タモリ論/樋口 毅宏
本書の冒頭、著者の処女小説「さらば雑司ヶ谷」で
タモリが小沢健二を褒めているくだりの引用がある。
この下りがオザケン好きの僕としては、こころくすぐらされて読み始めました。
四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わない人間、タモリ。
タモリを語る時、切っても切り離せないのが「いいとも」です。
本書はその「いいとも」の考察を含めて、たけし、さんまというお笑いBIG3との比較をへて、
タモリのタモリたる所以を述べる試みをしています。
正直、話があっちへいったりこっちへいったりと振り回される本書は
系統だったものではなく著者の個人的な感想が並べられた感がいなめない。
とはいえ目の付け所は、なるほどと言えます。
特にBIG3の比較が面白かったです。
たけしは、パクリ(オマージュ)の天才で、本当の「男」になろうとしている説。
さんまは、喋りの神であるとともに、タモリを超える絶望大王。この世で人を笑わせることほど素晴らしい職業はないと思っており、本当に笑わせたいのは自分である説など、なかなか素晴らしい視点でした。
僕がタモリをその達人のような才能を改めて認識したのは、
有名な赤塚不二夫の弔辞でした。
タモリを見出した師匠である赤塚不二夫の葬式でのこの弔辞は
タモリの達人・仙人っぷりに感動した人も多かったでしょう。
とくに弔辞の中で、僕が秀逸に感じたのは下記の部分。
あなたの考えは、全ての出来事存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい隠の世界から解放され、
軽やかになり、また時間は前後関係を立ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち「これでいいのだ」と
この弔辞を深く考えると、この「これでいいのだ」こそが
タモリの仙人・達人たる所以なのだと思えます。
そして、「これでいいのだ」と「いいとも」って、会話の対にもになっています。
ここまで考えて「いいとも」の名前が付けられたということはないと思いますが
(本書内ではこの「いいとも」の名前の由来が少し書かれていますが、
この「これでいいのだ」との考察はありませんでした)、
偶然にしても素晴らしいタイトルですね。
名は体を現わす。
すべてを肯定する、タモリと「いいとも」。
その生き方が興味深くなります。
本書の冒頭、著者の処女小説「さらば雑司ヶ谷」で
タモリが小沢健二を褒めているくだりの引用がある。
この下りがオザケン好きの僕としては、こころくすぐらされて読み始めました。
四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わない人間、タモリ。
タモリを語る時、切っても切り離せないのが「いいとも」です。
本書はその「いいとも」の考察を含めて、たけし、さんまというお笑いBIG3との比較をへて、
タモリのタモリたる所以を述べる試みをしています。
正直、話があっちへいったりこっちへいったりと振り回される本書は
系統だったものではなく著者の個人的な感想が並べられた感がいなめない。
とはいえ目の付け所は、なるほどと言えます。
特にBIG3の比較が面白かったです。
たけしは、パクリ(オマージュ)の天才で、本当の「男」になろうとしている説。
さんまは、喋りの神であるとともに、タモリを超える絶望大王。この世で人を笑わせることほど素晴らしい職業はないと思っており、本当に笑わせたいのは自分である説など、なかなか素晴らしい視点でした。
僕がタモリをその達人のような才能を改めて認識したのは、
有名な赤塚不二夫の弔辞でした。
タモリを見出した師匠である赤塚不二夫の葬式でのこの弔辞は
タモリの達人・仙人っぷりに感動した人も多かったでしょう。
とくに弔辞の中で、僕が秀逸に感じたのは下記の部分。
あなたの考えは、全ての出来事存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい隠の世界から解放され、
軽やかになり、また時間は前後関係を立ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち「これでいいのだ」と
この弔辞を深く考えると、この「これでいいのだ」こそが
タモリの仙人・達人たる所以なのだと思えます。
そして、「これでいいのだ」と「いいとも」って、会話の対にもになっています。
ここまで考えて「いいとも」の名前が付けられたということはないと思いますが
(本書内ではこの「いいとも」の名前の由来が少し書かれていますが、
この「これでいいのだ」との考察はありませんでした)、
偶然にしても素晴らしいタイトルですね。
名は体を現わす。
すべてを肯定する、タモリと「いいとも」。
その生き方が興味深くなります。