赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📕📖📃 富山県の【新川郡】の始まり⇒「越中国」の古代氏族「物部連」(※「先代旧事紀」)!!

2021-04-20 | 富山県
『物部連』を賜った『大新河命』の祖の【宇摩志麻治命ウマシマジノミコト】は『人皇初代神武天皇』に仕えて「大神」を齋き奉ったと云う。


『越中国』の「新川郡ニイカワグン」と「利波郡トナミグン」


■富山県東部に「新川郡」が在り、富山市新庄町には「新川神社」が祀られている。
神社由緒に
【大己貴命・白山比咩命・天照皇大神・菅原道真公を主祭神とし、琴比羅神・建御名方命を合せ祀る。大己貴命を「大新川命」、白山比咩命を「大新川姫命」と称して尊崇されており、『国史大系』では新川郡の地名は「大新川命」に因むものとしている。
『日本三代実録』貞観9年(867年)2月27日条に「正五位上、新川神に従四位下を授く」という記述が初見で、同18年7月11日には従四位上に昇叙されているが(同書)、『延喜式神名帳』の記載はない。】
と在り、この地域は古くは京都の「祇園社」(※現在の「八坂神社」)の庄園で在り、京都の宇治を本源とする「宮道氏 ミヤジシ」が統治した。その「道道氏」の末裔が後に、富山市蜷川郷に城を構えて現在、「最勝寺」の在る地に「蜷川城」を構えた。この一族からは「宇多天皇」の中宮「胤子」を輩出して、室町時代にはその子孫の「紀良子(※月海夫人)」は室町幕府第三代将軍「足利義満」を産んだ。この「蜷川氏」は滑川に城を構え、新川郡一帯を統治すると共に、越中西部の「利波郡」を知行されたと云う。(※「蜷川の郷土史」)
「足利義満」の近臣として「政所代」を勤めた「蜷川氏」からは、「一休さん」にも登場する「連歌」の「宗祇」の高弟「蜷川新右衛門」を輩出しており、「蜷川家文書」には「蜷川新右衛門からの阿努庄代官神保氏に宛てた書状」が遺されている。







■この「新川命」については、「蘇我馬子」が勅を奉じて修撰したとされる「先代旧事紀」の「巻第五 天孫本紀」に記されている。
【天孫の天津火瓊瓊杵尊ニニギノミコトの孫の磐余彦尊イワヨヒコノミコトが天下を治めようと軍を興して東征された。往々に命令に従わない者が鉢のごとく起こり、従わなかった。中州の豪雄の長髄彦ナガスネヒコは饒速日尊ニギハヤヒノミコトの御子の宇摩志麻治命ウマシマジノミコトを推して君として遣えていた。長髄彦は「天神の御子は二人も居る訳が無い。私は他に居られる事を知らない。」
と言い、兵を整え防ぎ戦った。天孫の軍は連戦したけれども勝つ事が出来なかった。この時、宇摩志麻治命は舅の作戦に従わず、帰ってきたところを誅殺した。そして、衆を率いて帰順された。時に天孫は宇摩志麻治命に「長髄彦の人となりは狂迷であった。兵の勢いが猛々しく、敵として戦ったが、勝つ事が難しかった。舅の作戦に従わず、軍を率いて帰順したので官軍との戦いは終わった。朕はその忠節を喜ばしく思う。」と仰った。宇摩志麻治命は天神の御祖が先祖の饒速日尊に授けた「天璽瑞宝十種アメノシルシノミズノタカラトクサ」を天孫に奉り献上した。天孫は大いに喜ばれ大変寵愛された。また、宇摩志麻治命は天物部を率いて荒々しく逆らうものを平定して行った。また、軍を率いて海内を平定し報告した。天孫の「磐余命イワレヒコノミコト」は役人に命じて都を造り始められた。】
(※富山県郷土史会発行の「越中古事記」に「長髄彦」が登場する。「中州の豪雄の長髄彦」とは「高志国」の豪雄の長髄彦と云う事か?)







■「先代旧事紀 巻五」には、天孫の「瓊瓊杵尊」の十八世孫の「尾治乙訓與止連オワリノオトクニヨジノムラジ」の弟の「宇摩志麻治命」の七世孫の『大新河命オオニイカワノミコト』について記している。
(※「瓊瓊杵尊」は富山県射水郡の「延喜式内社二上射水神社」・「延喜式式内社福田荊波神社」の主祭神でも在り、その妻の「木花咲夜比売」は石川県と福井県に股がる「白山信仰」の本山の「白山比咩神社」の御神体で在り、白山を開いたとされる「泰澄大師」が初めて「赤丸浅井神社」に僧坊を結んだと伝わる「延喜式内社赤丸浅井神社」にも併神として祀られている。)
⇒『大新河命』は『垂仁天皇』(※皇室系譜第11代天皇。『日本書紀』では「活目入彦五十狭茅尊イクメイリヒコイサチノミコト」とされる崇神スジン天皇の第3子。)の時に大臣と成り、【物部連公モノノベムラジノキミ】の姓を賜ったと云う。この「物部大連」の号はこれが始まりで在る。

■【先代旧事紀 巻十】には、全国の『国造』について記された『国造本紀』が記載されている。






■「度合延佳」の著作『神名帳考証』に掲載される越中国利波郡の「延喜式内社 五位庄惣社 赤丸浅井神社」
(※「惣社」とは朝廷や国司が幣帛を捧げる時に地域の代表として参詣した神社を云う。)







🏯🐎 【越中の足利幕府臨時政権】 『足利季世記』⇒ 越中に臨時政権を打ち立てた室町幕府第十代将軍【足利義材】の記録!!

