赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🔹 【門跡寺院、本山派修験道 聖護院】と【延喜式内社赤丸浅井神社】⇒南朝の【後醍醐天皇】を支えた越中修験道の山伏勢力!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■「豊臣秀吉」は天正十六年(1588年)7月に「聖護院」の隠居寺「方広寺」の「大仏殿」を普請し、前田利家・利長父子が人足1万人を負担したと云う。「方広寺」は、その鐘の記銘の「国家安康」を巡って徳川家康が大阪城を攻撃したと言われ、この時に「聖護院」の院主は密かに江戸に呼び寄せられて毒殺されている。その為に、徳川政権は常に朝廷への圧迫と併せて聖護院派の全国二万の末寺へも圧迫を重ねたと云う。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」には豊臣恩顧の加賀藩の崇敬が高く、「浅井神社」の額は「加賀藩第13代前田斉泰」の揮毫による。又、記録では、江戸初期には「三代前田利常」や「四代前田光高」等の書状も「赤丸浅井神社」の宝蔵に遺されていたと云う。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄53ケ村惣社」とされ、延喜の時代には国司が幣を奉じた神社で在り、この神社の神域が「後白河上皇」の「後院領 越中吉岡庄」の時には、「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が入寺して宮門跡となり、園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。南北朝時代には、幕府と戦う「後醍醐天皇」側には、これ等の全国の僧兵や悪人と呼ばれた国人領主達が味方して、越中、加賀、越前では「白山修験道」や「立山修験道」、「石動山」等の「僧兵」達や「神人」達が支援したと云う。
「聖護院」は、室町時代からは天台宗修験道の山伏を統轄した。南北朝時代末期に、「五位庄」と改名された足利家御糧所の「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派 川人山鞍馬寺」で在った。この寺は、三井寺で出家して熊野三山に34回も行幸された「後白河上皇」が定められた「熊野三山検校 近江国 三井寺」を頂点とする熊野三山信仰の本山派修験道で在った。


🔷【歴代聖護院門跡】(※本山派修験道聖護院派本山)

圓珍(814-891)
増命(843-927)
勢祐
智静(945-1008)(志紀氏)
最圓(988-1050)(藤原頼忠子(一説に藤原公任子))
静覚(1024-1083)(藤原教通四男)
増誉(1032-1116)(藤原経輔子)
増智(1078-1135)(藤原師実子)
■覚忠(1118-1177)(藤原忠通子)
【藤原忠通(摂関家長者)の兄弟に泰子(鳥羽天皇皇后)、藤原頼長(摂関家長者・左大臣で「越中吉岡庄の領主」、「保元の乱で殺害された。」)

■静恵法親王(1164-1203)(後白河天皇皇子)
【※「後白河上皇」は「保元の乱」以降「越中吉岡庄」の領主。園城寺長吏・熊野三山別当職を兼ねた。】

圓忠(1180-1234)(近衛基通子)
静忠(1190-1263)(近衛基通子)
■尊圓法親王(1207-1231)(後鳥羽天皇皇子)
【※「後鳥羽上皇」は「越中吉岡庄」の領主】

■深忠(1233-1268)(九条道家子)
【道家は鎌倉幕府将軍藤原頼経の父で小矢部市の宮嶋郷領主】

■覚恵法親王(1217-?)(順徳天皇皇子)
【※「越中吉岡庄」は後白河上皇以降、皇室庄園「後院領」】

覚助法親王(1250-1336)(後嵯峨天皇第十皇子)
忠助法親王(?-1290)(後嵯峨天皇皇子)
順助法親王(1279-1322)(亀山天皇皇子)
尊珍法親王(1306/7-?)(亀山天皇皇子)
恵助法親王(1289-1328)(伏見天皇皇子)
覚誉法親王(1320-1382)(花園天皇皇子)
仁誉法親王(1340-?)(恒明親王王子)
聖助法親王(?-?)(後光厳天皇皇子)
■静尊法親王(?-?)(後醍醐天皇第四皇子)
【※「後醍醐天皇」は「越中吉岡庄」の領主】

覚増法親王(1363-1390)(後光厳天皇皇子)
道意(1354/58-1429)(二条良基子)
満意(1376-1465)(二条良基子)
道興(1430-1527)(近衛房嗣子)
道應(1467-1510)(伏見宮貞常親王王子)
道増(1510-1551)(近衛尚通子)
道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
■義観(足利義教子)
【※「越中五位庄」は足利家御糧所から足利家菩提寺の「相国寺」、「等持院」、「等持寺」の庄園に成った。】

興意法親王(1576-1620)(誠仁親王皇子)
《以下省略》
[■は「越中吉岡庄」~「越中五位庄」と関係が深い人物]

▶「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当は「聖護院派修験道聖護院派 川人山鞍馬寺」と云う。その跡地は現在も「鞍馬寺村」の地名として残る。













■明治5年、明治維新政府は「修験道廃止令」を発布して、「修験道」の寺院に「天台宗」か「真言宗」に所属する様に指示した。しかし「赤丸浅井神社」の鞍馬寺別当「西宝院」は、寧ろ、還俗して、「延喜式内社赤丸浅井神社」を護持する為に「川人他治馬」と名乗って神官の道を取った。
この時に「川人山鞍馬寺」の建物の一部は「赤丸浅井神社」の拝殿として移築され、それまで使用されていた建物は、高岡市羽広の「諏訪神社」の社殿として移設された。「諏訪神社」の社殿には、現在も「赤丸浅井神社」と同じ「菊紋」が付けられている。

【修験道廃止令】(※明治五年)



【越中吉岡庄】の記録
◆【兵範記】




◆【人車記】(※「近衛家文書」影印版)




【越中吉岡庄古絵図】(※「福岡町史」)


【国立歴史民俗博物館庄園データーベース】

🔴🔹本当の歴史🔹鎌倉幕府の正史【吾妻鏡】に掲載される「後院領 越中吉岡庄」⇒「吉岡庄地頭成佐不法」の頼朝の書状が残る「越中吉岡庄」赤丸・加茂地区 !!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「勧進帳」のモデルと成った「義経記」のシーンは「延喜式内社赤丸浅井神社」前で起こった


■「越中吉岡庄」を巡る源頼朝と後白河上皇との争いの記録が「吾妻鑑」に残る。



■平成26年に「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に「越中砺波郡吉岡庄」が正式に記載された ❗❗
(※従来は「新川郡」となっていたが、正式に訂正されている。)


■「後白河上皇」は「越中吉岡庄」を「蓮華王院(三十三間堂)」に寄進された。






■「兵範記」には「保元の乱」の後、敗れた藤原摂関家「藤原頼長」の庄園を「後白河上皇」の上皇領「後院領」とした記録が有る。北陸では「越中吉岡庄」「能登一青庄」が記載される。





■「吾妻鑑第六巻」
文治三年三月小二日甲辰。越中國吉岡庄地頭成佐不法等相累之間。早可令改替之由。經房卿奉書到來。仍則被献御請文。
 去月十九日御教書。今月二日到來。謹令拝見候畢。越中國吉岡庄地頭成佐事。任御定。早可令改定候。但彼庄未復本之間。御年貢不式數之由を。成佐申之候き。重相尋候而可令改他人候也。以此旨。可令洩達給候。頼朝恐々謹言。 三月二日
(現代文訳)
文治三年(一一八七年)三月小二日甲辰。越中国(富山県)吉岡庄(高岡市福岡町赤丸を中心とした後の五位庄の事。後白河法皇の荘園「後院領」であった。)の現地で年貢の取立人の地頭の吉岡成佐が、年貢の横取りなど不法な行為が度重なったので、早く罷免して入れ替えて欲しいと、吉田経房卿から(後白河法皇宛てに出された)奉書が届きました。そこで、(源頼朝が)直ぐにご返事を出されました。
 先月十九日のお手紙が、今月の二日に届きました。謹んで拝見いたしました。越中国吉岡庄の地頭の成佐につきましては、ご指示に従い、早々に入れ替える事にしましょう。但し、あの荘園は、未だに以前のようには田畑が回復していないので、例年通りに年貢が集らず納められないのだと、成佐が申しております。もう一度詳しく訪ねますが、地頭は他の人に変える事にしましょう。この内容で法皇にお伝え下さるように。頼朝が畏れながら申し上げます。 三月二日

(註)
※「後院領」とは天皇を退位した「上皇」の庄園の事で、政務は「院庁」の「後院司」が担当した。この庄園には守護の権限は及ばず、不輸不入の特権が有って、徴税実務を担当する地頭が置かれた。この庄園は「白河上皇」の時に確立したとも云われるが、古書に拠るともっと古くから実際には在った様で、「聖武天皇」の時にも「元正天皇」が上皇として君臨している。寄進系庄園として「越中吉岡庄」が登場するのは白河上皇が神田600余町を上賀茂、下鴨神社に寄進された時に「上賀茂神社」の庄園に成ったと云う。(※「百錬抄」)
※福岡町赤丸の城ケ平山の麓の福岡町加茂の吉岡谷には源頼朝配下の地頭「吉岡成佐」の居館や「吉岡東砦」・「西砦」があったと伝える。
※久安四年(一一四八年)、藤原摂関家長者と成った藤原頼長は父藤原忠実より庄十八か所を譲られる。この頃、越中吉岡庄(「赤丸浅井神社」を郷社とする高岡市福岡町・国吉・小矢部市の一部)も藤原頼長の荘園になったと思われる。
※久安六年(一一五〇年)藤原頼長は摂関家藤原氏の氏長者と成り、以後、氏寺法性寺での行事を執り行う。(赤丸の浅井城は藤原氏の石黒氏の居城)
※保元の乱に敗れた故左大臣藤原頼長領二十九か所は保元二年三月二十五日没官されて後白河上皇が上皇となった後の荘園「後院領」となる。(※「兵範記 保元二年三月二十九日」)
 この没官領には北陸では越中国吉岡庄と能登国一青庄(シトド・ヒトド)が有り、他には東北の陸奥国、出羽国に五か所有り、奥州の藤原基衡に管理させて金・馬・布等を徴収していた。越中吉岡庄と奥州藤原氏は藤原頼長の荘園という事からの繋がりも有り、後白河法皇が義経に頼朝追討の院宣を出した為に頼朝から追討されて奥州に逃れた時に赤丸を通過したのも、後白河院との関り、奥州藤原氏との関係があった為か?藤原頼長は源師俊の娘との間に兼長、源信雅の娘との間に師長を設けており源氏との繋がりも強い。
※「五位庄」は、「東寺百合文書」には南北朝末期に「御いしょう」、「おいのしょう」等の記載が在り、位田の「後院の庄」が転化したものと見られると云われる。室町時代にはこの庄園は「五位庄」と記載されている。加賀藩の記録「宝永誌」には後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた時に「五位庄」に改名されたと記されている。



■「吾妻鏡」に拠れば、源頼朝は 文治元年(1185年)乙巳九月義経が奥州へ亡命した為、全国に地頭を配置して探索を強化した。(この時を以て鎌倉幕府が成立したとされる。)任命された各地の地頭は横暴を極め、伊勢神宮や皇室領、各地の寺社領等での横領が続く。驚いた源頼朝はその都度、乱暴、横領を禁止するが効果が無い。遂に頼朝は以下の告示を出すが、横領は続き、「平家よりも悪辣」との声も上がる。

「吾妻鑑」『文治二年(1186年)六月小廿一日丁卯。爲搜尋求行家義經隱居所々。於畿内近國。被補守護地頭之處。其輩寄事於兵粮。譴責累日。万民爲之含愁訴。諸國依此事令凋弊云々。仍雖可被待義經左右。有人愁歟。諸國守護武士并地頭等早可停止。但於近國没官跡者。不可然之由。二品被申京都。以師中納言。可奏聞之旨。被付御書於廷尉公朝歸洛便宜。又因幡前司廣元爲使節所上洛也。爲天下澄。被下 院宣。
 糺断非道。又可停止武士濫行國々事
山城國 大和国 和泉国 河内国 攝津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 石見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国 若狹国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国 土佐国
 右件卅七ケ國々。被下 院宣。糺定武士濫行方々之僻事。可被直非道於正理也。但鎭西九ケ國者。師中納言殿〔經房〕御沙汰也。然者爲件御進止被鎭濫行。可被直僻事也。又於伊勢國者。住人挾梟悪之心。已發謀反了。而件餘黨。尚以逆心不直候也。仍爲警衛其輩。令補其替之地頭候也。 抑又國々守護武士。神社佛寺以下諸人領。不帶頼朝下文。無由緒任自由押領之由。尤所驚思給候也。於今者被下 院宣於彼國々。被停止武士濫行方々僻事。可被澄天下候也。凡不限伊勢國。謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。各悉此状。公事爲先。令執行其職候ハンハ。何事如之候乎。若其中ニ。不用本家之事。不勤國衙役。偏以令致不當候ハン輩ヲハ。随被仰下候。可令加其誡候也。就中。武士等之中ニハ。頼朝モ不給候ヘハ。不知及候之所ヲ。或号人之寄附。或以無由緒之事。令押領所々。其數多候之由承候。尤被下 院宣。先可被直如此之僻事候也。又縱爲謀反人之所帶。令補地頭之條。雖有由緒。可停止之由。於被仰下候所々者。随仰可令停止候也。 院宣爭違背候哉。以此趣。可令奏達給之由。可令申師中納言殿也。
文治二年六月廿一日 御判』

⇒※諸国の守護・地頭の権限を停止せよ。対象は越中、加賀、能登等の37カ国である。但し、没官した土地は除く。後白河上皇は院近臣の吉田經房卿を通じて武士の乱行を停止せよと命じられた。くれぐれも院宣に背く事が無い様に!

しかし、この示達にも関わらず、文治三年(一一八七年)三月には遂に後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」でも「吉岡庄の地頭成佐」の不法(年貢の未納)が起こる。この不法、横領、乱暴は新しい地頭だけでは無く、頼朝の後家人と云われた畠山重忠等の重臣も不法を行い、逮捕されている。

「吾妻鑑」『文治三年(1187年)六月小廿九日己亥。雜色正光爲御使。帶御書。赴伊勢國。是當國沼田御厨者。畠山二郎重忠所領地頭職也。而重忠眼代内別當眞正令追捕員部大領家綱所從等宅。没収資財之間。家綱差進神人等令訴申。仍爲被糺行其科也。又正光寄事於御使。於現濫行者。加誡可言上子細之趣。被仰遣山城介久兼〔在彼國云々〕。』
⇒※畠山重忠の代官が伊勢国沼田御厨で横領している事が告発された。

「吾妻鑑」『文治三年(1187年)九月小廿七日乙丑。畠山二郎重忠爲囚人被召預千葉新介胤正。是依代官眞正之奸曲。太神宮神人長家強訴申故也。代官所行不知子細之由。雖謝申之。可被収公所領四箇所云々。 』
⇒※畠山重忠は伊勢神宮の神官の「長家」から訴えられて逮捕され、千葉新介胤正に預け置かれた。

■江戸時代の「義経記」の挿絵には「延喜式内社赤丸浅井神社」と見られる神社も記載されている。


「赤丸浅井神社」は庄園領主の「後白河上皇」の皇子が初代門跡となられた山伏の当山派「聖護院」の末寺の「川人山鞍馬寺」を別当とした。「弁慶」の衣裳は聖護院派山伏の衣裳で在り、白い房が付いている。


■高岡市福岡町赤丸の「赤丸浅井神社」を「郷社」とした古代庄園は、「白河上皇」の時に京都の「上賀茂神社」の庄園と成り、南北朝末期の「長慶天皇」の時代と室町幕府「足利義政」の時代の二度に亘り京都の「下鴨神社」(※「賀茂御祖神社」)の庄園と成った。





■現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」の「秋季大祭」にはこの神社の御弊を戴いた獅子舞が各戸を廻る。




■高岡市では「義経記」の「五位(如意)の渡し」で起こった「勧進帳」のシーンは、「近くに守護の館の近ければ」と云う表現から、この場所は高岡市守護町の近くの伏木河口だとしているが、元々、法王の所領の「後院領吉岡庄」には守護は配置されず、「院庁」が担当しており、地頭についても上記の「吾妻鏡」の記載では停止されている。この事からしてもこの守護町が義経記の「守護の館」とは全く関係が無い事が分かる。「守護町」に守護館が設けられたのは室町時代に斯波氏が一時期、越中を統治した時代の事で在り、「森田柿園」は「越中志徴」の中で「鎌倉時代に守護館が在った」と記載した為に、当時の「佐藤高岡市長」や「高岡市教育委員会」は「義経記」の「守護の館が近ければ」と言う一節を引いて、【「義経記」の五位庄二位の渡しでの弁慶が義経を打擲した事件は「高岡市守護町(※二上庄)近くの守山の渡し」での出来事】と歪曲して小矢部川河口に「勧進帳」の原点として巨大な義経、弁慶の銅像を建て佐藤高岡市長が銘版を造って、「観光地」として渡し舟を運営する一海運会社専務の申し出に協力した。この銅像は2017年に再び公費を入れて伏木駅前に設置された。これは無知な高岡市教育委員会が行った「高岡市の歴史の偽造」で在り、公的機関が公費を用いて一私企業の為に行った愚行で在る。腐敗した高岡市議会はこの愚行に誰も異議を挟まず、正に「高岡市ぐるみで歴史を偽造」している。この事は単に歴史を歪曲しただけで無く、誰もが知る「義経記」を高岡市長や教育委員会、高岡市議会、有力企業幹部、地元民等が一切、読んでいないと云う事をさらけ出しており、高岡市の教育レベルの評価を落とす。又、この様に「まやかし」で「歴史都市」を唱える事は「高岡市の民度の低さ」と「倫理性」が無い事を自ら公表している事にもなり、更には詐欺的な商法に組みする事になる。

実際には、この事件は「吉岡庄」(※室町時代から五位庄)の「赤丸浅井神社」前に在った「二位の渡し」での事件で在り、「如意の城」とは「赤丸浅井城」の事で在り、「義経記」の小学館版、岩波文庫版等でも「如意の城とは五位の城」の事と解説している。「二位の渡し」とは「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」に「元正天皇の二宮御創建」と記載されている為で在り、この人物は「万葉集」にも「石川朝臣広成」として登場する聖武天皇の義弟で文武天皇の二宮の事で在る。
(※「義経記」で「守護の館」と表現したのは地頭吉岡館か古城の「赤丸浅井城」を指したと見られる。)






■往古、小矢部川は西山の麓を流れて赤丸浅井神社前で庄川と合流して巨大な「阿古淵」を形成していたと云う。(※吾子ケ淵⇒元正天皇は親代わりをしてその親王達を「吾子 アコ」と呼んだ。)後の「五位の渡し」はその名残と云われる。(※赤丸向野新村)
























🔴🎌【古代の歴史を伝える五位庄赤丸村】 [延喜式内社赤丸浅井神社]の祭神「八河江比賈神」・「高皇産霊神」・「天照皇大神」!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村












・古代から南北朝末期迄続いた「賀茂御祖神社」、「藤原摂関家」、「後白河上皇~後醍醐天皇」の庄園【越中吉岡庄】、「室町幕府直轄粮所越中五位庄」として続いた富山県西部の「赤丸村」には、「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座する。この神社は、「五位庄五十三ヶ村惣社」とされ、「国吉郷、五位庄赤丸村、(小矢部市)宮島郷」迄含む広大な地域の代表神社とされた。(※「惣社」は「代表する神社」の意)







■【古代から続く赤丸浅井神社】
「延喜式内社赤丸浅井神社」には、現在は多くの祭神を祀っているが、富山県神社庁の「富山県神社誌」では「社伝では孝昭天皇の御宇、祖神「八河江比賣神」を水害の鎮防、用水の豊富を祈って祀ったとあるが、清水山の麓、飲用水と灌漑水の守護神として、山体そのものを浅井の神と崇め、祖神に出雲系の神である「八河江比賣神」を配したと思われる。養老元年二ノ宮(※元正天皇の二宮石川朝臣広成⇒実は文武天皇の二宮)が社殿を御造営、初穂の主史を置かれた。「行基」・「泰澄」が相前後して境内に草庵を結んで奉仕し、神仏混交、本地垂迹説も導入された。古事記によれば「八河江比賣神」の本名は「葦那陀迦神」であるということからサンスクリット語の意味から武神の「毘沙門天」が配され、その垂迹神として「高皇産霊神」が祭神に見えてくるようになった。」と記載されている。「葦那陀迦神」は近江では、近江浅井(東浅井郡虎姫町中野)の矢合神社にも祀られている。矢合神社の由緒書にも「水辺を司る」と出ている。
【「葦那陀迦神」(アシナダカノカミ)は、日本神話に登場する女神で、古事記では「大国主命」の孫の「国忍富神」の妻として登場する。亦の名を「八河江比売」という。「葦な高」は葦の丈が高い様を表し、「邪気払いの力を持つ葦が繁栄する事」を意味し、「国力の繁栄を象徴する」と云う。
近江国の「矢川神社」では『諸芸上達・諸願成就の神』とされ、「矢合神社」では『葦が生じ易い水辺を司る神』とされる。

■「伊勢神宮外宮」の神官家の「度会延経」は、その著作の「神名帳考証」で、「延喜式内社赤丸浅井神社」を取り上げ、「浅井とは浅井神社在れば成り」として、元々、この神社は赤丸村の「浅井谷」に祀られた近江の古代氏族「浅井氏」の神を祀ったものだろうと指摘している。
元々、越中利波(砺波)郡の郡司一族の「利波臣」は、その先祖を福井県敦賀市の「敦賀臣」と同族とされており、「赤丸浅井神社」の祭神で在る、出雲の「大国主命」の息子の嫁に当たる「八河江比売神」は、福井県敦賀市等の福井県嶺南地方から近江の琵琶湖周辺に栄えた古代氏族「浅井氏」と密接な神で在ったと見られる。




















■平成五年、「越中五位庄赤丸村舞谷前田島遺跡」から発掘された大量の「古代銭」!!











