ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ソーシャルネットワークの時代と社会化・組織化される自己

2011年10月02日 | 思考法・発想法
ずいぶん以前、立ちあがってしばらくした頃からmixiやgreeには参加してはいたのだけれど、SNS的な活動はほとんどしていなかった。それは僕にとってネットでの活動というものがリアルとは切り離された、超個人的な活動を意味していたり、当時はネットサービスに携わっていたこともあっていろいろなサービスの実験を行う場であって、ネット上で継続的に関係性を保とうと考えていなかったからだ。ちょうど西垣通さんが「聖なるバーチャルリアル」なんて本を上梓した頃で、ネット=匿名性の文化の方が主流だったこともある。

そんな頃から10年が過ぎ、デジタルネイティブたちが登場し、今やネットはソーシャルなものとなった。mixiのようなリアルな関係とシンクロ率の高いサービスもすっかり根付いたし、日本ではまだ抵抗を感じている人もいるかもしれないが実名をベースとするFacebookも確実に普及している。

最近になってmixiやFBを改めて使い始めてみているのだけれど、その魅力やリアルとバーチャルとの壁が消え去った後の世界の文化的変容には驚かされる。世界は新しいルールに突入したのだと。

ネットが匿名性の時代だった頃はともかく、FBに代表されるソーシャルネットワークの時代というのは全てを晒す時代だ。氏名や年齢、住所、学歴、職歴、結婚の有無、子供の年齢、趣味嗜好…自らを特定されるアイデンティを隠して守る時代から、OPENにしてよりメリットを享受する時代へ、功利主義的な言い方をするならば、マイナスを差し引いても、OPENにすることでより多くのメリットを求めることが是となる時代になったのだ。

そんな時代では当然のことながらリアルな関係をベースに「つながり」は広がっていく。もちろんつながりの「強度」という問題はあるのだけれど、まずは本人のリアルな接点の有無によって世界は広がり、ついで「友達の友達」的な二次的なネットワークの広がりによって、その人の人間関係は描き出されていく。それをソーシャルグラフという。

こうしたリアルと限りなく近い人間関係、否、リアルとネットで同質な人間関係が構築された結果、僕らはネット上でのペルソナもリアルの世界と連続性のあるペルソナが求められることになる。匿名性の世界であれば、ネットだからこそ許された人格・ペルソナが存在できたけれど、ソーシャルネットワークではリアルな世界と違うペルソナは好意的にはとられない。このことはいいことなのだろうか。

問いかけがおかしいのかもしれない。

今、改めてmixiやFBを使ってみて思うことは、こうしたソーシャルネットワークの時代というのは、人間をより「窮屈」な存在にしているのではないかということだ。

僕らは本来、その所属するコミュニティやセグメントによって、キャラが変わるということは当たり前の話だ。リアルな世界では、所属するコミュニティは必ずしも連続しているわけではない。例えば、「職場」というコミュニティと「町内会」というコミュニティは同じメンバーが揃っているわけではない。参加者が異なれば、当然、求められる役割やキャラも異なってくる。そのようにして僕らは、「小学生の友達」「大学のサークル仲間」「職場」「町内会」などなど様々なコミュニティに所属し、それによって異なるペルソナを演じることになる。

あるいはネット上で、普段見せることのない(抑圧された)ベルソナを見せることもある。

そうした分断されたペルソナはそれはそれで所属しているコミュニティによって導かれたものともいえる。僕らは異なるいくつものペルソナを持ちつつ、同時にそれらを「綜合」しているのだ。

しかしこのリアルとネットの差異のない世界というのは、こうした分断化されたベルソナを許してくれるのだろうか。少なくとも「分断」ではなく「総合」の側面が強調される必要があるし(じゃなきゃ、分裂症だと思われる)、抑圧されたペルソナを解放させることはできなくなる。匿名性のネット社会であればその時々に閉じた世界でそのペルソナを演じればよかったし、それによって自らの抑圧された部分の「ガス抜き」ができたかもしれないけれど、ソーシャルネットワークではそうした行為は許されない。

現実社会で演じているように、社会化された自我・組織化された行動原理に基づき、ネットの世界でも行動せねばならないのだ。

だからだろうか、最近の後輩やスポーツ選手やタレントや子役の発言を聞いていると、あまりにも「社会」に適応した発言が多すぎる気がする。6、7才の子役が「…みなさんに助けられてうまくいきました」みたいな発言をすることの違和感…

僕らだって、学生の頃であれば、多少、やんちゃなことをやったり、我儘に振舞ったり、自分勝手な行動をしたりしていたけれど、やがてそうした意識は「社会化」され「適切」な行動へと変化していく。一般的にはそれは「成長」と呼ぶ。

何事にも「ポジティブ」に考え、他者とのWIN-WINな「協調」関係を模索し、「自己実現」と言う名の「目的・目標」を設定し、その目的のために適切な行動を日々「実践」する。あるいは企業に勤めれば、組織を維持するために必要な行動原理の下で行動し、上司や同僚に気を配り、その時々に応じて相応しい発言をする。

そうした社会化・組織化された「自己」を僕らは、否、僕は果たして求めていたのだろうか。

適切なビジネスマンとしての行動、スマートなビジネスマンとしての行動を求めようとする僕がいる一方で、そうしたこととは真逆の、感情や本能、感覚に素直に従おうとする僕がいる。建前をもとに行動しようとする僕がいる一方で、本音や感性で行動しようとする僕がいる。あるいはこのソーシャルネットワークに身を投じようとする僕とすべての関係性を絶ち切って「匿名者」のままネットに漂おうとする僕がいる…

ソーシャルネットワークによって、現実(の複数のコミュニティ)とネットが単一的につながるのだとすると、僕らは統合化されたベルソナをリアル/ネットにかかわらず演じ続けねばならない。その社会のもつ「窮屈さ」というのは、何となく今の社会を覆っている閉塞感と繋がっている気がする。そしてそうしたことさえも意識しないまま、あらゆる局面で「社会性」を踏まえて行動できる人々がいる。彼らはこの「窮屈さ」をどのように処理していくのだろうか。

何となく結論もよくわからないままになってしまったけれど、ソーシャルネットワーク時代というのは、逃げ場のなく社会化・組織化された自己を要求されるような時代になったな、と感じたわけです。はい。


P.S そういえば以前に同じような問題を考えたことがあるなと思って、以前の記事を読んでみたのだけれど、実は以前はネットが匿名性である以上、「分断」が強調されざろうえないと書いていた。そう考えるとやはり「ソーシャル」な時代というのは、確実に新しい時代に入ったのだろう。

winny問題から考える「分断された社会」 - ビールを飲みながら考えてみた…

「つながり・同期・メタデータ」東浩紀が捉えたネット社会 - ビールを飲みながら考えてみた…

コメントを投稿