2021-04-19 | 富山県
●「室町幕府第十代将軍足利義尹が越中に臨時政権を建てた」事を記す「足利季世記」!!





■若くして室町時幕府第十代将軍に就任した「足利義材」は室町幕府重臣の管領細川政元に軟禁されたが明応二年、脱出して能登守護畠山義元(畠山義統の嫡男)、越中の神保氏、石黒、椎名氏等を頼って落ち延びて、射水郡の放生津に館を構え、近郷の武将を集結して臨時政権を建てた。しかし、越中政権は短命に終わりやがて「足利義尹」は福井の朝倉氏を頼って再び放浪した。







■管領、越中・能登守護を勤めた畠山氏の「畠山家文書」には当時の越中絵図が遺されている。この中には富山市願海寺、高岡市森山に「城」が記載されるが、放生津には「城」の記載が無い。南北朝末期に放生津城を構えた「名越時有」は南朝軍に一族が攻め滅ぼされて放生津城は落城しており、足利義材が越中に入った時の放生津城は「館」形式のもので在ったとする意見が在る。

又、「畠山文書」の「越中絵図」に拠ると、室町時代の富山県は利波郡、射水郡の区分を超えた新しい区画に成っており、この時期の放生津は「中郡」に属していた事が分かる。

■足利 義稙(アシカガヨシタネ);室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍足利義政の弟の足利義視。
生誕 文正元年7月30日(1466年9月9日) ~ 死没 大永3年4月9日(1523年5月23日)
父:足利義視 養父:足利義政、足利義尚
初名は義材(ヨシキ)。将軍職を追われて逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(ヨシタダ)と改名。将軍職復帰後の永正10年(1513年)に義稙(ヨシタネ)と改名。

🌄 【加賀藩の信仰】加賀藩江戸板橋下屋敷 に在った【赤丸山】・【大岩】と加賀藩のリンゴ栽培⇒越中の名刹 【川人山鞍馬寺】・【上市町大岩不動尊】!!

2021-04-19 | 富山県

■「赤丸浅井神社」の背後に在る【赤丸山】と加賀藩が読んでいる【清水山】

「赤丸浅井神社古墟図」(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)

■加賀藩江戸板橋下屋敷の【赤丸山御亭(休憩所)】と日本初の【リンゴ栽培】!!

広大な加賀藩江戸板橋下屋敷には山、川、湖を模した庭が有り、山は越中国五位庄の「赤丸山」(浅井神社の後ろの山ー清水山)、湖(蓮湖)は加賀藩羽咋の「河北潟」を模したものと言われる。
加賀藩は板橋下屋敷にで日本で初めての「リンゴ栽培」を始め、「ジャム」を作ったという。(※「wikipedia」)
金沢市の犀川上流には現在も大きなリンゴ園が広がっている。



■【加賀藩板橋江戸下屋敷図】
天保年間のこの絵図には加賀藩領の「越中赤丸山」や、「大岩不動」を祀った「大岩」と云う築山が屋敷内に造られていた事が記載される。この藩邸は敷地21万坪と云う広大なもので、幕末には「武器製造所」に成っていた。


◆赤丸村の古墟図(※延喜式内社赤丸神社所藏)


「赤丸浅井城跡」や、「延喜式内社赤丸浅井神社」等を記載した「赤丸浅井神社古墟図」(※加賀藩 森田柿園文庫所藏)








「延喜式内社赤丸浅井神社」は東大寺庄園「石粟庄」から「神田一段」が寄進されていた奈良時代創建の天皇家縁の神社。「川人山鞍馬寺」は京都の鞍馬寺を勘請した寺院で「赤丸浅井神社」等三社の神社を束ね別当でも在った。


「門跡寺院聖護院」の末寺「川人山鞍馬寺」の備品!!
➡(聖護院は幕末には孝明天皇の皇居に成っていた皇室縁の格式の高い寺院で在った。)



◆【上市町大岩不動尊】
(劔岳を臨む)
富山県のシンボル、立山連邦の麓の上市町に 、大きな天然石に刻まれた「重要文化財大岩山日石寺磨崖仏ー不動明王像」で有名な「大岩山日石寺」が在る。




(不動明王像)

(地蔵堂)

(「愛染堂」には加賀藩板橋下屋敷に在った「不動明王像」が祀られている。)
(愛染堂)

(三門)

(観音堂)

(十二支滝)





