作品がスタートした直後の映像を見るとかなり古い作品かと思ったけれど、製作は2006年。その年のスイスの観客動員数No.1にして2007年度アカデミー賞外国語映画賞受賞作品。オーソドックスなつくりの中に、自分の夢を実現するためには年齢は関係がないというメッセージと、インターネットという現代風のツールが練りこまれた良質な作品。ただ僕がこの作品で感じたことは日本と、資本主義社会の行く末だ。
【予告編】
マルタのやさしい刺繍
【あらすじ】
スイスの小さな村に住む80歳のマルタは、9ヶ月前に夫に先立たれて以来鬱々とした日々を送り、自分も早く夫のもとへ行きたいと願うようになっていた。ある日、昔得意だった裁縫仕事を依頼され、眠っていた創作意欲に火がつくまでは。若い頃、マルタは手刺繍のランジェリーの店を開くことを夢見ていたのだ。早速、親友リジーの手を借りて開店準備を進めるが、村人はハレンチな下着の店に眉をひそめるのだった。(「goo 映画」より)
【レビュー】
作品はオーソドックにして良質そのもの。地域共同体という閉鎖的な空間の中で、自分の長年の夢を実現させるための葛藤だったり、サポートしてくれる友人たちとの触れ合いだったりが描かれる。日本でも松雪泰子主演の「フラガール」などはこのテーマにあたるだろう。
ただしこの作品がそれとはちょっと違うのは、その夢を追うのが御歳80歳のおばあちゃん・マルタだということ。そのマルタが同じように決して「若い」とはいえない友人たちとともに、保守的な村社会の中で「ランジェリー・ショップ」を成功させていく。これからの日本が急速な高齢化社会を迎えようとしていることを考えると、単純なストーリーの良し悪しとは別に、日本にとってはなかなか興味深い作品だ。
マルタの置かれている村というのは、地縁血縁がまだ生きている地方都市で、「世間体」といったものに縛られている社会だ。そんな社会だからこそ、マルタは夫の言いつけに従い、若い頃にもっていた自らのランジェリーショップを開くという夢を諦める。そこにはランジェリーなど「ハレンチ」だとする村人たちの「偏見」があり、「世間体」を重視する心の「鎖」があった。
しかし夫が死んでしまったマルタにとっては、そうした鎖は意味を持たなくなる。もちろんきっかけは、夫が死にショックを受けているマルタを何とかしようと、リージが誘ったことだったが、一度はやめてしまった刺繍をするうちに、そうした鎖を忘れて、「夢」を実現することに「生きがい」を見つけ出す。
そしてそれはマルタだけではない。友人たちも「今までの自分」という鎖、「村のルール(世間体)」に従って生きていこうという鎖、行き詰まっている「人間関係」という鎖から解き放たれ、自らの人生をもう一度生きていこうとするのだ。
この作品が良質であることは認めたうえで、2つほど(ある面で矛盾しつつ)感じたことを。
1つは、インターネットを使うことで地域社会や高齢者の「再生」が可能になるということ、そしてもう1つは、こうした「個人」をベースとした「自己実現」とは正しいのだろうか、ということ。
改めて言うべきことでもないのだけれど「インターネット」は個人と世界を近づけるツールだ。世界中に出店しなくてもWEBサイト1つで世界を相手に商売できるし、何かを表現したいと思えば、BLOGもあればTwitterもある。YouTubeに投稿すれば世界の人に映像を公開することできるし、Ustreamを使えばライブ演奏を放送することもできる。自分で作ったアプリケーションをAppStoreで販売すれば何百万もDLされるかもしれない。
こうしたツールは、もし「何かをしたい」「何かを表現したい」と思ったときには可能性を大きく広げてくれる。マルタらのショップも村の中で販売するだけだったら存続さえも危ないところだし、通信販売を行うにしてもそれなりの投資が必要になる。しかしインターネットは手軽に世界を相手にすることを可能とし、こうした個性的な個人のSHOPに可能性を広げてくれる。
これは今後の日本、特に地方でも参考にできることだろう。小泉構造改革の結果、地方経済はポロボロになった。もちろんいずれは構造転換を果たさねばならなかったのだけれど、代替の産業を用意できないまま強硬的に行った結果、地方の経済は崩壊したといっても過言ではない。シャッターの閉まった商店街や年寄りしかいない町…