かつて、【総持寺】(※高岡市関町)が在った【観音寺遺跡】の背後に在る【赤丸村前田島遺跡】からは「600年代」頃の「開元通宝」1300枚等、大量の「古代銭」が高岡市教育委員会によって発掘されている。

◆2005年の高岡市教育委員会による福岡町埋蔵文化財調査に拠ると、現在、高岡のあいのかぜ鉄道(元のJR)高岡駅南の瑞龍寺の傍に在る「衆徳山総持寺」が当初設立されたと云われる赤丸の「観音堂遺跡」の山地の麓に広がる前田島と云う地域には「前田島遺跡」が広がり、その調査では過去に莫大な「宋銭」等の古銭が発掘されていた。中には「開元通宝」という600年代の中国の古銭も大量に発掘されている。
総持寺は1402年(応永9年頃)に高岡のへ移転したと地元の伝承では伝わるが(実際には、この時期に小矢部川河口の六渡寺村に移ったと見られる。)、この莫大な古銭の中には、空海が唐から仏舎利等を持ち帰った時代から、丁度総持寺が高岡へ移転した時期までの間の長期間の古銭が発見されている。総持寺へは、大阪の南朝の行宮で空海が修業した「河内金剛寺」から「国指定重要文化財の千手観音像」が伝来したと云われ、唐銭はこの時期の日唐貿易の際にもたらされているし、その後の宋銭」は「平清盛」が主導した日宋貿易の際に我が国にもたらされている。「義経」が五位庄を経由して奥州に逃れた時、「勧進帳」・「安宅の関」で有名な場面の原点とも云われる五位庄「二位の渡し」で検問したのは「平権の守」と「義経記」に記されており、平家の武将が守っていたと記されている。
(※この時の平家は頼朝配下の秩父平氏の中山氏か? 源頼朝に任命された別の平家か? 赤丸浅井神社の別当「川人山鞍馬寺」に伝わる「三社誌」には、室町時代の「五位庄」の官吏の中に【権守】が記載される。)

■■「五位庄」が「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」の時、「平清盛」が「後白河上皇」に寄進した蓮華王院の三十三間堂に「後白河上皇」は「吉岡庄」の収穫物を寄進されたと云う。「吉岡庄」は平家ともこの時期密接だった訳で、後白河上皇も深く千手観音を信仰し、平清盛が寄進した三十三間堂には1001体の千手観音像を祀らせている。


🔻《※吉岡庄の国吉名には平家の武将「越中次郎兵衛(平家物語に登場する前司平盛嗣)」の居館が在ったと伝わる。》








◆この莫大な古銭は総持寺が高岡に逃れた時に埋めたものか?
又、この山並の「鍛治屋町島」に在ったとされる『宇多国光』を初めとする『宇多刀工』達の畜銭で在ったのだろうか?
総持寺が高岡に逃れた後も、その墓地や持宮の熊野社は赤丸に残り、住職が毎年お参りしていたと伝わる。吉岡庄はその後、足利幕府の時代に金閣寺で有名な「相国寺」(金閣寺、銀閣寺は共に相国寺の塔頭寺院)に「足利義満」により寄進されている。「赤丸浅井神社」に伝わる「総持寺由緒」には「応永年間、後小松天皇の頃に高岡市の現在地に移転した」とされており、「後小松天皇の時代」と言えば「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」が追われて福岡町一歩二歩に移転してその後を鞍馬寺の一坊の「西宝院(※後の川人家)」が継いだとされ、「足利義満」が室の業子の追善の為に「五位庄」を「相国寺」に寄進して、「能登守護畠山満家」や「越中蜷川氏」の「蜷川新右エ門親当」が政所代として砺波郡を統治した時期に合致する。現在、浄土真宗井波別院に「客仏」として祀られている元赤丸村に在った鞍馬寺の本尊とされる大きな仏像は「後小松天皇所縁の仏像」と伝えられている。又、「一休さん」に「蜷川新右エ門」と共に登場する「一休和尚」は「後小松天皇の子」とされ、正に「五位庄」はこの時期に激変した事が分かる。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」の開基は「行基」とされ、その後「泰澄」が山岳修験道を導入し、一三〇〇年代に後醍醐天皇の二宮(八番目の皇子として八宮とも云う)「宗良親王」が仏閣の造営をされたと思われる。
(金沢・高岡の極楽寺、氷見市南大町の西念寺等も宗良親王の開基と伝える)
「泰澄」は越前の出身で、白山を開いたと云われ、白山から福光、小矢部、赤丸、石動山の西山一帯には泰澄伝説が残っている。「泰澄」は「元正天皇」の為に祈祷したとも伝わり、『延喜式神名帳』には
【浅井神社 越中国砺波郡鎮座】
【由緒】養老元年(七一七年)【社殿】本殿流造、幣殿・拝殿」と有る。江戸時代は五位庄五十三村総社「川人権現」・「三社権現」と称していた 。
「富山県西砺波郡紀要」には「往昔、本堂、講堂、護摩堂、神輿堂、等所謂七堂伽藍の構造にて東坊、玉蔵坊、観念坊、寶仙坊、宥坎坊、玄皆坊、寶池坊、の七坊有り。総称して川人山鞍馬寺とせり。社頭に掲ぐる額面は旧加越能三州の太守前田齊恭(加賀藩十三代藩主)の染筆に係る。」と記載され、最盛期には浅井神社48坊として48の寺院が周辺に集積していたと伝わる。
更に「富山県神社誌」では「当初は四十八坊有ったが、南朝の衰退により七坊になり、天正八年社殿寺坊烏有に帰し、七坊も亦四散し、東坊がひとり、焼跡に草社を結び奉仕を続けた。明治維新後、知識引は停止、神仏分離で東坊は復飾、社格制定に際して村社に列せられたが明治十四年郷社に昇格。明治三十二年末社十三社を合祀した。」とも記載されている。赤丸の浅井神社周辺に在ったという寺院(花尾含む)としては、総持寺、極楽寺、西大寺、聖安寺、性宗寺(浄光寺)、長善寺、宗泉寺(明見寺)、長安寺、善宗寺、法筵寺、天景寺、長光寺、西宝院(東坊)、永賢寺、超願寺等が有り、又、加賀藩の富田景周は「三州誌故墟考」で「元正帝養老元年同帝ノ二宮御下向此ニ在城シ川人山鞍馬寺ヲ建立ス 加茂 山王 八幡ノ三社ヲ勸請シ別ニ又毘沙門天ノ一社ヲ安置アリ 今ノ赤丸ノ鞍馬寺即チ其旧地ト云フ」と記載しており、「川人山三社記」では「熊野社を十一面大士とし、八幡、清水、加茂、山王、天王の六社の御勸請」としている。更に加茂社は上加茂社と下加茂社の2社が勧請され、赤丸浅井神社では宗良親王が詠まれ、著作の「李花集」に掲載の「かぞふれば七とせもへぬ頼みこし ななの社のかけをはなれて」の歌は赤丸に親王が滞在された時の歌としている。赤丸浅井神社は当初は小矢部川が赤丸浅井神社の前で庄川と合流していた為、水神の「八河江比賣神」を祭神としたが、空海の思想を受けた「両部神道」が浸透するにつれ熊野信仰が浸透したものとみられる。

◆熊野御前三神殿の神仏は、
・天之御中主神 伊勢 (大日如来)
・高皇産靈神 住吉 (聖観音)
・神皇産靈神  出雲 (阿弥陀如来)
だが、本地垂迹説による熊野十二所権現の神名と仏・菩薩は
(三所権現)
イザナミ命(千手観音)
イザナギ命(薬師如来)
クニトコタチ命(阿弥陀如来)
(五所王子)
アマテラス大神(十一面観音)
アメノオシホミミ命(地蔵菩薩)
ニニギ命(竜樹菩薩)
ヒコホホデミ命(如意輪観音)
ウガヤフキアエズ命(聖観音)
(四所明神)
クニサツチ命(普賢菩薩)①トヨクムヌ命(文殊菩薩)②の何れかが選ばれる。
ウイジニ命(釈迦如来)
オオトノジ命(不動明王)
オモダル命(毘沙門天)
と多くなり、更に白山信仰では、白山三社権現として ・御前峰 本地仏 十一面観音・別山 聖観音・大汝峰 阿弥陀如来 と増える。又、高岡の二上山には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀るが、瓊瓊杵は大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘の豊吾田津姫(木花咲耶姫)を娶った神で有り、大山祇も木花咲耶姫も浅井神社に祀られており、二上神は雄神で浅井神は女神という関係で同時期に行基により開基されたものか?
二上射水神社と赤丸浅井神社の双方に毘沙門天を祀る別当寺も在った。現在の赤丸浅井神社にはの神社が合祀されて以下の神々を祀っている。

●浅井神社管理の宮
・愛宕社 赤丸村古谷五四〇二(古村)
祭神 軻愚突智命
・清水社 赤丸村古谷五三六三(古村)
祭神 大巳貴命    清水山鎮座
●浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 向野新村字石名田八一八番
     赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
祭神 天照大御神
・八幡社 赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
祭神 誉田別尊
・熊野社 赤丸村古谷五〇三一(古村)
祭神 伊弉諾命
・天満社 赤丸村子吉三八七三(古村)
祭神 菅原道真
・諏訪社 赤丸村縄田二五一七(川原)
     赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
 祭神 健御名方命
・庚能社 赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
祭神 金山彦命
・庚能社 赤丸村古谷五二七五(古村)
祭神 金山媛命
・日吉社 赤丸村勝負田一四五四(古村)
     赤丸村山王四三九八(古村)
祭神 大山咋命
・富士社 赤丸村山王四五〇六(古村)
 祭神 木花咲夜比売命
・白山社 赤丸村古谷四八三八(古村)
祭神 白山媛命
(※「舞谷村の昔むかし」参照)

■『延喜式内社赤丸浅井神社』に祀られる「八河江比賈神」と共に祭神とする「高皇産霊神」は、皇室八神の中の主要な神であり、大伴氏の氏神でもある。熊野信仰と併せて越中には大伴家持等の大伴氏の所在が確認され、その一族の佐伯氏が立山を開き、今も富山県には大伴氏や佐伯氏が多く残る事から、赤丸浅井神社には国守の大伴氏の神を祀った可能性も有る。「高皇産霊神」は天界から地上に神を下す際に指令を出した神と「日本書紀」に記載されている。尚、赤丸浅井神社の御神体は謎に包まれているが、その昔、赤丸浅井神社の前で小矢部川と庄川が合流し「阿古ケ淵」という淵が有ったが、そこに流れ着いた岩が御神体と云われている。「高皇産霊神」が降神する「依代 ヨリシロ」は「岩」であるとされ、この岩こそが御神体を示すものと考えられていたものか?
伊勢神道の主神である「天照大御神」は皇室を象徴する神として後に赤丸浅井神社に祀られ、神明社は各地の開発地に祀られていたものだ。





🔴 📃 伊勢の「度合神道」に記録される「国造本紀」と越中(※高志国)の古代氏族。⇒皇室、伊勢神宮と高志国の菅笠文化!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「延喜式神名帳」と[度合延経]の「神名帳考証」に見える「延喜式内社赤丸浅井神社」と
「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳 著)の「国造本紀」の記載!



■「延喜式神名帳」記載の「越中」の延喜式内社。


■「神名帳考証」(※度合延経)記載の「延喜式内社赤丸浅井神社」




■江戸時代の学者・神官の「度合延経」は「神名帳考証」の中で滋賀県の琵琶湖周辺に祀られる矢合神社が「八河江比売」を祀っている事から、この「浅井」は琵琶湖周辺に繁栄した近江の浅井氏との関連を仄めかしている。一方、古代姓氏研究の宝賀氏の関係されている古代氏族研究会の発表の中に【・物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族。奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。】と記載されており、近江浅井氏は物部氏とされている。高岡市の東海老坂には「延喜式内社物部神社」が在り、物部氏族菅家党の末裔の加賀前田家はこの物部神社を金沢に勘請して、氷見の阿尾城に在った神明社と併せて金沢市高岡町に「尾山神社」として祀っている。
又、この記載の物部氏についての記載の中に「岩坪」や「中島」、「赤尾」と言う氏族名が見られる。高岡市の国吉校下には「岩坪」と云う地域が在り、「国吉小史」等でも古くから栄えた集落らしく、岩坪の集落の中に古い「舘跡」とされる場所が今も残されている。又、赤丸村には「赤尾」と言う一族が在り、国吉村には古くからの名家とされる「中島庄官家」が残されている。更に、国吉から石堤、赤丸村にかけては数多くの「中島家」がある。古書には「浅井とは浅井神社在ればなり」と記載されており、延喜式神名帳には「アサイノ アサイジンジャ 」とフリカナが付けられている。と云う事からすると、古代には赤丸清水山の麓の谷間に「浅井一族」が住み、或いは「浅井」と言う地名で在ったと見られる。赤丸浅井城城主中山氏の末裔である性宗寺住職に拠ると、「元々、浅井神社がある浅井谷の入口に木の大きな柱を二本建てて、自然の神を祀ったのが始めで在り、それが後に「鳥居」になった」と説明されている。古い「赤丸浅井神社の鳥居」は二本の柱を支える支え木が付けられており、コレが元々の両部神道の鳥居で在ったと云う。浅井神社は「元正天皇二宮創建」と伝わるが、実際にはそれ以前の古い時代から在った神社であると「浅井神社由緒」は伝えている。

■又、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」はその系図では【越中石黒氏は元々は藤原氏で在ったがその後、加賀の林氏(藤原氏)と縁組して、更に越中の古代氏族の「利波臣」の名跡を継いだ】事が系図から読み取れる。
「利波臣」は系図からすると「蘇我氏」の家系の「射水臣同族」とされたり、「古事記」では「高志利波臣」の末裔とされたりしてい
伊勢神宮外宮の豊受皇太神宮の神官「度合延佳」の著作「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、「射水臣」の祖は「蘇我氏」とされている。
【※伊弥頭国造 イミズノクニツコ⇒志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に宗我同祖の建内足尼の孫の大河音足尼を国造に定める】(※足尼=宿弥)

又、「高志国造 コシノクニツコ」については「屋主田心命の三世孫市入命」を祖とすると云う。「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」の子孫とされているが、「国造本紀」では全く別の氏族を祖とすると云う。
★「彦屋主田心命 ヒコヤヌシタココロノミコト」は「北陸道将軍大彦命の子」・「彦背立大稲輿命の子」。「伊賀臣」、「阿閉間人臣」、「道公」等の祖。
⇒越中で「彦屋主田心命」を祭神とする神社
・道神社 富山県射水市作道1846
・中川熊野神社 富山県高岡市中川本町7-3











■「国造本紀」には「高志深江臣」が記載されている。
現在、大阪市深江の笠縫村に大和国から移り住んだ氏族が在り、この氏族は「天皇祭祀」や伊勢神宮の「式年遷宮」等で使用される「菅の御笠」を縫う事ができる一族で在り、以前は菅の生産も行っていたが、近年は菅の生産は富山県高岡市福岡町一帯でしか生産されず「無形重要文化財」にも指定されており、一帯で生産された「菅」が大阪市の深江に送られてそこで菅笠に縫製して皇室や伊勢神宮に奉納されている。
「高志国」に「高志深江臣」が古代氏族として存在した事から、元々は菅笠は「高志国」から奉納されていたものだろうか?
大阪市東成区深江の「深江稲荷神社」(大阪市 東成区深江南)には、「深江は 笠縫氏の居住地で大和の笠縫邑から移住してきた」と伝えられる。



■元々は「高志国」で在った福井県からは「継体天皇」も輩出している事から、古代から「高志国」と天皇家、伊勢神道には深い繋がりが在ったものだうか?
越中の菅笠は「伊勢国から越中五位庄に移り住んだ大野源作」等が伝えたと言われるが、「菅」は古くから北陸の湖沼や河川敷に自生していた事から、「菅笠」の生産はもっと古い時代から生産されていたものではないだろうか?