■加賀藩は富山県の小矢部市「倶利伽羅不動寺」、高岡市「衆徳山総持寺」、福野町「安居寺」と共に富山県上市町の「大岩山日石寺」等の密教寺院への信仰が篤かった。

富山県の立山連邦を臨む、劔岳の登山口に在る上市町に、磨崖仏の「不動明王像」を祀る越中の名刹「大岩山日石寺 ニッシャクジ」が在る。

「大岩山日石寺」の創建は神亀2年(725年)に行基が開いたと伝わり、昔、立山山岳信仰が隆盛を極めた時には「大岩山日石寺」は 21社60坊の大寺で在ったと云う。天正年間に上杉謙信に焼き討ちされて焼失したが正保年間(1644〜1648年)に「弘寒和尚」により再興された。加賀藩の治世になり、前田利常が祈願して子宝が授かった事から、前田家の祈願所となって建物が再建された。本尊の「国指定重要文化財大岩山日石寺磨崖仏」は「不動明王像」、「矜羯羅童子コンガラドウジ・制咤迦童子セイタカドウジ」の 二童子像、「阿弥陀如来像」、「僧形像」の5体で構成される。高さ3メーターを超える巨大な「不動明王像」とその足元の2メーター以上の高さの「矜羯羅童子・制咤迦童子」の二童子像は行基の自作と伝わる。(実際は平安時代末期の作の様だが、その巨大さ、精巧さ、荘厳さに思わず頭が下がる威圧感がある。)

大岩山日石寺磨崖仏の「不動明王像」は、その両肩の上の位置の岩に二ケ所の穴が在るが、これは、かつての建物の梁がここに差し込まれていた痕跡だ。更に、不動明王像をよく見ると、この不動明王の向かって左上の場所の岩が大きく削り取られている。この事に気付いた参詣者は少ないと思うが、何とこの削り取られた岩は、加賀藩の指示で磨崖仏の「不動明王像の写し」を彫られて、加賀藩の江戸藩邸(板橋宿下屋敷に大岩と云う小山がある。)に戸室石の石室に納められて祀られていたのだ。絶対的な権力を欲しいままにした加賀藩の異常な暴挙だ。この「不動明王像」は、平成初期に旧加賀藩の江戸藩邸(下屋敷)が某生保に売却された時に、藩邸の庭の築山の上に石室が発見され、専門家が調査した所「越中国上市大岩山不動明王像」と判った。協議した所、前田育徳会での管理はできないとして「大岩山日石寺」に遷佛される事になり、江戸藩邸の解体を請け負ったゼネコンの費用で日石寺に遷佛された。その時、日石寺の本堂は全て締め切られ、本尊の不動明王像の前では厳かに「遷佛会」が行われた。真っ暗の中に密教の祭壇が設けられて、「護魔法要」が執り行われ、真っ赤な炎が大きな 磨崖仏の「不動明王像」を浮き上がらせて神秘的な「遷佛会」が執行された。平成17年になって、本堂の左手に「愛染堂」が建立され、遷佛された「加賀藩の不動明王像」は「愛染明王」と共に安置される事になった。

🔽加賀藩江戸下屋敷に祀っていた「大岩不動尊」の写し







🔽加賀藩の板橋に在った「江戸下屋敷図」





加賀藩江戸下屋敷には「大岩不動尊」を祀った【大岩】と云う築山や「赤丸浅井神社」が鎮座している【赤丸山】と言う小山が在った。高岡市福岡町赤丸の「赤丸浅井神社」の別当寺【川人山鞍馬寺】は皇室所縁の【門跡寺院聖護院派】で在り、幕末の騒乱で御所が焼かれた「孝明天皇」はこの「聖護院」を皇居にされていた。加賀藩としても幕末の微妙な時期に皇室所縁の【川人山鞍馬寺】に配慮せざるを得なかったものと見られる。「孝明天皇」は妹の「和宮」を徳川に嫁がせる等、公武合体策を推進されていた。(※「赤丸浅井神社」の掲額は「加賀藩第十三代前田斉泰」の揮毫によるもの。)




「延喜式内社赤丸浅井神社」の両部神道時代の古い仏像と「前田斉泰」揮毫の「浅井神社」の掛軸。



■加賀藩は利常が信仰して以来、代々の藩主は、輿入れがあると「日石寺本堂」の後ろに在る「参籠堂」に、嫁いで来た姫君を数ヶ月間参籠させて、花嫁教育と受胎祈願をしたと云う。「参籠堂」には加賀藩の受胎祈願の為の密教秘具が錦地に包まれ、漆塗りの箱に遺されている。 又、本堂奥の六角形の建物「大日堂」には昭和時代にあの著名な画家の「棟方志功」が「参籠」している。その時に、棟方志功はこの日石寺の「不動明王像」の版画を彫り「法眼志功」と記して、この大日堂に籠って彫った何枚かの彫刻の原盤と落款印を日石寺に寄進したと云う。


「越中国大本山大岩山不動明王」棟方志功作

■大岩山は、夏場には冷たい「ところてん」と「ソーメン」が門前の宿坊で食べられる楽しみもあり、修行の為の「六本滝」「十二支の滝」は夏場には一般人で賑わう。近くには「大岩不動の湯」や「大岩湯神子温泉」等の温泉宿もあり、上市町の黒川地区の丘陵地には「穴の谷霊場」がある。参道から約30m下の谷間には石像の薬師観音堂が在って、その薬師如来像の右横から湧き出ている「穴の谷霊水」は、霊水として万病に効用があるとされ、毎年全国から多くの人が訪れる人気スポットだ。この水は酸性で「水が腐りにくい」としてコーヒーや湯茶用に、或いは何かの効用を期待する人が訪れる。この水を使用した「穴の谷醤油」は独特の風味で人気がある。


(門前の宿案内図)

(門前の茶店、宿)

(※掲載の写真、案内図は「大岩山日石寺」の了解を得て、転載しています。)

真言密宗大本山 大岩山日石寺
〒930-0463 富山県中新川郡上市町大岩163 
Tel:076-472-2301 076-472-4950(事務所) 
Fax:076-473-2221

🔘 三人の刀工「国光」と越中刀工「郷義弘」⇒徳川美術館所蔵「名物五月雨郷 ・・ 無名 郷義弘作 」と宇多刀工!!

