マキノノゾミ率いる劇団M.O.P.の最終公演「さらば八月のうた」を観劇。劇団設立から26年と重ねるように、26年間の長寿ラジオ番組の終わりを迎えようとする神崎カオル(キムラ緑子)の下に1つの投稿がある。曲名もわからないある曲を番組でかけて欲しい、と。この物語はこの曲をめぐる人々の物語だ。笑いあり、涙あり、そういう意味ではMOPの最期らしい作品ともいえる。まずは26年間お疲れ様でした。
作・演出 マキノノゾミ
[大阪公演]7月17日(土)~19日(祝)松下IMPホール
[東京公演]8月4日(水)~16日(月)紀伊國屋ホール
[京都公演]8月28日(土)・29日(日)京都府立文化芸術会館
芝居を見た感想はというと…
まずは大川貴啓さんの照明が凄い。これは僕が京都で芝居を見ていたときからそうだったのだけれど、今回もその魅力は充分に堪能できる。芝居にとって「照明」というのはその雰囲気を作り上げる重要な要素の1つ。それは音楽のライブやダンスイベントのそれと作り方が全く違う。
特に大川さんの場合は、そのシーンの雰囲気や心象風景に合わせたプランというのではなく、あくまで色を「調合」しリアルな世界観を再現しようというもの。
今回も舞台セットはD.Jブースを除けばほぼ1つ。音効自体もほとんどが「波」の音ということもあって、そのシーンが1日の「いつ」なのかを示すのは役者の台詞と「照明」だけという状態だ。しかしそんな中で、昼間だったり、夕暮れだったり、夜の海辺だったり、色調を変えることで見事に再現している。これはまさに名人芸といっもいいと思う。陽炎というか波による反射の揺れというか、そういった演出も見事!
役者陣ももちろんすばらしい。キムラ緑子は相変わらず主役としての貫禄充分で、そら子の残留志願の演技は両隣の席からがもらい泣きが聞こえるほど。
三上市朗も小市慢太郎も安定感は抜群だ。林英世や酒井高陽、木下政治、奥田達士もいい味を出していたし、ただ、個人的にはもっと熱い芝居が見たかったな、と。
ただどうなのだろう、MOPはもっと「熱く」ないと!と思うのは単なるノスタルジーなのか。そう考えると、僕の中ではMOPは終わっていたのかもしれない。。あの熱さはもう戻ってこないのだ。
しえしそれは単なるMOPだけの問題ではないのかもしれない。
演劇自体がかっての「熱さ」を持っているのだろうか。今日の芝居の観客の多く30代以降の、かっての小劇場ブームの洗礼を受けてきた年代だった。これは「たまたま」MOPがそうだったというのではないだろう。
雑誌にしろ、マンガにしろ、音楽にしろ、主要なターゲットが30代以上の団塊の世代~バブル世代、団塊Jr.世代になっているのは何も理由がないわけではない。人口の束がこの世代以降急激にしぼんでいくのであり、また供給者サイドがこの世代が中心となっているからだろう。
本来なら、モラトリアムと呼ばれた大学生活の間に次の文化を担うための世代が育ってきたはずが、人口の減少と経済環境の悪化、就職活動の早期化、あるいはインターネットやケータイなどを通じた「内向き」なものに興味や関心が移行したことで、新しいものを作り出す「熱さ」を失っているのではないか。与えられること、既に存在するものを利用することで、自ら何か「新しいもの」を作り出すことを忘れてしまったのかもしれない。
いや、そもそも「新しいもの」など生み出せるのだろうか。
今の音楽シーンを見ればわかるように、既にあらゆるものが産み出されてしまっており、新しい「何か」とはどこかにあるものとの「差異」や「既視感」「パロディ」でしかなくなってしまった。新しいものを生み出すためのハードルが遥かに高くなったのだ。それを打ち破るような「熱さ」を今の学生たちは持っているのだろうか。それとも僕の知らない何か―例えばネットサービスやiPhoneアプリなどにその情熱が向かっているのだろうか。
そうあって欲しいと思う。
芝居の帰り、たまたま入ったディスクユニオンで山下洋輔の「DANCING古事記」を見つけた。学生運動真っ只中の1969年7月、バリケード封鎖された早稲田大学構内で行なわれたライブ盤だ。何が起こるかわからない。だからこそ何かを越えれるんじゃないかという熱気が溢れていた次代。こうした「熱」は今でもあるのだろうか。
劇団M.O.P「リボルバー」:滅び行く者たちの物語 - ビールを飲みながら考えてみた…
劇団青年座「MOTHER-君わらひたまふことなかれ」 - ビールを飲みながら考えてみた…
それからの夏-新宿梁山泊が露呈した「劇団」という社会の限界 - ビールを飲みながら考えてみた…
DANCING古事記(紙ジャケット仕様)
作・演出 マキノノゾミ
[大阪公演]7月17日(土)~19日(祝)松下IMPホール
[東京公演]8月4日(水)~16日(月)紀伊國屋ホール
[京都公演]8月28日(土)・29日(日)京都府立文化芸術会館
芝居を見た感想はというと…
まずは大川貴啓さんの照明が凄い。これは僕が京都で芝居を見ていたときからそうだったのだけれど、今回もその魅力は充分に堪能できる。芝居にとって「照明」というのはその雰囲気を作り上げる重要な要素の1つ。それは音楽のライブやダンスイベントのそれと作り方が全く違う。
特に大川さんの場合は、そのシーンの雰囲気や心象風景に合わせたプランというのではなく、あくまで色を「調合」しリアルな世界観を再現しようというもの。
今回も舞台セットはD.Jブースを除けばほぼ1つ。音効自体もほとんどが「波」の音ということもあって、そのシーンが1日の「いつ」なのかを示すのは役者の台詞と「照明」だけという状態だ。しかしそんな中で、昼間だったり、夕暮れだったり、夜の海辺だったり、色調を変えることで見事に再現している。これはまさに名人芸といっもいいと思う。陽炎というか波による反射の揺れというか、そういった演出も見事!