▼「大野源作」の子孫の「大野次平」は加賀藩時代に五位庄赤丸村の小矢部川河川敷に移住して「向野新村」を開拓し、その地域は「次平島」と呼ばれ、向野新村に残るその子孫は25代目で在ると言う。

🔷💧 「物部氏論考」⇒ 『越中』に残る物部氏族 (※『古代氏族系譜集成』より)

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■軍事氏族で天皇家と密接な「物部氏」と「神剣」の製作。
「大和国宇陀郡」から来たとされる「宇多刀工」が栄えた「越中吉岡庄」。
(※宇陀郡には神武天皇が入られたと云う。)
「越中吉岡庄」には出雲系の神「八河江比売」と皇室の最高神「正一位 高皇産霊神」を祀った「延喜式内社赤丸浅井神社」が鎮座している。


神武天皇が東征の時に、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった逸話は有名。
(※「日本書紀」)

■日本国の人皇初代神武天皇は、即位前には「神日本磐余彦尊」( カムヤマトイワレヒコノミコト)と云われた。磐余彦尊は東に緑の国がありそこを得たいと思われたが、既に「饒速日命」がそこに入っていた。磐余彦尊は幾度戦っても戦況は思わしくなかった。そこで、天照大御神は武甕槌神と相談して霊剣(布都御魂)を熊野の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手に進軍を再開したが、山路は険しく困難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏(ヤタガラス)を送り道案内とされた。 磐余彦は八咫烏に案内されて、莵田(宇多)の地に入った。磐余彦の前には八十梟帥(ヤソタケル)等の敵軍が充満して進路を阻む。磐余彦は高皇産霊尊が夢枕で指示した様に勝利を祈願した。遂に長髄彦との決戦となり苦戦する。そこへ鵄が現れて磐余彦の弓の先に止まり電撃の様な金色の光を発した為、長髄彦の軍は混乱し磐余彦に敗れた。そこで饒速日命は長髄彦を殺して磐余彦に降伏した。


【※「赤丸浅井神社」は神々を地上に遣わされた皇室の最高神「正一位 高皇産霊尊」を祭神とする。「赤丸浅井神社」を中心とする「越中吉岡庄」は藤原摂関家の長者「藤原頼長」の庄園であった。赤丸村領鍛治屋町島には「宇多国光」(※本国は大和。 宇陀郡より赤丸村鍛治屋町島に移住。古入道という。刀剣は「古宇多」と云う。) を祖とする「宇多派刀工」が工房を構え、南北朝から江戸時代迄栄えたと云う。「宇多刀工」や日本刀は刀鍛冶の祖の「天国アマノクニ」が「八咫烏神社」が鎮座する大和国宇陀郡の神泉で刀を鍛えた事が「日本刀の始まり」とされ、「刀剣の製作」は神事と密接な歴史を持っている。「大和国宇陀郡」と「吉岡庄」の繋がりは何か? 富山市の松倉郷を拠点とした「郷義弘」は宇多国光、正宗に教えを受けたと云う。】




■『古代氏族系譜集成』は国税局勤務の宝賀寿男氏が記された大著である。
加賀藩の「前田利家」が「物部神社」を崇敬し、「金沢尾山神社」は元、高岡市海老坂に在った「物部神社」を勘請した神社で、前田家の氏神として祀り、物部守屋の子孫、野見宿彌、菅原道真の子孫の物部氏であるとされる事から、「物部系図」に記載された事を要約して検討してみたい。

▼「加賀藩士松島家文書」に拠ると、「前田利家」は当初、「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、続いて最後は「物部一族」の末裔で在る「菅原」を名乗ったと記されている。



■「物部氏族」は、神武天皇の前に大和に入った「饒速日命ニギハヤヒノミコト」の後裔である。神武東征時に「饒速日命」の子の「可美眞手命」が「長髓彦ナガスネヒコ」を誅殺して「神武天皇」に帰順したと云う。この功績で物部氏族は大和朝廷の初めから重きをなし、崇神天皇朝前後には幾人かの后妃を出す迄になる。「饒速日命」の系譜は『姓氏録』では「天神部」に収められる。
「物部氏族」ではその始祖「饒速日命」は「天押穂耳命アメノオシホノミコト」の子であると云う。物部系図に在る尾張氏族系譜では「天火明命」が「尾張氏族の祖」とされる。又、「饒速日命」の十四世孫からは「尾治連」と名乗り、「物部氏の祖先」とされる「宇摩志麻治命」はその一族で、十八世孫で在る。更に、この「宇摩志麻治命」の十一世孫には【物部鍛冶師連公】が記載されており「物部氏」が刀剣製作の始まりで在った事を窺わせている。

【※「古語拾遺」に物部氏の遠祖の逸話がある。
神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の「日臣命」(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。「賀茂縣主」(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので「菟田(ウタ)」の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。】

■「饒速日命」は「天忍穂耳命」の子で、「瓊々杵命ニニギノミコト」の兄弟で邪馬台の王家の祖「天火明命」の近い親族であったと考える。谷川健一氏は「物部氏」と「少彦名神」を祖とする「鳥取部」との近縁性や「物部・鳥取部」共に優れた鍛冶技術を持つと指摘する。「少彦名神」が出雲の「大穴持命オオアナムジノミコト」(※大国主命)の国造りに協力したと「紀記」等に見え、この兄弟が出雲で活動したと『出雲国風土記』に見える。「熊野大神」を奉斎した「出雲国造」も同じ「天目一箇命」の後裔ではないか。「天目一箇命」(※天太玉命)は或いは兄弟とされた「少彦名神」かも知れないし、「山代国造」の祖の「伊岐志邇保命」は筑紫の「大己貴命」の子で「天津彦根命」にあたるのか?

■「饒速日命」は畿内の河内国河内郡の地に入り、後に大和国鳥見白庭山(磯城郡)に遷ったと云う。その子「可美眞手命」とその正統は大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)に居て穂積姓となり、「孝元天皇」~「成務天皇」期に后妃を輩出した。「穂」は稲の穂にもみられるが鍛冶部族の「火(ホ)」にも通じる事から、「天忍穂耳命」や「天火明命」、「五十研丹穂命」という遠祖の名に使用される。「饒速日命」が大和入りした時に「天物部」を率いており、崇神朝頃に分岐した支族の「物部連」がその軍事・刑罰という職掌から次第に強大化し、履中天皇朝の「伊弗」、雄略天皇朝の「目」など大連の位につく者を輩出した為に「物部氏族」と呼ばれることになる。「物部」とは、鈴木真年氏が「品物ヲ作ル也」と記しており、『旧事本紀』の「天神本紀」には二田物部・当麻物部・芹田物部・鳥見物部・横田物部など二十五物部が記される。(この「物部」自体が物部氏族とは限らない)
物部連の本拠は物部守屋大連の頃は河内国渋川郡だが、初期以来、大和国山辺郡の穂積郷・石上郷(天理市中央部の前栽町から布留町にかけての一帯)が同様以上に重要な地であった。古式土師器とされる布留式土器を出した「布留遺跡」(天理市布留町・三島町等一帯)は、古墳時代までの複合遺跡であり、物部氏族に関係するものとみられ、その近隣に同氏族奉斎の「石上神宮」や一族の墳墓もある。「布留遺跡」よりも古い「唐古・鍵遺跡」は穂積郷に近く、ここが物部氏族初期の居地とみられる。(★「物部氏」の後衛に埴輪を考えた「土師氏」がいる。)

■「蘇我馬子」が編集したとされる「先代旧事紀」に拠ると、越中国新川郡の「大新川連ダイニイカワノムラジ」は「物部一族の祖」だとされている。









■「物部氏族」の出自は極めて難解で、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕と共に奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有する)から検討したが、遠祖の「天目一箇命」・「少彦名神」兄弟の母は、「海神族綿積豊玉彦命」の姉妹、「豊玉媛」(高比売)であり、「饒速日命」の母は「足浜目門比売命」とみられ、「足浜は葦浜」の意で「猿田彦神」(豊玉彦命の子)の姉妹ではないか?

近江国浅井郡に居を構えた物部姓守屋流と称した古代豪族浅井氏が在る。
[★赤丸浅井神社の祭神は「葦那陀迦神 (アシナダカノカミ )」⇒ 「大国主神」の妹。大国主神の孫の「国忍富神」と結婚して「速甕之多気佐波夜遅奴美神」(ハヤミカノタケサバヤジヌミノカミ)を生んだ。
【古事記】「葦那陀迦神」=八河江比賣 、八河江比売= 八河沼比賣(ヤカワヌナヒメ)]⇒物部氏との関係は不明だが、「神名帳考証」[出口(度会)延経著]に拠れば「浅井神社とは浅井の神在ればなり」と記され、行基の所縁の琵琶湖近くの「矢合神社」の祭神であるとしている。
北陸使(北陸道将軍)の「大彦命」は阿倍氏、東海使の「武渟川別命」は大彦命の息子でつまり阿倍氏、西道(山陽)使の「吉備津彦命」は吉備氏、丹波(山陰)使の「丹波道主命」は息長氏と、みんな海人系の有力豪族である。赤丸村の「浅井神社」を開いたとされる「行基」も百済系、高志国の高志氏、和邇氏、海神族とされる。⇒(※行基の墓誌に「本姓は高志氏」と記載されている。)
一方、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」の祖の「利波臣」は「古事記」では「高志利波臣」とされ、物部氏が妃を輩出したとされる「孝元天皇」を祖とするとされる。「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの「浅井城」の守護神だったとされる。
(※「孝霊天皇」を祖とするとする系図もある。)

■「浅井神社由緒」に拠れば、「浅井神社」は第五代孝昭天皇の時に「八河江比売神」を祭神に祀って創建されたとされ、「浅井とは浅井神社在ればなり」と伝わり、物部氏族の近江国の浅井氏の信仰する「大国主命」の孫の妻の女神を祭神として創建されたと云う。神社の建つ場所は「浅井谷」と呼ばれ、「赤丸村」に成る前は「浅井」と呼ばれた地域で在ったと伝える古書も在る。「赤丸浅井城」は越中石黒氏が「赤丸浅井神社」を信仰して、「浅井神社」から「浅井城」と名付けたとされる事から、この祭神や浅井神社の創建には、「越中石黒氏」の祖の古代氏族「利波臣」の影響が色濃く反映している様だ。
(※「蘇我馬子」が聖徳太子の編纂された書籍を校正して作成したと伝わる「先代旧事紀」では、「物部一族」の歴史が事細かく記載されており、物部氏族は歴代の天皇の中宮を輩出して皇室とも密接な一族で在った事から物部氏についての記載が中心に成っている。「旧事紀」には、「聖徳太子」の妻が「蘇我馬子」の娘で在り、蘇我氏→聖徳太子→物部氏の関係が背景に在ったと見られる。その中でも高志の中つ国と呼ばれた越中国の「新川郡」の祖の「大新川連」が「物部氏族の祖」で在ると記載される事は注目される点だ。)

■物部氏族は初期から極めて多数の支族に分かれ諸国に繁衍し、物部八十氏とも百八十氏とも云う。本宗家は垂仁天皇朝に「物部連」姓を賜ったと伝える「十市根命」後裔。
諸国の国造家として熊野国造(紀伊国牟婁郡熊野)、三河国造(三河)、遠淡海国造(遠江)、久努国造(遠江国山名郡久努郷)、珠流河国造(駿河)、久自国造(常陸国久慈郡)、三野後国造(美濃)等相当多くある。(※「先代旧事紀」の中の第十巻「国造本紀」参照)

・「三野後国造」は「三野前国造」と共に「三野国造」とされており、三野前国造と三野後国造とは、別系統に見えても遠祖は同じとみられる。三野前国造は伊勢の安濃県造同族で、三野後国造は物部氏族ではないか?
⇒「越中五位庄総社赤丸浅井神社」の域内の高岡市福岡町には「三乃郷」が在ったとされ、現在は「上簑、下簑」と呼び、鎮守社の「三乃神社」が鎮座している。

・ 駿河、遠江、三(参)河の物部氏系という国造については、参河・珠流河国造は共に「三野後国造」の支流ではないかとみられ、遠江の二国造家も参駿両国造と同系か和邇氏族かで水神性が濃い。伊予の「小市国造」も水神性が強く、珠流河国造と三野後国造の一族とみられる。これらは御井神(木股神)を奉斎し、その式内社が三野では各務郡(奉斎者は村国連か)、多芸郡(同、物部多芸連か)に鎮座する。

・物部氏では、用明天皇薨去後に排仏派の物部守屋大連は蘇我氏に敗れて大きく衰えたが、「壬申の乱」(※672年、天智天皇の子、大友皇子と皇弟大海皇子「→天武天皇」の戦い)後に勢力をかなり回復して、奈良朝以降の本宗家となった石上朝臣氏では左大臣麻呂、大納言宅嗣などの高官を輩出した。それも長くは続かず、平安期に入って衰えた。(※物部一族は「丁未の乱:587年」で蘇我馬子に滅ぼされた。)
中世以降の中央の官人では、支族の中原朝臣姓の押小路家が地下筆頭として存続し、同姓で医家の官人もあった。武家では、「熊野神人」出の「鈴木一族」(穂積臣後裔)、「熊野国造後裔氏族」、伊予の「河野・越智一族」(小市国造後裔)、武蔵の「児玉党」(久自国造後裔)、長門の「厚東一族」などが繁衍している。また、伊予の「越智支族」から出た「橘遠保」が「藤原純友追討」に活躍したが、この一族は「橘朝臣姓」を冒称し、武家橘氏として諸国に繁衍した。

■物部氏族から派生した姓氏。
【畿内地方】穂積臣(録・左京。[鈴木]-紀伊国牟婁郡の熊野大神神人より起り、紀州名草郡藤白の鈴木を宗家として、三河、尾張、駿河、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、越中等多くの地域に分岐。特に三河では繁衍し、賀茂郡の矢並・足助・酒呑・則定・寺部・九久平・小原、碧海郡竹村などに分居し、江戸期には旗本に多い。[亀井]-紀州亀井村住、分れて出雲に遷り武家華族。雑賀、[戸野]-紀州人。[井出]〔井手〕、[山村]-駿河国富士郡人、越前福井の歌人橘曙覧の家人[もと正玄、のち井手] 、[出井]、[乙種]-駿河人。[吉田]、[荻]-三州人。[井谷]-遠州人。[木原]-遠江国山名郡木原邑より起る。[鳥居]、[神倉]、[常住]-熊野人。[土居]、[今城]、[得能]-伊予国宇和郡人で熊野鈴木一族の流れ、熊野の榎本一族か。[白玖]-讃岐国多度郡大麻神社祠官。なお、大和国十市郡の保津は族裔か。同吉野郡の芋瀬〔妹背〕、[梅本]は穂積姓というも、真偽不明)、穂積朝臣(録・左京。[百谷]、[宇倍]、[広岡]-因幡国法美郡人、ただし系図には疑問があって、実際には因幡古族伊福部臣の末か)、穂積部(美濃)、穂積(木積-河内国石切剱箭神社祠官)。
釆女朝臣(録・右京。[梅木]-大和国春日神人、一に紀姓。南都居住の伊狭川も同族か。なお、大和の都祁水分社神主の[釆部〔栄部〕]は族裔か)、釆女造、釆女連、釆宿祢。

物部連、石上朝臣(録・左京。[藁科]-駿河国安倍郡藁科より起る)、物部朝臣([堤]、[中山]、[北]、[島]、[岸田]、[菅田]、[西川]、[多田]、[豊井]、[布留川]、[上田]、[乾]、[西]、[薮]、[南]、[中]、[東]、[森]、[巽]、[別所]、[豊田]、[福智][堂]-大和国山辺郡の石上神宮祠官一族)、 石上大朝臣、 榎井連(朴井連)、 榎井朝臣、 春世宿祢(この改姓の榎井朝臣もある)、 弓削連([芦田]、[枝吉]-播磨人)、
弓削宿祢(録・左京。[稲生]-伊勢国奄芸郡の稲生明神神主。[多湖]、[星合]、[和田]、[伊能]-稲生同族。[蟹江]-尾張人。[重藤]-豊前国田川郡人。[弓削]、[山崎]-遠江国佐野郡弓削庄の人)、 弓削朝臣、弓削御浄朝臣(御清朝臣)、 物部弓削連([荻生]、[上野]、[平岩]、[長坂]、[都筑]、[勝]、[竹矢]-三河人、なお系図には疑問もある) 、今木連(録・山城。[今木]-和泉人)、屋形連、錦部首(録・[山城])、 河上朝臣、 葛野県主、葛野連(録・左京。葛野大連も同じか)、
中臣部、中臣葛野連(録・[山城])、 秦忌寸(録・[山城])、 秦宿祢([松尾]、[東]、[南]([葛野]-山城人)、 高岳首(録・[和泉]。丹後国与謝郡の[高岡]は族裔かという)、神野入洲連、 依羅連(依網連。録・左京、右京)、 物部依羅連(録・[河内])、 網部(録・[和泉])、 柴垣連(録・左京)、 積組連、積組造(録・[河内])、 小軽馬連(小軽間連)、軽馬連(借馬連、軽間連。[賀留]-大和国高市郡人)
曽根連録・左京、右京、[和泉]。[曽根]、[樋口]-大和国川合村広瀬神主、祢宜)、 曽根造、曽根宿祢、椋部(阿波国那賀郡人)、 椋椅部連(録・摂津未定雑姓。[倉橋]-摂州豊島郡人。また、摂州武庫郡の瓦林〔河原林〕は族裔か、称[菅原また平、藤原姓]、倉橋部宿祢、倉橋部朝臣)、 高橋連(録・右京、[山城]、[河内]。[堀内]-紀伊国直川庄高橋社司)、 高橋宿祢、 立野連、立野宿祢([立野-大和国平群郡人。大嶋-京官人で右馬寮、もと津田と称。近衛家侍の立野も同族か)、 桜島連(横度の改姓、大和国添上郡)、桜島宿祢、葛井連、伊勢荒比田連、小田連、縣使首(録・大和)。立野首(大和国城下郡鏡作郷)も同族か。肩野連(交野連。録・右京。河内国交野郡片野神社祠官の養父・[松尾氏]は族裔か、物部後裔と伝う)、 物部肩野連(録・左京)、 良棟宿祢([片野]-河内国交野郡人で後に常陸に遷住、称藤原姓)、
宇治連、宇治部連(宇遅部連。録・[河内]、[和泉])、 宇治山守連(録・[山城])、 宇治部、宇遅部直、宇治宿祢(録・[山城]。宇治-山城国宇治郡人。[石井]-京官人で九条家諸大夫、山城国紀伊郡石井より起る。城州久世郡の槇島〔真木島〕も族裔か、称藤原姓)、 柏原連(録・左京)。なお、大和国葛上郡の柏原造も同族か。
刈田首、刈田連、 鳥部連、 依羅田部連、 韓国連(辛国連。録・[和泉])、 高原連(同上の賜姓。[高原]、[土師]-備前国邑久郡片山日子神社祠官。河内-下野国人。泉州和泉郡唐国保の刀禰職横山氏は族裔か)、 物部韓国連(録・[摂津])、水間君(水間-大和国添上郡東山村水間より起る)、 水間宿祢。 文嶋連、 須佐連、 巫部連(録・[山城]、[和泉])、巫部宿祢(録・右京、[摂津]。[後藤]、[萬代]、[辻]-和泉国人)、当世宿祢。
大友-相模の藤原姓近藤能直が中原親能の養嗣となり、豊後で大いに繁衍、源姓とも称。大友一族には、[戸次]、[鵜本]、[片賀瀬]、[立花]、[野津原]、[志賀]、[朝倉]、[下郡]、[鶴見]、[久保]、[得永〔徳永〕]、[駒木根]、[吉岡]、[小田原]、[築井〔津久井〕]、[立石]、[清田]、[松岡]、[小川]等-以上の大友一族は藤原姓に改め、豊後国及びその周辺に住。[竹中]-豊後住、なお美濃の竹中半兵衛家はこの流れと称するも、別族か、その一族に[四宮]。[利根]-大友同族、豊後住、分れて上野に住。[日田]、[津江]、[矢野]、[平野]-豊後国日田郡人、日田郡司家跡を襲う。詫摩〔詫磨〕-肥後国託麻郡人、一族に[井上]、[平井]、[板井]、[平田]。[日並]-宗形神社祠官、称源姓。門司-豊前国企救郡人、吉原]-備後国御調郡人。 [本郷]-若狭国大飯郡の大族、称村上源氏。[田井]-紀伊人。また、筑後国三瀦郡の[堤]は、大友支流と称するが、疑問大。この堤の一族には[大石]、[高木]、[内田]、[藤崎]など。
・香宗我部-甲斐からの遷住で、土佐国香美郡に住んで甲斐とも号。甲斐源氏出自は仮冒として、大中臣(大仲臣)姓ともいうから、本来中原とは別族か。 土佐の香宗我部一族には、[甲斐]、[中山田]、[門田]、[中山]、[喜多]、[造手]、[松岡]、[岩原]、[水谷]、[青井]、[倉町]、[山本]、[倉橋]、[笠原]、[立山]、[西山]など。なお、同郡韮生郷に起り楠目城に拠った土佐七雄の一、[山田氏]は、香宗我部氏の初期の分岐というが中間の歴代が不明で、土佐古族の色彩もある。
・[甕]〔母台、母田井、茂田井〕-信濃国佐久郡住。丸子〔円子〕-同国小県郡人、同上族。 [樋口]、[今井]、[落合]-信濃国木曽より起る、甕以下は同族で本来信濃の古族の末か。 下野宇都宮配下の[今井氏]は兼平の後裔で、[滋野]姓を称した。

・[由比]-筑前国志摩郡人。一族に[河辺]、[飯]、[重富]及び早良郡の[弥永]。志摩郡の称源姓の[泊]、[松隈]も同族か。これらはおそらく筑紫国造同族の末流か。なお、建保・建武頃の筑前住吉社神官に権大宮司中原朝臣が見える)。