2021-04-15 | 富山県


■2017.7.7~8.20の間、富山県水墨美術館で「尾張徳川家」と銘打って「徳川美術館展」が開催された。「徳川美術館」は曾て現役の時に勤務していた会社が「徳川美術館建設」を担当しておりそのグループの一人として何回も徳川美術館を訪れた事が在る。その時に、膨大な美術品や古文書等の中には織田信長の「天下布武」の大きな朱印や黒印の印鑑がズラリと並び目を奪われた思い出が在る。正に徳川美術館は時代を超えた「バンドラの箱」で在り、何が飛び出すのか何時もハラハラして観覧した覚えが在る。
今回の目玉は何と言っても加賀藩から伝来したと記録される「郷義弘作の国重要文化財 名物 五月雨郷 サミダレゴウ」や「正宗」等の超一級品とされる徳川家所蔵の刀剣類で在った。
(※この他にも加賀藩には、別に国宝に成っている「郷義弘」が在り、之は一般的に「前田郷」と呼ばれると言う。)

■越中刀工系図



🔻しかし、「郷義弘」と近世の鑑定家が言う「郷」は「松倉郷」に住む「義弘」を指すが、江戸時代の鑑定書には「江」と記載され「江」は「大江氏」の事で、鎌倉時代の「巴御前」の一族の「中原氏」や鎌倉時代の「大江広元」の一族で、後の「毛利氏」が名乗ったとされ、現に「江義弘」と記銘された刀剣も確認している。この記銘の刀も多くは無いようだが、記録に拠ると「大江氏」が越中国の内島村(現在の高岡市内島村)を所領にしていた事が角川日本地名大辞典に記載されている。
【wikipedia;大江 広元(旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。】  👇大江氏は今上天皇の直系祖先に当たると言う。





「毛利家文書」【貞和五年八月(1349年)】に記録に拠れば、「越中国内島村」は鎌倉時代に「毛利家家臣」の「長井道可」から嫡子「貞頼」に譲られ、「次女 ねす御前」に譲られている。(「萩藩閥閲」)➡(「角川日本地名大辞典」)














■越中の名刀として諸大名が欲しがった「郷義弘作」の刀は、作刀の時に殆ど銘を刻まなかった事から「郷とお化けは見た事が無い」と云われ、残存する「郷義弘」は全て刀剣鑑定家本阿弥の鑑定に依るもので専門家の中でも在銘の現物を見た人は居ないと云われる。近年、入手した江戸初期の鑑定家の所持した「刀剣鑑定書」には「越中刀工宇多派」の系図や押し型と併せて「郷義弘の押し型」が載っている。

この鑑定家のレベルは知り得ないが、江戸期を通じて一族で四代の鑑定家が居た様だ。
この鑑定書に掲載の「郷義弘」の押し型は今日拝見した徳川美術館所蔵の刀剣とは随分違う様に感じた。徳川家所蔵の物は無銘乍らスッキリと明るい地肌で在り、永年の刀剣管理の為に研ぎあげられている様だ。

■「郷義弘」は相模、又は鎌倉刀工の「新藤五国光の弟子 正宗」の弟子十哲の一人とされ、或いは系図では越中富山の呉羽山の麓の呉服郷(富山市五福)に工房を構えた佐伯則重の弟子ともされている。「則重」は近年、新藤五国光の弟子で正宗の兄弟子だったともされていると言う。本日の美術展には「正宗」や「則重」も展示される等、刀剣愛好家には垂涎の的の御宝ばかりだったが、これ等の刀工系図に付いては専門家にも異論が在り、「相州伝」・「鎌倉伝導」とされる「則重」や「義弘」にも「大和伝」や「城州(山城)伝」の景色が見られると鑑定されており、真の弟子系統には異論が在る様だ。

