赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴📝 室町時代の足利将軍家と能登・越中守護畠山家の「越中五位庄」に於ける記録⇒「守護畠山満家の三回忌」・「赤丸住藤原直家の父の法要」の記録!!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越之中邦利波郡五位莊赤丸村居住孝子藤原真(直)家」の「赤丸川人山鞍馬寺」に於ける法要と、「浜総持寺」(※「総持寺」高岡市関町)に於ける「畠山満家」の三回忌法要の記録。

⇒足利将軍家菩提寺庄園の「越中五位庄」に在った『川人山鞍馬寺』と鎮守の「延喜式内社五位庄五十三ケ村総社赤丸浅井神社」で行われた「赤丸住藤原直家」の法要記録(※「富山県史 中世」)
⇒両部神道聖護院本山派山伏の寺社では「神前読経」と云う習慣が在り、神社でも法要が行われたと云う。







■『富山県史 史料編 中世』には、赤丸村在住の藤原直(真)家が、赤丸鞍馬寺で明応四年、明応八年に父の法要を営んだ事が記載されている。
光厳寺二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった「東海宗洋」が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、五位庄赤丸在住の「藤原直家」が父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだと記録している。これを「光厳東海和尚録」という。
「光厳寺」は、藤原鎌足の後裔といわれる武蔵国忍城城主で後に出家した成田顕泰が、当初、砺波郡増山村で開基となり長禄寺を設立(一四五八年)した。その後、射水郡守山城外に移って「光厳寺」となる。この時の守護代は神保惣次郎という。(※東海和尚は神保氏の出。開基の成田顕泰は藤原氏。)
【(注)成田氏:熊谷市を拠点とし、十三代顕時は上杉憲実に従い戦功をたて下総守となり、更に戦功を立て、関東管領足利政知(堀越公方)より、越中富山城を賜ったといわれる。成田顕泰は、現在は富山市にある「光厳寺」(後に前田家の墓所となった)を開いている。】
【(註)亀阜豊寿(キフホウジュ):一四三五~一五〇一年室町-戦国時代の僧。近江 (滋賀県)の人。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純について出家し後に同寺天叟祖寅(テンソウソイン)の法をつぐ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持をつとめ、富山市黒崎に「最勝寺」を開く。(※「最勝寺」は「越中蜷川氏」の菩提寺で富山市蜷川に在る。)明応一〇年一月五日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。富山市蜷川は一休禅師の逸話に出る「蜷川新右衛門親当」の一族が領有したとされ、蜷川氏はキックボクシングの格闘家「武蔵」の先祖に当る】

■「光源東海和尚録」(※「富山県史 中世」)


「興多聞鞍馬」とは多聞天(毘沙門天)を祀る赤丸村の「川人山鞍馬寺」を指し、「敬河人之靈神」とは川人の神ー即ち「赤丸浅井神社」を指している。
両部神道では神前で読経する「神前読経」や神前で歌を詠んだり踊りを舞う等の法楽は「神前法楽」と呼ばれ、一般的に行われていた。赤丸村は長く藤原氏の所領「越中吉岡庄」と呼ばれ、「赤丸浅井城」を居城とした石黒氏も藤原氏を名乗っていた事から、赤丸村は藤原氏の影響下にあったと見られる。「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」に残る「藤原真家・藤原直家」は同一人と見られるが、どんな人物だろうか?
「藤原直家」とは誰かについての明確な記録が無く、郷土史家の間には、当時赤丸村を勢力圏に置いていた石黒氏ではないかとか、東海和尚の一族の神保氏ではないかとか考えられているが、逆算すると亡父の命日が文明十五年十一月十六日である事から、それに該当する人物の特定が困難だった。しかしながら、興福寺の室町時代の記録である「大乗院寺社雑事記」を丹念に調べたところ、同日に亡くなっている越中の関連武将の記載が見つかった。それは当時、越中・能登を支配していた畠山氏の一族で、「畠山義就(ハタケヤマヨシヒロ)」の子の「畠山修羅」の記録である。畠山修羅(ハタケヤマシュラ)(一四六八年~一四八三年) は 仮名二郎といい、「畠山義就」の嫡男であった。当初はこの修羅が義就流の家督を継承するはずだったが、一四八三年(文明十五年)十一月に十六歳で死去した為に相続は実現しなかった。彼の死後、彼の遺児(実名不詳)と修羅の弟・基家(義豊)との間に家督相続争いが起こったが、義就が修羅の妻子を殺害する事によって、基家が後継者に決まったと言われていた。しかし、義就 が何故修羅の妻子の殺害に至ったかは疑問である。足利氏一門で、室町幕府の三管領の一つで有る畠山一族で河内・紀伊・山城・越中守護の畠山義就(ハタケヤマヨシヒロ)は、子の修羅を、興福寺の宗徒でかねてから畠山氏の味方である武将「古市胤栄」(フルイチタネサカエ)に一四七〇年に三歳で預けている。そこでは「畠山義就」の子は通称「修羅法師」と呼ばれ、その後、古市胤栄や縁者の「越智家栄」(オチイエヒデ)に預けられたりしながら、十六歳で亡くなったという。修羅の遺児と修羅の弟基家が相続争いをしたとの言い伝えがあり、その修羅の子供がどうなったかはハッキリしていない。
(※古市胤栄は清原氏~奥州藤原氏の流れを汲む藤原一族。茶道小笠原流の祖。興福寺は藤原一族の寺。藤原鎌足・不比等との縁が強い「法相宗大本山興福寺」である。)

■「大乗院寺社雑事記」(文明十五年十一月十五日記録)の考察(※「奈良興福寺」の記録)
奈良興福寺の尋尊の記録によれば  
「一 河州(河内国畠山)右衞門佐之息修羅御曹司入滅之由雑説在之、且如何、然者彼三百貫文事不審不審事也、分明ニ入滅云々」とある。
文明十五年十一月十五日朝に「畠山修羅」は亡くなっており、大乗院からは三百貫文を渡したとある。又、「畠山修羅」の葬儀に大乗院から葬具を借りたという記録もある。松岩宗秀の子は藤原直家である。修羅法師が三歳から預けられていた古市氏は藤原氏である。「応仁の乱」を惹き起こした「畠山義就」には古市氏や越智氏、分家の能登畠山氏が味方していた。父の修羅が亡くなり、父の弟基家が家督相続をした為、相続争いを避けて隠れ住んでいた修羅の遺児が、父「畠山義就」の味方、能登畠山氏が直務した「利波郡」の赤丸村の地に隠れ住んでいたという事が考えられる。(※「越中統治絵図」畠山文書)
(※畠山義就;河内・紀伊・山城・越中守護。)

命日の一致と赤丸村との関連を考えると、法名松岩宗秀は「畠山修羅」の可能性が非常に高い。越中神保氏が利波郡を統治していた室町幕府政所代の越中蜷川氏の代官として働いた事が「蜷川家文書」の「越中阿怒庄」の代官神保氏への文書に記載される。この記録を遺した東海和尚は神保氏で在る。神保氏は蜷川氏の代官として「氷見阿怒庄」を統治していた。

「畠山修羅」の遺児が、三歳から預けられていたという古市氏の藤原姓を名乗って赤丸に隠れ住んでいても不思議では無い。「東海和尚録」では、父は「僧而惟俗」と言っており、父の「畠山修羅」は「修羅法師」と呼ばれる出家者であった。十三回忌では「藤原直家」、十七回忌では「藤原真家」と言っているが、同様の事例もありこれは同一人物であろう。又、能登の気多大社記録にも「畠山修理大夫」 と「神保氏」が同時に寄進しており、「川人山鞍馬寺」を再興したのは、当時、五位庄西庄の利波郡の領主で在った畠山氏と見られる。




■「室町幕府政所代 越中蜷川氏」の「越中利波郡」の統治
「蜷川新右エ門親当」と後小松天皇の皇子「一休さん」の親交は有名だ‼






「一休さん」に登場する「蜷川新右エ門親当」の子供の「蜷川新右エ門親元」が「氷見阿怒庄」を統治していた事が「蜷川家文書」に遺される。「氷見阿怒庄」は室町幕府三代将軍「足利義満」の母の「紀良子」の庄園で在った。「足利義満」も、その治世に「越中五位庄」を室の「紀業子」の追善料として「京都相国寺」に寄進して、その底地は「畠山満家」に預け置かれたが、その後は子供の「畠山持国」が統治していた。「越中蜷川系図」には「蜷川氏は越中の新川郡、利波郡を領有した」とされており、その地域は小矢部市辺りで在ったと云う事から、その範囲は南砺市~小矢部市~赤丸村~伏木に至る「利波郡西庄」で在ったか見られる。従って、この時期には「政所代蜷川氏」が「足利義満」の代理として越中西部に権力を持っていたと見られ、その力は政所の伊勢氏の力を上回っていたとされる。「越中蜷川氏」は「宇多天皇」の中宮を輩出して、「足利義満」の母の「紀良子」はその子孫に当たる事から、当時の蜷川氏は将軍家の縁者として絶大な権力を誇示していた様だ。→「政所代蜷川氏」の配下として、実務は守山の「神保氏」が代官を勤めていたと見られる。
(※「室町幕府越中統治絵図能登畠山文書)


