■「豊臣秀吉」は天正十六年(1588年)7月に「聖護院」の隠居寺「方広寺」の「大仏殿」を普請し、前田利家・利長父子が人足1万人を負担したと云う。「方広寺」は、その鐘の記銘の「国家安康」を巡って徳川家康が大阪城を攻撃したと言われ、この時に「聖護院」の院主は密かに江戸に呼び寄せられて毒殺されている。その為に、徳川政権は常に朝廷への圧迫と併せて聖護院派の全国二万の末寺へも圧迫を重ねたと云う。
■「延喜式内社赤丸浅井神社」には豊臣恩顧の加賀藩の崇敬が高く、「浅井神社」の額は「加賀藩第13代前田斉泰」の揮毫による。又、記録では、江戸初期には「三代前田利常」や「四代前田光高」等の書状も「赤丸浅井神社」の宝蔵に遺されていたと云う。
■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄53ケ村惣社」とされ、延喜の時代には国司が幣を奉じた神社で在り、この神社の神域が「後白河上皇」の「後院領 越中吉岡庄」の時には、「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が入寺して宮門跡となり、園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。南北朝時代には、幕府と戦う「後醍醐天皇」側には、これ等の全国の僧兵や悪人と呼ばれた国人領主達が味方して、越中、加賀、越前では「白山修験道」や「立山修験道」、「石動山」等の「僧兵」達や「神人」達が支援したと云う。
「聖護院」は、室町時代からは天台宗修験道の山伏を統轄した。南北朝時代末期に、「五位庄」と改名された足利家御糧所の「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派 川人山鞍馬寺」で在った。この寺は、三井寺で出家して熊野三山に34回も行幸された「後白河上皇」が定められた「熊野三山検校 近江国 三井寺」を頂点とする熊野三山信仰の本山派修験道で在った。
🔷【歴代聖護院門跡】(※本山派修験道聖護院派本山)
圓珍(814-891)
増命(843-927)
勢祐
智静(945-1008)(志紀氏)
最圓(988-1050)(藤原頼忠子(一説に藤原公任子))
静覚(1024-1083)(藤原教通四男)
増誉(1032-1116)(藤原経輔子)
増智(1078-1135)(藤原師実子)
■覚忠(1118-1177)(藤原忠通子)
【藤原忠通(摂関家長者)の兄弟に泰子(鳥羽天皇皇后)、藤原頼長(摂関家長者・左大臣で「越中吉岡庄の領主」、「保元の乱で殺害された。」)
■静恵法親王(1164-1203)(後白河天皇皇子)
【※「後白河上皇」は「保元の乱」以降「越中吉岡庄」の領主。園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。】
圓忠(1180-1234)(近衛基通子)
静忠(1190-1263)(近衛基通子)
■尊圓法親王(1207-1231)(後鳥羽天皇皇子)
【※「後鳥羽上皇」は「越中吉岡庄」の領主】
■深忠(1233-1268)(九条道家子)
【道家は鎌倉幕府将軍藤原頼経の父で小矢部市の宮嶋郷領主】
■覚恵法親王(1217-?)(順徳天皇皇子)
【※「越中吉岡庄」は後白河上皇以降、皇室庄園「後院領」】
覚助法親王(1250-1336)(後嵯峨天皇第十皇子)
忠助法親王(?-1290)(後嵯峨天皇皇子)
順助法親王(1279-1322)(亀山天皇皇子)
尊珍法親王(1306/7-?)(亀山天皇皇子)
恵助法親王(1289-1328)(伏見天皇皇子)
覚誉法親王(1320-1382)(花園天皇皇子)
仁誉法親王(1340-?)(恒明親王王子)
聖助法親王(?-?)(後光厳天皇皇子)
■静尊法親王(?-?)(後醍醐天皇第四皇子)
【※「後醍醐天皇」は「越中吉岡庄」の領主】
覚増法親王(1363-1390)(後光厳天皇皇子)
道意(1354/58-1429)(二条良基子)
満意(1376-1465)(二条良基子)
道興(1430-1527)(近衛房嗣子)
道應(1467-1510)(伏見宮貞常親王王子)
道増(1510-1551)(近衛尚通子)
道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
■義観(足利義教子)
【※「越中五位庄」は足利家御糧所から足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」の庄園に成った。】
興意法親王(1576-1620)(誠仁親王皇子)
《以下省略》
[■は「越中吉岡庄」~「越中五位庄」と関係が深い人物]
▶「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派修験道聖護院派 川人山鞍馬寺」と云う。その跡地は現在も「鞍馬寺村」の地名として残る。
■明治5年、明治維新政府は「修験道廃止令」を発布して、「修験道」の寺院に「天台宗」か「真言宗」に所属する様に指示した。しかし「赤丸浅井神社」の鞍馬寺別当「西宝院」は、寧ろ、還俗して、「延喜式内社赤丸浅井神社」を護持する為に「川人他治馬」と名乗って神官の道を取った。
この時に「川人山鞍馬寺」の建物の一部は「赤丸浅井神社」の拝殿として移築され、それまで使用されていた建物は、高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿として移設された。「諏訪神社」の社殿には、現在も「赤丸浅井神社」と同じ「菊紋」が付けられている。
【修験道廃止令】(※明治五年)
【越中吉岡庄】の記録
◆【兵範記】
◆【人車記】(※「近衛家文書」影印版)
【越中吉岡庄古絵図】(※「福岡町史」)
【国立歴史民俗博物館庄園データーベース】