役者陣ももちろんすばらしい。キムラ緑子は相変わらず主役としての貫禄充分で、そら子の残留志願の演技は両隣の席からがもらい泣きが聞こえるほど。
三上市朗も小市慢太郎も安定感は抜群だ。林英世や酒井高陽、木下政治、奥田達士もいい味を出していたし、ただ、個人的にはもっと熱い芝居が見たかったな、と。
ただどうなのだろう、MOPはもっと「熱く」ないと!と思うのは単なるノスタルジーなのか。そう考えると、僕の中ではMOPは終わっていたのかもしれない。。あの熱さはもう戻ってこないのだ。
しえしそれは単なるMOPだけの問題ではないのかもしれない。
演劇自体がかっての「熱さ」を持っているのだろうか。今日の芝居の観客の多く30代以降の、かっての小劇場ブームの洗礼を受けてきた年代だった。これは「たまたま」MOPがそうだったというのではないだろう。
雑誌にしろ、マンガにしろ、音楽にしろ、主要なターゲットが30代以上の団塊の世代~バブル世代、団塊Jr.世代になっているのは何も理由がないわけではない。人口の束がこの世代以降急激にしぼんでいくのであり、また供給者サイドがこの世代が中心となっているからだろう。
本来なら、モラトリアムと呼ばれた大学生活の間に次の文化を担うための世代が育ってきたはずが、人口の減少と経済環境の悪化、就職活動の早期化、あるいはインターネットやケータイなどを通じた「内向き」なものに興味や関心が移行したことで、新しいものを作り出す「熱さ」を失っているのではないか。与えられること、既に存在するものを利用することで、自ら何か「新しいもの」を作り出すことを忘れてしまったのかもしれない。
いや、そもそも「新しいもの」など生み出せるのだろうか。
今の音楽シーンを見ればわかるように、既にあらゆるものが産み出されてしまっており、新しい「何か」とはどこかにあるものとの「差異」や「既視感」「パロディ」でしかなくなってしまった。新しいものを生み出すためのハードルが遥かに高くなったのだ。それを打ち破るような「熱さ」を今の学生たちは持っているのだろうか。それとも僕の知らない何か―例えばネットサービスやiPhoneアプリなどにその情熱が向かっているのだろうか。
そうあって欲しいと思う。
芝居の帰り、たまたま入ったディスクユニオンで山下洋輔の「DANCING古事記」を見つけた。学生運動真っ只中の1969年7月、バリケード封鎖された早稲田大学構内で行なわれたライブ盤だ。何が起こるかわからない。だからこそ何かを越えれるんじゃないかという熱気が溢れていた次代。こうした「熱」は今でもあるのだろうか。
劇団M.O.P「リボルバー」:滅び行く者たちの物語 - ビールを飲みながら考えてみた…
劇団青年座「MOTHER-君わらひたまふことなかれ」 - ビールを飲みながら考えてみた…
それからの夏-新宿梁山泊が露呈した「劇団」という社会の限界 - ビールを飲みながら考えてみた…
DANCING古事記(紙ジャケット仕様)
びっくりされるかも知れませんが、MOPの
照明プランを、している者です。
少し気恥ずかしいのですが、照明に関して、コメント頂き、ありがとうございます。
ブログとはいえ、こんなに照明について書いていただくことは、ないので、素直に、とても
うれしいです。
また、MOPの歴史を、よくご存知のようで、
こちらこそ、どうもありがとうございました。
俳優もスタッフも、多少の感傷は、ありますが、最後の京都、悔いのない舞台にしようと、頑張っています。
どうも長文失礼しました。
mopは照明と緑子さんが楽しみでよく見に行ってました。ピスケンの朝が訪れるシーンは照明だけで体が震えました。
京都も頑張って下さい!