ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか / 斉藤環

2009年01月25日 | 読書
「父親をどう超えるか--」これは男にとっては大きな問題だ。僕も親父と仲がいいとはいえないんだけど、年をとればそれなりにうまく付き合っていくやり方というものを身につける。それが男同士というものなのだろう。これに対して「母」と「娘」というのは不思議な関係だ。時に腕を組んで買い物に行くような母娘がいて、友達のように話をしている2人がいて、壮絶なののしりあいをする2人がいる。

何故、そこまで違うのか。

斉藤氏はこうした特異な関係を、男性の立場から理解しようとする。この著が全て正しいとは思わないけれど、「母娘」という、男からは理解しがたい複雑な感情・支配関係を理解するための一助にはなるだろう。


母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか / 斉藤環

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朝日新聞で母と娘についての投書を募集したところ、過干渉な母に対する不満や束縛されたことからの嫌悪感など1000通以上の手紙が寄せられた。こうした母親からの過干渉、束縛といったものをメラニー・クラインの「投影性同一視」概念で説明するならば、母親は自分の中にある母親の部分と娘の部分を実際の母娘関係に置き換えて満足を得ようとしていることになる。自分の弱さを見せつけることで娘を縛ろうとし、娘は罪悪感から主体的に生きることが困難になる。

臨床心理学者の高石氏は、女性にとって現在は「母親」として生きる以外の選択肢が乏しいため、母親を否定することができないためだと考える。これに対して女性ライフサイクル研究所の村本氏はこの社会が母親に自己実現の機会を抑圧しているため、かなえられなかった願望が娘への過干渉としてあらわれると考える。しかしこの著者の斉藤氏は抑圧の低下こそが、母と娘それぞれの自我を目覚めさせ、より関係を困難なものにしていると考える。

母娘関係の困難さは「心理的な距離の近さ」から生じている。そして「虐待」「傷つけあう関係」「過干渉」「一卵性母子」などさまざまな問題を引き起こすものの、その関係は「母親による娘の支配」であり、コントロールの仕方や露骨かどうかといったところに集約できる。

摂取障害は女性が圧倒的に多い事象であるが、これも母娘関係が影響していると考えられるものが多い。摂取障害の家族は、それぞれ自己中心的でありながら、お互いの結びつきが強く、思考や感情を共有する傾向がある。ここに「投影性同一視」のメカニズムが絡んでくる。自分の考えを娘のものとして押し付けることになる。特に母娘の場合、女性同士であり、身体性の問題が絡むため、問題が複雑化する。父と息子の場合、単純な権力闘争の形となるが、母と娘の場合、思いやりや共感による支配が絡むことになる。

また「世間体」という価値規範の問題もある。

日本では儒教文化に根付いた「家族主義」がまだまだ根強く残っており、(自立がいけないのではなく)家族を持たねばならないという「世間体」がインナーマザーとして存在する。そのため「結婚しなさい」と一方で条件付の「愛」を提示しながら、他方で母親が自宅にいる「娘」の世話をし自立を妨げるというダブルバインド状態が生じている。日本の母娘関係において、母親が母性的に奉仕し、娘に「申し訳ない」と感じさせることによって娘を支配することになる。こうした自己犠牲的な奉仕による支配のことを「マゾヒスティック・コントロール」という。

マゾヒスティック・コントロールが成立するためには、相手の献身さに対して「申し訳ない」と感ずるための鋭さが必要だ。このことと、女性が男性に奉仕するのが当然とみなす社会文化的な背景のために、「父殺し」を行う男とは対称的に、永遠に殺し合うことなく関係を深めあう女たちの共同体が成立する。これが「母殺し」が不可能である1つの理由である。

日本ではこの「マゾヒスティック・コントロール」が多いが、欧米の母娘関係では「母より女」型による原因が多い。これは母親が母親という社会的役割と自己中心的な欲求との間で板ばさみとなり生じる問題だ。

この「母より女」型を考えるにあたって注目される概念として「2番目の妻コンプレックス」がある。これは娘にとっての「エディプス・コンプレックス」にあたるもので、母親を追放して父親の妻となることへのコンプレックスだ。しかしこのような関係は稀有のものだろう。母娘関係をライバル関係に置き換えるというありがちな間違いは避けねばならない。