■「浜総持寺」(※高岡市関町)に於ける「畠山満家の三回忌法要」
(※「名古屋大須観音寺記録」)
【畠山満家;南北朝時代~室町時代の守護大名で室町幕府管領。河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。
文中元年/応安5年(1372年)生~永享5年9月19日(1433年10月31日)没。主君は足利義満→義持→義量→義教。父は畠山基国。兄弟に満家、満慶。子に持国、持永、持富】









・越中守護「畠山満家」の三回忌法要は、高岡市関町の「総持寺」(※「浜総持寺」)が赤丸の地から一時期海沿いの地へ移転していた時に「雅楽」の演奏を交えて盛大に行われたと云う。「総持寺」は「足利義満」が「五位庄」を室の「業子」の追善の為に「相国寺」に寄進した為に、「国主の命令で赤丸村を去った」(※「総持寺由緒」赤丸浅井神社伝来)と云う。これは、寺院の落慶法要でも在ったと云うから移転して伽藍が整備されていたものだろう。「総持寺」に南朝所縁の「黄金の千手観音像」が後白河上皇創建の「河内金剛寺」から動いたとされるのは、南北朝時代の後村上天皇の時代で在る。この時の「香語」には「千手観音像が海の光を受けている」と記載されている事から、この「千手観音像」が皇室所縁の重要な仏像で在る事が明らかで在ったものと見られる。この仏像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名 が「 金剛位理卿 本願聖人」と記載されており、「後鳥羽上皇の祈願仏」で在ったと見られる。又、後に「総持寺」が山号の「高岡山」を前田家菩提寺の「瑞龍寺」に取り上げられた後、山号を「衆徳山」(※崇徳山?)と名付けたのは、明らかにこの寺が「崇徳上皇」の霊を慰める為に京都の鬼門に当たる「越中吉岡庄」に創建されたものと見られるのだ。「崇徳上皇」と共に殺された「藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は「保元の乱」で取り上げられて「後白河上皇」の「後院領」に成った。しかし、「後白河上皇」や「後鳥羽上皇」はこの「崇徳上皇」・「藤原頼長」の怨霊に長く苦しみ、「都」や各地に慰霊施設を建てて鎮撫した。「後鳥羽上皇」は「讃岐」に流されて血書をしたためて怨みを遺して亡くなった「崇徳上皇」の慰霊の為に度々、「勅使」を祀られている「金比羅宮」に派遣されている。又、歴代の天皇も「崇徳上皇」の怨霊を怖れ、近年でも、明治天皇も勅使を派遣されたと言う。



・室町時代の「統治絵図」を見ると、室町時代には現在の南砺市から高岡市守山・伏木港迄拡がった広大な地域が「五位庄」で在った。「畠山持国」が父の「畠山満家」の三回忌法要を営んでいる事から、この地は高岡市の古国府、六渡寺村辺りではなかったか?
高岡市関町の「総持寺」は加賀藩に対する「寺社由緒」の提出に当たり、「祀っている千手観音像は六渡寺の海から上がった」と記しており、この事はこの時期に総持寺が小矢部川下流の海沿いに在った事を暗示している。(※「名古屋大須観音文書」射水市松山学芸員論文)





▼「蜷川新右エ門親当」は連歌の「宗祇」の高弟で在り、「応仁の乱」の戦場に成った「相国寺」が焼かれた為に、相国寺の僧の「宗祇」は直後に「五位庄」に逗留している。この時には能登畠山氏の訪問も行ったと云う。「応仁の乱」の中心人物は「畠山義就」で在り、戦禍を逃れる為に「宗祇」は京の都を離れて比較的に安全な「五位庄」を訪れたものと見られる。
(※この「連歌」の文化は現在も五位庄に「舞句」として残る。)
▼「越中神保氏」の一族とされる「東海和尚」は氷見市に所縁が在ったものと見られ、現在も氷見市には「東海」と称する一族が住んでいる。
▼「白河上皇」の時以来続いた「越中吉岡庄」は南北朝時代末期の「長慶天皇」の時に「京都下鴨神社」の庄園に成り、この頃から古文書には「おいの庄」・「御い庄」等と記載され、「足利義満」の頃には「五位庄」と記載されている。(※「柳原家文書」、「東寺百合文書」)
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🔘 高岡市の「総持寺」、「天景寺」、「槌宮」 のルーツ ⇒越中西部の「紀氏」の足跡!!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●『高岡絵図』(金沢市立玉川図書館)天保6年⇒この絵図では、総持寺と槌宮が一つの敷地になっている。


現在、高岡市街地に在る「総持寺」、「槌宮」、「天景寺」は元々、越中五位庄赤丸村舞谷に在ったが、「延喜式内社赤丸浅井神社前に屋敷を構えた池田市エ門の先祖が土地を寄進して移転した」と赤丸浅井神社に伝えられている。池田市エ門家は赤丸村の肝煎を勤めていたが、加賀藩から所払いになり、国吉村に動き、その後継は弟の(奥田)五右衛門が継いだ。この一族は氷見池田、高岡市池田、小矢部市今石動(※旧池田)や赤丸城下の池田島(※総持寺、天景寺、宇多刀工の工房、槌宮の旧地)を所有して居たと云う。
(※「治承、寿永の内乱論序説」、「杉野家文書」、「石堤村史」、「ある贋作物語」)



「天景寺」は元々、「瑞龍寺」の現在地に在ったが前田家に接収されて現在地に動いた。この絵図によると、当初の瑞龍寺敷地はもっと広大だったが、明治維新の後、前田家の支援が途絶えた瑞龍寺は困窮して相当の敷地を売却して凌いだと伝えられている。
瑞龍寺隣接地には神主町があり、ここに元々「関宮」が在ったと記載されている。





■「池田氏」は古代氏族の「紀氏系図」に見える。氷見の「阿怒荘」は、代々、紀氏に伝領しており、足利義満の母「紀良子」は亡くなる直前に一族に継がせている。「紀氏」は「石黒氏の祖の利波臣」と同じ「武内宿弥」の子孫の「蘇我氏」から出たとされる。
「赤丸浅井神社」を創建されたと伝わる「石川朝臣広成」は聖武天皇の弟で、母が蘇我氏で在った。その神社を守る様に浅井神社の門前には現在も池田氏末裔の奥田、池田、桜木家が取り囲んで住まいされている。
又、浅井神社の奥宮の後の神域には赤丸に住む「石川一族」の墓だけが神官以外では唯一、遺されている。
(※蘇我氏は中大兄皇子に入鹿、蝦夷が誅殺された後は「石川氏」を名乗っている。)
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🔴📝 「後白河上皇」、「後醍醐天皇」の皇子が出家された京都の門跡寺院「聖護院」と「越中吉岡庄」の「聖護院派山伏 川人山鞍馬寺」・「延喜式内社赤丸浅井神社」(※高岡市福岡町赤丸)!!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『越中吉岡庄』の庄園領主達

「藤原摂関家」の長者で権力を振るった左大臣「藤原頼長」は、その冷徹な姿勢から「悪左大府」と呼ばれて恐れられ、「越中吉岡庄」・「能登一青庄」を所有し、藤原氏長者として奥州藤原氏に指示して平泉周辺の庄園を管理させ、金、馬、布等を上納させたと云う。


「越中吉岡庄」は「保元の乱」以降は「後白河上皇」の「後院領」に成った。


南朝の「後醍醐天皇」は「後白河上皇」以来の「越中吉岡庄」を所有し、自らは東寺の重宝の空海の袈裟を身に付けて北条氏を徴伏され、天皇自らの親政を目指された。この理想を実現しようとしたのが明治維新で在る。





●「越中吉岡庄」の「川人山鞍馬寺」は「門跡寺院・山伏本山派聖護院」の末寺で在った。








「保元の乱」の戦勝で藤原摂関家藤原頼長の庄園「越中吉岡庄」は没官されて「後白河上皇の庄園(※「後院領」)」に成り、その後も「後鳥羽上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として伝領した。
(※「平範記」・「人車記」近衛家陽明文庫)




「人車記」(※「陽明文庫」近衛家文書)に記載される「越中吉岡庄」の記録





「越中吉岡庄」の中心寺院「川人山鞍馬寺」(※「延喜式内社赤丸赤丸神社」 ・「石堤浅井神社」・「舞谷八幡宮」を含む三社権現)は創建を「元正天皇二宮」(※文武天皇二宮・聖武天皇の弟)と伝えられ、皇室と所縁の強い寺社で在ったが、「後白河上皇」の皇子 で「以仁王」の弟の「浄恵法親王」や「後醍醐天皇」の皇子 で「宗良親王」の弟の「聖助法親王」が「聖護院」で出家された。
(※「群書系図部集」塙保己一・「大日本史料 第六編之一 後醍醐天皇」東京大学・「福岡町史[越州川人山鞍馬寺三社記])



