音の向こうの景色

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グルック オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」より エウリディーチェを失って

2013-12-30 00:49:39 | オペラ・声楽
 今日は久しぶりに「ケファロ」の伴奏をした。この有名なアリア「Che farò senza Euridice(エウリディーチェを失って)」は、グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の終盤で歌われる。素直な美しい旋律で、声楽の初学者も良く歌うアリアだが、なかなかドラマチックな曲だ。
 オペラの元ネタは、有名なギリシャ神話。音楽家のオルフェオが、亡くなった妻・エウリディーチェを取戻しに黄泉の国へ赴く。彼の音楽は地獄の霊たちをも動かし、妻を地上に連れ帰ることが許される。条件はただ一つ。【日の光を見るまで、妻を振り返って見てはならない。】しかし地上に着く前に、オルフェオは後ろを振り向いてしまい、妻は消え失せる。そのとき歌われるのが、このアリアだ。「♪愛しいエウリディーチェがいなくなった今、僕はどうしたらよいのだろう?」と嘆く。
 実はこの10年ほど、このアリアを聴くと気持ちが落ち込んでいた。本棚に並ぶ数種類の「オルフェオとエウリディーチェ」のヴォーカルスコアを手に取るたびに、うっすらと罪悪感のような重たい気持ちを感じていた。割とあっけらかんと生きてきた私にも、小さな挫折があったことを思い出すからだ。「やらなかった後悔」を心の中で蒸し返していた。
 2001年、オペラのプロデューサーになるのが夢だった大学院生の頃、若手を集めてオペラ公演をやろうと企画した。少々無謀な点もあったが、「なんとかする」が口癖だった私は、とにかく走り出した。上演する作品はグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」。企画書を書き、予算書を作り、舞台監督と会場を下見してまわり、めぼしいホールを押さえた。東京文化の練習室を借りて、指揮者と演出家と3人で、オーディションもした。ひとつひとつの手順が楽しかった。
 その夏の終わり、9.11が起きた。頼りにしていたスポンサーの当てが外れ、私は急に不安になった。ほんの数日悩み、あっさりと中止を決断した。すばやく関係者全員に謝りの電話を入れたが、誰も私を責めなかった。誰もが「よくあること」のように流してくれた。翌年、我々が予約していたホールは突如閉館になり、「むしろキャンセルして良かったね」と言う友人もいた。ただ、自分だけは、わかっていた。「やろうと思えば、なんとかできたんじゃないか。」
 毎日を普通に生きていたら「あのとき、本当はもっとできたんじゃないか」と思うことは、いくらでもある。母の最期の看病だって、大学院の研究だって、今年一年間の生活だって、「もっと頑張れたはず」と思う。しかし大概は「その時はそれで精いっぱいだったのだから」と一人で納得する。より良い方法なんて、後になってからよくわかるものなのだから、仕方がない。
 ところがオペラの一件だけは、どうしても、そう思えなかった。有志を集めて小さなオペラをやるなんて、今だったら簡単に実現可能だろうが、実際やろうとは思わない。あれは24歳の私の、その瞬間の情熱だったのだ。企画中止によって人に迷惑をかけたことよりも、そのときの自分の情熱に嘘をついたような罪悪感のほうが、深く残ってしまった。小さな躓きが、なぜか長く尾を引いてしまった。
 今日「ケファロ」の伴奏をしながら、サルトルの戯曲「蠅」のことが、ふと頭をよぎった。ギリシャ悲劇のオレステス物語を、サルトル節全開で翻案した作品で、キリスト教が痛烈に皮肉られている。登場する群衆たちは「自分は罪深い」と後悔し、哀れな己れを断罪し続ける。その気持ち悪さと言ったらない。彼らに反旗を翻すエレクトラは言う。「あの人たちは自分たちの苦しみを愛しているの、身近なひとつの傷痕を汚い爪で引っ掻きながら、後生大事に持っていることが必要なんだわ。」
 ちょっと待て。私もあの群衆の類ではないか。自分のちっぽけな後悔に酔って、可哀想ぶった群衆の一人になっていたんじゃないか。「蠅」の中で狂言回し的に登場する大神ユピテルは笑う。「その怖れ、そのやましさは、神々の鼻孔にはなんとも言えぬ香気です。さよう、その哀れな魂こそ神々のお気に召すわけなんですよ。」私は自分の滑稽さに、寒気がしてきた。
 この戯曲の中では、主人公オレステスが「実存の自由」に目覚めるシーンが非常に印象的だ。「おとなしくすること。静かにすること。いつも『ごめんなさい』と『ありがとう』を言うこと」が善だというのか、と彼は問う。オレステスの台詞は、サルトルの思想を代弁する。「僕は自由だ、エレクトラ。自由が電撃のように僕に襲いかかった。」「僕は、もう自分の道しか辿ることができないんだ。なぜなら僕は人間だからさ、ユピテル、人間はみんなそれぞれ自分の道を発見していかなければならないんだ。」そう、後悔しているヒマなどない。
 「ケファロ」のアリアは、オッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄」に引用されている。「天国と地獄」は、「地獄のギャロップ」(カステラ1番電話は2番)で有名だが、筋はオルフェオの神話のパロディだ。神話の設定は完全にコケにされ、「ケファロ」は刺激的なアイロニーとして使われている。妻なんて全然取り戻したくない設定のオルフェオが、しぶしぶ神々の前で歌ってみせるのだ。「世論」役はなんとかしてオルフェオを『常識的に考えて可哀想な人』に仕立てようとするが、神々も人間も皆、自分の生を謳歌するのに忙しくて、世間的な正しさになど構っていられない。自己断罪を好む哀れな人間なんて、ここでは笑いの種にすらならないのだ。
 サルトル「蠅」の幕切れで、オレステスは蠅のようにぶんぶん唸る「罪悪感」を、ハーメルンの笛吹きよろしく連れ去って行く。今日「ケファロ」を朗々と歌い上げる友人の横で、私はピアノに向かって一人ほくそ笑んだ。くだらない後悔など、どこかへ行ってしまえばよい。いついかなる瞬間も、次の一歩は、各人の自由だ。オレステスの台詞をもうひとつ思い出したい。「人間の生命は、絶望の反対側から始まるのだ。」