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ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ほくほく線の途中から。地方都市のメンタリティと「変化」の可能性について

2011年08月13日 | 地方政治・経済
東京から北陸に向かう途中、越後湯沢で乗り換える「ほくほく線」というのは何ともいえない独特の風情がある。それはいわゆるローカル線というものにカテゴライズされるもので、効率優先の新幹線や都内の近郊の鉄道にはない、のんびりとした空気が漂っている。

もちろんそこから見える風景はひたすら続く山間の風景で、田んぼの緑とほくほく線と平行に走る国道のラインと間を埋めるようにして存在している民家だったり、パチンコ屋だったり、工場だったりするわけで、都会の風景とは全く別物だ。

おそらくこの辺りに暮らしている同年代と比べれば、全体的には僕の方が給料は高いだろうし、それなりにいろいろな刺激を僕のほうが受けているだろう。どちらの生活が楽しそうに見えるかと問われれば、傍から見れば都会で生活している僕の方が楽しそうに見えるかもしれない。

しかし実際にはその生活の幸福感なんてそんなに大差なく、また当事者からみればどちらが上とか下とかもないのだろう。彼らはある程度、制約のある中でそれなりに生活を楽しんでいるだろうし、与えられる刺激が少なくともそこから得られる満足感というものは僕よりも大きいかもしれない。反対に僕の方といえば、日々の追われるような暮らしの中で、何かを成し遂げても、その余韻に浸る暇もなく次の戦場に赴くという具合。何かに追われながら、その何かから感じる即物的な刺激に麻痺し、結局何かを手に入れたという実感もないままに日々は過ぎていくのだ。

北陸の地に来るたびにそうした想いを抱く。決して戻れないだろうという想いと、この地への憧れの両方を感じながら。

しかしその一方で、この土地に来るたびに感じる絶望というか閉塞感のようなものもある。あるいはそれは地方都市全体に言えることなのかもしれない。

都市部に住んでいると、世界というものは「変えられる」のだという根拠のない期待というか、感覚がある。それは東京という都市が、日本の中心であり、世界とも渡り合おうとしている企業群が密集しているからかもしれないし、事実、そうした想いがなければ、この街では戦っていけない。そうした空気が街全体に「変化」あるいはより世界に対しての「最適化」を求める雰囲気や意識を作り出している。

世界は変えられるのだ。

しかし北陸の地はどうだろう。ここに住む人々には「変えられる」という感覚がない。世界というのは所与の条件として与えられているのだ。その中で適応していくことこそが、この地で「生きていく」ということなのだろう。

確かに「農業」や「漁業」が中心の社会においては、人智でコントロールできない「自然」の存在が大きい。どんなに努力して育てた農作物も、1つの台風や大雨、長期に渡る日照りによって全てが元も子もなくなる場合がある。そのことに腹を立てたところで何かできるわけではない。無理なものは無理。勝てないものには戦ってもしょうがない。そうした感覚が本能的に根付いているのだ。

それは今回の東日本大震災に直面した東北の人々もそうなのではないか。

震災や津波の被害のあと、避難した人々へのインタビュー映像を見ていると、そこに「怒り」を顕にする人は意外とすくない。一見、不自然なほど「笑み」をうかべたり「諦観」した意見をはなしたりする人が多い。しかし、日本人ならわかると思うが、そこに「悲しみ」や「絶望」がないわけではない。彼らはそうしたものを感じながら、あるいはだからこそ、そうではない方向に感情をむけている。「仕方がない」と。

そこに古くからの日本人のメンタリティがあるのだと思う。自然がしたもの、自分たちの人智を超えた存在がしたものだから「どうにもならない」「仕方がない」のだと。

そうした環境に適応していくさま、所与の条件に適応していく姿が、古くからのメンタリティとともにこの地てはみられるのだ。逆に言えば、そうした環境こそが彼らの生活を豊かにしてくれるものでもある。

そうした諦念に対する不満は中学や高校の頃からあった。当時はそれにむやみに反発することくらいしか出来ず、何をどうすればいいのかなんてわからなかったし、この地を出ることで何かが変わるのだと思っていた。しかし都会に出たからといって全てが解決するわけではない。もちろん選択肢は広がる。しかしそれがGOALに結びつく保証はない。

と、同時に今だからこそ言えることは、地方でもそうした可能性を問い働きかけることで「変えること」は可能なのだろうと思う。もちろん全てが一挙に変わるとは思わない。しかし彼らは「変わること」の可能性を知らないからこそ変われないのであり、今に満足しているのだろう。

その土地でずっと暮らしていた人だけでなく、都会からUターンしたような人や、その土地にいながらもネットを通じて情報感度の高い人、何かを変えたいと感じている人がいれば、その可能性はあるのではないか、そんな風に思うんだけど、たけさん、どうですか?

明日は久しぶりの同窓会に参加です。

地方に「夢」は存在するか - ビールを飲みながら考えてみた…



3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (たけ)
2011-08-14 00:06:32
読んでて、これは自分の中でいつも問いかけてる問題だなあと思っていたらいきなり名前が出てて驚いたよ。う~ん、まとまらないけど考えてみました。
都会と地方、両方比較してみると、つまづく本質は同じなので乗り越えなければ次の段階にはいけないと思う。幸せだと思える能力がある人はどこに住んでても幸せ。こういう点では平等。でも乗り越えて、さて次のステップにチャレンジしたいとなった場合、その機会があるのが都会かもしれない。常に最前線を行くのでやりがいあるだろうなあ。
地方の閉塞感を打ち破ることができるだろうかと思うときもあるが、その閉塞感自体が実はその地域の特異性で、愛すべき点だとさえ思えてしまう。Uターンするまで、私は理想を屁理屈で語り、現実を見ようとせず否定するところがあったなあと思う。例えば、庭の除草剤。畑の殺虫剤。Uターンしても子供の小さいうちはそれを全否定していたんだけど、薬剤の特性を知り安全に使っていかなければ生活は成り立たないし、自分の時間はそれらのことで多くを費やすことになってしまう。時間を生み出すために妥協。これはホンノ1例だけど、様々なことでそれを感じるな。都会では理想という霞を食べて仙人のように生きていけたけど、地方でも我が家のような田舎では現実を見ないと生きていけなかった。理想という霞が田舎にはなかった。これが田舎に漂う「仕方がない」という閉塞感につながっているのかもしれないね。
都会に漂う活気は、理想や目標を追い求めることが出来るからそのエネルギーが生まれてくるのかもね。
私はネットの中で、最前線でがんばっている方々のエネルギーをもらいたいと思っているのかな。気付いていなかったけど。

それでは、同窓会で。
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Unknown (Gangangansoku)
2011-08-19 00:37:39
興味深い記事ですね

「しかし北陸の地はどうだろう。ここに住む人々には「変えられる」という感覚がない。世界というのは所与の条件として与えられているのだ。その中で適応していくことこそが、この地で「生きていく」ということなのだろう。」

本当にそのとおりだと思います。
都会では、常にどうしたらもっと良くなるか、とビジネスでも生活でも常に考えています。田舎では維持がメインです。
どちらがいいというよりも、必要性の問題ですね。 

いい記事でした。
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Unknown (beer)
2011-08-21 11:37:29
以前は、都市と地方は違うから…と考えていたんですけど、最近は、ちょっと違って、地方も変われるんじゃないかという風に考えるようになってきたんですよね。
地方の持つ良さと(経済)発展の両輪を何とかできるんじゃないかな、と。
ま、都市に住んでるからの幻想かもしれませんが。
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