さんの明るい声が先生にそっくりで、まるで拝むような気持ちだった。
 そして今月、10数年ぶりに先生のお宅にお邪魔した。ドアを開けた瞬間、懐かしい匂いに目の奥が熱くなった。思えば、週に1,2度は通わせていただいたのだ。どきどきしながら伺った地下の事務所は、以前とまったく変わらないまま。ただ、先生の大きな遺影と、積まれた惜別のお手紙が、淡々と時の経過を示していた。階段を上がろうとした瞬間、思わず涙がこみ上げた。
「なっぱ、おまえはImpresarioになれ。」Impresarioは日本語に訳すと「興行師」だろうか。「プロデューサーでも、呼び屋でも、制作会社でもないんだよ。」歌い手の良し悪しから、作品の背景、演出のことまでわかった上で、興業をやる。ビジネスがわかっていて、お金に強い。人情に厚く、いざとなったら少々こすい手も使う。酸いも甘いも嚙み分けて、人間として面白いImpresarioになれ、と。深みのある人間になれ、と。
 そのメッセージが、いつもいつも心の奥にある。先生、どうぞ安らかに。

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