阿刀連、中臣習宜朝臣(摺宜朝臣。録・右京)、習宜連(中臣習宜連)、中臣熊凝連、中臣熊凝朝臣(録・右京)、熊凝朝臣、栗栖連(録・河内)、物部首(録・河内、山城未定雑姓)、日下部(録・河内)


■諸国の物部氏族
物部一族は諸国に広く分布するが、特に紀伊の熊野国造、伊予の小千(越智)国造及び常陸の久自国造の流れが各々の領域を中心にに大繁衍し、中世の有力武士団を出した。

①熊野国造の流れ⇒熊野直、熊野連(録・山城。和田-紀伊国那賀郡和田村人、中世称橘姓、熊野八庄司の一なり、河内にも住。竹坊、尾崎、河井〔河合〕、深山、大谷、堤、岩代、音無〔音无〕、宇原木、小池-熊野社家。曽根-熊野社家、又上野国碓日に分。宮脇、大熊-讃岐国香川郡十河に住。片山-讃岐人。鳥居、真砂、日高、津田、篠崎、大屋、関地-紀州人。稲熊-三河国宝飯郡竹谷神社祠官。熊野の本宮社家の竹内、壱岐、新宮社家の羽山なども熊野国造の族裔か関係者か。
愛洲(会洲、愛須)は紀伊志摩伊勢などに勢力を持ち、紀伊の一族に久留栖、三木、湯川、武田、川、別所、上(宇恵)、幸徳、波沙、坂本、尾喜など、また土佐の御本、武田、浜田(その末裔に田中光顕伯爵家も出す)などを出した。これら諸氏は、甲斐源氏の武田一族(奈古氏からなど諸説ある)の出と称したが、疑問大。紀伊古族の出は確かであるが、真年翁のいう熊野連姓かあるいは尾張氏族系の熊野古氏族の出かとみられ、後者の可能性もかなり強い(その場合、姓氏は湯母竹田連か)。
湯川(湯河)は熊野八庄司の一で、紀伊国牟婁郡道湯川に起り日高郡に拠る中世の大族、一族に大畑、沢、能城、天野、内川、日足、愛川、小松原など。熊野本宮祠官の坂本は右坐などにあり、尾治姓の坂本氏を継いだというが、本来、両者は同族か。また、越後の城氏の後と称した牟婁郡の松本・鬼ヶ城は、おそらく湯川の支流か。
楠木〔楠〕-熊野社家にあり、また河内に住み紀州に分れ、称橘朝臣姓。橋本-紀伊国伊都郡橋本村住人。高名-和泉国和泉郡人。大田-伊勢国安濃郡人。池田-摂津国池田に住、本来紀朝臣姓の家を継ぐ者を出す、ただし更に紀姓の人が相続ともいう。この池田一族には、摂津の荒牧、河辺、堀内、毛馬、辻、大塚、辰巳、山脇など。大饗-摂津人。神宮寺-河内国大県郡神宮寺村住人。佐備、石川、甲斐庄、隅屋〔須屋〕、野村-河内人。相郷-紀州人。則岡-紀州有田郡人。小南〔木南〕-紀州海部郡人。芋川-信濃国水内郡人。梶川-尾張人。奥田-伊賀人。数原〔須原〕-近江人。打越〔内越〕-出羽国由利郡人。賀茂-美濃国賀茂郡に起り、遠江国敷智郡に遷。杉本-丹波人。野口-駿河人。神岐-美濃人。山地〔山路〕-讃岐国豊田郡人、山地子爵家を出す。大塚-紀伊国牟婁郡に起り、駿河に分る。木俣〔木全〕-伊勢人、おそらく員弁郡の猪名部造族裔か。このほか、楠木一族の出と称する諸氏が多くあり疑問を留保しつつ挙げると、和泉の池樋・武、備前の楢村、伊勢の久間木や楠瀬など)、熊野朝臣、相賀直。
なお、牟婁郡居住で熊野新宮祠官の熊野部(高倉下後裔の熊野部千代包の後と称す)も同族か。この一族のうち、石垣は熊野にあったが、鵜殿は三河国宝飯郡にも展開した。紀伊の堅田連(堅田-紀伊国牟婁郡人)も熊野国造一族の出か(または尾張古氏族系か)。

②小市国造の流れ⇒越智直(小市直。録・左京。新居〔仁井〕-伊予新居郡人、称橘朝臣姓。橘、矢野、徳永、高部、金子、真名部〔真鍋〕、今井-同上族。北之川〔岐他川〕-伊予国宇和郡人、称紀朝臣姓で、また越智朝臣とも称。隣国阿波にも進出して、那東郡人に新居、古津、池田、高市が見える。 越智宿祢(越智朝臣姓の称も見えるが、これは私称か。河野-伊予人で、風早郡に起り同国に繁衍して一族甚だ多し、同族が土佐阿波等や京官人にもあり。久留嶋〔来嶋〕-予州野間郡来島に起る武家華族、もと村上といい、一族の能島・因島とともに海賊衆。正岡-伊予国風早郡の高縄神社祠官。稲葉、一柳-ともに美濃人で武家華族だが、系譜仮冒の疑いが大で、その場合は美濃古族の後か。林-美濃人。このほか伊予には一族きわめて多く、越智、高市、吾河、井門、石井、浅生、夏目、江上、萱戸、御谷、新居、拝志、吉田、井出、大野、寺町、弘田、児島、高井、浮穴、田窪、白石、遠藤、埴生〔垣生〕、浅海、周布、難波江、高尾、志津川、北条、久萬、石崎、松岡、得能、曽我部、免取、辻、大高、南、土居、小倉、神宮寺、宮田、合田、大瀬、今井、重見、木原、尾原、大井、今岡、野間、沖、井尾、久保、別府、戒能、片山、久保、黒川、井川、壬生川、福角、大内、出淵、仙波、池内、桑原、別宮、砂田、石田、青木、東条、日吉、松木、堺、一城、河内、和田、石川、平岡、富岡、久枝、柏谷等-伊予の河野同族。境田-日向諸県郡真幸院の天満宮大宮司。三島-日向薩摩人、三島子爵家を出す。小嵜-肥前国神崎郡人。福良-淡路の三原郡人。安芸国佐伯郡能美島の能美、山野井も河野同族と称。窪川-土佐国高岡郡仁井田五社祠官。新居、東、西-高岡郡の窪川一族。寺林-陸奥稗貫郡人。河上-下野人。
高橋〔のち三島〕-伊予国大三嶋の大山祇神社大祝家。鳥生、今治、島山、庄林、弥熊、大井、神野、山本、宮脇-三島大祝同族。また、藤原姓を称する忽那島の忽那、吉木氏も実際には河野一族。百々-近江国坂田郡人、一に橘姓、また宇多源氏京極支流と称。釜谷-伊賀国名張神戸司で伊勢神宮祠官。古森-大和国宇陀神戸司で伊勢神宮祠官、この二流の伊勢神宮祠官の家については系統不明。京官人でも、蓮華光院門跡坊官の榎本、二条家諸大夫の河野は越智姓と称)。出部直、伊豆部造。

③久自国造の流れ⇒大部造(常陸国久慈郡稲村神社祠官の高根は末裔か)、大部首(録・和泉未定雑姓)、大部宿祢。
有道宿祢(武蔵七党の一、児玉党を出したが、児玉郡を本拠に武蔵北部から上野国西部にかけて繁衍した。児玉-武蔵から分れて安芸国豊田郡にもあり、毛利氏重臣で一族から明治華族を出す。本庄〔本荘〕-児玉党より出て丹波に分れた家もあり、武家華族。奥平-上州甘楽郡人、なお三河国設楽郡奥平に起る武家華族奥平氏とその一族の和田・奥山などは、本来これとは別系で三河古族和邇部の裔か。
庄〔荘〕-武蔵国児玉郡人、分れて備中にあり、後掲。四方田-武蔵国児玉郡人、分れて陸奥加美郡に住し河内四頭の一。大滝、具下塚〔久下塚〕、北堀、本荘、牧西、若水〔若泉〕、小河原、宮田、蛭河、今居〔今井〕、長岡、小見野、粟生田、越生、宿谷、山崎、高坂、平児玉、秩父、与嶋、吉田、竹沢、稲嶋、柏嶋〔イ、狛嶋〕、新屋、眞下、御名、小河原、山越、木西、桜沢、吾那、志村、大淵、溝上-以上は武蔵人。大塚-武蔵に起り、出羽国置賜郡長井荘に分る。
小幡-上野国甘楽郡人で、戦国期の大族。その一族に、熊井戸、長根。小中山、大河原、多子、倉賀野、片山、大浜、鳥方、白倉、矢嶋、吉嶋、山名、嶋名、牧野、富野、大類、後閑、成嶋、反町、栗栖-以上は上野人。堀籠-上野国安蘇郡人。小代-武蔵国入西郡小代郷人、肥後に分れて繁衍。増永、倉満〔蔵満〕、荒尾、一分、中分、猿渡、片山-肥後国玉名郡の小代一族。荘、穂井田〔穂田〕、津々、福井、若林-備中国下道郡を中心に住。植木-荘一族で、同国英賀郡人。三雲、中条-近江人。若松-伊勢人。
武蔵国荏原郡に起る目黒氏は、児玉党とも畠山一族の出ともいい、源姓を称。陸奥伊具郡、出雲国飯石郡に分る。多久和-同一族で、雲州飯石郡人)。
白髪部造、白髪部連、眞髪部造(録・山城。原田-常陸国鹿嶋神人、久慈郡稲村神社祠官にもあり、伊達家臣の原田もこの一族か。神館〔上館〕、布田-同鹿嶋神人)、若湯坐造、若湯坐連(録・河内)、若湯坐宿祢(録・左京、摂津)。

④その他諸国物部氏族⇒畿内周辺の近江、伊勢、紀伊、三河、遠江、常陸、山陰の因幡、石見、長門、山陽の美作、四国の伊予、北九州などに、この氏族と族裔諸氏が濃密である。

物部宿祢(浅井-近江国浅井郡人、この同族は藤原姓あるいは橘姓と称するもの多く、本姓は物部とみられるが不明点も多い。脇坂-同州浅井郡脇坂庄より起る、武家華族。大野木、三田村、赤尾、田屋、礒谷、今木、山本-近江の浅井一族
奥村-尾張人で赤尾同族。小堀-近江国坂田郡小堀村より起る。川瀬-近江国犬上郡人。なお、浅井家臣の八田、岩橋、岩田、岩坪、脇坂、 中島、浅井、木村の諸氏は、祭祀関係からみて同族だった可能性がある)、物部浄志朝臣、中原朝臣(物部宿祢改姓)。江州栗太郡の物部には、勝部、玉岡、千代(姓氏不明で、物部玉岡宿祢姓というが疑問あり)。
【※赤丸村に赤尾・山本、木村姓有り。近くに岩坪村有り。浅井神社の“浅井”との関係?】

・物部連(厚東-周防国玖珂郷の物部連末流、長門国厚狭郡より起る。白松、木村、原、富永、河副、吉部、池、宇賀-長門の厚東一族。秋吉-同国美祢郡住。屋富〔弥富〕-同豊浦郡住。矢原-同吉敷郡住。世良-備後の厚東一族。以上は厚東同族で周防国人。飯田、倉見-遠江人。また、物部朝臣姓という厚狭郡の末富も、厚東一族か)。

・新家連(新家-伊勢国度会郡人、又三河に分る。徳田、今井-伊勢人)、新家宿祢(野田、新谷-河内国丹比郡人)、多芸連、多芸宿祢、猪名部造(録・左京)、春澄朝臣(古田-美濃国本巣郡住で称藤原姓、員弁郡に起る)、春澄宿祢。

・藤原恒見君、長田川合君(金子-石見国安濃郡川合村物部神社神主、明治に叙男爵、称物部姓。長田、川合-同社祠官。井原〔庵原〕、雲井〔雲居〕-石州邑智郡人。寺井-石州那賀郡人、以上は金子一族)。
【赤丸村浅井神社の辺りは古代の「川合郷」→川合が転化した「川人」は浅井神社の神官】

・風早直(風速直)
・信太連(根本、[朝日]-常陸国信太郡人。古徳-同那珂郡人。[菅谷]、信太、[福田]-信太郡人、称紀姓。宍倉-新治郡人で菅谷の族。田土部-同国筑波郡人で信太庄司の一族。篠崎-同筑波郡人、称藤原姓。鴨志田-信太郡に起り久慈郡に居住、平将門後裔と称)、物部志太連(浮島、木幡-常陸国信太郡人)、匝瑳連(下総国匝瑳郡。なお、武蔵国葛飾郡の匝瑳氏は族裔か)、匝瑳宿祢。
【五位庄に福田郷有り。池田姓多し。→物部氏?紀姓? 紀伊国造族の物部連?】

・伊福部臣(気吹部臣)、伊福部宿祢(伊福部、安田、池淵-因幡国法美郡の宇倍神社祠官。宮石-同国気多郡板井神社祠官)。因幡国高草郡の郡領置始臣は同族か。伯耆国日野郡楽々福神社旧神主の入沢・名沢〔那沢〕氏は、大矢口宿祢を同祖とし、物部姓という。日野郡の楽々福明神奉斎に関与した三吉、田辺や芦立〔蘆立〕も同族か。

・物部鏡連、物部文連(安芸-土佐国安芸郡の大族)。ともに土佐国香美郡に見えるが、同郡大忍庄山川村の領主・石舟明神祢宜で物部姓の物辺、末延氏は族裔か。同郡の八木、山川、清遠氏も物部姓。これら土佐の物部一族は物部同族の安芸国造の流れか。紀伊国造族の物部連と称した香美郡の延崎〔信崎〕も同族。土佐国香美・安芸両郡の称宗我部・惟宗朝臣・橘朝臣姓の諸氏(安芸一族、安岡一族)の殆どが物部文連・物部鏡連の同族とみられるが、便宜上、宗我部にあげる。香美郡の夜須もこれらの同族。

また、系統不明だが物部伊勢連もある。志摩の物部は、的矢〔的屋〕といい伊雑神戸総検校職。

■美濃の三野国造とその一族の流れとみられる三河国造(三河)、珠流河国造(駿河)は本来、饒速日命系物部氏族として微妙な違和感もないでもないが、ここに掲げる。同じく海神族系かともみられる遠江の遠淡海国造、久努国造も同様に記す(この両者は、和邇氏族系の色彩もあって、その可能性もある)。
・村国連(美濃国各務郡村国郷より起る大族)、村国奥連、物部射園連(同国厚見郡)。片県連(同国方県郡より起る)は同族か六人部連の族か。ほかに、彦坐王関係に掲げた三野国造を参照の事。

参河直、三河宿祢(永見-三河国碧海郡知立神主。同郡の重原氏も同族か)、 長谷部造(録・大和)、物部(大給〔荻生〕-三河国加茂郡人、のち松平の猶子に入り武家華族。平岩、長坂、弓削-三河碧海郡人、称守屋大連後裔。なお、清和源氏満快流と称する武家華族伊奈も、本来平岩一族か。伊奈一族には、額田郡の稲熊)、物部中原宿祢、興原宿祢、中原朝臣(秋野、田中、筧、多門、桜井-三河国額田郡人。井田-三河国額田郡人、分れて武蔵国多摩郡に住、称畠山重忠後裔は仮冒。藤原姓を称する額田郡の柴田氏も、筧一族か。清和源氏のほか、大江姓とも嵯峨源氏とも称した武家華族酒井氏は、碧海郡境村に起った井田同族。嵯峨源氏と称した額田郡の滝、大黒も同族か)。
【能登国人の長氏は長谷部と名乗る。→初瀬部】【赤丸村の柴田氏は宗良親王の随臣か?→藤原氏か物部氏か?】

・金刺舎人(珠流河国造後裔)、金刺宿祢(金指-伊豆人)、壬生直、若舎人部。珠流河国造の族裔としては、駿河郡人の大岡や大森、葛山、竹之下〔竹下〕などの諸氏が推される。藤原伊周後裔と称する大森一族は駿河東部・相模や尾張・三河などに繁衍して、前掲のほか、鮎沢〔合沢、藍沢、相沢〕、葦沢、篠葉、御宿、宮原、細井、岩城、藤曲〔イ藤田〕、大沼、河合、菅沼、神山、沓間、鷹満など。一族に稲熊、内海-尾張人。その姓氏は不明も、あるいは珠流河直(駿河直)、駿河宿祢か。竹之下は天智天皇末裔とも称。

・檜前舎人部、小長谷部直(ともに遠淡海国造後裔。なお、遠淡海国造の姓氏は不明であるが、一族の名からみておそらく遠淡海直か)、佐夜直(駿河人の佐野、大楠は族裔か)、久努直(久野-遠江国周智郡人、紀州徳川家付家老で伊勢田丸を領。中-同周智郡人。原、孕石、寺田、原田、小沢-同州佐野郡人。山名郡の山名、川井など、同郡粟倉明神社神主の北島、榛原郡の千頭、長上郡の橋爪、佐野郡の幡鎌なども、みな同族か。その殆どが為憲流藤原氏を称した)。
この他、遠淡海・久努両国造の族裔とみられるものには、長下郡等の浅羽、松下、松井や磐田郡見付総社神主の西尾、大久保などの諸氏。また、城飼郡の横地(浅羽と同じく称源姓)、榛原郡の相良、勝間田、丸山などの一族や、更には引佐郡の井伊も同族か(相互に同祖伝承をもつが、系譜には疑問もある)。これら両国造関係には橘紋・称橘姓がかなり見られることからみて、遠江出身の橘姓黒田氏(のち丹党加治氏から養嗣が入り、大名家となる)も同族か。大湯坐連、大湯坐宿祢や若倭部も、遠淡海国造の一族か。

・物部の従者関係をあげると、次のようなものがあるが、系譜や姓氏不明で『姓氏録』では未定雑姓(ここでは「未」として記載)として分類される。
天物部等二十五部としてあげられるものは、二田物部、当麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、嶋戸物部、浮田物部、巷宜物部、疋田物部、酒人物部(坂戸物部)、田尻物部、赤間物部、久米物部(来目物部)、狭竹物部、大豆物部、肩野物部、羽束物部、尋津物部、布都留物部、経跡物部、讃岐三野物部、相槻物部、筑紫聞物部、播磨物部、筑紫贄田物部。このほか、前掲と重複もあるが、阿刀物部、住跡物部、網部物部、筑紫弦田物部など。

・これらのうち、とくに勢力のあったものとしては、
舎人造(物部従者)、舎人連(同上族)、原造(未、右京。雑姓で物部従者)、度造(同上)、坂戸物部(未、右京。同上)、二田物部(録・未、右京。同上。吉野-越後国三島郡二田村の物部神社神主。三嶋、東海、白川、大矢、土生田-越後国三島郡人)、二田物部首(贄田物部首)、物部二田連(高波-常陸国多賀郡佐波波地祇神社神主。なお、陸奥磐城郡の贄田も同族か)、二田造(物部二田造。河村-河内国高安郡人、後土佐国に遷)、
相槻物部(録・未、山城。雑姓で物部従者)、竝槻忌寸、竝槻宿祢、当麻物部(雑姓で物部従者)、物部造、阿刀部(録・未、摂津。物部氏族か)、尋来津首(録・未、右京。伊香我色雄命の後というは仮冒か)、阿刀造、跡部首、肩野物部(頼信-美作国久米郡人。内田-作州苫田・真庭郡人)、横田物部(横田、松倉-大和国添上郡人。あるいは和邇氏族の流れで櫟井臣同族か)。また、播磨造は播磨物部の伴造家裔か、赤間稲置は赤間物部の族長か、豊前国規矩郡の規矩、小野田、志井、御佃は聞物部の後裔か、とみられている。寺人も物部族という。原連、原宿祢は原造の後か。
  このほか、伊予の力田物部連も見える。

