学校教育を考える

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聖職論の陥穽と社会の闇

2013-01-25 | 教育
 「駆け込み退職」を批判する文脈で、「聖職」という言葉が用いられていることに危惧をおぼえる。

 本来、聖職とは、宗教的な意味合いをもった言葉であり、キリスト教における司祭や牧師や宣教師といった人々などをそのように呼んだのである。教職を聖職といったのは、西欧中世以降もともと聖職にある者が教育に携わったからと言われている。それを我が国で明治以降、天皇中心の国づくりを担う者であるという理由で、聖職という言葉を教師に対して用いるようになったのである。それが、現人神たる天皇の赤子である臣民を育成するという崇高な使命を帯びているという意味を付与されるようになっていったのである。つまり、聖職という言葉は、教育そのものの重要性を言った言葉でもなく、教師の生徒に対する責任を言ったものでもないのである。戦後、戦前の教育が過ちであったという反省に基づき(これも今と同じ教員に責任を擦り付ける論法であるが)、教職の捉え方がさまざまな紆余曲折を経ながら変化してきたことは、少なくともマスコミで発言する人々は理解しているべきである。教職が聖職か労働者かをめぐっての教師の苦悩は、石川達三『人間の壁』に描かれているし、新田次郎『聖職の碑』においても、教師の聖職性とは何かが問われている。教師が聖職か労働者かという対立を止揚した教師専門職論も教師の自負心を満足させはしたが、医者や弁護士といった他の専門職と比較すると、自律性という意味で専門職としての要件を備えているとは言い難いことは、教育学をきちんと学んだ者なら知っているであろう。それゆえ最近になって、反省的実践家という捉え方もでてきている。いずれにせよ、教師という職業をどのような職業として捉えるべきかということについては、このように、戦前の聖職論を乗り越えるべくさまざまに考えられてきたのである。そのような歴史的背景を無視して、教師に聖職論をおしつけて批判するのはとても恐ろしいことである。「駆け込み退職」にしてもさまざまな個人的事情が関係しているであろう。家庭環境、再任用の可能性の有無、将来設計等もその判断に影響を与えているに違いない。

 一方、金のために生徒を放り出すのかという議論もまた的外れである。そもそも資本主義社会においては、財やサービスは基本的に金銭によって価値づけられている。3月末に退職する教員の2・3月の仕事、経済の言葉で言えばサービスに相当するものだが、このサービスは価値がないばかりではなく、負の価値があるとされているのである。戦前から無給講師というものがあったが、今回の場合は、働けば損をするという奴隷以下の条件なのである。民間との退職金格差をいう者があるが、そうであれば、教育界で最も賃金の低い平教員の退職金を云々するよりも、教育長はじめ高額な賃金を受け取っている者をこそ問題にすべきであろう。

 マスコミも作為的である。あるいは、初歩の算数もおわかりではないようである。3月末でやめると、2・3月分の給与40万円×2ヶ月分を入れても70万円の差などという言い方をする。その2・3月分の賃金合計80万円は勤労の対価である。一方、1月で退職した場合は、働かずして150万円よけいにもらえるわけである。もし,勤労の対価も計算に入れるとすれば,つまり、2・3月は別の仕事ができるということである。従って、退職前と同じ賃金を上限の獲得可能賃金と仮に考えた場合、他職で稼ぐと、最大230万円を獲得する可能性を持っているということである。すなわち150万円の差は縮まっていないのである。

 もしも教師がプロフェッショナルであるならば、誰がこのような仕事に従事するであろうか。実は、駆け込み退職する教員は、生徒に貴重なメッセージを与えているのである。自己の尊厳は自分で守らない限り、決して今の社会は守ってくれないのだというメッセージである。この社会の闇を生徒に知らしめること以上に重要な教育があるであろうか。強者は自己の利益を温存しておいて、弱者の利益を侵害したうえにあたかもわずかな利益を守ろうとすることを罪悪であるかのように非難する。そして、その構造が、周りの弱者には見えず、強者の論理が正論であるかのように見えるのである。そして、弱者がさらに弱い者をたたく構図である。このような構図をあおる文部科学大臣・埼玉県知事の発言こそ糾弾されるべきであろう。


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2 Comments

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とても同意致します (MX)
2013-02-24 14:28:00
教師は、私の何をなげうってでも(大げさに言うならば)私財をなげうってでも公に奉仕する人でなければならないなら、もはや一職業ではないと思います。
退職を思いとどまっても、尊敬と感謝は無く、当たり前だとされるなら、まさしく、奴隷以下だと思います。
教育とは、そんな奴隷以下に任せるものなのでしょうか?
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先生のように (Unknown)
2013-04-23 16:19:29
いろいろ考えて真摯に教育に携わっていらっしゃる方がどれほどみえるのでしょうか。
私は、職員室のいじめに疲れています。
本文の内容とは幾分違うコメントになりましたが
教育に携わるとは、どういうことなのか。
先生方の中には、奮闘していらっしゃるかたもみえるのは事実ですが、いじめるのに喜びを感じている人もいるのも事実です。そのような異質な人達を総称して教諭と呼ぶのは、頑張っている人には気の毒な話のように思います。
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