しかしこの映画が伝えるメッセージは、そうした街であっても、つまり地方という「距離」の差や年寄りという「年齢」の差があろうとも、アイデアや実力、やる気があれば、世界を相手にできるということだ。そういう意味でこれからの日本にとっては参考になると思う。確かに「マクドナルド」にはなれないかもしれないけれど、ONLY1の存在として認められることは可能なのだ。
もう1つは、そうはいってもそもそもこの「自己実現」という発想がこの資本主義社会・競争社会を加速させる思考方法の一部ではないかということ。
それまでマルタにいる世界は、「地域コミュニティ」として、良くも悪くも安定した社会だった。世間体に縛られて個人が輝けない社会だという批判は当然あるだろう。しかしそこには過度な競争にさらされていない安定した社会があり、紐帯が存在した。
マルタは一個人として輝くために、それら地域コミュニティの守っている文化やルールを破り、自らの自己実現を目指した。こうした「自己実現」という思考法・運動というのは、その地域コミュニティの中で自らの役割を見出す、知足安分、自らの現状に満足しベストを尽くすという発想とは異なり、あくまで自らの「欲望」に忠実であろうとする思考法だ。そこには未だ無いところに「目的」を定めそれに向かって働きかけるという「合理主義」的な運動、常にその欲望実現のために走り続けるという「資本主義」的な運動体と同様の思考法がある。
果してこうした運動を、「個人」として、80歳になっても続けなければならない社会というものは肯定されるべきなのだろうか。
個人として「自己実現」ができるということについては全く否定する気は無いのだけれど、結果として、それがあらゆる個人に対しても「競争」を強いる社会と同じ心根をもっているということに、戸惑いを感じてしまうのだ。
もちろんこの映画ではそうした要素に対して否定的な描き方はされていない。しかしこの作品が肯定的に描きだした姿が果してそのようにいいものかどうかは別問題だ。「自己実現」という個人の欲望を肯定することと、その与えられた環境に満足すること(知足安分)――この2つのどちらを重視することが果して本当の幸せなのか、そのことを考えさせられたのだ。
【評価】
総合:★★★★☆
リージの存在:★★★★★
革新性:★★☆☆☆
---
マルタのやさしい刺繍 [DVD]

地方に「夢」は存在するか - ビールを飲みながら考えてみた…
目的達成思考の限界とウサギから学ぶこと - ビールを飲みながら考えてみた…
【書評】成熟日本への進路――「成長論」から「分配論」へ / 波頭亮 - ビールを飲みながら考えてみた…
【予告編】
マルタのやさしい刺繍
【あらすじ】
スイスの小さな村に住む80歳のマルタは、9ヶ月前に夫に先立たれて以来鬱々とした日々を送り、自分も早く夫のもとへ行きたいと願うようになっていた。ある日、昔得意だった裁縫仕事を依頼され、眠っていた創作意欲に火がつくまでは。若い頃、マルタは手刺繍のランジェリーの店を開くことを夢見ていたのだ。早速、親友リジーの手を借りて開店準備を進めるが、村人はハレンチな下着の店に眉をひそめるのだった。(「goo 映画」より)
【レビュー】
作品はオーソドックにして良質そのもの。地域共同体という閉鎖的な空間の中で、自分の長年の夢を実現させるための葛藤だったり、サポートしてくれる友人たちとの触れ合いだったりが描かれる。日本でも松雪泰子主演の「フラガール」などはこのテーマにあたるだろう。
ただしこの作品がそれとはちょっと違うのは、その夢を追うのが御歳80歳のおばあちゃん・マルタだということ。そのマルタが同じように決して「若い」とはいえない友人たちとともに、保守的な村社会の中で「ランジェリー・ショップ」を成功させていく。これからの日本が急速な高齢化社会を迎えようとしていることを考えると、単純なストーリーの良し悪しとは別に、日本にとってはなかなか興味深い作品だ。
マルタの置かれている村というのは、地縁血縁がまだ生きている地方都市で、「世間体」といったものに縛られている社会だ。そんな社会だからこそ、マルタは夫の言いつけに従い、若い頃にもっていた自らのランジェリーショップを開くという夢を諦める。そこにはランジェリーなど「ハレンチ」だとする村人たちの「偏見」があり、「世間体」を重視する心の「鎖」があった。
しかし夫が死んでしまったマルタにとっては、そうした鎖は意味を持たなくなる。もちろんきっかけは、夫が死にショックを受けているマルタを何とかしようと、リージが誘ったことだったが、一度はやめてしまった刺繍をするうちに、そうした鎖を忘れて、「夢」を実現することに「生きがい」を見つけ出す。