■「後白河上皇」の皇子「浄恵法親王」が「聖護院」で出家された。


■「後醍醐皇子」の「聖助法親王」が「聖護院」で出家された。








「後白河上皇」の皇子が聖護院初代門跡となられ、その後も「後醍醐天皇」の皇子も聖護院で出家された事から、天皇家庄園「越中吉岡庄」の「川人山鞍馬寺」は「天台宗 聖護院」の末寺と成った。
加賀藩の時代に「石堤浅井神社」の清水神官が高岡市の吉田神道「関野神社」に指導されて、勝手に「延喜式内社」を唱え、神域内の初穂米を本院の「赤丸浅井神社」に先立って集める等の不法を行い、勝手に吉田神道に基づく祭祀を行い初めた為に、「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」は加賀藩寺社奉行と本山聖護院に訴えて裁判に成った。
【※「福岡町史」・「浅井神社一件記録」金沢市立図書館(※皆月文書)】





「聖護院派 赤丸浅井神社」と「吉田神道 石堤浅井神社」の裁判では富山県内の有力な聖護院派寺院も「赤丸浅井神社」と連帯して訴訟に当たっている。その結果、「川人山鞍馬寺」が勝訴し、「石堤浅井神社」の神官に対して吉田神道の祭具を撤去して元々の形に戻す様に判決が下りた。


現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」には「川人山鞍馬寺」の仏像や「聖護院宮御用」の奉納札が遺されており、神殿には皇室の「菊御紋」が刻まれて、皇室所縁の歴史を遺している。
「川人山鞍馬寺」の本坊は、一向一揆の嵐が五位庄に吹き荒れた頃に、一向宗(※浄土真宗)に改宗して、赤丸城の中山氏に追われ、福岡町一歩二歩に逃れて「法筵寺」と改名した。「一向一揆」の時に「赤丸城」には一揆の指導者「下間和泉」入城したと伝えられ、赤丸村は一揆の牙城に成った様だ。記録では、加賀の一向一揆衆が石川県境の「朝日城」で加賀の富樫氏を破り、越中に雪崩れ込んで「五位庄」に集結したとされる。
(※「越中志徴」・「富樫軍記」)





明治維新の時、加賀藩の影響で維新政府の神祇官と成った吉田神道「関野神社」の主導で、県内の両部神道は廃止に追い込まれ、「赤丸浅井神社」の祭祀を行っていた「山伏西宝院」は還俗に追い込まれて、神官「川人他治馬」と名乗った。
(※「越中浅井神社古墟図」石川県立図書館森田柿園文庫)

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🔘『越中五位庄』と『越中阿怒荘』⇒室町幕府第三代将軍『足利義満』の素性と 越中西部の足利家所縁の庄園 !!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



足利幕府第三代将軍「足利義満」は父を「足利義詮」母を「紀良子」として生まれた。
姉の仲子は後光巌天皇の妃。






・足利義満は応永十二年(1405年)「越中五位庄」を室の追膳料として相国寺に寄進した。
・足利義満死後の文永18年(1411年12月11日)に母の「紀良子」は、「五位庄」の隣接の「氷見阿怒荘」を孫の仁和寺法尊に譲渡している。1413年紀良子死去。
(※「大日本古文書 蜷川家文書」東京大学資料編纂所、「富山県史 中世」、「角川日本地名大辞典)





《文明年間》
・文明6年、一休が大徳寺の住職に就任。
【文明年間は、応仁の乱の後から長享の前の年代(※1469年~1486年)で、この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。】
・文明14年に足利義政は東山に慈照寺銀閣の建立を開始。
・文明16年~文明18年にかけて、「蜷川新右エ門親元」が越中の代官「神保四郎右衛門」や阿怒荘名主に対して、阿怒荘の代官職が有名無実になっており、年貢が送られて来ない旨の書状を再三に亘って出している。その結果、「神保四郎衛門」は解任されて、「斉藤小次郎」に担当させた。





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🔴「鹿苑院蔭涼軒日録」(長禄三年)に見られる「等持院並びに等持寺領越中五位庄よりの年貢未進」と「赤松次郎法師加賀半国を受領」の記事。⇒赤丸村に創建された「天景寺」!!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
富山県高岡市の「延喜式内社五位庄五十三ケ村総社、郷社赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」、「越中五位庄」は『三十三間堂』の在る『蓮華王院』や『鹿苑寺金閣寺』等が在る『相国寺』の庄園で在った。

「赤丸浅井神社」の拝殿には皇室の紋「十六菊紋」が刻まれている。古い拝殿は高岡市羽広の諏訪社に移設されて現在も社殿として使用されている。(※「富山県神社誌」)




石川県立図書館「森田柿園文庫」には「浅井神社古墟図」が遺されている。













播磨国(※兵庫県)を本領とした赤松氏所縁の高岡市関町「天景寺」には『播磨の清水寺』の観音像石仏が本堂前に安置されている。













この「鹿苑院蔭涼軒日録」には、「越中五位庄」が足利家菩提寺の「等持院」、「等持寺」の庄園で在ったが、時々、年貢の納付が遅れていた事や、足利将軍を暗殺して放浪した赤松氏が三種の神器を後南朝勢力から取り返してその報償として「加賀半国が与えられて三才の赤松次郎法師を当主として赤松家が再興された」事を記している。福岡町加茂村の加茂城には「赤松次郎(※元服して「政則」)が在城した」と伝わり、赤丸村に創建され、現在は高岡市関町に在る「天景寺由緒」には、「赤丸村の領主赤松氏の家臣の子孫の稲垣与右エ門が関野に天景寺を創建した」と伝わっている。(※「金沢古蹟志」には天景寺の親寺で五位庄加茂村に創建された雲龍寺は「赤松政矩」と指摘して、赤松政則の居城に疑問を示している。)

◎現在の富山市蜷川は室町時代に越中蜷川氏の領地で、蜷川新右衛門は足利義満の側近、連歌の宗祇の高弟としても有名だ。蜷川新右衛門は「一休さん」とは退任後に親交を深めたと云う。
室町幕府三代将軍『足利義満』の母は 越中蜷川氏の『月海夫人』と呼ばれた人物で、足利義満は「越中五位庄」を自ら創建した相国寺に寄進した。この時に室町幕府政所代の越中蜷川氏が越中新川郡、砺波郡を統治した。「蜷川家文書」には越中関係の文書も多い。(※「蜷川の郷土史」)
(※「紀良子=月海夫人」;足利義満の母、石清水八幡宮検校善法寺通清の娘。法号を洪恩院殿月海如光禅定尼という。 姉妹には後円融天皇生母の紀仲子と、伊達家9代伊達大膳大夫
政宗 の正室の輪王寺殿がいる。→※戦国時代の伊達藤次郎政宗は伊達家第17代で仙台藩初代 )





■天景寺が創建された越中五位庄は室町幕府足利将軍家と特に密接で、相国寺の後にも足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いている。
→南北朝の統一を果たした足利義満は、後白河上皇から後醍醐天皇迄続いた天皇家庄園「越中五位庄」を自らの庄園として没官した様だ。

(五位庄の動き)
★義満が相国寺に寄進する前は、「斯波氏」の所領であった事が永和二年(※1376年)の「越中守護斯波義将内書案」に見られる。

★応永12年(1405年)足利義満(死没;応永15年5月6日、1408年5月31日)は五位庄を相国寺に寄進した。(※「万山編年精要」)

*応永12年7月11日(1405年)には、「足利義満」が日野夫人の追善領として「五位庄」を京都相国寺に寄進した事が記載される。

★「五位庄」は、足利義満亡き後、「東寺百合文書」応永19年(1412年)10月17日付二宮信濃入道書状(『富山県史 史料編Ⅱ』576号)によると、斯波義郷(左衛門佐)の所領として見え、東寺造営のための棟別銭が賦課されたことが確認できる。
応永20年(1413年3月18日付)の「斯波義郷奉行やなた某書状案」(※東寺百合文書)により斯波義郷が奉行で在った事が判る。
⇒「足利 義持」;室町幕府第4代将軍[在任:応永元年(1394年)~応永30年(1423年)]




★応永22年(1415年)10月には「足利義持」が「五位庄」の半分を「京都等持院」に寄進した事が富山県史中世編に記載されている。(※足利義持御判御教書案・等持院常住記録)

