目で何かを見て、耳で何かを聴いて、鼻で何かを嗅いで、舌で何かを味わって、手で何かに触れて、果たしてそうやって僕らは「何か」を認識しているのだろうか。「何か」という全体像を5っの感覚に分解して、それぞれの感覚器が5感と呼ばれるそれぞれの感覚を理解しているのだろうか。例えば耳で見たり、目で嗅いだり、あるいは雰囲気やオーラ、感情のやり取りというものを全ての感覚器を通じて掴んでいたりはしないのだろうか――これは以前から、僕が感じていることだ。そのことの答えというわけではないが、1つの可能性を与えてくれる一冊。
アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか
Wikipediaによると、アフォーダンスとは「動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在し、動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値」と定義されている。著者・佐々木正人さんは、まず冒頭で、「意味は脳にあるのではない」「目や耳などの感覚器官から入ってくることと、まわりにあることを知ることとはあまり関係がない」「身体とまわりの世界には境がない」と述べている。また「遺伝か環境かという議論は、人の発達を説明できない」としている。Wikiの定義と佐々木さんの言葉をあわせた時、個(有機体)と環境の関係はどのようなものなのか。
ダーウィンが記した「ミミズと土」によると、ミミズの体は100~200の丸い節でできていて筋肉組織は発達しているが、目や耳のような感覚器官はもたない。しかし目を持たないミミズではあるが光を当てるとかすかに反応を示し「盲目」ではないらしい。また空気中を伝わる「音」には反応がしないものの、地面から直接振動が伝わる場合には「音」にも反応した。また肉の腐り具合など、味や匂いについても敏感である。
そんなミミズの「穴ふさぎ」行為を観察してみると、感覚器官のないはずのミミズが葉の細い部分を選んで穴に引き込んでいるという。それは「反射」や「概念にしたがう行為」や「試行錯誤」ではない。ではこの行為が意味することは何か。ダーウィンはこう述べた、「ミミズは体制こそ下等であるけれど知性を持っている」と。
ダーウィンが見た「ありのままの行為」の原理を、ジェームス・ギブソンは「アフォーダンス」という言葉を名づけた。英語の「afford(与える、提供する)」をもとにギブソンが作った造語「アフォーダンス」とは、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、「ぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味」であり、「ぼくら動物の行為の『資源(リソース)』になること」である。
例えば僕らが地面と呼ぶところにあるものは「土」や「岩」という名前が付けられているが、それは動物にとっては身体を「支持する」、その上を「移動する」などのアフォーダンスである。ここに大きな転換点がある。「土」や「岩」自体は「支持する」「移動する」という意味を明示しているわけではない。しかし動物がそこに立ち、歩こうとした時、つまり何らかの「行為」を行おうとした時、そこに「意味」が発生するのだ。いや違う、こう言い直したほうがいい。動物が何らかの行為をしようとした時に、その環境に潜在していた「意味」が発見されるのだ。
そう考えると我々を取り囲む環境・空間というのは、本来、様々なアフォーダンスに満ちている。それを我々が何らかの行為を通じて発見しているのだ。
それだけではない「アフォーダンス」という考え方をすることによって、「個」に基づいた知覚認知論を超えて、共通認識を生み出す可能性を手にすることができる。
例えば「大気」の流れ。空気中の振動の場は振動源から同心円の「波面」となって広がっていく。振動によって大気がゆすられると、耳があってもなくても、生物の身体はゆすられる。時には地震のような波面であり、時には爆発物のようなものかもしれない。これらの波で耳の中の鼓膜がゆすられることを人間は「聴く」と呼んでいる。これらの「波」はそれぞれにそれぞれ固有の振動の仕方があり、それによってそれぞれの出来事を「聴き分け」あるいは、振動源の位置を特定する。
あるいは光のネットワーク。僕らは光源からの直接的な放射光のみを見ているわけではない。光源からの放射光は環境を構成している微細な構造と出会うことになって、様々な散乱を引き起こし、そうした残響を含めた光の束・ネットワークに僕らは囲まれている。明るいあるゆる場所はそこにしかない独特の光のネットワークが存在する。ここにはここの光のネットワークがあり、あそこにはあそこの光のネットワークがある。
環境を「光の集まりの束とその集合」として照明されているものとして考えることによって、ギブソンは「見る」ということが、1人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他の誰にも経験できないことだという常識を打ち破ることになる。環境の側がその場所に固有の情報をアフォードしているのであれば、例え人が異なったとしてもそれを受け取れば同じものを見ているはずである。つまり「見えの根拠が、ぼくらの目や頭にあるのではなく、照明の構造にあり、僕らはそれらを見つけ出しているだけであれば、ぼくらは他者と意味を共有できる可能性を得たのだ。
さて、僕らはもののアフォーダンスをどのように知覚しているのだろう。例えば坂になった場所で我々が立つという行為には、「平衡胞」による重力の定位・下という方向を知るということと、地面と接触して足に対してどのような位置をとり、どのように体重を分散させるかを制御する必要がある。