そしてそれはマルタだけではない。友人たちも「今までの自分」という鎖、「村のルール(世間体)」に従って生きていこうという鎖、行き詰まっている「人間関係」という鎖から解き放たれ、自らの人生をもう一度生きていこうとするのだ。
この作品が良質であることは認めたうえで、2つほど(ある面で矛盾しつつ)感じたことを。
1つは、インターネットを使うことで地域社会や高齢者の「再生」が可能になるということ、そしてもう1つは、こうした「個人」をベースとした「自己実現」とは正しいのだろうか、ということ。
改めて言うべきことでもないのだけれど「インターネット」は個人と世界を近づけるツールだ。世界中に出店しなくてもWEBサイト1つで世界を相手に商売できるし、何かを表現したいと思えば、BLOGもあればTwitterもある。YouTubeに投稿すれば世界の人に映像を公開することできるし、Ustreamを使えばライブ演奏を放送することもできる。自分で作ったアプリケーションをAppStoreで販売すれば何百万もDLされるかもしれない。
こうしたツールは、もし「何かをしたい」「何かを表現したい」と思ったときには可能性を大きく広げてくれる。マルタらのショップも村の中で販売するだけだったら存続さえも危ないところだし、通信販売を行うにしてもそれなりの投資が必要になる。しかしインターネットは手軽に世界を相手にすることを可能とし、こうした個性的な個人のSHOPに可能性を広げてくれる。
これは今後の日本、特に地方でも参考にできることだろう。小泉構造改革の結果、地方経済はポロボロになった。もちろんいずれは構造転換を果たさねばならなかったのだけれど、代替の産業を用意できないまま強硬的に行った結果、地方の経済は崩壊したといっても過言ではない。シャッターの閉まった商店街や年寄りしかいない町…
しかしこの映画が伝えるメッセージは、そうした街であっても、つまり地方という「距離」の差や年寄りという「年齢」の差があろうとも、アイデアや実力、やる気があれば、世界を相手にできるということだ。そういう意味でこれからの日本にとっては参考になると思う。確かに「マクドナルド」にはなれないかもしれないけれど、ONLY1の存在として認められることは可能なのだ。
もう1つは、そうはいってもそもそもこの「自己実現」という発想がこの資本主義社会・競争社会を加速させる思考方法の一部ではないかということ。
それまでマルタにいる世界は、「地域コミュニティ」として、良くも悪くも安定した社会だった。世間体に縛られて個人が輝けない社会だという批判は当然あるだろう。しかしそこには過度な競争にさらされていない安定した社会があり、紐帯が存在した。
マルタは一個人として輝くために、それら地域コミュニティの守っている文化やルールを破り、自らの自己実現を目指した。こうした「自己実現」という思考法・運動というのは、その地域コミュニティの中で自らの役割を見出す、知足安分、自らの現状に満足しベストを尽くすという発想とは異なり、あくまで自らの「欲望」に忠実であろうとする思考法だ。そこには未だ無いところに「目的」を定めそれに向かって働きかけるという「合理主義」的な運動、常にその欲望実現のために走り続けるという「資本主義」的な運動体と同様の思考法がある。
果してこうした運動を、「個人」として、80歳になっても続けなければならない社会というものは肯定されるべきなのだろうか。
個人として「自己実現」ができるということについては全く否定する気は無いのだけれど、結果として、それがあらゆる個人に対しても「競争」を強いる社会と同じ心根をもっているということに、戸惑いを感じてしまうのだ。
もちろんこの映画ではそうした要素に対して否定的な描き方はされていない。しかしこの作品が肯定的に描きだした姿が果してそのようにいいものかどうかは別問題だ。「自己実現」という個人の欲望を肯定することと、その与えられた環境に満足すること(知足安分)――この2つのどちらを重視することが果して本当の幸せなのか、そのことを考えさせられたのだ。
【評価】
総合:★★★★☆
リージの存在:★★★★★
革新性:★★☆☆☆
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