★長禄三年には年貢が納められ無く成る。




★長禄四年(1460年将軍)には業を煮やした「等持院竺雲和尚」と「等持寺笑雲和尚」が「越中五位庄」を直接統治したいと将軍足利義政に願い出た。


(歴史的な動き)
★「嘉吉の乱」;1441年 嘉吉1年 2月17日(辛酉) 
源氏の「赤松満祐」が「足利義教」を自第に誘殺し,播磨国に走る.9月10日,「赤松満祐」が幕府の追討をうけ播磨本山城で自殺する。

★1459年 長禄3年 「赤松次郎法師丸」は三種の神器を取り返した功績でお家の復興を認められて、加賀半国を知行された。この「加賀半国」は石川県の石川郡(金沢の北部)、河北郡(津幡町辺り)とされるが、越中五位庄の加茂村に在った「加茂城」は赤松氏が居城にしていたと伝わる。五位庄赤丸村に創建された「天景寺」の由緒に赤松氏の家臣が登場するのは、天景寺が加茂村の加茂城の麓から金沢市に移転した「雲龍寺」の末寺で在った関係から元々、加茂城と赤松氏の繋がりが在ったものと見られる。
(※「金沢古蹟志」で加賀藩士森田柿園は越中加茂村の雲龍寺創建について「創建は赤松彦五郎政矩」で在り、越中の加茂城に赤松政則が在城した事に疑問を示している。)

★「応仁の乱」 1467年 応仁元年~ 1477年 文明9年 8代将軍「足利義政」の継嗣争い、能登畠山氏の後継問題等複数の要因から発生し、室町幕府管領の「細川勝元」と室町幕府侍所所司の「山名持豊(出家して山名宗全)」等の有力守護大名が争い、九州等の一部を除く全国に拡大した。

★「加賀一向一揆」 1475年 文明7年3月、「富樫政親」は一向一揆を破り、『本願寺蓮如』が越前吉崎を逃れて、河内出口に移る。
長享元年(1487)9月、「富樫政親」が、将軍足利義尚の六角高頼討伐に随い近江に出陣した隙を突いた加賀一向一揆が勢力を盛り返し、12月には「富樫政親」は慌てて帰国して加賀高尾城に入り一向一揆と対峙した。一揆側は、富樫一族の山川高藤を通し和議を申し入れるが「富樫政親」は聞き入れず長享2年(1488年)5月には全面的な衝突に至った。6月には「富樫政親」が自害して高尾城が落城。以後、加賀、越中は「真宗の持てる国」となる。
(※藤原利仁の後裔の加賀の林氏一族は鎌倉時代の「承久の乱」で越中石黒氏、宮崎氏等と共に後鳥羽上皇側に着いたが、林氏の一族の富樫氏や越中井口氏は幕府側に着いた為に、以後、勝った富樫氏等が勢力を持ち始めた。越中では復権をした石黒氏が浄土真宗井波別院を背景にした一向一揆勢に攻められて福光石黒氏は滅亡したが、一部は福岡町の木舟城に逃れて命脈を繋いだ様だ。)

★1491年、足利義材が近江の六角氏討伐に出陣。
(1493年)明応2年4月22日 細川政元が足利義材に背いて足利義高(義澄)を擁立する。
6月29日 足利義材,京都を逃れ越中に向かう(蔭涼軒日録)
⇒『越中牧野』に神保氏を頼り着到。仮政権を作る。


■「天景寺」は元々、福岡町加茂村に在った「雲龍寺」の末寺で在り、「雲龍寺」が加賀藩の要請で金沢市に移った為に、遺された門徒達の為に赤丸城の麓の舞谷村(現在は福岡町舞谷)に創建されたと伝わる。その後、天景寺は関町に移ったが、前田家菩提寺の「瑞龍寺」を建立する時にその地を召しあげられて、代わりに現在地を加賀藩から貰ったとされる。
高岡城建設を担当した稲垣与右エ門は、豊臣、徳川に別れて戦った「関ケ原の戦い」に加賀藩が出陣する時にも高岡城の留守居役をしたとされる人物だ。(※「高岡史料」)
この人物は、元赤松氏家臣とされる事から、加茂城に居たとされる赤松一族の子孫と思われる。
(赤丸村領の高田島地区にも赤松氏の家紋「笹リンドウ紋」を使用している橋本一族が在った。)

この「天景寺」では、関町で「火伏せの仏」として信仰が篤い「将軍地蔵」と云う「客仏」を祀っている。「将軍地蔵」とは桓武天皇の時に東北の鎮圧に出向いた「坂上田村麻呂」の姿である。この地蔵は元々京都の「愛宕山」の御本尊で、京都の「清水寺」にもこの将軍地蔵を千手観音像と共に祀っている。赤丸村には「赤丸浅井神社の末社」として修験僧の愛山氏が祀って居た「愛宕社」が赤丸浅井神社の背後の山上に立地していたが、明治維新の時に廃仏毀釈運動の為に廃寺と成り、愛山氏は寺を畳んで北海道に移住した。
(※「愛山」は愛宕山の「愛」と「山」を取って付けられた姓で在り、赤丸浅井神社の鳥居等もこの愛山氏が寄進している。)

この天景寺の将軍地蔵は、お寺の方に聞くと、「裏の川に流れて来た」と伝わっているそうで、恐らくは、愛宕社の本尊が元々赤丸村に在った御縁でこの天景寺 に引き取られた模様だ。しかし、天景寺は愛宕社と宗派が違う為に、「客仏」として祀っている様だ。
総持寺の前の「槌の宮」も、赤丸村から三日市村(※赤丸村領三日市)にかけて工房を構えたあの著名な「越中宇多刀工の氏神」で在ったが、刀鍛冶が衰退した為に現在の高岡に移った様だ。
この「蔭涼軒日録」には、現在の高岡市の歴史から欠け落ちた室町時代の姿が記載されている。





「高岡市街地古地図」
赤丸村から動いた施設は一団の土地に在った。

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🍃🍃「京都三十三間堂」の「楊枝のお加持」 の由来!! ⇒「後白河上皇庄園越中吉岡庄」と「蓮華王院三十三間堂」。

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
















「保元の乱」の後、摂関家藤原氏長者「左大臣 藤原頼長」の庄園「越中吉岡庄」(※高岡市の「赤丸浅井神社」はこの中心施設)は「後白河上皇」の「後院領」とされ、上皇は住まいとされた法住寺殿に蓮華王院三十三間堂の建立を発願されて、建物は平清盛が寄進した。上皇はこの寺に一千一体の黄金の千手観音像を祀られた。この「三十三社間堂」には隠れた「由緒」と「加持祈祷行事」が伝えられている。(※元の藤原頼長の庄園には北陸では「能登一青庄」もある。)

「三十三間堂由来」(「み熊野ネット」Hpより)
【京都東山、蓮華王院。三十三間堂の名で知られるこの仏堂は、後白河上皇(在院期間中、34回と最多の熊野御幸をした上皇)が1164年、自らの離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、1001体の千手観音像を安置したのを始まりとします。 造営には平清盛が当たり、この功により清盛は播磨守となりました。俗に三十三間堂と称しますが、それは、本堂の内陣の柱間が33あることによるもので、また33という数字は観音菩薩が33もの姿に身を変えて人を救うという信仰によるものだということです。この三十三間堂で、「柳のお加持」という法要が行われています。正月に汲んだ初水を霊木とされる柳の枝で参拝者にそそいで加持する頭痛封じの法要です。この法要は後白河上皇の頭痛平癒にあやかったものなのですが、ここにも熊野が絡んできます。
後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがあった。
「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいる。その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」という。そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は前世の蓮華坊の名をとって付けられた。

岩田川。今の富田(とんだ)川の滝尻(和歌山県西牟婁郡中辺路町)辺りから下流は岩田川と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。この川を1度でも渡れば、今までの罪業がことごとく消えると信じられていた聖なる川。この川を徒渉し、滝尻王子に参拝。京から熊野を目指して歩いて きた人々にとって、滝尻からが熊野の霊域の始まりでした。

仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされているそうですが、実際、柳には鎮痛作用があり、解熱鎮痛薬であるアスピリンは柳から作られたものなのだそうです。

三重県南牟婁郡紀和町楊枝に楊枝薬師堂という小さなお堂がありますが、そこにはこんな伝説が。
昔、この地に60余丈(1丈は約3m)の柳の巨樹があった。頭痛に悩まされていた後白河上皇は頭痛平癒を願い、京に三十三間堂を建立することになったが、長さ100mをこえる棟木が必要であった。そこで、楊枝の里の柳の巨樹が伐り出されることとなった。この柳を伐って、京へ運び、三十三間堂の棟木に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。後白河上皇は、その柳の伐り跡の上に七堂伽藍八房十二院の大寺を建て、自ら刻んだ薬師如来を安置し、「頭痛山平癒寺」と名付けた。これが楊枝薬師堂の前身である。寺は幾度かの火災や水害で失われてしまい、現在は楊枝薬師堂の一宇があるのみですが、本尊薬師如来は創建当時のものを伝えているそうで、頭の病気に霊験があるとされています。】







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🔴 室町幕府三代将軍『足利義満』の母は蜷川氏の『月海夫人』⇒「一休さん」と「越中蜷川氏」 蜷川新右衛門 !!