「人間のような大きな脊椎動物の場合、定位のための耳の奥にある「前庭」というような器官と、立った時の足の裏の皮膚に分布した感覚器官を、多数の骨がつないでいる。」100の骨が筋で1つに繋がっており、身体のあらゆる接触行為は骨を中心とした1つのシステムとして機能するのだ。これをギブソンは「ボーンスペース(骨格空間)」と呼んだ。
このように全身のネットワークを通じて知覚を行うと考えた時、僕らと外界の境界線というのは非常に曖昧になる。例えば棒を持った時、実際に棒の先端を見ていなくとも棒の届く範囲を知覚することが可能である。棒の重さやしなり具合などそういったアフォーダンスを全身を通じて知覚することで、身体の延長のように棒を利用することが可能になるのだ。
アフォーダンスという考え方によって、これまでの「遺伝か環境か」という議論を越えることが可能になる。生物の在り様を見ていると、それぞれの生物がもっている「はじまり」(固有の動き)が「まわり」(環境)と出会い、多様な「変化」としてあらわれるということ以外の何ものでもない。細胞から文明まで「発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも以下のこともない」のだ。「evolution(進化)」のように、最初から予定されたことが内在されているわけでもなく、個と環境のどちらか一方によって規定されるわけでもなく、その2つが出会うことによって生じた「変化」しかない。
無限のアフォーダンスの集合する環境に、ぼくらは1つの身体としてではなく、多数の動きの集合としてであっている。長い時間で見れば、あらゆる環境と動物の行為は共に変化しており、共に変化するもの同士の間で新しい創造が行われているのだ。
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個人的には、茂木健一郎さんに感じる違和感への回答がここに在るような気がする。「クオリア」の実感をどう認識するかは興味深いのだけれど、それを感覚器官から神経系を通じて結局は脳内で統合するということを全体としてる茂木さんには、やはり身体を個々の機能の集合体として捉えているような違和感を感じるのだ。
それに比べてアフォーダンスの場合、仮に感覚器官がそれぞれの機能に分化したものだとしても、身体全体を1つの知覚システムとして扱うという姿勢がある。また「個」と「環境」という区分では、(物理的には正しいのだろうが)「知覚」「認識」というもの、あるいはそうした「知覚システム」を身体による「情報処理システム」として捉えた場合に、限界があるような気がするのだ。
とはいえ、このアフォーダンスが全てを解決できるのかというとそうではない。何故、生物には「種」という区分が存在するのか。個々の動物たちのありようが「個」と「環境」の出会いによる「変化」の結果だとすると、「種」という区分はなぜ生じたのか、あるいは「ヒト」が「ヒト」としての限界を越えて変化が生じないのは何故か、何が規定しているのか――こうした有機体の「制約」についてはまだまだ越えれない壁があるのだろう。
アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか/佐々木正人
「意識とはなにか―「私」を生成する脳」/茂木健一郎
アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか
Wikipediaによると、アフォーダンスとは「動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在し、動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値」と定義されている。著者・佐々木正人さんは、まず冒頭で、「意味は脳にあるのではない」「目や耳などの感覚器官から入ってくることと、まわりにあることを知ることとはあまり関係がない」「身体とまわりの世界には境がない」と述べている。また「遺伝か環境かという議論は、人の発達を説明できない」としている。Wikiの定義と佐々木さんの言葉をあわせた時、個(有機体)と環境の関係はどのようなものなのか。
ダーウィンが記した「ミミズと土」によると、ミミズの体は100~200の丸い節でできていて筋肉組織は発達しているが、目や耳のような感覚器官はもたない。しかし目を持たないミミズではあるが光を当てるとかすかに反応を示し「盲目」ではないらしい。また空気中を伝わる「音」には反応がしないものの、地面から直接振動が伝わる場合には「音」にも反応した。また肉の腐り具合など、味や匂いについても敏感である。
そんなミミズの「穴ふさぎ」行為を観察してみると、感覚器官のないはずのミミズが葉の細い部分を選んで穴に引き込んでいるという。それは「反射」や「概念にしたがう行為」や「試行錯誤」ではない。ではこの行為が意味することは何か。ダーウィンはこう述べた、「ミミズは体制こそ下等であるけれど知性を持っている」と。
ダーウィンが見た「ありのままの行為」の原理を、ジェームス・ギブソンは「アフォーダンス」という言葉を名づけた。英語の「afford(与える、提供する)」をもとにギブソンが作った造語「アフォーダンス」とは、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、「ぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味」であり、「ぼくら動物の行為の『資源(リソース)』になること」である。