■「三人の刀工国光」の様々な意見
「国光」には前出の「新藤五国光」①、京都(山城国)「來国光」②、越中国吉岡庄(赤丸村領)三日市に大和国宇陀郡から移住した「宇多国光」③がおり、偶々、「則重」や「義弘」が「大和伝」、「城州伝」の特徴も見られると鑑定される事から、本来は「則重」・「義弘」との関係からこの「国光」は「新藤五国光」の事に成るのだが、鑑定家の中には「來国光」としたり「宇多国光」と記載されたりしているケースも在る様だ。
時代的には何れも鎌倉から室町時代の「古刀」と云われる時代で在る事から、銘の無い物は特に後から銘を打ち込んだり、鑑定で「鞘書き」と言って「鞘」に刀工銘を墨書して流通させていた為に中々、真贋を見分けるのは中々に難しい。近年は刀剣鑑定の団体が鑑定書を発行して流通しているが、中には鑑定書だけの売買も在る様で、刀装をしたものでは刀の現物を見ないと偽物に鑑定書が付けられているケースも在る。又、「古刀」は元々、長尺のものだったが、戦が地上戦から馬上戦に変わって来ると、「摺り上げ」と言って刀剣の束の部分を削って短くする様になった為に、束の部分に在った「銘」が消えてしまう。その為に古刀には銘の無い物は多くなる。又、昔は御客からの注文で作刀する時には「銘」を入れなかったとも云われ、在銘の刀剣を元々の長さで拝見する事は中々に難しい様だ。又、「刀身」自体が永年維持の為に繰返し研きあげられた為に表の鋼鉄部分が磨り減って芯の部分が露出して来ると言う。
専門的な「波紋」や刀身の柾目、木目紋等の奥深い部分を極めて、「刀剣観賞」を行う事は中々難しいらしい。又、維持する為には相当の維持費が掛かり、文化財でも在る刀剣を伝承するのは中々に難しい様だ。予算の無い博物館等では刀剣の寄附が有っても断る所も出ていると聞く。これからは専門的に刀剣を維持保存する「刀剣博物館」は必要で在り、最近、富山市内に開館した「森記念秋水美術館」は正に時宜を得た施設だ。この刀剣美術館には越中吉岡庄に栄えた「宇多刀工」の刀剣も収集している事から、「観光施設」としても公的な助成が在っても良いのでは無いか? 越中には著名な「宇多刀工」や「郷義弘」、「佐伯則重」等の有名な刀工が栄えた事から、寧ろ、この様な施設は富山県や高岡市等が設置すべき施設だろう。
特に「前田家の文化を引き継ぐと自負する高岡市」なら、観光誘致の為にも開設すべき施設だろう ❗

■「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に栄えた「宇多刀工」










🌸🌸 室町時代の【越中国五位庄】の統治絵図(※「畠山文書」羽曳野史料叢書)!!

2021-04-14 | 富山県



「足利義満」が創建した仏堂「舎利殿金閣」は、相国寺塔頭の【金閣寺】として有名だ。


■「洛中洛外屏風」(上杉本)に見られる「足利義満」の屋敷『花の御所』と義満が開いた【相国寺】
《「上杉本」は織田信長が上杉謙信に贈った屏風で、越中国の「守山城城主神保氏張」に信長が妹を嫁がせた為に謙信が信長の越中進攻を疑って関係が悪化した為に謙信の御機嫌を取る為に様々な品を贈った。》



■「足利義満」が創建した「相国寺」の記録「塔供養記」には「神保」、「遊佐」等の諸将が記載される。




■室町幕府第三代将軍「足利義満」の時代に「後白河上皇」以来続いた皇室庄園「吉岡庄」は「五位庄」と改名され、「五位庄」は「室町幕府御糧所」に成った。「南北朝の合一」が成った明徳三年(1392年)には「相国寺堂供養」が行われ、その「供養記」には「管領畠山満家」と共に「遊佐」「神保」「井口」「斉藤」等の越中諸将と見られる名前が列記されている。応永12年(1405年)に、室の「業子」の供養の為に「足利義満」が「相国寺」に「越中五位庄」を寄進し、応永15年(1408年)には「足利義満」も死去した。
その後、「足利義持」は「五位庄の半分」を足利将軍家菩提寺の「等持院」へ寄進した。その時に敷地は「畠山満家」に預け置かれた。(※「東寺百合文書」・「富山県史 中世」)






■この時に「越中国利波郡」は、富山市蜷川郷に蜷川城を構えた室町幕府政所代の「蜷川新右衛門」(※「一休さん」に登場する人物)の所領とされた。(※「蜷川村の郷土史」)
「畠山文書」の室町幕府の越中統治絵図では、当時は越中が八郡に分けられ、「五位庄」が福野、福光町辺りから富山湾の伏木港迄拡がり、広大な面積に成っていた「五位庄」が庄川と小矢部川の間が「利波郡」、小矢部川から西山の間が「蓮間郡」と成り、「蓮間郡」の「赤丸浅井城」は能登畠山一族の「畠山持家」の居城に成っている。又、「利波郡」には「福満城」・「木舟城」が見られ、石黒氏の領地に成っている。当時は、領主と地頭が下地中分で分けられていた様だから、「蜷川氏」の配下に「石黒氏」や「遊佐氏」等の国人達が配置されていた様だ。

「越中絵図」(※「羽曳野史料叢書」)


💠🔨 大和国宇陀郡「天国 作」 の平家の重宝『小烏丸』と「越中の刀工」!!

2021-04-11 | 富山県
●「大和国宇陀郡」から越中に伝わった刀工技術

・「加賀藩」は圧倒的に名刀を集め、作刀を奨励して、刀剣鑑定の「本阿弥派」を庇護したと云う。
越中刀工で「郷(江)義弘」の作品は「郷と幽霊は見たことも無い」と噂される位に無銘のものが多いが、殆どが「本阿弥家」の鑑定と記銘で「郷(江)義弘」として流通している。
【※「郷義弘」は現在の富山県魚津市にあった「松倉郷」で刀を鍛えた一門とされ、鎌倉幕府で重きを為した「大江広元」を輩出した一族とも云われ、「郷」とも「江」とも記載される。「大江広元」は後の戦国大そ「毛利氏」の祖で在り、富山県高岡市内島村の記録が毛利家文書に残されている。】