※一部は文字数制限により省略して記載している。赤字は当ブログ掲載と関係する氏族を主に記載した。


     

💥💢 【百合】に滅ぼされた【佐々成政】の記憶⇒【小百合】と【黒百合の花】‼

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■「佐々成政」は「三階菅笠」の旗標を用いており、無形重要文化財の越中菅笠文化と密接な武将で在る。高岡市の「守山城神保氏張」、「柴野城寺島牛介」、「赤丸浅井城中山直治」は【佐々成政】に従って「能登末森城」の【前田利家】勢を攻めたが、【豊臣秀吉】の北陸出陣により降伏して、新川郡を知行されたが、後に肥後に転封された。しかし、検地を強硬して地元郷士の反乱を受け、秀吉から統治の不始末を咎められて切腹を命じられた。
成政は愛妾【小百合】を不義の罪で惨殺したと吹聴されて、武将としての信用を落とされたが、一部には後に越中を支配した前田利家の統治戦略で在ったとも云われる。又、豊臣秀吉の妻の【ねね】に珍しい越中立山の【黒百合】を取り寄せて献上したが、これが「不吉」として「謀叛」を疑われたと云う。





【佐々氏】
【隅立四つ目結紋】
(宇多天皇から出た宇多源氏佐々木氏流で、元々は【佐々木】を名乗ったが、主家の斯波家からの文書に誤って【佐々】と書かれた事から【佐々】を名乗ったと云う。⇒「佐々成政関係系譜」佐々成政研究会)
近江国佐々木の出と云われ、この系統の佐々木氏流高島氏からは、【豊臣秀吉】の本姓の【木下氏】も出ている。

■【佐々成政】と【小百合伝説】!!
「佐々成政」は富山市呉服の娘「小百合」を見初め、他のどの愛妾よりも寵愛した。他の愛妾はこれに嫉妬し家臣と共謀して「小百合」の追い落としを画策した。「岡島金一郎」という若侍と不義密通しているとして証拠になる品を「小百合」の部屋の前に置き、共謀した家臣が「佐々成政」に不義の証拠としてこれを届け出たのである。激怒した「佐々成政」は「小百合」の一族とその噂になった若侍を惨殺した。憎悪に満ちた成政は富山護国神社の裏に立っていた大木に「小百合」を吊るし、アンコウ切りという残虐な方法で「小百合」の肉を切り裂いて殺したという。「小百合」は恨みに満ちて「必ず佐々成政を滅ぼす」と言い残して死んだと言う。「佐々成政」が「前田利家」に対して連敗して、遂には腹心の氷見阿尾城城主の「菊池伊豆守」も「佐々成政」の内部情報を「前田利家」に通報して裏切り、前田方から佐々が「豊臣秀吉」を滅ぼそうとしていると秀吉に通報した事もあって秀吉が越中に進軍した。「佐々成政」はこれに対して刃向わず、頭を丸めて墨染の衣を着て秀吉の陣に出向いて降伏し、許されてその後は九州に転封されたと云う。「佐々成政」は秀吉の妻の「ねね」に対して、立山に生えている【黒百合】と言う珍しい花を取り寄せて届けさせた。これを見た秀吉は、嫉妬で在ったか占いをさせて、「佐々成政が逆心を持っている」として警戒し、遂に統治不始末をもって秀吉に切腹を命じられた。この一連の「佐々成政」の不運は、残虐な方法で惨殺した無実の【小百合】や若侍、一族郎党の怨念によるものであると吹聴された。この物語は、成政を追い落とした「豊臣秀吉」の言い訳にも成ったし、越中の前統治者「成政」に心酔していた越中の民衆を離反させる目的が在ったとも云われる。「越中」では、立山から流れ出る「常願寺川」が何時も氾濫して民衆を苦しめて居たが、これに対して成政は大規模な「佐々堤」と言う護岸工事を施工して氾濫を食い止めたと云う。この事から、越中では成政を慕う声が強かったと云われる。現在の高岡市から福岡町にかけて勢力を持った、高岡守山城「神保氏張」、柴野城「寺嶋牛介」、赤丸浅井城「中山直治」、木舟城「佐々平左衛門」等は「前田利家」と能登末森城で戦った。越中に侵攻した「前田利家」は、先ず、石川、富山県境の「石動山」の寺院を攻めて全山の僧や女、子供、或は身寄りの無い乞食迄も殺害してその首、一千余りを寺の三門に吊るしたと云われる。その後、富山県西部の西山の麓の民衆を高岡市和田新村の開発の為に移住させ、赤丸村に多く在った寺社を高岡城の出城代わりに高岡城の周辺に配置したと云う。「前田利家」は前任地の福井県武生でも、反抗する一向一揆衆を根絶やしにして、農民一千人余りを捕らえて「釜に入れられ、磔にされた」と云う。

🏯 🐎 織田信長の武将達⇒ 佐々成政の故地「尾張比良城」と 越中石黒氏末裔の長谷川氏の「尾張如意城」

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「越中で激突した戦国の武将達」


■「佐々成政の多彩な系図」


■「佐々成政 生誕地の尾張比良城」と「越中石黒氏後裔、長谷川重行の尾張如意城」



■[石黒氏の後裔長谷川氏が勘請した名古屋大井神社の「塩竃神社」由緒]

(塩竃六所大明神)
 石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を貴船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国奈呉郷貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り一時奥州へ移る。後亀山天皇の明徳四年(一三九三年)に至り、奥州千賀に鎮座される塩竃六所大明神の御分霊を奉斎して、尾張国春日部郡如意郷に来て潜居し大井神社に合祀する。以来氏神とともに崇敬され現在に至る。
(※「石黒系図」では「石黒越中守重行」の子が「長谷川重之」とされる。この子孫は加賀藩前田家にも仕官したと云う。)


■織田信長の祖は越前町織田(福井県丹生郡越前町織田)の剣神社の神官で、足利一族の管領斯波氏に従って尾張に出て尾張守護代となり、後に斯波氏の跡を受けて清洲城を拠点にしたと云う。織田信長は板東平氏の官職「上総介」を名乗り、美濃の国の天台宗円徳寺に寄進した梵鐘には「大壇那上総介平信長公」と刻ませている。信長は清和源氏の足利家傍流今川氏、甲斐源氏の武田氏、近江源氏の佐々木氏、村上源氏の北畠氏、遂には清和源氏の嫡流の足利将軍家も追放したが、「天下布武」の志も半ばの天正十年(1582年)に美濃源氏の明智光秀によって京都の本能寺で討たれた。織田信長の生涯は正に源氏との戦いであった事が判る。
(※「織田氏系図」 平清盛→重盛→資盛→親真(織田)→信秀→信長)
(※信長の妹の市が嫁いだ浅井氏は藤原氏。)
(※織田信長は当初藤原氏を名乗り、後には平家を名乗った。)

■「織田信長譜」⇒平家の子孫が福井県織田町の劔神社の神官の養子になったと記されている。




■信長が討たれた「本能寺」は越中の富山県大門町(現射水市)浅井城跡に日蓮宗本門法華派を開いた足利、斯波の一族で桃井直常の子孫の「日隆聖人」が開き、織田信長に鉄砲の情報を伝えていたと云われる。本能寺は織田信長が宿泊する為に砦の様に改造されていた様だ。又、越前朝日町に逃れた桃井直常の孫の幸若丸が編み出した「幸若舞」は織田信長初め、戦国武将に愛されて一子相伝で江戸末期迄伝承された。特に織田信長は幸若舞のち「敦盛」を好んだと云われる。越中五位庄赤丸村、石堤村や福光町には明治初年迄その舞手の「舞々人」が住み、各地を巡業していたと云われる。「幸若舞」は、一子相伝とした為に衰退して、現在では九州のみやま市や織田信長の先祖の地の福井県越前町織田(旧織田町)の隣地の越前町(旧朝日町)に僅かに伝承されている。



■富山県高岡市の守山城主「神保氏張」は、源姓足利家一族の能登畠山氏から神保氏(平姓良文流。初代は山辺六郎・頼尊。中村、土屋、土肥、新開、二宮の祖。守山城主二宮氏が神保氏に改名)に養子に入り、元亀二年(一五七一年)に越後の上杉謙信と越中の神保氏張が激突した関野夜戦では、氏張は神保清十郎・神保正武・久瀬但馬守・ 益木中務丞・遊佐信濃守・小島甚介(柴野城主寺島牛介の兄)・倉光・鞍知・寺崎・唐人等総勢七千余騎を率いて越中・関野(現・富山県高岡市)で戦ったが、上杉謙信の夜襲で大敗を喫して関野を奪われた。その後、氏張は京都に流浪して、天正初年頃織田信秀の息女(信長の腹違いの妹・お市の方の姉)を妻として、天正三年(1575年)に子息の氏長が誕生し、天正六年4月には初めて京都で信長と会見している。(※「信長公記」)しかし、信長の家臣の佐々成政に従って能登末森城で前田利家と戦い、成政の九州転封に従って肥後熊本に移ったが、成政の失脚、切腹により熊本に流浪した。天正十七年には徳川家康に召し出されて徳川幕府の旗本になり、文禄元年(1592年)江戸で亡くなった。氏張の妻は何時かは分からないが氏張の失脚に伴い実家に帰り、美濃三人衆の一人の稲葉一鉄の子の貞通に再嫁した。その息女は信長の子息の三吉郎信秀に嫁いでいる。
※「佐々成政」の娘は、織田信長の七男信高、神保氏張の孫(氏長の子の氏則)の妻になっている。(※「佐々成政系図」参照)


■【明智光秀】に従った【越中蜷川一族】と赤丸村!!
「物部氏」、「宮道氏」の末裔「蜷川新右衛門親当」は、「将軍足利義満」の縁者・「政所代」として越中新川郡、利波郡を知行され、「室町幕府政所」の伊勢氏(伊勢平氏)と組んで、幕府の中枢を担った。
蜷川氏は新川郡太田の蜷川城、滑川城を拠点として、利波郡では、「越中守護畠山持国」(在京)の代理として守護代を勤め、神保氏を代官にして越中西部を統治したと見られる。赤丸村の「川人山鞍馬寺」で「赤丸村在住の藤原直家」が「蜷川最勝寺住職亀阜豊樹」に拠って父親の法要を営んだ記録が、「守山城神保氏」の一族の「東海宗洋」が記録している。
(※「富山県史中世」)



■明智光秀の家臣「斎藤利三」の娘【徳川家大奥総取締 お福】
蜷川氏に従った「斎藤利三」の娘は四国の長曾我部に嫁ぎ、織田信長が長曾我部氏と結んだ盟約を破って長曾我部攻めを企てた事に、明智光秀は苦境に追い込まれ、「織田信長」の襲撃を決意したとも云われる。
やがて、光秀死亡後、斎藤利三の娘の「お福」は「徳川家康」に呼び出され、徳川家光の養育係として、奥向きの「大奥」の最高権力者になって行く。




■前田利長正室玉泉院(永)の生母は織田信長の側室(元和四年、1618年、三月三日没)であった。素性はハツキリしていない様だが、天正二年(1574年)に「永」が産まれており、織田信長への輿入れはこれ以前になろう。「加能郷土辞彙」(日置謙著)では「前田利長の室玉泉院夫人の生母で、織田信長の側室。金沢八坂鶴林寺の境内にその墳墓がある。同寺が越中守山に在った時、元和四年三月三日逝去して春誉妙澄大姉と号し、遺体を寺中に移されたのを更に転送したものといふ。」と記載される。高岡市の瑞龍寺は前田利長の菩提寺で、僧堂の外部には織田と前田家の分骨廟が在り、「織田信長、その夫人。織田信忠。前田利長、利家の分骨廟」である。しかし、系図を考えると、織田信長夫人の墓は正室の「濃姫」では無く、「信長側室、利長夫人玉泉院の母親の墓」と考える方が筋が通る。瑞龍寺の墓所には「信長側室」の木札が置かれている。(※「織田信長総合事典」雄山閣発行)



■又、【「近江国安土古城図」安土摠見寺 [ソウケンジ]所蔵】(※「織田信長」 旺文社発行 )に拠れば、安土城には、「羽柴秀吉、徳川家康、菅屋九右衛門、堀久太郎(堀秀政)、長谷川の屋敷」が在った。「石黒氏の歴史の研究」※石黒秀雄著 に記載の「尾張石黒光慶系図」に拠れば、「越中石黒氏の主流の石黒重行は応永年中(1394~1427年)の南北朝の騒乱で尾張春日部如意属山田庄に移り、母方の長谷川を名乗り、後に斯波氏に属し、如意味鋺を領した」とされており、同じ斯波氏の代官の家系の織田家中には「尾張出身の長谷川与次(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、号は可竹、嘉竹。子に長谷川秀一。弟に長谷川橋介)」がいた。永禄12年(1569年)8月の伊勢の大河内城の戦いに名があるのが初出とされ、野田城・福島城の戦い、志賀の陣に参加。元亀2年(1571年)5月の1回目の長島一向一揆攻めで佐久間信盛らと共に侵攻し、信長嫡男の織田信忠が尾張と美濃の一部を領有すると信忠の軍団に組み込まれ、天正2年(1574年)7月の3度目の長島一向一揆攻では信忠の指揮下に入る。天正6年(1578年)元旦に行われた茶会では信長が12人の家臣を招いて茶を振舞ったが、与次も織田信忠・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀などの重臣に混じり招待されている。また同年1月4日の信長の茶会には9人の招待客中にも与次は名を連ね、天正9年(1581年)に信長が秀吉を招いて開いた茶会にも与次は信長に同伴している。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が討れ、羽柴秀吉に接近して織田三法師(後の織田秀信)の傅役を務めた。弟の長谷川橋介は信長が弟信行(信勝)を謀殺した際に初めに斬りつけた3人のうちの1人とされている。又、子息の長谷川秀一は織田信長の小姓として寵愛され安土城下の馬場の築造を担当。徳川家康、羽柴秀吉は安土城外に屋敷を構えたが、長谷川秀一は安土城内に「長谷川屋敷」を構えている。本能寺の変の時には安土摠見寺 [ソウケンジ]で徳川家康の接待役を担当していて助かったが、家康と共に伊賀を越えて三河に逃れた。賤ヶ岳の戦いには秀吉に従って近江の肥田城主となり、天正12年小牧、長久手の戦い、天正15年の九州遠征に参陣。天正13年、越前東郷十五万石を領して羽柴東郷侍従と称し、朝鮮に出兵したがそこで亡くなった。弟の秀康も羽柴東郷侍従と称したが、子孫は絶えたと云う。長谷川秀一の菩提寺は福井県福井市東郷二ケ町「霊泉寺」。
(※「織田信長」が謀殺した弟の信勝[信行]の子の信澄の妻は明智光秀の娘であり、光秀にとって信長は娘の夫の父を殺した敵でもあり、その姑を実際に殺害したのは長谷川橋介等であった。長谷川橋介はその後、織田信長の不興を買い、徳川家康に走ったが三方ヶ原の戦いに参戦して戦死している。)

■佐々成政の生まれた「尾張比良城」は、長谷川氏が居城とした「如意城」の近所に在った。佐々家には家老の井口太郎左衛門がいたとされ、この井口氏も石黒氏の同族とされる。
越中石黒氏の同族とされる斉藤、長谷川、堀等が織田信長の家臣団におり、系図の詳細は明らかでは無いが、これ等の一族が加賀藩の家臣にもなっている。織田信長の祖は室町幕府の斯波氏の被官で在り、越中で戦った桃井直常や斯波高経・義将は足利一族で同族であった。越中吉岡庄が室町期に足利家所縁の相国寺(金閣寺)や菩提寺の等持寺、等持院の糧所とされていた事等から、越中吉岡庄には、成田、小田、小山、結城、土屋、中村等の室町幕府重臣の痕跡が多く残っている様だ。



■藤原北家→魚名流→利仁流と続く利仁流越中石黒氏同族とされる「掘氏」は、各地に広がった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家等の家臣に「掘氏」が在り、高岡市長を長く勤めた「堀二作」、「堀健治」の「堀氏」が在り、映画最盛期の日活の社長を勤めた「堀久作」等各所にその姓が見られる。織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政は信濃住人堀秀郷重の子で、越前北ノ庄(福井市)に18万850石を領して、後に越後春日山に45万石で移封されている。その子の秀治は家康に仕え、その子忠俊は家康の養女を妻としたが、家臣堀直政(奥田直政)の御家騒動で改易になる。一族は越後蔵王3万石、下野真岡、烏山2万8000石、信濃飯田2万石を領して、天保年間には堀親宝(チカシゲ)が若年寄・老中各となり、幕末の米騒動対策等を担当して明治維新を迎えたと云う。
(高岡市名誉市民の三協立山アルミ創業者竹平政太郎氏は赤丸村向野新村の柴田トモヨを妻としたが、この仲人は高岡市名誉市民の堀健治氏だったと言う。高岡市の極楽寺由緒には、地元の国人「柴田氏」は南朝の宗良親王に仕えたとされており、石黒一族は赤丸浅井城に宗良親王を迎えた南朝の忠臣であった。竹平政太郎氏の墓所は石黒氏別邸の跡と云われる小矢部市岡702の「宝性寺」に在る。)

■藤原氏に藤原不比等の4人の息子が興した藤原四家がある。「大鏡」と言う古書に、「藤原不比等は妊娠中に母と共に天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足に下げ渡した」人物で、実の天智天皇の子供であったと記載される。又、その子の宮子を「夫人 ブニン」とした文武天皇は「不比等以外の藤原氏は中臣に戻り、不比等の系統だけに藤原と称する事を認める。」と勅令を出している。
その藤原四家には、
・藤原南家 - 藤原武智麻呂(680年 - 737年)
●藤原北家 - 藤原房前(681年 - 737年)
・藤原式家 - 藤原宇合(694年 - 737年)
・藤原京家 - 藤原麻呂(695年 - 737年)がある。
⇒藤原北家本流(摂関家流)に、房前から続き「房前系」「真楯系」「魚名系」等が有る。「真楯系」は大きく繁栄し、この系統から 藤原道長 -藤原頼通 -藤原師実 -藤原師通 -藤原忠実 -藤原忠通(養子に藤原頼長※関白・「越中吉岡庄*赤丸村他」の領主 )-近衛基実 -九条兼実 (忠通三男)等を排出して「摂政・関白」を受け継いだ。一方、「魚名系」からは「秀郷流」、「利仁流」が出ている。
*「秀郷流」⇒奥州藤原氏、西行、結城氏、小山氏、八田氏、宇都宮氏、小田氏等
*「利仁流」⇒魚名→鷲取 →高房→時長→利仁流(石黒・富樫・林・加藤・後藤・進藤・竹田・斉藤・疋田・堀・遠山・仙石等) (※「日本の名字」実業之日本社 参照)



🌸🔹《延喜式内社赤丸浅井神社》の【額】の作成 ⇒「尊皇攘夷」に揺れた【 加賀藩】と【孝明天皇】!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「加賀藩第十三代藩主 前田斉泰」の書【朝】



■加賀藩京屋敷は江戸時代初期に置かれた。幕末の元治元年(1864年)、加賀藩13代藩主「前田斉泰」の子の「前田慶寧」(母は徳川幕府11代将軍徳川家斉の女の溶姫。)は京都の守衛を命じられ加賀藩の京屋敷に入った。この時に、加賀藩の京屋敷の北隣が長州藩京屋敷で在り、長州藩と密接に連絡を取合う様になる。「前田慶寧」は将軍の外孫だが、「尊皇攘夷論者」で在り、幕府から粛清されていた長州藩の代弁者として幕府に「攘夷」の建白書を提出した。加賀藩の尊皇攘夷派と長州藩士「桂小五郎」等は「孝明天皇」を【加賀藩領の近江梅津】に移す画策をしていたと云う。