例えば僕らが地面と呼ぶところにあるものは「土」や「岩」という名前が付けられているが、それは動物にとっては身体を「支持する」、その上を「移動する」などのアフォーダンスである。ここに大きな転換点がある。「土」や「岩」自体は「支持する」「移動する」という意味を明示しているわけではない。しかし動物がそこに立ち、歩こうとした時、つまり何らかの「行為」を行おうとした時、そこに「意味」が発生するのだ。いや違う、こう言い直したほうがいい。動物が何らかの行為をしようとした時に、その環境に潜在していた「意味」が発見されるのだ。
そう考えると我々を取り囲む環境・空間というのは、本来、様々なアフォーダンスに満ちている。それを我々が何らかの行為を通じて発見しているのだ。
それだけではない「アフォーダンス」という考え方をすることによって、「個」に基づいた知覚認知論を超えて、共通認識を生み出す可能性を手にすることができる。
例えば「大気」の流れ。空気中の振動の場は振動源から同心円の「波面」となって広がっていく。振動によって大気がゆすられると、耳があってもなくても、生物の身体はゆすられる。時には地震のような波面であり、時には爆発物のようなものかもしれない。これらの波で耳の中の鼓膜がゆすられることを人間は「聴く」と呼んでいる。これらの「波」はそれぞれにそれぞれ固有の振動の仕方があり、それによってそれぞれの出来事を「聴き分け」あるいは、振動源の位置を特定する。
あるいは光のネットワーク。僕らは光源からの直接的な放射光のみを見ているわけではない。光源からの放射光は環境を構成している微細な構造と出会うことになって、様々な散乱を引き起こし、そうした残響を含めた光の束・ネットワークに僕らは囲まれている。明るいあるゆる場所はそこにしかない独特の光のネットワークが存在する。ここにはここの光のネットワークがあり、あそこにはあそこの光のネットワークがある。
環境を「光の集まりの束とその集合」として照明されているものとして考えることによって、ギブソンは「見る」ということが、1人の知覚者だけの一回きりの出来事として起こり、他の誰にも経験できないことだという常識を打ち破ることになる。環境の側がその場所に固有の情報をアフォードしているのであれば、例え人が異なったとしてもそれを受け取れば同じものを見ているはずである。つまり「見えの根拠が、ぼくらの目や頭にあるのではなく、照明の構造にあり、僕らはそれらを見つけ出しているだけであれば、ぼくらは他者と意味を共有できる可能性を得たのだ。
さて、僕らはもののアフォーダンスをどのように知覚しているのだろう。例えば坂になった場所で我々が立つという行為には、「平衡胞」による重力の定位・下という方向を知るということと、地面と接触して足に対してどのような位置をとり、どのように体重を分散させるかを制御する必要がある。
「人間のような大きな脊椎動物の場合、定位のための耳の奥にある「前庭」というような器官と、立った時の足の裏の皮膚に分布した感覚器官を、多数の骨がつないでいる。」100の骨が筋で1つに繋がっており、身体のあらゆる接触行為は骨を中心とした1つのシステムとして機能するのだ。これをギブソンは「ボーンスペース(骨格空間)」と呼んだ。
このように全身のネットワークを通じて知覚を行うと考えた時、僕らと外界の境界線というのは非常に曖昧になる。例えば棒を持った時、実際に棒の先端を見ていなくとも棒の届く範囲を知覚することが可能である。棒の重さやしなり具合などそういったアフォーダンスを全身を通じて知覚することで、身体の延長のように棒を利用することが可能になるのだ。
アフォーダンスという考え方によって、これまでの「遺伝か環境か」という議論を越えることが可能になる。生物の在り様を見ていると、それぞれの生物がもっている「はじまり」(固有の動き)が「まわり」(環境)と出会い、多様な「変化」としてあらわれるということ以外の何ものでもない。細胞から文明まで「発達には、はじまりと、まわりと、変化ということ以上のことも以下のこともない」のだ。「evolution(進化)」のように、最初から予定されたことが内在されているわけでもなく、個と環境のどちらか一方によって規定されるわけでもなく、その2つが出会うことによって生じた「変化」しかない。
無限のアフォーダンスの集合する環境に、ぼくらは1つの身体としてではなく、多数の動きの集合としてであっている。長い時間で見れば、あらゆる環境と動物の行為は共に変化しており、共に変化するもの同士の間で新しい創造が行われているのだ。
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個人的には、茂木健一郎さんに感じる違和感への回答がここに在るような気がする。「クオリア」の実感をどう認識するかは興味深いのだけれど、それを感覚器官から神経系を通じて結局は脳内で統合するということを全体としてる茂木さんには、やはり身体を個々の機能の集合体として捉えているような違和感を感じるのだ。
それに比べてアフォーダンスの場合、仮に感覚器官がそれぞれの機能に分化したものだとしても、身体全体を1つの知覚システムとして扱うという姿勢がある。また「個」と「環境」という区分では、(物理的には正しいのだろうが)「知覚」「認識」というもの、あるいはそうした「知覚システム」を身体による「情報処理システム」として捉えた場合に、限界があるような気がするのだ。
とはいえ、このアフォーダンスが全てを解決できるのかというとそうではない。何故、生物には「種」という区分が存在するのか。個々の動物たちのありようが「個」と「環境」の出会いによる「変化」の結果だとすると、「種」という区分はなぜ生じたのか、あるいは「ヒト」が「ヒト」としての限界を越えて変化が生じないのは何故か、何が規定しているのか――こうした有機体の「制約」についてはまだまだ越えれない壁があるのだろう。
アフォーダンス入門――知性はどこに生まれるか/佐々木正人
「意識とはなにか―「私」を生成する脳」/茂木健一郎
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