▼「越中に残る大江氏(毛利氏)の歴史」




■大和国「天国」は越中国呉服郷(富山市五福)の刀工「佐伯則重」の祖と云われ、又、越中国吉岡庄に移り住んだ刀工「宇多国光」の祖とも云われる日本刀の祖であり、神武天皇所縁の伝説の刀工で、天皇の守り刀を作刀したと云われる。
越中刀工の「佐伯則重」とその弟子の「郷義弘」は相州の「正宗」の弟子で「正宗十哲」の一とされる。「相州伝」は明るい地金を特徴として「宇多刀工」の「大和伝」は黒く輝く地金を特徴とすると言う。「則重」は相州伝の中に「大和伝」を匂わせると言われ、国宝に成っているものも在る。

一方、「越中国吉岡庄」(富山県高岡市の旧赤丸村領三日市)を中心に栄えた「宇多派」の作品は、富山県では圧倒的に「重要文化財」に指定されている。









🔴【大岩不動尊】醍醐寺派密教の富山県上市町の三月法要 !!  (2019.03.27)

2021-02-14 | 富山県
◆◆【赤丸山御亭】(赤丸村の清水山)と【大岩不動】(上市町大岩不動尊)が記載された加賀藩第十三代前田斎泰公時代の「加賀藩江戸板橋下屋敷図」が見つかった。


「暗黒」の中に法要の火の光に浮かび上がる磨崖仏の「大岩不動尊」






















■昭和50年頃、加賀藩の江戸板橋下屋敷が某生保に売却される事に成り、約21万坪も在った屋敷の池の辺に【上市不動尊】の写しが奉られている事が分かり、代理で大岩不動尊へ「遷仏」した。その仏像は現在、大岩不動尊の本堂横の「愛染堂」に奉られている。
その板橋下屋敷図の中に「大岩」と云う築山や「赤丸山御亭」と云う赤丸清水山を模した小山が造られ、歌川広重作[蓮湖(河北潟)と漁火]と云う浮世絵を模していた事が分かり、その絵図の写しを入手して大岩不動尊へお届けした。







■加賀藩第十三代「前田斎泰公」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の掲額を揮毫した人物で、幕末に勤王の家臣を粛清したり、天皇家との接触を謀ったりして時代に翻弄された人物。「赤丸浅井神社」の別当の「川人山鞍馬寺」は、「門跡寺院聖護院派」であり、幕末には、「聖護院」は公武合体を画策した「孝明天皇の皇居」にも成っていた。









🔽この大岩不動尊は「前田利常」が子宝を授かる様に奥方を参籠させた寺院であり、その時の石造りの「秘具」も同時に愛染堂に奉られている。この石仏が遷仏後、現在の前田家当主も参拝されたと云う。
この石仏が遷仏された時にはこの「秘具」は、「加賀藩の姫が参籠されたと云う」本堂後ろの六角形の建物に奉られており、錦の袱紗に入れられ、錦の布が胴体部分に巻かれて厳重に黒漆塗りの三段箱にもう一本の小型の「秘具」と共に保管されていた。時代の経過と共にこの様な「秘具」も公開されており、一度、お参りされるのも宜しいのでは?



■前田利常が大岩不動尊の不動堂の建て替えを命じた。
(※「加賀藩鳥見役石黒家文書」富山市)




🔴【黒ゆりの花】佐々成政が豊臣秀吉の妻のねねに贈ったという富山県の立山に咲く因縁の花!

2021-02-14 | 富山県
■【因縁の花】富山県の「立山」に咲く「黒ゆりの花」
佐々成政は秀吉の妻の「ねね」の御機嫌伺いの為に珍しい「黒ゆりの花」を贈ったが、これが家臣の一部に「縁起が悪い」と批判され、「成政が謀反を企んでいる」との風評に成り、終に「佐々成政」は肥後の知行国の不取締を理由に「豊臣秀吉」に切腹させられた。
















🔷🔨 【越中の刀 】 『徳川美術館展』富山県水墨美術館 2017,7,7~8,20⇒ 越中の名刀「郷義弘」・「佐伯則重」・師匠の「正宗」 と三人の「国光」!!

2021-02-14 | 富山県
●「徳川美術館展」⇒越中の刀工「佐伯則重」・「郷義弘」の展示




2017.7.7~8.20の間、富山県水墨美術館で「尾張徳川家」と銘打って「徳川美術館展」が開催された。「徳川美術館」は曾て現役の時に勤務していた会社が「徳川美術館建設」を担当しておりそのグループの一人として何回も徳川美術館を訪れた事が在る。その時に、膨大な美術品や古文書等の中には織田信長の「天下布武」の大きな朱印や黒印の印鑑がズラリと並び目を奪われた思い出が在る。正に徳川美術館は時代を超えた「バンドラの箱」で在り、何が飛び出すのか何時もハラハラして観覧した覚えが在る。
今回の目玉は何と言っても加賀藩から伝来したと記録される「郷義弘作の国重要文化財 名物 五月雨郷 サミダレゴウ」や「正宗」等の超一級品とされる徳川家所蔵の刀剣類で在った。
(※この他にも加賀藩には、別に国宝に成っている「郷義弘」が在り、之は一般的に「前田郷」と呼ばれると言う。)

