ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「理」を説く人

2008年02月29日 | 思考法・発想法
あまり理詰でもの考える人の意見はあてにしないようにしている。特に微に入り細に入り細かいところまで理屈で整理しようとする人は要注意だ。もちろんそういう風な人の意見は筋が通っているし、一見、正しいことが多い。しかし正しいからといってそれが現実的に適しているかというと必ずしもそうでない。現実とは、往々にして筋が通っていないのだから。

理論的な整合性をとろうとすれば、そこには「閉じた環境」を想定しなければならない。不確定要素や外部環境の変化、人と人との感情面での関係、建前と本音といったノイズを排除しなければならないからだ。しかし現実はどちらかというとノイズに満ち溢れている。どかどかうるさいR&Rバンドだらけ。

そんなものをイチイチ理詰で潰していってもキリがない。潰せば潰すほどノイズが発生し、小さいノイズで元よりうるさいんじゃないかというほど。

じゃぁ、「理屈」がいらないかというとそうではない。論理的に考えることは必要なんだけれど、それを何について、どこまで考えることが妥当なのかの判断は理屈によるものではない。経験、暗黙知、勘、センス…そういった視覚化・明文化しにくい要素に基づくのだ。

例えば新しいプロジェクトを立ち上げようとする。事業部長に計画やコンセプトを説明する。

「これはどうなんだ。」
「これこれこういうことです。」
「根拠は?」
「こういう風に想定しています。」
「こういう風になる根拠は?」
「これこれこういうことです。」
「これこれこういう風になる根拠は?」
「かくかくしかじかです。」
「かくかくしかじかの根拠は?」
「・・・」

大なり小なりこんな経験は誰もがあるだろう。こういう場合、いくら根拠や理屈を並べても意味がない。何かを話す度にその声がノイズを産み出すことになる。

何故こうなるのか。もちろんそもそも理屈がおかしいとか、嫌がらせされてるというのは問題外として、理由は2つ。

1つは本来問題として扱うべきものと、無視していい(考えても仕方がない)ものとの区別がついていない場合。ビジネスにしろ何にしろ、様々な要素が絡み合っているとはいえ、整理してみると重要な要素・KFS(Key Factors for Success)となるようなものは意外と少ない。変動要素やノイズはそれとしつつ、物事の本質に関わる要素や全体への影響力のある要素というのは2~3個、多い場合でも5、6個に絞られてくれのだ。

それを見極められていれば、後は「○」か「×」か、「GO」か「STOP」かの判断だけとなる。そしてその判断というのは、強気に見るか弱気に見るか、好きか嫌いか、勢いで行くのかというところで決まってくる。ここまでくると、結局、理屈ではない。

全て「理」で考えようとする人はその辺りのセンス、KFSやそれを規定する要因を見極める嗅覚が必ずしも強くないのだろう。「理」で考えるから見えないものもあるのだ。

そしてもう1つが、判断を下すべき人がそのことに対して確信をもてない場合だ。

先にも書いたように、結局、判断を下すという行為は「理」ではない。行ける!と思えば行くだけであり、行けないと思えば行かないだけのこと。

どちらとも確信を持てないからこそ、問いかえすことになる。

そんな時に律儀にその質問に答えたところでそこに結論などでるわけもない。真面目に全ての問いに答えたとしても状況は何も変わらないのだ。

そんなときに求められるのも、また「理」ではない。「理」で迷ってる以上、「理」をどれだけ積み上げても何も解決しないのだ。

そういう時、そういった不安や迷いを飛び越えるものは、実は非常に非論理的なものだったりする。

誰かの一言やちょっとした拍子に見た何か、ふと思いついた(独りよがりの)アイデアなどなど。

ということで、個人的には「理」を追い求めることの限界を感じているのだけれど、まぁ、それでも更に細かい資料を作れといわれるわけですよ。はい。

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