2017-12-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「富山県史」に記載される「光厳東海和尚録」





2012年09月30日の「北日本新聞」に長く失われたと思われていた「光厳東海和尚録」が金沢市で発見されたと言う記事が掲載された。記事に拠ると、
【室町時代の越中を代表する禅僧の法話などを記した「光厳東海和尚録」が金沢市で見つかった。江戸時代の前期に書かれた唯一の写本で、富山市五番町の曹洞宗光厳寺が所有していたが、1945年の富山大空襲で焼失したとされていた。当時の禅僧の布教活動や有力武士との交流を伝え、越中の禅宗史の一端を知る史料として研究者が注目している。】とし、
 【「和尚録」は、光厳寺の2世住職、東海宗洋(1458年~1515年)の法話等を書き留めている。戦後長く行方が分からず、1975年に県が刊行した「県史史料編II中世」には「富山空襲で焼失」と記載されていた。同寺の今村源宗住職によると、和尚録は空襲に備えて境内にある三重の塔の地下室に移され、焼失を免れた。その後、当時の住職が金沢の寺に移る際、蔵書に紛れて持ち出されたとみられる。このほど寺に戻り、研究者に公開された。】と報じた。「東海宗洋」は、越中代官を務めた神保家の出身で中世の最高学府「足利学校」(下野国・栃木)で学ぶ禅僧と交流し、漢詩の高い教養があった。この「東海和尚録」は、法要や寺の儀式で読み上げた420編余りの[香語]を収めている。
この中に、「赤丸浅井神社」での法要ー[五位庄赤丸在住の藤原直家の法要]-の記録が記載されている。後に加賀藩の菩提寺ともなった「光厳寺」の二世で後に「能登総持寺」の三十六世住持になった東海宗洋が「瑞泉二代亀阜和尚初七日忌香語」で、【五位庄赤丸在住の藤原直家が赤丸の川人山鞍馬寺・浅井神社で父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだ】と記録している。これを「光厳東海和尚録」という。(※『光厳東海和尚録』富山県史史料編中世 参照)
ここで記録された「亀阜和尚」は亀阜豊寿(きふほうじゅ)[1435年~1501年]は室町~戦国時代の僧で近江 (滋賀県)の出身。近江の曹洞宗新豊寺の雪叟一純に就いて出家し後に同寺天叟祖寅(てんそうそいん)の法を継いだ。能登総持寺、越中瑞泉寺(新川郡林崎)の住持を勤め、富山市黒崎に最勝寺を開く。(※現在は富山市蜷川) 明応10年1月5日死去。六七歳。東海和尚の師匠(旗雲租旭師)の兄弟子に当る。天叟祖寅の直弟子。

【★能登国櫛比庄内にあった曹洞宗総持寺は,応永6年6月17日の室町将軍義満御教書によって,室町将軍家祈願寺となり,荘内の寺領を安堵されている。(総持寺文書)ー角川地名大辞典】


では、何故、曹洞宗の「亀阜豊寿」が「赤丸浅井神社」で法要を行ったのか?
当時、「赤丸浅井神社」は京都の門跡寺院の「聖護院」の系統の両部神道「本山派山伏」であり、修験道においては「神前読経」と呼ばれた神前で仏教経典を読み上げる習慣が在った。南北朝の騒乱はこの頃、南朝の天皇から北朝の天皇に神器が渡されて、南北朝の統一が行われた。後白河上皇~後醍醐天皇迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」は室町時代には「越中五位庄」となり、応永12年(1405年)、足利義満により「五位庄」は義満の室の日野業子(ナリコ)(定心院)の追善料として「京都相国寺」に寄進された。この頃、足利義満は「日本国王」と名乗り、その妻日野業子は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子義嗣は親王と同等の格式を許されたと云う。皇室領に準じて日野業子の追善料として京都相国寺に寄進されたものか?  「金閣寺」は「相国寺」の塔頭寺院の一つであり、舎利殿「金閣」が著名な為「鹿苑寺」は「金閣寺」と呼ばれている。
『※応永22年(1415年)には足利義持により「五位庄」の半分が足利氏菩提寺の等持院(京都市左京区)に寄進され下地は守護畠山満家に預け置かれた。その後も五位庄は足利家菩提寺の等持寺、等持院の庄園になっている。』








「富山市蜷川地区」と「一休さん」、「蜷川新右衛門」


富山市の富山市インターチェンジ近くに創建された「最勝寺」は「亀阜豊寿」が初代とされ、この時に、この周辺は一休さんとトンチ問答をしたとされる「蜷川新右衛門」の一族の「蜷川氏の所領」であり、「蜷川郷土史」に拠ると、蜷川氏は源頼朝の旗揚げに功績が有り、その恩賞として越中の砺波、新川両郡を与えられたと云う。砺波郡でも全部ではなく、新川郡境に近い石動周辺が与えられたと考えられると云う。と云う事は、当然、「五位庄」も含まれたという事になる。
【※蜷川家譜には、一休禅師と蜷川新右衛門親当の交流は新右衛門が引退した後からの交流だとしている。又、蜷川新右衛門親元は足利義教に仕え、蜷川氏は代々新右衛門を名乗っているが、系図では、「親当」は「蜷川新左衛門」、その子の「親元」は「新右衛門」とされており、新右衛門、一休さん、義満の物語はフイクシヨンの様だ。
足利義教は還俗して将軍に成ったが、激しい気性で在ったらしく、恐れた赤松氏に暗殺されている。赤松氏はこの時に滅亡したが、その後、子孫が後南朝から神璽を取り戻した恩賞として加賀半国(石川県北部の羽咋方面)を知行されている。】



この頃の「光厳寺」は守山に在り、「最勝寺」は当初、富山市浜黒崎辺りに創建されたらしいから、この頃の蜷川氏の所領は現在の小矢部市から五位庄、守山、伏木、新湊、富山市の海岸通を含む交通の中枢の北陸道に沿った地域が考えられる。高岡市守山の「光厳寺」の「東海和尚」は高岡市の守山城主神保氏の一族だったらしく、神保氏は能登、越中守護畠山氏の代官であり、神保氏の所領、勢力範囲共一致していた様だ。
(※「蜷川家文書」の政所代蜷川親元文書には神保氏は「代官」として見られる。)
最近迄、越中の新川、砺波郡が鎌倉時代から蜷川氏の所領で在った事は知られていなかったが「蜷川の郷土史」に拠ると、蜷川一族の「等全南江和尚」は「相国寺寺主」をしており、「越中五位庄」が相国寺に寄進された背景にも蜷川氏が絡んでいる。蜷川氏は足利将軍家臣の政所執事伊勢氏の家臣であり、政所代の役を勤め、伊勢氏共縁組しているが、足利将軍家共縁組して足利義満を生んだのは「足利月海夫人」(※紀良子)と 呼ばれた人物だと云う。
(※「蜷川の郷土史」の中の京都蜷川家「蜷川親正」氏の著作に記載されている。系図では良子の先祖の宇多天皇の中宮胤子の母列子が蜷川氏だった事を示している。)
『蜷川氏』は元々、「物部氏」の「宮道氏」であり、蜷川新衛門親当の7代前の蜷川親直の時に越中砺波、射水二郡の領主であり、一族には宇多天皇妃となり、醍醐天皇を産んだ「藤原胤子」が出ている。蜷川一族はその後も全国に拡がり、一族には徳川の旗本となり五千石を給された一族も出たと云う。
(※「紀良子=月海夫人」;足利義満の母、石清水八幡宮検校善法寺通清の娘。法号を洪恩院殿月海如光禅定尼という。 姉妹には後円融天皇生母の紀仲子と、伊達政宗 (大膳大夫)正室の輪王寺殿がいる。 )



「その他の蜷川地区の寺院と著名な武将の痕跡」
●「常福寺」→寺島牛之助の弟『小島甚助』のその後!!
浄土真宗本願寺派のこの寺院の四世「玄西」は婦負郡駒見郷の寺島備前守の子の小島甚助胤興で、兄の柴野城主寺島牛之助職定と共に佐々成政に与力して、長沢城や射水郡小泉城を守り、能登末森城で前田利家に敗れて兄の寺島牛之助は前田利家に臣従したが、甚助は西玄坊と改めて石動山天平寺の修験僧となり、後に常福寺西玄の弟子となったと言う。寺島牛之助の子孫は加賀藩で高岡町奉行、算用奉行等を歴任した寺島蔵人であり、現在もその住居跡は金沢市の観光地「寺島蔵人邸」として残っている。

●「鳳凰山興国寺」→『桃井直常』と『斉藤竜興』のその後!!
南北朝時代の武将「桃井直常」が創建したと伝わるこの寺には、桃井直常夫妻、長沢の戦いで亡くなった息子の直和の位牌が有り、その住職の中には織田信長に攻められて滅んだと伝わる「斉藤竜興」がこの地に落ち延びたと伝わる「月嶺浄円」と言う住職がいた。この人物は美濃稲葉山城が落城した時に秘かに越前朝倉、近江浅井氏を頼って落ち延び、永禄十二年越中に逃れて興国寺に身を隠し、次いで帰農して九右衛門と名乗り、次いで興国寺の住職となったと言う。この寺にはこの人物の念持仏の阿弥陀如来像が遺されている。

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🔴 「吾妻鏡」に見られる「後白河上皇」の 「後院領」『 越中吉岡庄』に於ける「義経記」 の「二位の渡し事件」(※勧進帳)の背景⇒義経主従の通過!!