もう1つ注目される概念として「プラトニックな近親相姦」というものがある。これは「ゆき過ぎた親密さ」というもので「一卵性母娘」のようなものだ。この母娘の近親相姦的な親密さは父親を疎外することで成立する。娘は母を映す鏡であり、自己愛投影の対象であり、相互関係ではなくアイデンティティの混同を招きやすい。身体的同一性を持つがゆえにより過度な「親密さ」が成立することになる。そもそも人間というものは「近親相姦」への止みがたい欲望を持っている。母娘関係は現代において抑圧と禁止を逃れた唯一の近親相姦関係であり、その欲望が背景にあるのかもしれない。


男の場合、3歳から5歳のエディプス期を経ることで人格や欲望の方向性が形作られる。これに対し女の子は離乳の段階での「分離」の恨みがあり、自分と母親にペニスがついていないことを発見し、ペニスを持たない母親を見捨てつつ分離の際の恨みがぶり返す。そして父親へと欲望がむかうことになる。このエディプスコンプレックスは一生続き、子供を授かることを欲するこになる。この母親の(ペニスを持たないことに対する)無力さは「女性嫌悪」へとつながり、思春期に反復されることになる。

精神分析的には「女性性」とは徹底的に表層的なものを意味しており、いかなる「本質」を持たない。男性が象徴的な意味で「本質」しかないのに対し、女性は表層的な存在であるがゆえに「身体」を持つことになる。女性は身体を持ってはいるものの、どこかで「違和感」を感じていることが多い。軽い気持ちではじめたダイエットが拒食症といった形で強迫的にまで過剰なものになるのも、身体への違和感の排除、内なるボディイメージの追及がある。

娘たちに「女らしい」身体性を正確に教えられるのは、母親において他ならない。しかししつけによる望ましい身体性の伝達とは、娘の身体を支配することにつながってしまう。女性が女性らしくあるためにはまず母親の支配から始まる。母親は娘たちを、女性らしい身体を持つようにしつけるが、これは他者の欲望に応え、他者に気に入られるような受身的な存在であるように教育することを意味する。外見=身体においては他者の欲望をより引きつけることを、本質においては自分の欲望は放棄することが求められる。女性特有の空虚感はこうして生まれることになる。

男性とは異なり、自分の身体を常に意識させられている女性にとって「私」と身体性は切っても切れない関係にある。「私」を語るあらゆる言葉は身体から生まれ、その身体は母親の言葉にが深く棲みついている。言葉と身体のどちらが先かはもはや決定不可能であり、自己言及そのものが「私」となる。

娘の身体をつくるのは母親の言葉であるが、娘へと向けられた母親の言葉は、しばしば無意識のうちに母親自身を語る言葉である。娘へと向けられた言葉が、実は願望も含めた自らを語る言葉であること、母親の身体性は、このような言葉の回路を通じて、娘へと伝達されていく。娘の体には母親の言葉がインストールされており、娘がどれほど母親を否定しようとしても、すでに与えられた母親の言葉をいきるしかないのである。



母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか / 斉藤環




2 コメント

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母親による支配 (桜井みわこ)
2012-07-26 23:20:53
「お金で支配しようとする母親」と、検索窓に入れましたところ、こちらのサイトに出会いました。
本文の、わたしなりの意訳ですが、「献身性を見せることで娘を隷属化に置く母親」、「申し訳ないと感じさせることで支配下に置く母親」という解釈に大変、共感しました。
フロイトによる父子関係の解釈では、日本独特の母子癒着を説明できないのでは、と思っています。
わたしの母は、わたしが「勤める」ことに不満で、このたびの突然の解雇に、喜びを隠さず、女は仕事をするべきでない、お金なら与える、と自立をはばみます。
このサイトに紹介されていた書籍を、読もうと思います。あの母という名の化け物を本気で殺す前に、一読しなければ。
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Unknown (beer)
2012-07-31 23:33:32
男が考える以上に母娘の関係って複雑みたいですね。そういう観点でも、ナタリーポートマンが演じた「ブラックスワン」はそうした関係がよく出てたと思います。http://goo.gl/9suGy

もっとも、日本ではもっと「いやらしく」内面化するのかもしれませんが。
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