■越中の名刀として諸大名が欲しがった「郷義弘作」の刀は、作刀の時に殆ど銘を刻まなかった事から「郷とお化けは見た事が無い」と云われ、残存する「郷義弘」は全て刀剣鑑定家本阿弥の鑑定に依るもので専門家の中でも在銘の現物を見た人は居ないと云われる。近年、入手した江戸初期の鑑定家の所持した「刀剣鑑定書」には「越中刀工宇多派」の系図や押し型と併せて「郷義弘の押し型」が載っている。
この鑑定家のレベルは知り得ないが、江戸期を通じて一族で四代の鑑定家が居た様だ。
この鑑定書に掲載の「郷義弘」の押し型は今日拝見した徳川美術館所蔵の刀剣とは随分違う様に感じた。徳川家所蔵の物は無銘乍らスッキリと明るい地肌で在り、永年の刀剣管理の為に研ぎあげられている様だ。




■「郷義弘」は相模、又は鎌倉刀工の「新藤五国光の弟子 正宗」の弟子十哲の一人とされ、或いは系図では越中富山の呉羽山の麓の呉服郷(富山市五福)に工房を構えた佐伯則重の弟子ともされている。「則重」は近年、新藤五国光の弟子で正宗の兄弟子だったともされていると言う。本日の美術展には「正宗」や「則重」も展示される等、刀剣愛好家には垂涎の的の御宝ばかりだったが、これ等の刀工系図に付いては専門家にも異論が在り、「相州伝」・「鎌倉伝導」とされる「則重」や「義弘」にも「大和伝」や「城州(山城)伝」の景色が見られると鑑定されており、真の弟子系統には異論が在る様だ。














■「三人の刀工国光」の様々な意見
「国光」には前出の「新藤五国光」①、京都(山城国)「來国光」②、越中国吉岡庄(赤丸村領)三日市に大和国宇陀郡から移住した「宇多国光」③がおり、偶々、「則重」や「義弘」が「大和伝」、「城州伝」の特徴も見られると鑑定される事から、本来は「則重」・「義弘」との関係からこの「国光」は「新藤五国光」の事に成るのだが、鑑定家の中には「來国光」としたり「宇多国光」と記載されたりしているケースも在る様だ。
時代的には何れも鎌倉から室町時代の「古刀」と云われる時代で在る事から、銘の無い物は特に後から銘を打ち込んだり、鑑定で「鞘書き」と言って「鞘」に刀工銘を墨書して流通させていた為に、真贋を見分けるのは中々に難しい。近年は刀剣鑑定の団体が鑑定書を発行して流通しているが、中には鑑定書だけの売買も在る様で、刀装をしたものでは刀の現物を見ないと偽物に鑑定書が付けられているケースも在る。又、「古刀」は元々、長尺のものだったが、戦が地上戦から馬上戦に変わって来ると、「摺り上げ」と言って刀剣の束の部分を削って短くする様になった為に、束の部分に在った「銘」が消えてしまう。その為に古刀には銘の無い物は多くなる。又、昔は御客からの注文で作刀する時には「銘」を入れなかったとも云われ、在銘の刀剣を元々の長さで拝見する事は中々に難しい様だ。又、「刀身」(中子)自体が永年維持の為に繰返し研きあげられた為に表の鋼鉄部分が磨り減って芯の部分が露出して来ると言う。
専門的な「波紋」や刀身の柾目、木目紋等の奥深い部分を極めて、「刀剣観賞」を行う事は中々難しいらしい。又、維持する為には相当の維持費が掛かり、文化財でも在る刀剣を伝承するのは中々に難しい様だ。予算の無い博物館等では刀剣の寄附が有っても断る所も出ていると聞く。これからは専門的に刀剣を維持保存する「刀剣博物館」は必要で在り、最近、富山市内に開館した「森記念秋水美術館」は正に時宜を得た施設だ。この刀剣美術館には越中吉岡庄に栄えた「宇多刀工」の刀剣も収集している事から、「観光施設」としても公的な助成が在っても良いのでは無いか? 越中には著名な「宇多刀工」や「郷義弘」、「佐伯則重」等の有名な刀工が栄えた事から、寧ろ、この様な施設は富山県や高岡市等が設置すべき施設だろう。
特に「前田家の文化を引き継ぐと自負する高岡市」なら、観光誘致の為にも開設すべき施設だろう ❗

■「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に栄えた「宇多刀工」
⇒初代「宇多国光」の子「宇多国宗」の刀剣と宇多派系図




🔷🔼【悲惨な歴史】富山県と石川県境の「後白河上皇」開基の「長講堂領」の『石動山天平寺』は、絶えず戦禍に晒され、遂には消滅した。 !!