2017-12-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





●「吾妻鏡」の事件を時系列に並べると、「源頼朝」は「源義経」の追討に二年の歳月を費やしている。「義経」が逃亡してすぐの翌月には「後白河上皇」が「頼朝」に対して自分の庄園の「越中吉岡庄」で「頼朝」が任命した地頭の「成佐」が不法を行っているからすぐに替える様に院宣を下して牽制している。この事は法王が秘かに義経を支援しており、又、後白河上皇の皇子「守覚法親王」(※母は藤原季成の娘で後白河天皇寵姫の成子。真言宗仁和寺第6世門跡。以仁王の兄。源義仲・頼朝は以仁王の綸旨で平家追討を行った。)が熱烈な義経の支援者だったからだと見られる。
【※「源義顕」⇒当時の「近衛中将九条良経」と同名で在った事から罪人の名前として別名に代えたと言う。吾妻鏡では「伊豫守義経」を「豫州」、「義顕」、「義行」と名づけて居る。】

■「義経記」に拠れば、義経主従はこの「吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」前の「二位の渡し(※富山県高岡市福岡町赤丸)」を経て、小矢部川河口の六渡寺村に着いたと云う。この「二位の渡し」での「弁慶の義経打擲事件」は歌舞伎や能の「勧進帳」の場面と成った。

「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺三社記」には「元正天皇の二宮の創建」とされ、その為に「二位の宮御創建」の由緒から、この神社の前の舟乗場を「二位の渡し」と呼んだ様だ。















「延喜式内社赤丸浅井神社」や「浅井城跡」の在る富山県高岡市の西山の夕景色
陽の沈む辺りは「極楽谷」と呼ばれ、その周辺には「吉岡西砦・吉岡東砦跡」が在る。「義経記」では、「如意の城を後にして‥」と記載されるがこれは「浅井城」(※「五位の城」)の事だと小学館版、岩波版には解説されている。





🔘「吾妻鏡 巻六」

■1187年 (文治3年 丁未)

2月10日 壬午
前の伊豫の守義顕、日来所々に隠住し、度々追捕使の害を遁れをはんぬ。遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く。これ陸奥の守秀衡入道が権勢を恃むに依ってなり。妻室男女を相具す。皆姿を山臥並びに児童等に仮ると。
(※伊勢・美濃の通過は幕府の推定で在り、「義経記」では北陸道を通過している。)

3月2日 甲辰 (※後白河上皇の後院領の越中吉岡庄で地頭成佐が不法を行っている。)
越中の国吉岡庄地頭成佐不法等相累ねるの間、早く改替せしむべきの由、経房卿の奉書到来す。仍って則ち御請文を献ぜらる。
去る月十九日の御教書、今月二日到来す。謹んで拝見せしめ候いをはんぬ。越中の 国吉岡庄地頭成佐の事、御定に任せ、早く改定せしむべく候。但し彼の庄未だ復本せざるの間、御年貢式数せざるの由、成佐これを申し候き。重ねて相尋ね候て、他人に改めしむべく候なり。この旨を以て漏れ達せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。
     三月二日



3月5日 丁未 (※奥州の藤原秀衡が義経を隠していると聞く。)
豫州義顕陸奥の国に在る事、秀衡入道結構を為すの由、諸人の申状符号するの間、厳密に召し尋ねらるべきの旨、先度京都に申しをはんぬ。仍って御沙汰に及ぶの由、右武衛能保これを申さると。


1187年 (文治3年 丁未)

4月4日 乙亥 (※頼朝は義経探索の為に祈祷を行った。)
豫州の在所未だ聞かず。今に於いては人力の覃ぶ所に非ず。須く神祇仏陀に祈らるべきの由、人々これを計り申すに依って、鶴岡以下神社仏寺に於いて、日来御祈祷を修せらる。而るに若宮の別当法眼夢想を蒙られて曰く、上野の国金剛寺に於いて豫州に逢うべしと。仍って子細を申すの間、彼の寺の住侶等、各々御祈祷の丹誠を抽んずべきの旨相触るべきの趣、籐九郎盛長に仰せらると。

9月4日 壬寅 (※藤原秀衡が義経を庇護していると聞き頼朝は秀衡に文書を使わした。)
秀衡入道前の伊豫の守を扶持し、反逆を発すの由、二品訴え申せしめ給うの間、去る比廰の御下文を陸奥の国に下されをはんぬ。その時、関東同じく雑色を遣わさるるの処、今日帰参す。秀衡に於いては異心無きの由謝し申す。而るに雑色申す如きは、すでに用意の事有るかと。仍って彼の雑色重ねて京都に差し進せらる。奥州の形勢を言上せしめんが為なり。

10月5日 壬申 (※川越重頼の娘は源義経の正妻)
河越の太郎重頼、伊豫の前司義顕の縁座に依って誅せらるると雖も、遺跡を憐愍せしめ給うの間、武蔵の国河越庄に於いては、後家の尼に賜うの処、名主百姓等所勘に随わざるの由、風聞の説有るに就いて、向後庄務と云い雑務と云い、一事以上、彼の尼の下知に従うべきの由、仰せ下さるる所なり。

■1189年 (文治5年 己酉)

閏4月21日 庚戌 (※奥州の藤原泰衡に義経討伐を督促した。)
泰衡義経を容隠する事、公家爭か宥めの御沙汰有るべきや。先々申請の旨に任せ、早く追討の宣旨を下さるれば、塔供養の後、宿意を遂げしむべきの由、重ねて御書を師中納言に遣わさると。

閏4月30日 己未 (※藤原泰衡が源義経を襲って、義経一家は自害した)
今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一) 左馬の頭義朝朝臣六男、母九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉 に任じ使の宣旨を蒙る。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、畏み申さず)、則ち院内昇殿を聴す。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。元暦元年八月二十六日、平氏追討使の官符を賜う。二年四月二十五日、賢所西海より還宮す。朝所に入御の間供奉す。二十七日、院の御厩司に補す。八月十四日、伊豫の守に任ず(使元の如し)。文治元年十一月十八日、解官す。」

(※「吾妻鏡」現代文訳)
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🔴🔹高岡市駅南の『衆徳山総持寺』の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」の胎内に記載される2ヶ所の「奉納仏舎利」と、倒幕に情熱をかけた「異形の天皇 後醍醐天皇」⇒「越中吉岡庄」!!

2017-12-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


「越中吉岡庄」を庄園としていた「後醍醐天皇」は、赤丸の日輪が付いた冠を被り、空海が唐から持ち帰った「東寺の重宝の袈裟」を身に着けて両手には「割五鈷杵(ワリゴコショ)」を持ち、自らが東寺長者文観に師事して体得された真言宗立川流の秘術を以て幕府倒幕を祈願され、「天皇の親政」、「王政復古」を目指された。

《※「割五鈷杵(ワリゴコショ)」; 縦に二分割できる五鈷杵で、その中心に「仏舎利」を入れる事を目的とするもの。また、分割した際にそれぞれが人形(ヒトガタ)にも見えることから、真言立川流においては「人形杵」(ニンギョウショ)とも呼ばれた。現在は、一般に使用する事は無い。(Wikipedia)》







⇒後に、この信念は『明治維新』の理念ともなっていた。この軸の賛には「後醍醐天皇は左手には法華経の五巻を持ち、右手には「剣」を握りしめて崩御された」と記載されている。
(※明治維新の時の「後醍醐天皇」の掛軸参照)






河内金剛寺から伝わったとされる「総持寺の千手観音像」の胎内の「奉納仏舎利」については、未だ解明が進んでいない。
「後醍醐天皇」が密かに倒幕を企んで表面化した正中元年の「正中の変」は公家衆のとりなしで天皇への直接の処分には至らなかったが、後醍醐天皇はこの年の正月に東寺保管の空海所縁の仏舎利を大量に37粒も奉請(受け取る事)されており、理由は「国家安泰を図る為」と記されている。(※東寺保管の国宝「後醍醐天皇仏舎利奉請状」の写し参照)しかし、この仏舎利は倒幕祈願の為に各所の仏閣や仏像に施入された様だ。