・【孝明天皇綸旨】
徳川家康所縁の「尾張国正住院住職」 (※常滑市)に宛てた「孝明天皇」の「綸旨」!!
《尊皇攘夷の意向が強かった孝明天皇は、妹の「和宮」を徳川家に嫁がせて「公武合体」を図る等、迷走する徳川幕府への影響力を強めようとしていた。幕末の動乱の世に在って孝明天皇は「天皇の安寧を祈願する様」に勅書を発給して命じている。》







■【加賀藩近江領】
【※加賀藩は藩内で収納した米を大坂商人の手で売却する為に琵琶湖を船で湖上輸送して、琵琶湖北岸の近江梅津の藩の米倉庫に納めた。この土地は近江国今津、梅津に在った加賀藩の二つの飛び地領。】
◆「今津村」は1864石で、秀吉が前田利家の大阪への旅の休憩地として与えたもので、豊臣家の大老を辞するに当たり秀吉に返上を申し入れたが、秀吉はこの地を「芳春院の化粧料」として「芳春院」に与えた。
「海津村」は加賀藩領の尾添村、荒谷村の代替えとして加賀藩に与えたもので、福井県と石川県の境に在る「白山」の神領と支配権を巡り、福井県大野市の「平泉寺」と石川県白山市鶴来町の「白山宮」が争った為、仲裁した幕府はこの二村を幕府直轄領として、代わりに琵琶湖を臨んだ海津村を「藩邸」として与えたが、実際には、この地は大阪、京都への物流の拠点としての「蔵屋敷」が置かれた。






■元治元年7月19日(1864年8月20日)に、長州藩は京都で「禁門の変」(※ 蛤御門の変、元治の変とも云う。)を起こすが敗北し、長州藩京屋敷は直後に出火して焼失した。長州藩京屋敷の隣接の加賀藩京屋敷は焼失を免れるが、前田慶寧は病気と称し「禁門の変」には出陣せずに、近江国梅津領に退去した。これに対して幕府は、無断の退去を責めて前田慶寧を蟄居謹慎とした。前田慶寧の父の加賀藩第十三代前田斉泰は親幕派の体面を取っていた為、前田慶寧を非難して「加賀元治の変」と呼ばれる尊皇攘夷派の一斉弾圧を行う。京都屋敷の加賀藩家老松平大弐を切腹させ、尊皇攘夷派の加賀藩士40人を処刑した。

■【加賀藩第十三代前田齋泰】と【越中国五位庄惣社延喜式内社赤丸浅井神社】
「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」は幕末の「孝明天皇」の仮皇居 にもなっていた京都の「門跡寺院聖護院」の末寺で、創建は聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」とされる皇室所縁の神社で、建物には皇室の「十六菊紋」が彫り込まれている。「加賀藩第十三代前田齋泰」は赤丸浅井神社の「浅井神社」を揮毫して奉納し、現在の「浅井神社」の額はこの書を元に製作されている。
「前田齋泰」は幕末から明治維新にかけて、加賀藩を薩摩藩や長州藩のような国政に関わる重要な立場に置くべく裏工作に専念したと言われる。嘗て、尊皇派の藩士を前田齋泰が弾圧して処刑した結果、加賀藩には有力な尊王派の藩士がおらず、維新体制への対応では他藩に後れを取り、右腕の「本多政均」が暗殺(明治2年・1869年)された事もあって維新政府・朝廷への裏工作は失敗に終わった。
「浅井神社」の【額】の寄進も皇室所縁の「聖護院派赤丸浅井神社」への政治的な工作の意図が在ったものだろうか?
明治17年(1884年)、【加賀藩第十三代前田齋泰】は74歳で死去した。























🌸 【宇多源氏 の系譜】「加賀藩前田家」と「宇多源氏」の流れを汲む「宇喜多秀家」、「宇多刀工」、「佐々成政」、「豊臣秀吉」⇒江戸時代迄続いた「越中刀工」と加賀藩!!

2021-04-20 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
●「宇喜多秀家」と「越中刀工 宇多派」
⇒「宇喜多秀家」の系統は「宇多源氏佐々木氏流」の流れを汲むと云われ、家紋は越中で栄えた宇多源氏佐々木氏流の「宇多刀工」と同じく「剣方喰紋 ケンカタバミモン」を使用している。この紋は現在も越中の西部に多く残っている。



■「加賀前田家」と「宇喜多秀家」
「宇喜多氏」は、藤原北家閑院流三条家後裔及び百済王族子孫説や「宇多源氏佐々木氏流」等の説が在る。

「宇喜多秀家」は「前田利家」の娘の「豪姫」を正妻としたが、豊臣家恩顧の大名として、関ヶ原の戦いでは明智光秀に与して西軍17000人を率いて副将として参戦した。しかし、西軍の中の裏切りも在って西軍は敗退して、秀家は西軍の島津家に匿われた。
関ヶ原戦後、島津家が秀家を庇護しているという噂が広まり、徳川幕府から睨まれた為に島津義弘の息子である忠恒は幕府へ秀家の身柄を引き渡した。一度は死罪に決まりかけたが島津忠恒や正室豪姫の兄である「前田利長」の懇願で死罪から罪一等を減じられて駿河国久能山へ幽閉となり、改めて慶長11年、宇喜多秀家34才の時に八丈島への配流処分となった。この後、宇喜多秀家は1655年、84歳で亡くなる迄50年間を八丈島で過ごした。
しかし、実家の前田家に戻っていた宇喜多秀家の正室「豪姫」は家人を秀家の下に派遣し、秀家と共に八丈島に配流された2人の息子には乳母を派遣し、専属の医師まで八丈島に派遣したと云う。又、加賀藩前田家は「豪姫」の弟の第三代前田利常の時代から幕府の許可を得て2年に1回、金銀・米・食糧・衣服、医薬品等を送り続けたと云う。

▼加賀藩士に、宇多源氏六角氏系の「佐々木定治」以下三代が仕えていたと森岡浩氏は発表されている。



■「豊臣秀吉」から「前田利家」へ遣わされた「越中の刀」
秀吉の遺品は前田屋敷で武将達に分配されたとされる。
「豊臣秀吉」の遺品の内、「前田利家」に与えられた遺品の中には、越中刀工「郷義弘」の刀剣が在る。これが、「前田郷」と呼ばれる刀か?
又、この秀吉の遺品の中には越中の刀工の「宇多刀」や「佐伯則重」の刀も見られる。
前田家が幕末迄支援し続けた宇多源氏の「宇喜多家」と江戸時代迄加賀藩で続いたと云う宇多源氏「宇多刀工」は背景に何か繋がりが在ったものか?
(※宇喜多家で徳川に就いた一族は徳川家臣として残ったが、途中で断絶したと云う。)



■「前田利家」と「能登末森城」で激しく争った「佐々成政」も本姓を「宇多源氏佐々木氏」とされる。「佐々」は「佐々木」から出たとされる。
「前田利家」が越中を占領した後に、赤丸村に在った「宇多刀工」の氏神の「槌宮」は高岡市関町の「総持寺」の前で、「瑞龍寺」の近くに移転しており、元々、「佐々成政」の与力で在った赤丸浅井城城主「中山直治」の支配地域から主要な寺社施設を高岡市内に移転させた。「赤丸浅井神社」には、加賀藩時代にも赤丸村に「平家盛阿弥」と云う鍛冶屋が残っていたとの記録が在り、軍事施設を造る鍛冶屋・刀鍛冶等の氏神を高岡城の近くに移転させたものか?

■「宇多源氏」の【太閤 豊臣秀吉】のルーツ
【重修真書太閤記】には、秀吉は近江国出身の「宇多源氏佐々木氏流高島氏」で在り、木下郷に住んで「木下」を名乗ったとされる。「宇多刀工」のルーツは大和国宇陀郡と言われるが、近江国甲賀郡には「宇多氏」がおり、元々は「宇多源氏佐々木氏流」とも言われる事から、元々、同族と見られる。

■【重修真書太閤記】(※部分)





🔴🌸【高岡御車山祭り由緒の嘘】⇒【越中吉岡庄】の「越中宮極楽寺」と熊野三山検校【 天台寺門派本山 園城寺(三井寺)】傘下の【門跡寺院聖護院】・【越中川人山鞍馬寺】!!

2021-04-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







■【越中国川人山鞍馬寺】は富山県西部に在った「後白河上皇」の「後院領 吉岡庄」の惣社「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当で在った。この寺は両部神道、修験道本山派山伏で、元々、赤丸浅井神社の境内に白山山伏の開祖「泰澄大師」が「庵」を開いた事に始まり、「泰澄大師」は「元正天皇」の病気快癒を祈ってこの庵で祈祷をしたと云う。「赤丸浅井神社」は、「川人山三社記」によると、「元正天皇の二宮(実は元正天皇の弟の文武天皇の第二子「石川朝臣広成」、嫡男は「首皇子オビト ※後の聖武天皇」)」に東国三十三ケ国の統治を指示され、その時に第五代考昭天皇の時に創建された「赤丸浅井神社」の社殿を再興されて祀官を定めたと伝えられる。「赤丸浅井神社」は元正天皇が編纂を始めた「養老律令」の細則に当たる「延喜式」の「神名帳」にも記載される【延喜式内社】で在る。

・「赤丸村」の「川人山鞍馬寺」の備品(※赤丸浅井神社所蔵)











■「後白河上皇」は、「保元の乱」で「藤原氏長者藤原頼長」に勝って「越中吉岡庄」を「後院領」に組み入れ、この庄園を自らが創建した「蓮華王院三十三間堂」に寄進された。この記録は「東大寺文書相良迎蓮書状」に見られる。

















■「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」が「初代聖護院門跡」で在ったからか、「川人山鞍馬寺」は「聖護院派」の寺院で、「後白河上皇」が近江国「三井寺」で出家して、「三井寺」には「後白河上皇」が信仰された「熊野三山修験道」の総支配を委ねられた。「保元の乱」で勝利した「後白河上皇」は、元々「藤原摂関家藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸の赤丸浅井神社を郷社とする庄園)を天皇退位後の庄園「後院領」に編入され、以後、「越中吉岡庄」は、「後鳥羽上皇」~南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として伝領された。
「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後の山並みには【熊野社】が勘請され、その神社跡地は現在も遺されている。又、「熊野社」は現在は「赤丸浅井神社」に合祀されている。










この「熊野社」は元々赤丸村に在り、現在は高岡市関町に在る「総持寺」の持宮で在ったと赤丸浅井神社に伝わっており、南朝の天皇「後醍醐天皇」の庄園で在った時の興国三年、第八王子「宗良親王」が南朝支援の為に「赤丸浅井城」に入城され、「宗良親王」は「熊野社」を篤く信仰された。「宗良親王」は「赤丸城ヶ平山」の「親王屋敷」に入られ、隣接する「極楽谷」に「極楽寺」を創建された。この「極楽寺」は現在、「越中宮極楽寺」と呼ばれ高岡市に移転しており、この寺で保管されていた「宗良親王」が巡行の時に使用された「御所車」を飾り付けたものが、現在の「高岡御車山祭」で引き回される「二番町の御車」で在ると極楽寺由緒には伝わっている。この車は唯一、二輪車で在り車には「鳥居の上に二羽の八咫烏」が配置されており、「熊野を開いた賀茂氏が八咫烏に変身して神武天皇を大和国へ導いた」事を表現している。

🔽「越中宮極楽寺」が創建された「越中吉岡庄(赤丸村)極楽谷」

















「越中宮極楽寺」の本堂には、現在も親王が信仰された「熊野社」の厨子が祭られており、「高岡御車山祭」では出発の時に陣笠・裃で盛装した祭りの役員達が先ず「極楽寺」の宗良親王に慰霊する為に拝礼に出向いている。

















《現在は、「吉田神道高岡関野神社」がこの由緒を横取りして、この祭りが「関野神社の祭り」で在ると称し、「熊野社」は元々高岡関野神社が祭っていたものだと詐称している。かつて、「高岡関野神社」は高岡市熊野町に在る宗良親王が創建されたと伝わる「熊野社」を自分の持宮だと詐称して、前田利長が「熊野社」に与えた「先宮熊野社 マズノミヤクマノシャ」の尊称を横取りして、「関野神社」に掲げた為に、「熊野社」の氏子衆が大挙して関野神社へ押しかけてこの「先宮熊野社」の看板を破壊したと云う。これは、加賀藩時代の有名な事件で、「先宮事件 マズノミヤジケン」と呼ばれたと極楽寺由緒に伝わっている。「前田利長を祭る神社」を標榜した「吉田神道高岡関野神社」は各地で神社の簒奪を行い、「延喜式内社赤丸浅井神社」から「石堤浅井神社」を簒奪しようとした試みでは、「加賀藩寺社奉行」、「門跡寺院聖護院本山」が介入して「高岡関野神社」の無謀を防ぎ、「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」の勝訴の裁定を下している。⇒「皆月家文書」金沢市立玉川図書館》



【※「本山派修験道聖護院」はその筆頭に在り、白川上皇以来、熊野三山検校を勤めており、「白川上皇」は「越中吉岡庄」を京都の「上賀茂神社」の庄園とされたが、その後、藤原摂関家の庄園に成った。幕末迄赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」は「本山派修験道聖護院末寺」としての歴史を刻んだ。】




■「三井寺」は「近江大津宮」を開かれた「天智天皇」から「天武天皇」・「持統天皇」が産湯を使われた「井戸」が在る所から「御井寺」から「三井寺」に成ったと言う。
「三井寺」は、「後白河上皇の皇子以仁王」が平家倒幕の「令旨」を出された時に、「以仁王」や「源三位頼政」を匿ったとして、平家から焼き討ちを受けており、その後も、弁慶がこの寺の鐘を引きずったと言う伝承がある源氏とも所縁が強い寺で在る。
又、この「令旨」を受けた「木曽義仲」は、「源義経」に都を追われた時に近江国で亡くなっており、「義仲寺」にはその墓標が在る。





🔘 【「宇多刀工」のふるさと「赤丸村」】 高岡市の「総持寺」、「天景寺」、「槌宮」 のルーツ ⇒越中西部の「紀氏」の足跡!!

2021-04-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


●『高岡絵図』(金沢市立玉川図書館)天保6年⇒この絵図では、総持寺と槌宮が一つの敷地になっている。



■現在、高岡市街地に在る「総持寺」、「槌宮」、「天景寺」は元々、越中五位庄赤丸村舞谷に在ったが、「延喜式内社赤丸浅井神社前に屋敷を構えた池田市エ門の先祖が土地を寄進して移転した」と赤丸浅井神社に伝えられている。池田市エ門家は赤丸村の肝煎を勤めていたが、加賀藩から所払いになり、国吉村に動き、その後継は弟の(奥田)五右衛門が継いだ。この一族は氷見池田、高岡市池田、小矢部市今石動(※旧池田)や赤丸城下の池田島(※総持寺、天景寺、宇多刀工の工房、槌宮の旧地)を所有して居たと云う。
(※「治承、寿永の内乱論序説」、「杉野家文書」、「石堤村史」、「ある贋作物語」)



■歴代に亘って「赤丸浅井神社前に屋敷を構えた池田家」は、代々、高岡市関町の「門徒総代」を勤めた「大壇那」で在った。高岡市関町の「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には、「後鳥羽上皇」の法名の【金剛位理卿】が記名されており、この仏像は「承久の乱」で、「北條氏」によって「隠岐の島」へ流罪にされ、終生本土へ帰れ無かった悲運の「越中吉岡庄の領主後鳥羽上皇」の「祈願仏」で在り、その製作は「慶派仏師の幸賀、頼真」の手に拠る。歴代の天皇は、「後鳥羽上皇」の怨霊を恐れ、鎮魂の為の「勅使」を送り、各地に建てた鎮魂施設に「幣帛」を捧げている。



■「天景寺」は元々、「瑞龍寺」の現在地に在ったが前田家に接収されて現在地に動いた。この絵図によると、当初の瑞龍寺敷地はもっと広大だったが、明治維新の後、前田家の支援が途絶えた瑞龍寺は困窮して相当の敷地を売却して凌いだと伝えられている。
瑞龍寺隣接地には神主町があり、ここに元々「関宮」が在ったと記載されている。

■「池田氏」は古代氏族の「紀氏系図」に見える。氷見の「阿怒荘」は、代々、紀氏に伝領しており、足利義満の母「紀良子」は亡くなる直前に一族に継がせている。「紀氏」は「石黒氏の祖の利波臣」と同じ「武内宿弥」の子孫の「蘇我氏」から出たとされる。
「赤丸浅井神社」を創建されたと伝わる「石川朝臣広成」は聖武天皇の弟で、母が蘇我氏で在った。その神社を守る様に浅井神社の門前には現在も池田氏末裔の奥田、池田、桜木家が取り囲んで住まいされている。
又、浅井神社の奥宮の後の神域には赤丸に住む「石川一族」の墓だけが神官以外では唯一、遺されている。
(※蘇我氏は中大兄皇子に入鹿、蝦夷が誅殺された後は「石川氏」を名乗っている。)






■南北朝時代から江戸時代迄続いたとされる「越中刀工 宇多氏」は、大和国宇陀郡から「越中吉岡庄(赤丸村鍛治屋町島)」に移り住み、多くの名刀を鍛えた。「荒木又右衛門」が鍵屋の辻で決闘した時の刀は、宇多刀工の初代「宇多国光」で在った。(※荒木又右衛門記念館)

🔽現在、「高岡市関町」に在る【槌の宮】は、赤丸村鍛治屋町島から動いたとされる「刀鍛治 宇多」の氏宮とされる。

■「越中吉岡庄」と呼ばれた「皇室庄園」の赤丸村は、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園から、「後白河上皇」~「後鳥羽上皇」、「後醍醐天皇」と続いた。その後は、「足利義満」によって室町幕府直轄庄園と成ったが、その間には、「保元の乱」、「平治の乱」、「承久の乱」、「南北朝の戦乱」等の大乱に巻き込まれ、その後も「応仁の大乱」や引き続く「戦国時代」の騒乱に巻き込まれて、絶えず「武器生産」が必要な地域で在った。その為に、南北朝時代に大和国宇陀郡から赤丸村へ移り住んだ大和伝「宇多刀工」が栄え、「吉岡庄」、「五位庄」として続いた「赤丸村の、「浅井城」に隣接地する「鍛治屋町島」と云う地域を中心として、「富山市、「舟橋村」、「射水市」、「小矢部市、「福野町」、「福光町」等の富山県西部に繁栄し、「江戸時代」迄、富山県西部や石川県、飛騨市等にその流派が拡がったと云う。

(※宇多刀工が栄えた「鍛治屋町島」の付近一帯には、「倶利伽羅山の源平合戦」に「木曽義仲」を誘導したと云う「池田次郎」の末裔とされる「池田氏」が所有した「池田島」が拡がっている。)➡「治承、寿永の内乱論序説」浅香年木著

🔽「宇多の刀」は、「諸大名」や近江国吉を出自とする宇多源氏高島流の「豊臣秀吉」等に愛好され、多くの諸大名の「恩賞」としても贈られた。《※「重修真書太閤記(太閤遺品帳)」》
特に「宇多刀」は、他の地域の刀と異なり、黒く光る地金が特徴で、「戦国武将」や多くの剣士達に愛好された。現在も「富山県文化財」には多くの「宇多刀」が指定されている。



🔽「富山県高岡市福岡町赤丸」に保存される「宇多」の太刀
「在銘 宇多国光の太刀」


🔽南北朝時代の太刀「無銘 古宇多」(※重要保存刀 鑑定書)



南北朝時代に「南朝側」で戦った武将で、「近江宇多源氏」の「宇多氏」は数々の戦に「宇多」の名前が見られ、後醍醐天皇側の伊勢国司「北畠親房」の支配地域の「大和国宇多郡」から、「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」へ移り住んだ。

🔴🏯 【俵(田原)藤太、大石内蔵介、小田】 『越中吉岡庄』の「石堤長光寺」の開基【(織田陸奥守氏知(小田氏朝?)】⇒本姓藤原氏の「小田氏」と同族の『田原(俵)藤太』(藤原秀郷)・「大石内蔵助」!!