2021-02-10 | 富山県



■「石動山天平寺」には十一面観音、聖観音菩薩を祀っていた。「石動山天平寺」の開基は「法道上人」と伝えられている。この上人は実在したかもハッキリしないが、富山県内にはこの他に、氷見市の「大栄寺」、小矢部市の「観音寺」、砺波市の「千光寺」に観音信仰と共に「開基」としての「法道上人」の伝承が残り、播磨方面でも開基と仰ぐ寺院が多い。

■福岡町赤丸村には「清水山」が有り、その頂上には「京都清水寺の千手観音」を祀る「観音堂」が有り、往古は寺院が在ったと伝わる。又、赤丸村の近くの山並みの柴野城の跡地にも「京都清水寺の千手観音」が祀られている。又、その昔、赤丸村に「千手観音」を祀る「観音寺」と呼ばれた「衆徳山総持寺」(※現在は高岡市関町地内)が有り、今もその地は「観音堂遺跡」と呼ばれている。更に、福野には観音像を祀る「安居寺」が在り、富山県の西部の山並みには観音信仰の聖地が連なる。
石動山から柴野村、赤丸村、小矢部市、福野町、砺波市と続く観音信仰はこの地に残る「白山の開祖」の「泰澄大師」の伝承とも重なり、「赤丸村浅井神社」にも「泰澄大師が庵を結び元正天皇の宝祚を祈った」と伝わる。「泰澄大師」は「元正天皇」(※文武天皇の姉で、聖武天皇の母代わり)の病気回復を祈って祭器に赤丸を着けて長久を祈ったと伝わる。「石動山」は「後白河上皇」の時に院庁の支配下に有り、「後白河上皇」は熊野信仰、観音信仰に精力を傾け、屋敷の中に「三十三間堂」を建てて慶派仏師集団に「1001体の千手観音像」を刻ませて祀っている。氷見市から赤丸村、小矢部市、福光町に至るエリアが、その昔は藤原氏の庄園、もしくは藤原氏管理の荘園の「東福寺領」が展開していた事とも観音信仰は密接な繋がりを持つ。「石動山天平寺」は「石動彦」の神話から続く長い歴史を持ち、特に越中と能登の境という戦略的な要衝であった。又、この山並みの「西山」は砺波平野を取り巻く丁度、城壁の役割もしている。その為、この場所は政治、文化共に激しい変化を余儀なくされてきた。又、富山県西部の「両部神道」、「修験道山伏」の拠点として赤丸村の「川人山鞍馬寺」、「倶利伽羅長楽寺」、「福野安居寺」等に続く山岳信仰と修験道が融合した「神仏習合」の本拠地でもあった。

■「保元の乱」の後、「後白河上皇」は藤原氏長者の「藤原頼長領」の『越中吉岡庄』(赤丸村を中心とする後の五位庄)を没官して自らの「後院領」とし「蓮花王院(三十三間堂)」に寄進した。その頃、石動山も「後白河上皇」の直轄地となった。「長講堂」は「後白河上皇」の院御所である六条殿内に建立された持仏堂を起源とし「法華長講弥陀三昧堂」の略称で、「後白河上皇」は石動山をこの「長講堂領」として所有していたが、その後この地は寵妃の「丹後局」の子の「宣陽門院」に譲られ、「源通親」がその別当に任じられた。
(※「源通親」は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。)
「後鳥羽上皇」が『承久の乱』で失脚すると一時期、42か国82ヶ所にものぼる「長講堂領」は鎌倉幕府の直轄地となったが、翌年、「宣陽門院」に返還され、その後は「後鳥羽上皇」の孫の「後嵯峨天皇」に譲られて院政の財源になったが、「後嵯峨上皇」は大覚寺統の「亀山天皇」には譲らず持明院統「後深草天皇」に譲渡され、その後は持明院統に受け継がれた。大覚寺統の「後醍醐天皇」も1326年(嘉暦元年)の「後伏見院」から「花園院」への「長講堂領」移転を認め、1351年(南朝正平6年、北朝観応2年)の【正平一統】の時も南朝の「後村上天皇」も当時の北朝「光厳院」の「長講堂領」領有を認めた。【正平一統】を機に持明院統(北朝)の皇統が北朝3代目「崇光天皇」の系統から「後光厳天皇」の系統へ移った為、皇位継承と並んで「長講堂領」の継承を巡る紛争が発生した。1398年(応永5年)に「崇光天皇」が崩御すると「後小松天皇」(後光厳天皇の孫)は「崇光天皇」の子「栄仁親王」から長講堂領を没収した。この紛争は1428年(正長元年)に「崇光天皇」の曾孫にあたる「後花園天皇」が「後小松天皇」の猶子として皇位を継承するまで続いた。

■石動山は南北朝の「桃井直常」の戦いや、「上杉謙信」の越中攻め、「前田利家」の全山焼討・殺害等で度々、戦乱に巻き込まれ壊滅的な打撃を受け、一時期は廃墟になっていた。加賀藩がその後、一部復興したものの、明治維新の「両部神道廃止令」では「全山廃止」と成り、現在は史跡として整備され保存されている。嘗て、跡地には首を切られた石仏が散乱して廃墟と成っていた。


■嘗て、「石動山」に在った「普門院」の経典


(日本の石仏 北陸編参照)

🌸 越中刀工「佐伯則重の碑」⇒富山市五福(呉服郷)で作刀した佐伯則重!!

2021-02-09 | 富山県
■ 富山市呉羽山公園下に在る「佐伯則重の碑」!!
富山市呉羽山公園下には越中刀工「佐伯則重の碑」が在る。則重は系図に拠ると魚津の松倉郷で作刀した「郷(江)義弘」の師とされ、相州伝の「正宗十弟子」の一とされる。又、その作品には「越中吉岡庄」(高岡市福岡町赤丸)に大和国宇陀郡から移り住んだ大和伝宇多刀工の祖「宇多国光」の作風も見られる事から 、宇多国光に師事したともされている様だ。
(※正宗は相州伝 新藤五国光の弟子で在る事から国光違いだとする意見も在る。)