【正中元年(1324年)9月、京都の六波羅探題が後醍醐天皇の討幕計画を察知して、関係者を処罰する「正中の変」が起こる。執権は北条高時。】
この時から後醍醐天皇の倒幕の信念は動かなかった。河内金剛寺に残る「後醍醐天皇仏舎利施入状」と「東寺長者文観仏舎利施入状」に拠ると、現在、総持寺に安置される「千手観音像」の胎内の「奉納仏舎利」の記載は、金剛寺研究者に確認した所、「仏舎利を五粒も施入した仏像は金剛寺には無い」とされる事から、総持寺に移されたこの千手観音像にこの施入状に基づき仏舎利が施入されたものと見られ、胎内には「金剛位理卿 本願聖人」と後鳥羽上皇の法名が記載される事から、後醍醐天皇にとっては「倒幕の為に承久の乱を起こして無念の内に隠岐島で生涯された後鳥羽上皇」に捧げるという意味も在ったものか? 兎に角、東寺の仏舎利が一体の仏像に「五粒」も施入される事は異常な事であり、この千手観音像が如何に重要な仏像で在ったかが窺われる。






近年、総持寺では二基の仏舎利容器が発見されており、この千手観音像と仏舎利の来歴が立証されれば、この仏像は正に鎌倉から南北朝時代の歴史を証明するカギになる「国宝以上の重要な仏像」と言えるだろう。又、後白河、後鳥羽、後醍醐と伝領された「越中吉岡庄」の赤丸村に在った「総持寺」にこの仏像が移された背景も明らかになるだろう。河内金剛寺は倶利伽羅合戦で亡くなった「源貞弘」が用地を寄進した寺で在り、後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱」の首領は元々能登守で在った「藤原秀康」で在った。この時には、宮崎、石黒、加賀の林等は上皇側に付き、越中の井口、加賀の富樫は幕府側に付いて北陸の豪族一族を分断する争いと成った。その結果、後鳥羽上皇は敗北し、北陸の政治バランスも大きく変化した。
今後の事実解明の為に何よりも役立つ決定的な事は、近年、国立歴史民俗博物館が「越中吉岡庄」の位置を特定して国の「庄園データーベース」に登録した事だ。この事により、古文書に記載される「吉岡庄」、「おいの庄」等が解明され、これからは様々な越中の歴史が明らかにされるだろう。

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🔴㊙☔ 『高岡市』の『高岡』の 由来!! ⇒🆖 加賀藩に消された『総持寺』の黄金の千手観音像の由来!!

2017-12-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「吉岡庄(赤丸村)」から高岡市関町に動いた元『高岡山総持寺』!!











●「高岡市総持寺の千手観音像の胎内仏」




●「総持寺」に保管される二基の「仏舎利容器」


■高岡市内の在家に「重要文化財千手観音座像の胎内仏」と伝わる鎌倉時代作の仏像が伝っている。
又、総持寺には「二基の仏舎利容器」が保管されている。
高野山の麓の「河内金剛寺」には建武二年に「後醍醐天皇」と「東寺長者文観」が金剛寺住持の持仏に併せて五粒の仏舎利を施入した事を記載した「施入状」が残る。一方、河内金剛寺から伝来したとされる高岡市「総持寺」の『千手観音座像』にはその胎内に『奉納 仏舎利』と二ヵ所に記載がある。この仏像には『正平八年御入り』ともその胎内に記載される事から、この仏像は南朝の行在所で在った「河内金剛寺」に足利方の軍勢が迫っていた時に、時の金剛寺学頭「禅恵」が後醍醐天皇の庄園で在った『越中吉岡庄』の「総持寺」に運ばせたものと見られる。
この仏舎利は空海が唐から持ち帰った80粒の「真性仏舎利」で在り、この貴重な仏舎利を後醍醐天皇は勅封の壺から「二粒」、文観が長者管理の壺から「三粒」も施入したもので、並大抵の仏像で無い事が分かる。
この仏像の胎内には『本願聖人 金剛位理乗』と記載されており、これは『後鳥羽上皇』の法名である。
又、別の胎内名の『藤原浄円 大壇那』は 、鎌倉幕府評定衆の『斎藤長定 入道浄円』で在り、『後鳥羽上皇』の中宮「九条任子」に連なる藤原一門の人物で、その長男は鎌倉幕府『将軍藤原頼経』の近従『斎藤長時』で在った。この『藤原頼経』は『九条任子』、『九条兼実』に連なる『九条頼経』で在り、これ等の九条一門が背景に在ってこの観音像が製作されたものと見られる。




「空海」が唐から持ち帰ったという東寺の重宝の衣裳を着け、幕府の懲伏を行った『後醍醐天皇』










●『後鳥羽上皇』の色紙には『鳳凰』が書かれ、隠岐の島に流された上皇の願いを込めた『千手観音像』は「後鳥羽上皇」の庄園でも在った『越中吉岡庄』の赤丸村の小高い岡に祀られた。 総持寺住職はこの事を著して、『詩教』の一節から引用して『鳳凰(法王)鳴けり 高き岡に』と述べた。高岡市の『高岡』 は元々、総持寺が在った場所の『高丘』から来たものであり、総持寺はそれ故に元々『高岡山総持寺』と称していたが、「前田利常」が『瑞龍寺』を建立した時にこの『高岡山 コーコーサン』は取り上げられて瑞龍寺に付けられ、現在の『高岡山瑞龍寺』になったと云う。(※『富山県大百科辞典』富山新聞社刊)

「後鳥羽上皇」の色紙『鳳凰図』



★「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以来、「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄、皇室の『後院領』として伝来しており、これ等の事は全て「後院領」の出来事で在った。「越中吉岡庄」は「越中石黒氏」の居城の「赤丸浅井城」と「郷社延喜式内社赤丸浅井神社」を中心として栄えた越中西部地域に在った庄園で在った。
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🔷🏯「越中守山城城主神保安藝守氏張 室 織田信長妹」(※「お市の方」の妹)の記載⇒ 上杉謙信との駆け引き!!

2017-12-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「富山県高岡市」と「織田信長」

柴田勝家と信長の妹の「お市の方」の粗末な墓は福井県福井市の足羽山の麓の西光寺境内にある。「お市の方」(天文16年-天正11年4月24日)(※「於市」、「市姫」)の父は織田信秀で、五女と云われ、浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となった。神保氏張の妻は、系図ではその妹とされる事から六女になる。












加賀藩の御抱え医師をしていた「草鹿家所蔵」とされる「本朝武家系図」を入手した。
その中には、「平氏織田系図」、「世良田徳川系図」、「能登畠山系図」等、越中に関係の深い武家の系図が記載されており、富山県では余り知られて居なかった高岡市の二上山に在った「守山城」の城主「神保氏張」の妻が「織田信長の妹」で在った事が系図に記されている。神保氏張は能登畠山家から神保家に養子として入ったが、兄は上杉謙信の姪の婿になって上杉を名乗った。織田信長は上杉謙信との駆け引きの中で自分の妹を謙信の身内に嫁がせたが、謙信の信長に対する疑いは晴れず、軍勢を率いて「木舟城」を攻めた事が「北越太平記」に記載されている。神保氏張が謙信の能登攻めの結果、上杉謙信の家臣に成り「上杉謙信家臣名簿」にも記載されると、「織田信長」は「神保氏張」に妹との離婚を申し渡し、妹を兼ねてからの織田家縁者の「稲葉貞通」に嫁がせたと云う。

(※この系図では、「織田家」は小松内大臣 平重盛→資盛の系統の子孫とされているが、もう1つ、福井県織田町の剣神社の神官の末裔とする系図が在り、平家系図でも織田家は「小松」→「津田」→「織田」と姓を変えている。)


「北越太平記」には上杉謙信と織田信長の駆け引きで信長の妹が神保氏張に嫁いだ事が記載されている。(※この中での「神保長純」は「神保氏張」の間違い)









「神保氏張系図」(※静岡県立図書館 蔵)









●「上杉謙信」と「神保氏張」⇒能登畠山氏「畠山義隆」の暗殺とその家族のその後!!
天正五年の「上杉家家中名字尽手本」は上杉謙信が越中、能登を攻略した時の家臣名簿である。
神保長職は永禄3年(1560年)上杉謙信により富山城を追われた。天正元年(1573年)に、越中の一向衆や越中の武将達が盟友とした武田信玄が病死すると、謙信は七月、一向一揆と組んだ富山城、松倉城(魚津市)城主椎名康胤を制圧し、次いで一向衆の朝日山城(石川県金沢市)を攻略した。天正二年十二月、謙信は剃髪して法印大和尚に任じらる。天正三年、本願寺光佐が大阪石山城に籠城して織田信長と戦い、謙信に援助を求める。天正四年(1576年)二月、能登七尾城の畠山義隆が家臣の長続連に殺される。三月、越中日の宮城(小杉町)の神保長職の要請を受けて越中に出陣し、高岡市の守山城、氷見の湯山城を攻める。九月、大沢野町の栂尾城、砺波市の増山城を攻略、七尾城を包囲して能登石動城を築き、直江景綱に守備を命ずる。天正五年(1577年)、越中守山城城主神保氏張(毒殺された七尾城主畠山義隆の二男 )が謙信の傘下に入る。三月、能登富来町富来城、中島町熊木城を押さえ、七月には長続連が織田信長に支援を要請する。九月に七尾城、能登末森城を攻略。加賀国に入り、湊川(手取川)で織田信長軍と戦うが、信長軍は湊川の増水の為に退却を阻まれて惨敗する。12月、能登から越後春日山城に戻り、故畠山義隆の妻、三条氏(神保氏張の母)を謙信の重臣北条高広(喜多条)の妻とする。天正五年十二月、領国内諸将八十余人の家臣名簿を作成した。天正六年(1587年)三月十三日には上杉謙信は死去する。同年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城する。