2021-04-19 | 富山県高岡市福岡町赤丸村



■富山県高岡市福岡町土屋村には「小山氏由緒」が残される。「✳「土屋村史」」


■元藤原摂関家長者の藤原頼長領で保元の乱で後白河上皇に没官された「越中吉岡庄」(後の五位庄)と呼ばれた庄園は、「五位庄五十三ケ村総社・五位庄郷社赤丸浅井神社」に伝わる所に拠ると、近代とは相当範囲が異なる様だ。赤丸浅井神社は五十三ケ村から毎年、初穂米として各戸より米一升を徴収する権利を朝廷から与えられていたと伝わり、今も赤丸村ではこの習慣が残る。(現在は奉納金に代わっている。)浅井神社に伝わる五十三カ村は赤丸浅井神社由緒に拠ると「五十三箇村 旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村」と記載されており、これが古くの「吉岡庄」の範囲と推定される。
この「吉岡庄」は、「吾妻鏡」に記載の「源頼朝の書状」にも残るが、古文書に拠れば「吉岡谷の吉岡成佐」や石堤村の長光寺を開いた「織田氏知」等がこの庄園の地頭であったと伝わる。この「織田陸奥守氏知」については同時代に該当の武将は見当たらず、藤原秀郷の末裔の宇都宮氏、八田氏、小山氏等の一族に「小田氏知」が存在した。(小田氏知が「陸奥守」であった事は確認されない。)
⇒(※ 常陸小田氏は「知」、「朝」を通字とする。「小田氏知」の七代前の「小山朝光」は結城七郎朝光と言う「源頼朝」の子供で、小山家へ養子に入っている。)



【註】小田氏:鎌倉公方足利満兼の関東八屋形(八家)の一。常陸国小田( つくば市)の領主。常陸国筑波郡小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とした。 関東八屋形(八家)とは宇都宮・小田・小山・佐竹・千葉・長沼・那須・結城の各氏。
小田氏の祖の「八田知家」は保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参じており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。源頼朝の御家人。(✳「Wikipedia」)

■「小田孝朝」(※「延元2年/建武4年(1337年)ー応永21年6月16日(1414年7月3日)」)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。小田氏の第9代当主。「小田氏の乱」を起し、追討されたが「足利義満」の指示で許された。「小田氏朝」はその子。
・「越中吉岡庄」は室町時代には「五位庄」に成っていた事が「東寺百合文書」に見られる。
又、南北朝合一を果たした「足利義満」は「五位庄」を室「業子」の追善料として「相国寺」に寄進しており、「足利義持」は「五位庄の半分」を足利家菩提寺の「等持院」に寄進し、その後は同じく菩提寺の「等持寺」にも寄進されている。「小田氏知」の六代前の「結城七郎朝光」は「源頼朝の子供」で在り、小田氏の養子に成っており、小田氏は正に「源氏の棟梁 源頼朝」の直系の一門に成っている。

■「陸奥国多賀城」は蝦夷統治の最前線で、蝦夷統治を担当した将軍を「征夷大将軍」と云う。この肩書きは武士の棟梁の位として、後には幕府を開く為に必要な位になる。「陸奥守」の記載は、小田氏の祖の藤原秀郷や越中石黒氏の祖の藤原利仁も「征夷大将軍」になっている事から「その末裔」と云う事を表したものか?
(藤原利仁の娘は秀郷の孫の文脩の室で有り、途中で混血がある事から、先祖由緒では往々にしてこの二つの系統の混乱が見られる。)

(※藤原秀郷は通称「俵藤太」と呼ばれるが、藤原秀郷は江州[近江]の栗田郡田原、大石を領有したので「田原の藤原秀郷」を「俵の藤太」と呼んだ。藤原秀郷は東北・北陸を主管して征夷大将軍となる。又、近江の大石に残る秀郷の子孫は「大石氏」を名乗って子孫は織田信長に対抗して足利将軍を守ったと云う。更にこの子孫は赤穂藩家老と成り、大石内蔵助は主君の敵の吉良上野介義央を討ち取り、忠義の士とされた。大石内蔵助を祀る大石神社は赤穂に在り、皮肉にも、後に赤穂藩の領主となった織田信長の小姓の森蘭丸の一族の森家資料もこの神社に在る。⇒※「大石内蔵助」福本日南著 国立国会図書館蔵)

(※藤原秀郷は大和国(奈良県)高市郡田原郷に生まれて田原藤太と呼ばれた。下野大掾藤原村雄の長男で田原に住んだ太郎の意。又、下野国(群馬県邑楽郡千代田町)も秀郷の誕生地と伝わる。)
(参考:小田氏系図小田氏知について
www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02007d.htm 、
「日本の名字700傑 小田氏」参照)

「赤穂大石神社」 兵庫県赤穂市上仮屋旧城内



■因みに、足利将軍家を廃した織田信長の祖の「織田氏」は福井県織田町の剣神社の神宮の末裔で足利一族の斯波氏に仕えて、後に尾張で勢力を拡大したと云われる。織田氏は平氏を名乗ったが実際上は書面に「藤原」とも記載している。織田氏は、小田・御田・雄田等で通用された当て字読の姓でもあったらしい。織田氏は越前国丹生(ニユウ)郡織田荘(現在の越前市織田町)発祥の古代氏族忌部(インベ)姓で織田町の「剣神社」に奉仕した神官の末裔とされる。『古語拾遺』では忌部氏の祖先神「天太玉命」は「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)」の子であるとする。一説には桓武平氏重盛流の伊勢平氏とされる系図も残るが、源氏の足利将軍に代わる平氏を祖と主張する為に作られた系図とも云われる。忌部氏も神事に奉仕したところから藤原氏同族の中臣氏と混同され、織田信長も藤原姓の署名を用いたと見られる。厳密には、「藤原氏」の呼称は藤原不比等の末裔以外は称してはいけないが、戦国武将の由緒を高める為の呼称と見られる。⇒赤丸浅井神社の祭神はこの「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)」であるが、おそらく、大伴氏の氏神として祭られたものと見られる。

■『[藤原不比等];文武天皇は天智天皇の子の不比等の末裔以外は「藤原」を名乗る事を禁じ、その他は旧の「中臣」を名乗り、神事に奉仕すべしと命じた。「藤原不比等」は天智天皇の側女の子で、妊娠していた時に中臣鎌足に与えられたと「大鏡」に記されている。』
【詔して曰はく、「藤原朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂らは、神事に供れるに縁りて、旧の姓に復すべし」とのたまふ。(文武二年八月丙午条)】

■この織田氏と南北朝期に活躍した小田氏は繁栄した時代が大きく異なる事から、長光寺開基の「織田氏」は「小田氏」の誤りと見られる。確かに、「織田氏」の主家であった足利一族の斯波高経(1361年、康安元年、正平16年)、斯波義将(1368年、応安元年、正平23年)は南北朝期に越中守護になっているが、織田氏は斯波氏の家臣であったもののその時に「織田氏」は越中に見られない。周辺の状況や小田氏が南朝の支援をしていた事から推察すると、「小田氏」の方がぴったりくる。ましてや、後醍醐天皇の庄園「吉岡庄の地頭」をしていたとすれば、南朝を支援した小田氏しかいない。
足利一族の桃井直常は一族に反して南朝の支援をし「五位庄の戦い」(1371年、応安4年)で敗れ、姿を消した(✳「花営三代記」)とされるが、この時にも「織田」の名前は出て来ない。「織田氏」が吉岡庄の地頭であれば、桃井勢の有力武将だっただろう。
「織田氏」は、織田信長の妹が高岡の守山城城主の神保氏張に嫁いでおり、加賀藩士森田柿園の著書「越中志徴」でも「赤丸の喜田氏信長に通ず」と記載されている事から、信長が越中に進攻してきた前後には織田氏の勢力は確かに赤丸にも及んでいる。しかし、「宗良親王随身の織田氏知」となると時代は南北朝になる。そこで、調べると「小田氏知」という武将は実在したのだ。明治三十二年十月和田文次郎著「砺波誌」には「氏知は後醍醐天皇第五皇子宗良親王の士にして応安中石堤の地方を領し同二年薙髪して僧と為り長光寺を建て寺主と為れりと云ふ」と記載され、又「富山県西砺波郡役所大正十二年発行 富山県西砺波郡要覧」には「石堤城(現在の赤丸村) 応安年代に織田陸奥守氏知」と有るが、これを立証する資料は見当たらない。又、加賀藩士冨田景周(2500石)が記載した「越登賀三州史」の「赤丸 浅井」の項に「浅井とは赤丸村に浅井神社あれば也。式内の神也。」とし、「本丸、二丸、堀切東方、堀切南北深沼田、又、同庄石堤村領山有堡迹、興赤丸相隣。今為陸田。不可混。」と記載して、赤丸浅井城と近くの石堤には砦が在ったと記載している。この「砦」について高岡徹氏が「富山市日本海文化研究所紀要 第6号 富山市教育委員会 ・富山市日本海文化研究所発行」の中で、この砦を「麻生谷砦」(✳仮称)として考察、紹介されている。その中で、この砦は麻生谷集落にある「新生園」の裏山に当たり、南北朝期にごく一時期的な拠点として使われた遺構かも知れないとされている。位置的には、戦国時代の柴野城と赤丸浅井城の間で有り、砦の下には「石堤 長光寺」と「織田氏知」の墓所がある所から、南北朝期に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王に従った織田氏知の居城ではないかとされている。明治43年の西礪波郡役所が発行した「富山県西礪波郡紀要」には「開基は礪波郡吉岡庄の領主織田陸奥守氏知にして出家して超圓と号す。応安二年(1369年、正平24年)当寺を草創す」と長光寺の縁起が掲載されている。又、長光寺の裏、織田氏知の墓所の後ろから裏山に通じる道があり、現在は平地になっており、何かの施設跡かも知れなちい。

■【南北朝時代の小田氏】宗良親王は1369年(応安2年/正平24年)には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、1374年(文中3年/応安7年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻り、この頃から南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始していたが、再び出家している。
「長光寺由緒」に拠れば、織田氏知(小田氏朝?)は応安2年に出家したとされる。応安2年には南朝の宗良親王が信濃で苦戦された時期に符合する。
長光寺は後に、織田信長に対抗した浄土真宗興正寺末であり一向一揆の拠点になった寺と云われ、織田氏知が創建したならこの時の長光寺の対応も違っていたのではないだろうか?

■この時期に鎌倉公方足利満兼の家臣には「小田氏朝」が見られ、「結城の乱」を起こした「結城氏朝」(※小田氏からの養子) が居る。小田氏は八田知家を祖とし、鎌倉時代には常陸国の守護・源頼朝の後家人を務めていたが北条氏により守護職や荘園を奪われた為、南朝方の後醍醐天皇に味方し北条氏の打倒に参加し、足利氏が後醍醐天皇と対立すると南朝方になって戦った。しかし、興国二年(1341年)に北朝方に降伏し、その後は足利尊氏に接近して旧領の一部も回復している。







■この時代に、関東管領から越中富山城を賜わった成田氏がいる。成田氏は、熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったといわれる。成田顕泰は、現在は富山市にある光厳寺(後に前田家の墓所となった)を開いている。藤原鎌足の後裔といわれる武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、当初、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立(一四五八年)した。その後、射水郡守山城外に移って光厳寺となる。この時の守護代は神保惣次郎という。この「武蔵国忍城」は映画「のぼうの城」の舞台なった城である。


■【小田一族】関東管領は上杉氏。鎌倉から南北朝期に活躍した小田治久(一二八三~一三五三年・尾張権守・常陸国小田氏)は、当初は鎌倉幕府、後に後醍醐天皇に仕えたが足利尊氏に敗れ、その後北朝方として戦った。その後裔に「小田氏あさ」有り。兄の治朝(一三六二~一四〇三年)は小山義政の乱(一三八六年)に加担した為、父孝朝と共に室町幕府鎌倉公方足利氏満に追討され、敗れて那須氏に預けられ没する。茨城県土浦市に治朝開基の宝珠山海蔵寺有り。曹洞宗。本尊阿弥陀如来。孝朝は小山氏の乱の後一部所領没収されただけで許され、後には同族の中条流から派生した小田流剣法を創始し、和歌にも没頭して、勅撰和歌集である『新千載和歌集』には尊氏に召されて詠んだ歌が載せられ、『新拾遺和歌集』にも採録された。頼朝を支援した千葉一族で、畠山、和田、加藤、宇都宮、渋谷、千葉、加藤、葛西、熊谷等が同族。小田は藤原北家宇都宮氏の傍流で八田氏を祖とする。

■【小田氏の系統】小田氏には、1)古代の物部氏族小田連(摂津)、2)小田臣(備中)、 3)藤原北家八田氏流(常陸)、4)藤原北家塩谷氏流(下野)、 5)清和源氏小笠原氏流(甲斐、信濃)、 6)清和源氏満快流(信濃) 、7)秀郷流藤原姓結城氏族(陸奥)、8)藤原姓成田氏流(武蔵)、9)中臣氏流、10)清和源氏満政流、11)小野姓横山党(武蔵)、12)菊地氏流、13)豊後清原氏族、14)妹尾氏流(備中)、15)安藝山県氏流 の他、丹波、越前に小田氏有り。越中では室町幕府奉公人に(永享以来五番帳)「小田又次郎、「小田掃部助」有り。小田伊賀守、小田右馬助、又、足利義政祇候人小田又六の名有り。小田又次郎和憲は「カタバミ紋」であった。(見聞緒家紋)越中砺波郡五位庄(旧吉岡庄)には「カタバミ紋」「剣カタバミ紋」の家系が現在も多い。(✳「富山県姓氏家系大辞典」角川書店)

■石堤長光寺の開基は「小田(織田?)【陸奥守】氏知」と云われる。石堤長光寺開基の氏知が「陸奥守」を名乗っている所から、7)秀郷流藤原姓結城氏族(陸奥)がその開基なのか? 同じく石堤の西光寺の開基も藤原氏秀郷流井口氏を祖とすると「西光寺由緒」に記載される。(※「姓氏家系図」によると井口、齊藤、宮崎、石黒は「利仁流」とされる。西光寺由緒の誤りか? 藤原氏は天智天皇の子の[*大鏡]藤原不比等を祖とし、藤原頼長の摂関家直系、利仁流、秀郷流の系図は別々であり、秀郷流は奥州藤原氏が有名。摂関家、藤原氏長者の藤原頼長が越中吉岡庄(後の五位庄)の領主の時に奥州藤原氏の周辺にも庄園を所有して、奥州藤原氏に税の徴収を委託していた事から、同族の小田氏の一族が頼長の庄園の吉岡庄でも税の徴収をしていた可能性がある。奥州とは青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部を含み、奥州藤原氏は一時期、陸奥、常陸を支配した様だ。藤原氏の財力の一部は奥州の庄園から上がる金、馬、農産物であったと云う。(※「藤原頼長」)


■【小田氏と小山氏の吉岡庄に残る系統】
[小山氏の乱]室町時代に小山義政が鎌倉公方足利氏満に起こした反乱。名門の小山氏と宇都宮氏の勢力争い。小山氏は敗れたが、討伐軍に居た『小田氏が恩賞への不満から小山氏の嫡男をかくまって居た為、氏満から追討された。』小山氏は後に親族の結城氏が継いだ。この結城氏が起こした「結城の乱」の時に「小山氏」の末裔は「越中五位庄」の「土屋村」に逃れて、その末裔は今も土屋村に残り、地域では「親っ様」と呼ばれて加賀藩時代も村役を務めた。

■[越中吉岡庄に残る「小山氏」の系譜]
高岡市福岡町赤丸村や隣の三日市村には「小山」という一族が有る。この一族は「オヤマ」と呼ぶが、三日市の小山家は昔から「こやまどん」(小山殿)と呼ばれる名門である。この家の「由緒」には、「私先祖下野国之住人小山四郎朝政与申候而、奉仕頼朝公右衛門尉或兵衛尉ニ相成、----其後結城之乱之節、越中国江罷越---」と記載され、鎌倉幕府の小山氏の末裔が結城の乱の時、砺波郡土屋村にやって来た事が記載されている。
(※「小山家由緒」⇒高岡市福岡町の「土屋村誌」参照)

■【永亨の乱】永亨十年(1438年)、室町幕府第六代将軍足利義教に対して、鎌倉に陣した鎌倉公方足利持氏が反抗した為、持氏は諌める家臣の関東管領上杉憲実を逆に討とうとした。その為、上杉は将軍義教に支援を求め、結果、持氏は敗れて自害する。
【結城の乱】永亨十二年(1440年)、鎌倉公方足利持氏の遺児3名を奉じて鎌倉公方恩顧の武将の結城氏朝(下総結城氏の第11代当主。小山泰朝の次男。 )は新田、田中、佐野、今川、木戸、宇都宮、小山、桃井、里見、一宮、野田、矢部、下河辺の諸将等を味方として反乱を起こしたが、結城城で降伏。持氏の遺児春王丸・安王丸は将軍足利義教に殺害されたが、幼い永寿王は一命を許されて土岐持頼に預けられた。この永寿王は文安五年(一四四九)一月元服して足利成氏と名乗り鎌倉公方に復帰する。父を殺された成氏は諸国巡礼に出向いた上杉憲実の子の嫡男憲忠を享徳三年(一四五四)十二月に殺害し、古河へのがれて「古河公方」を名乗る。一方、幕府は足利政知を任命したが、乱を恐れて伊豆に留まり「堀越公方」となった。室町幕府は、不在になった鎌倉には関東管領山内上杉氏を据え、長尾氏を執事に任命した。※嘉吉元年(1441年)の幕府軍の総攻撃で結城城は炎上し、結城氏朝は嫡子の持朝とともに自害し結城氏は没落した。敗れた結城氏は白河結城氏後継に小峰氏から養子として直朝を迎えている。持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方に復帰した時、結城氏は氏朝の末子結城成朝が再興を許されたがその後は衰退の一途をたどる。成朝は成氏の命を受けて関東管領上杉憲忠を謀殺し「享徳の乱」が起こる。足利成氏は古河に逃れて古河公方と称した。

■石堤長光寺境内に「織田氏知」の墓が遺されており、小田氏系図には「小田氏知」の名がある。この結城(小田)氏朝と氏知は同じ人か? 果たして石堤長光寺創建の小田氏知は、土屋村に残る「結城の乱」の後に越中土屋に逃れた小山氏と関係があるのだろうか?


■【藤原秀郷伝説 ー藤原秀郷と龍神】
◎(wiki:【藤原秀郷=俵藤太の百足(ムカデ)退治伝説】
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。(秀郷の本拠地は下野国―栃木県)
(伊勢神宮には「秀郷が百足退治に際して龍神から送られた」という伝来の太刀が奉納され、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている。 )

◎赤丸浅井神社、石堤長光寺の山並に連なる高岡市の二上山にも「藤原秀郷」の伝説が有る。
民話【高岡市二上山の悪王子伝説】
昔々、越中の「二上山」に強い力を持つ神様が住んでおり、天候を操作して越中の人々に豊かな穀物を与えていました。が、その代わりとして月に5人、一年間にして60人もの若い娘を人身御供に要求していました。 地元の人々は嘆き悲しみその悲しみの声は帝(みかど)の耳にも達しました。帝は ついに俵藤太(藤原秀郷。田原に住む藤原氏の頭の意。)に勅命を下し、この邪悪な神の討伐を命じました。秀郷は琵琶湖の龍神を助けて三上山の大百足を退治し、平将門を鎮圧した猛将として有名でした。秀郷が越中の二上山の近く迄来ると一軒の家から泣声が聞こえて来たので、その家を覗いた所、お爺さんとお婆さんが一人の娘と泣いています。事情を聞くと、夕べこの家の屋根に「二上の神」から「娘を差し出せ」という合図の白羽の矢が立ったと泣きながら話します。秀郷は事情を聞くとその娘の打掛けを頭から被り秀郷が身代わりになると云う。秀郷を乗せた輿は「荻布村」に着き、「俎板橋(まないたばし)」という橋に置かれました。輿を残して運ん村人達は一目散に逃げ去りました。二上山に夕陽が落ちて暗くなると突然、一陣の風が吹きつけて秀郷の乗る輿は空高く舞い上げられて「二上山」の山頂に運ばれて行きました。 真暗な闇の中で秀郷は刀や弓を持ち、じっと気配を伺っていると、少し風が吹いて、地面が揺れ初め、地鳴りと共に大きな光る輝く二つの目がゆっくりと近づいて来ます。秀郷は素早く自慢の弓を満月に引き絞ると次々に矢を放ちますがいくら射っても矢は化物に跳ね返されます。最後の一本になって願いを込めて渾身の力で矢を放つと、確かに手応えが有りました。次いで腰の刀を引き抜いて斬りかかり、渾身の力で斬って斬って斬り捲ります。どれ程の時間が過ぎたものか東の「立山」からの朝の光が殺された「二上の神」を照らし出します。するとその化物は二上山を「七巻き半」も巻き込む位の「大蛇」の姿でした。その後、「二上の神」は「悪王子社」として「前の御前」に祀られ、俵藤太は「奥の御前」に祀られました。しかし、この伝説は今も射水神社の「築山行事」に受け継がれ、「築山」を日暮れ前に壊さないと「悪王子」が取り憑き、大暴れしてその年は米が不作になるとされています。
【二上山の伝説より】


■「長光寺の寺紋」は中国皇帝にしか許されなかった「五爪の龍紋」


【「石堤長光寺」の寺紋「玉持ち五爪の龍紋」 と藤原秀郷】
⇒「龍の爪紋」は藤原秀郷流で用いられたと云う。当初は藤原秀郷=龍神の発想から神社の神紋にも使用された様だ。小田氏同族の宇都宮氏は"左三つ巴"、小山氏は"右二つ巴紋"で、一般的には藤原秀郷流では水の流れを模った二つ巴、三つ巴紋や「藤姓」の下り藤紋を使用しているケースが多い様だ。藤姓宇都宮氏流小田氏は洲浜紋という紋をしており、巴紋の変形ともみられる。これ等は龍が水神であると同時に、龍の爪紋が簡略された場合もあったとみられる。寺院では「珠」は「宝珠」ともされ、龍の彫刻も多く見られる。しかし、長光寺の「玉持ち龍の爪紋」は全国でも見受けられないが、氏族の系統からすると「天智天皇の子孫の藤原秀郷流」を意味しているとすると「五爪の龍」の意味も通じる。一般的には「三爪の龍」が使用されるが、皇帝しか使用できない「五爪の龍」に、この寺の歴史が通常ではない事が推察できる。日本の天皇でも孝明天皇迄使用された「袞衣(こんい)」と呼ばれる中国風の赤い衣装の龍の爪は四本であり、中国皇帝は五本の爪であった。とすると、この「五本の爪」が「石堤長光寺」の寺紋になっているのは、少なくても天皇家以上の家紋を用いていたと言うことになる。「龍の爪紋」は常陸の国信太郡竜崎村を起源とする龍崎氏等が使用し、常陸の藤原秀郷流「龍崎氏」は茨城、千葉、東京都、神奈川等の関東に多いとされる。
鎌倉時代に越中には「臨済宗」の寺院が多く建立されている。北条氏は建長寺他の臨済宗寺院を建立し、比護している。高岡市赤丸村の「赤丸浅井神社」は徳川と豊臣の戦乱のきっかけとされる臨済宗の「方広寺」と同じ「両部神道聖護院派山伏」だったが、鎌倉時代には赤丸から伏木・新湊にかけては鎌倉五山系列の臨済宗寺院が多く在ったと伝わる。後醍醐天皇の皇子の「尊珍」は聖護院門跡で有り、赤丸を中心とした「越中吉岡庄」は当時、後醍醐天皇の庄園だったと云う。(✳「宝永史」) 現在の高岡市に在る古刹で尺八・虚無僧の総本山「国泰寺」も臨済宗で有り、南北朝時代には後醍醐天皇が篤く信仰され比護されたと云う。室町時代に入ると足利義満は臨済宗相国寺・金閣寺を建立し、赤丸周辺の五位庄(元の後醍醐天皇庄園越中吉岡庄)をこれ等の寺院に糧所として寄進し、その後も足利家菩提寺の等持寺・等持院領として寄進している。臨済宗では「龍」は仏の教えを助ける八部衆の一つで「龍神」と呼ばれる。従って、臨済宗の寺院には天井絵や彫り物として「龍」が使用されている。加賀藩時代にも氷見阿尾城城主の子孫の菊地大学は赤丸村の山崎氏に国泰寺維持への協力依頼の文書を送っている。この様に「吉岡庄」「五位庄」は臨済宗の影響も長く受け続けた地域である。
★鎌倉の古刹の各寺院の龍の絵は、江戸時代迄に書かれたものは「三爪の龍図」で、近年に書かれた鎌倉建長寺の龍は「五爪の龍図」で有る。この「石堤長光寺」の「五爪の龍」が「宋の皇帝から贈られたものか、創建に関わった一族の五爪の龍」で無い限り、旧い時代には厳格に使用を禁じられたものであった。(※天皇でも「四爪の龍」しか使用されていない。)



■[藤原秀郷の後裔と家紋]
[下野国]佐野氏、足利氏 (藤原氏)、小山氏、長沼氏他 [武蔵国]比企氏他 [常陸国]佐藤氏、水谷氏、江戸氏他 [下総国]結城(小田)氏他は藤原秀郷の末裔とされる。
一方、足利氏、斯波氏は「丸に二両引き紋で円の中に二本の横棒」、織田氏は「神紋由来の織田木弧紋」を用いており、子孫が別々の紋を用いたとしても、藤原秀郷流の紋を使ったとは思えない。「龍」は滋賀県大津市の「勢田橋龍宮秀郷社」では【祭神:大神霊龍王 藤原秀郷公】として龍王の藤原秀郷を神としており、藤原秀郷を龍神として信仰する歴史があった様だ。
※藤原秀郷流系図
藤原秀郷→→→→頼行→行尊(太田)→有綱→正光(小山)→朝光(結城)



■【その後の結城氏の系譜】結城氏は1590年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して小山氏、小田氏の旧領の一部を与えられ、初め宇都宮氏から養子の朝時を迎えていたが、後にはこれを廃して徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子になっていた羽柴秀康を後継者に迎え、結城秀康と名乗る。結城秀康は1604年越前に移封され、名字を「松平」と改姓した。又、白河結城氏の末裔は水戸藩家老(1000石)となり、小山氏、宇都宮氏と共に水戸藩御三家となった。※徳川家康の次男秀康(家康が正室・築山殿の侍女に産ませた)は秀吉の養子となるが、秀吉の子供である秀頼が生まれると結城晴朝の姪である鶴姫と 婚姻を結び結城氏となった


【北陸に残る藤原秀郷の末裔[八田氏]】小松市には小田合繊や、金沢には宇都宮書店等が有り、大和百貨店の社長の宮家の親族には金沢ニューグランドホテルの社長を務められた八田氏がある。

■【奥州と越中吉岡庄】
東大寺大仏造営の時、東北の陸奥国小田保( 宮城県涌谷町※石巻近く ) の金山から金が発掘され、聖武天皇は狂喜されたと云う。大伴家持(後には陸奥国多賀城に赴任した)が越中国司の時、聖武天皇に「金を産出した事を祝う歌」として「海行かば」の有名な歌を贈っている。
東大寺大仏造営の為に資金を提供した富山県と大伴家持、越中と陸奥国に勤務した大伴家持、金を産出した陸奥国「小田保」と「小田氏」、奥州を統治した藤原秀郷の子孫奥州藤原一族と奥州藤原氏に奥州の庄園を管理させていた越中吉岡庄の領主の藤原頼長、南北朝期に後醍醐天皇の皇子が統治された陸奥国と後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」ーーこの様に見ると、赤丸村浅井神社を核とした「越中吉岡庄」と「奥州、陸奥守国」の関係の深さが解ってくる。

■茨城県筑波市小田には広大な小田城趾が残る。筑波山系の宝篋山南西麓にある中世の平城で、陸奥国小田郡小田保を発祥の地とする小田氏が常陸国筑波郡小田邑に入って城を築いた。
元弘三年五月の後醍醐天皇の建武の中興の時に小田氏は南朝派の東国武士団の先駆けとして新政権に参画した。建武の中興が挫折し、足利尊氏軍の高師冬軍に囲またがその時京都の公家北畠親房が入り小田城を守った。これは常陸合戦と呼ばれる。北畠親房は後醍醐天皇の薨去を知り、神代から後村上天皇の即位迄を記した南朝の正統性を示す歴史書「神皇正統記」をこの小田城で書いた。北朝軍の猛攻で小田城は降伏し、北畠親房は関城へ逃れた。
この時、南朝の武将で越中石黒太郎光弘の直系の福満城(福光)城主石黒重之も北畠親房に従ってこの常陸国小田城の合戦にも参戦していたと云う。(※「尾張石黒大介系図」富山県姓氏家系大辞典)

■【※常陸国中世武家の系譜と在地基盤に関する基礎的研究】[糸賀茂男(常磐大学人間科学部助教授]に、「小田氏関係史料の研究」として[小田氏故地陸奥国小田保、小田氏流高野氏故地陸奥国高野部の踏査を行った]とされている。】

■【室町時代の五位庄】
1336年(建武3年)に足利尊氏が室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。足利義満の時に越中五位庄の半分は義満が建立した相国寺(金閣寺)に寄進され、室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護畠山満家に預け置かれた。 名古屋市の大須観音の古文書には畠山満家の三回忌が「浜総持寺」で執り行われた記録がある。(※射水市松山学芸員調査によるとこの「浜総持寺」はその時の読経の文書から、現在高岡市内に在り黄金の千手観音像を祀っている「総持寺」が赤丸村から高岡市に移る間に一時期、射水の海岸寄りに在ったものと推定されると言う。)




🔴🔹「越中吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)」の「鍛冶屋町島」に移り住んだ「越中刀工 宇多」⇒宇多刀工の説明に出る【越中国宇津】は、「赤丸浅井神社」前の「阿光淵」の事か?

2021-04-18 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










【宇多総本家】の末裔と言われる家系は富山県射水市大門町に残っている。又、「宇多」を名乗る一族は富山市や舟橋村等にも残る。「宇多刀工」は、越中利波郡を統治したと云う蜷川氏の本拠地の富山市太田・蜷川郷や周辺の舟橋村等で作刀したと云う。

●全国的には、「宇多刀工は大和国宇陀郡から越中国宇津に移り住んだ」と云う表現が見られる。これは恐らく古くからの国立の神社【国幣小社】で在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の前で、古代には「小矢部川」と「庄川」が合流しており、赤丸浅井神社前には広大な「淵」が拡がっていたからだと見られる。この「淵」は「阿光淵」とも、「阿古淵」とも、「吾子淵」とも書かれるが、「阿古淵」の畔に住んだ一族は「阿古下」と呼ばれ、今もこの一族は赤丸村鞍馬寺地内に残り、この一族は赤丸浅井神社の施設も奉納している。又、「吾子淵」は「赤丸浅井神社」を創建された「元正天皇二宮」(※文武天皇二宮の石川朝臣広成・聖武天皇の弟)の事を指すとみられ、「元正天皇」は「宣命」で「聖武天皇」の事を【吾子 ミマシ王→我が子のミマシ王】と呼んでおり、この淵の名前が【吾子淵】と呼ばれたのがその発祥と見られる。この淵は広大で、流れは速く、渦を巻いて流れ、この淵の傍に「大河の畔の神 」の【八河江比売神】が祀られたと云う。この神は近江国の琵琶湖の畔に祀られる近江国の古代氏族「浅井氏」の氏神で在り、伊勢神宮の「度合延経」は「神名帳考証」で【浅井とは浅井神社在れば成り】と記している。




■その様子が残る絵図は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に遺されている。(※「浅井神社古墟図」)






(※「系図」等には「吉岡庄三日市」、「五位庄三日市」と記載されるが、加賀藩時代には、嘗て前田利家と戦った「赤丸村」の表示は地図から消されていた。尚、元々、「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は、室町時代に足利幕府の糧所になると「五位庄」に改名された。)


🌸🏯🐎 【宇多源氏】 高岡市福岡町【木舟城城主 佐々平左衛門義茂】の事。⇒越中国主「佐々成政」の家老【佐々平左衛門】由緒・系図!!

2021-04-18 | 富山県高岡市福岡町


「加賀藩時代の五位庄」








◆加賀藩の軍学者が1600年代に記載した「国主城絵図」に在る「木舟城」と見られる絵図(※貴船神社と見られる「島」が記載される。)




■越中国主で【宇多源氏佐々木氏】の「佐々成政」の家老【佐々平左衛門義茂】は、高岡市福岡町の「木舟城」に在って加賀・能登から攻め寄せる「前田利家軍」と対峙した。

「佐々平左衛門 由緒」




■高岡守山城「神保氏張」、高岡柴野城「寺嶋牛介」、「赤丸浅井城「中山直治」と共に【能登末森城の戦い】で「前田利家」と戦った「佐々平左衛門」の由緒・系図を記載した詳細研究書が見つかった。(※「佐々成政関係諸系譜」浅野清編著)











■【佐々成政】は「宇多源氏佐々木氏」だが、ある時に主家の「斯波家」からの書状に誤って「佐々」と書かれていた事から、通称として「佐々」を名乗ったと云う。
この子孫からは、絵画の【狩野探幽】や、徳川将軍の室を【徳川家光の室孝子】、【徳川綱吉の室信子】と二代に亘って輩出しており、又、赤穂藩家老で近江国田原の藤原氏の名家「俵藤太」の末裔「大石内蔵助」の妻【理玖】もその子孫に当たる。



【宇多天皇末裔の宇多源氏佐々木氏】
宇多天皇の第8皇子の「敦実親王」の流れをくむ宇多源氏で、「源成頼」の孫の「佐々木経方」を祖とする。近江国蒲生郡佐々木庄の発祥で、鎌倉、南北朝、室町時代の軍事貴族として繁栄した。【治承・寿永の乱】(※源平の戦い)以後、活躍して全国に勢力を広げ、幕府の要職を勤めている。「成頼」の後に近江一帯を拠点として名前を挙げた「源義経」はこの子孫に当たり、往々にして、清和源氏「源頼朝」の弟の「源義経」と混同される。
「近江源氏 六角氏」はこの「佐々木氏」より出た





■【越中関係の宇多源氏の系譜】
室町幕府第三代将軍【足利義満】は「越中五位庄」を領地として「相国寺」に寄進している。この「足利義満」の母の「紀良子」は【宇多天皇】の末裔に当たる為、義満の母親は「宇多天皇末裔」を称している。
又、宇多源氏の【佐々成政】と越中で争った【豊臣秀吉】の父の木下氏は「宇多源氏高島流」で在り、南北朝時代の「越中吉岡庄」・室町時代の「越中五位庄」の高岡市赤丸村鍛冶屋町島で刀を鍛えたあの著名な刀工の「宇多鍛冶」も近江国の「宇多源氏佐々木氏流」と云われる。

■加賀藩に仕えた「佐々一族」の中で、【馬廻役佐々主殿】は家計に困窮して上司の組頭「久里正長」に救いを求めたが、無視された為に横目を通じて書状を上書した。これに怒った【加賀藩主前田綱紀】は親子三人に死罪を申し渡した。しかし、その遺品にはしっかりと整備された武具が遺されており、何時でも出陣できる体制で在ったと言う。この事を聞いた「前田綱紀」は自らの不明を恥じたと云う。

🐎🌸📜 越中国の「射水氏」と連歌の『宗祇 ソウギ』⇒ 室町幕府「三代将軍足利義満」、幕臣「蜷川新右衛門親当」 と『宗祇』!!

2021-04-18 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【室町幕府直轄庄園・室町幕府御粮所 越中五位庄】(※富山県高岡市福岡町福岡町赤丸➡「越中国利波郡五位庄赤丸村」)
▼足利義満によって室の業子の追善供養として「京都」の【相国寺】の庄園として寄進された【越中五位庄】➡「赤丸浅井城」には、「室町幕府守護 畠山持国」の名前が記される。













■「越中射水氏」の子孫『飯尾宗祇』?




■富山県の「砺波郡」、「射水郡」の語源になった越中の古代豪族「利波臣」、「射水臣」系図



■室町幕府の要職に就いていた「越中蜷川氏」の「蜷川新右衛門」⇒「一休さん」と「新右衛門」




💠【「三代将軍足利義満」の母「月海夫人」は越中蜷川氏】













■連歌の『宗祇』は、応永28年(1421年)に近江か紀州に生まれ、若くして京都「相国寺」(※搭頭寺院金閣寺)に入り、30才過ぎから「宗砌 ソウギ」に師事して連歌を学び、各地を遍歴して能登畠山氏等を歴訪している。
越中の射水氏が漢系の算博士三善氏の養子と成り、三善為康を名乗った。その子孫は室町幕府で要職に就いている。






■鎌倉時代には、頼朝に登用されて問注所執事を勤めた三善為康の孫の三善朝臣康信の子弟の後裔は、町野・太田・一宮・矢野・飯尾・布施等に分かれて、鎌倉・室町両幕府の奉行人として存続した。その「三善系図」を見ると、三善氏の一部に近江国町野に住して「町野氏」を名乗った一族が在り、この町野氏も室町幕府で要職に就いている。飯尾氏はこの町野氏の子孫にはならないが、「飯尾宗祇」もこの系統の人物と見られる。
「宗祇」は若くして足利義満が創建した「相国寺」に入寺しており、「足利義満の母は越中蜷川氏から出た月海夫人」で在ると云う。「足利義満」の近臣として、又、「宗祇」の連歌の高弟として著名な「蜷川新右衛門親当」もこの時期に活躍して、文安四年(1448年)には蜷川新右衛門親当は死去している。
「宗祇」についての明らかな出自が分からないが、飯尾氏を名乗り、足利家所縁の「相国寺」で若くして出家しており、越中蜷川氏とも懇意で在ったと云う事から、又、「飯尾氏」が越中射水氏の子孫で在る事からの繋がりを考える時に、「飯尾宗祇」は越中射水氏の流れを汲む人物だった事が推定できる。
(※この時期に赤丸村を含む「五位庄」は足利義満により「相国寺」の庄園として寄進されて、その後も足利家菩提寺「等持寺」、「等持院」の庄園として続いている。又、室町幕府の重臣「越中蜷川氏」はこの「五位庄」を含む「砺波郡」と富山市周辺の「新川郡」を統治していた。)
















■「飯尾宗祇」は、足利将軍家近臣の蜷川氏の統治下の「越中五位庄」に滞在して、

「錫を ○○の古木にかけて一夜神號を呪して○さる事尊し、 然る夜浅ふして○○のこかげの音しければ『里の名のこんかきくけこ五位庄』と歌を詠んだ」と加賀藩時代の五位庄十村役五十嵐豊生が伝えている。
《現在は廃校になった赤丸小学校の「永久保存」と記された古書に書き遺されている。》(※「富山県史 中世」、「蜷川の郷土史」)



■高岡市福岡町赤丸には、古く「赤丸小学校」が在ったが、福岡町との合併の後に「福岡小学校」に統合されて廃校に成った。この赤丸小学校下には「舞句」と言う文化が現在も残っている。上の句、下の句を各々が出題して対する下の句、上の句を返す歌遊びで在る。これは、「連歌」の形を残すもので、五位庄一帯の神社や仏閣にその短冊を並べて額に納めて奉納した。現在も旧赤丸村区域ではこの「舞句」が活発に作られている。
(※高岡市福岡歴史民俗資料館にも「舞句の奉納額」が展示されている。)