【上杉家家中名字尽手本】(抄)
北条安藝守高広(神保安藝守氏張の継父)、河田伯耆守重親、大石惣介芳綱、斉藤下野守朝信、安田宗八郎顕元、吉江清七郎信景、河田豊前守長親、鰺坂備中守長実、吉江織部佑景資、土肥但馬守親信、小嶋六郎佐衛門尉職鎮、神保安藝守氏張、遊佐佐衛門尉盛光、石黒左近蔵人成綱、斉藤次郎右衛門尉信利、寺崎民部佐衛門尉盛永、瑞泉寺、勝興寺、小嶋甚介国綱、寺嶋牛介盛徳、上条弥五郎政繁、直江大和守景綱、長沢筑前守光国、井上肥後守、長与一景連、遊佐美作守続光、三宅備後守長盛、温井備中守景隆、平加賀守尭知、西野隼人佑、畠山大隅守、畠山将監、下間侍従法橋坊頼純、七里三河法橋坊頼周、坪坂伯耆守、……
(奥書)「天正五年十二月廿三日 法印大和尚謙信」(※「新潟県史 資料編3.中世一」)


(※参考「守山城神保氏系図」)

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🔴🌸 「 日の丸 」と「菊花紋章 」 の始まり ⇒天皇家庄園「越中吉岡庄」に残る「日本文化のルーツ」!!

2017-12-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「両部神道 延喜式内社赤丸浅井神社」の「古い社殿」と「両部鳥居」













神仏を併せて信仰した「赤丸浅井神社」は別当寺「川人山鞍馬寺」が併設され、門跡寺院「聖護院派」の寺院で在った。
「両部鳥居」は本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)が在り、その笠木の上にも屋根がある鳥居。「両部」とは密教の金胎両部(金剛界・胎蔵界)を云い、神仏習合で在った。「四脚鳥居」、「稚児柱鳥居」、「権現鳥居」、「枠指鳥居」等とも呼ばれた。明治に入り両部神道が廃止された為、「赤丸浅井神社」に奉仕していた山伏「西宝院」は還俗して「川人他治馬」と名乗った。鳥居もこの時に神道の鳥居に建て変えられ、敷地内に在った「西宝院」の建物の拝殿が現在の神社拝殿として移設されて一部は新築され、旧の社殿は高岡市羽広の「諏訪社」の社殿として移設され現在も使用されている。この建物にも赤丸浅井神社と同じく天皇家の「十六菊菊花紋」が刻まれており、この紋は「越中吉岡庄」を所領とされた「後鳥羽院」が衣装他の全てに付けられた紋で在る。この紋は現在、天皇家の紋として、又、パスポート等にも使用されて「国章」として使用されている。後の吉岡庄領主「後醍醐天皇」は冠に日輪を付けて、錦の御旗の金の丸を「赤丸」の血の色に染めて、倒幕の旗標とされた。「赤丸村」には、あちこちに天皇家庄園「越中吉岡庄」の時代の面影が遺されている。「赤丸浅井神社」は皇室の主祭神「正一位 高皇産霊神」を主祭神としている。
山伏には「本山派聖護院派」と「当山派」の二流が在り、山伏の衣装も異なっており、歌舞伎等に見られる山伏は本山派の衣装で在る。「本山派」は「三井寺」が検校ケンギョウを勤めていたが、「後白河上皇」は比叡山山伏を牽制する為に三井寺で出家され、本山派の支援者で在った為、比叡山山伏は度々、神輿を担いで朝廷に「強訴」をして強迫した。平清盛はこれに対して比叡山で出家して比叡山山伏を引き入れて安芸の宮島を建立した。宮島の鳥居もこの「両部鳥居」で在る。













現在高岡市内に在る「総持寺」は「越中吉岡庄」の赤丸村から動いた。







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🔷🔶 室町幕府第三代将軍「足利義満」は何故「日本国王」を名乗ったか? ⇒「 相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)庄園の「越中五位庄」 !!

2017-12-07 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








「足利義満」は「越中五位庄」を室の業子の追善料として自ら創建した「相国寺」(※鹿苑寺金閣)に寄進した。その後も、五位庄は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園となっている。






「足利義満」の母の「紀良子」は先祖に「第59代宇多天皇」を持ち、その中宮は越中蜷川氏の系統の「胤子」で在った。
「足利義満」は南北朝の合一を行い、自らは「順徳天皇」の孫でも在る事から、「第26代継体天皇」が「応仁天皇五代孫」で在った事も在り、自らも「天皇」に比して「日本国王」と称した。「越中五位庄」は「天皇」を意識した「足利義満」の直轄庄園と成った。

※「足利義満」の妻の「日野業子」は浄土真宗の祖の「親鸞」の一族に当たる。



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🔷🔹🔹「源頼朝」の旗揚げに尽力して、「越中」の「新川郡」、「砺波郡」を領した『越中蜷川氏』⇒室町幕府政所代として実権を持った『越中蜷川氏』!!

2017-12-06 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●「越中蜷川氏」は源頼朝に従って戦功在り、この時期には「太田」と名乗っていたが、越中新川郡、砺波郡に領地を賜ったとされ、その地は「太田保」(※ほぼ旧富山市地域)と呼ばれ、「太田保蜷川郷」に蜷川城を築いて勢力を持ち、足利尊氏に付いても戦功が在り、室町幕府では政所伊勢氏や足利家とも縁組して、累代、「政所代」を勤めた。「越中蜷川氏」は「物部氏」の末裔で「宮道氏」の子孫であり、初期には「太田」と名乗り、後には一部が「吉岡」と名乗った様だ。「太田保」には「吉岡村」が在り、「越中吉岡庄」(※後の五位庄)には地頭として源頼朝の家臣の吉岡庄地頭「成佐」が配置(※「吾妻鏡」)されていた事から、当初、吉岡庄に配置されていた「成佐」はこの頼朝配下の「蜷川氏」で在り、「吉岡庄」を治めて「吉岡成佐」と名乗っていた可能性が高い。

①蜷川七郎親直の代に越中の砺波郡、新川郡を知行された。⇒「親直は治承四年、源頼朝の伊豆での挙兵に参戦して軍効」
②室町幕府三代将軍足利義満の母は蜷川月海夫人で在った。⇒足利義満は砺波郡五位庄を京都の相国寺に寄進した。(※「富山県史 中世」)⇒蜷川氏から歴代の相国寺住持を輩出している。
③富山市「蜷川郷」に「最勝寺」を建立した。⇒最勝寺開基の「亀阜豊寿」は、赤丸村の「川人山鞍馬寺、延喜式内社赤丸浅井神社で赤丸住藤原直家の父の法要を営んだ」(※「富山県史 中世」)
④「蜷川新右エ門親当」は室町幕府の政所代に就任して、将軍足利義満の信任が厚かった。
後小松天皇の皇子の一休禅師との歌問答は有名。
⑤蜷川氏の祖の「宮道氏」は仏教導入に反対して滅ぼされた「物部守屋」の末裔。













■『越中郷土史』には、「永録九年、十二代蜷川常嗣の時に越中守山城の神保氏に滅ぼされた」とされる。



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🔴「吾妻鏡」、「東大寺文書」、「平範記」等に遺される『越中吉岡庄』の記録。

2017-12-06 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「後白河上皇」の「後院領」の「越中吉岡庄」は「後鳥羽上皇」以来皇室の庄園として南北朝時代の「後醍醐天皇」迄続いた。「後白河上皇」はこの庄園を「京都妙法院 蓮華王院 三十三間堂」の庄園とされ、平清盛が寄進した「三十三間堂」に一千一体の千手観音像を製作して祀られた。










鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」には吉岡庄の地頭の不法を問い質す「後白河上皇」から「源頼朝」への文書が在る。




「相良家文書」(※肥後人吉庄の領主)には「沙彌 迎蓮」(※相良頼俊)の「当家知行分越中吉岡庄」と記載される文書が在る。(※「東大寺文書」)


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