今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

737 野積(新潟県)日が沈む残り時間と競走だ

2016-11-05 07:00:00 | 新潟・長野
「夕日、日本一」を詠う街は多い。日本海に長い海岸線を延ばす新潟県も、夕日自慢の土地だ。ここ長岡市の野積海岸は絶景ポイントのひとつらしい。しかし夕日とは元来が美しいものであるから、競う対象にはならない。風景としての落日に優劣が生じるとすれば、沈む地点のロケーションにある。野積海岸は何もない。何もないのも清々しいけれど、せめて佐渡の島影に架かりでもしたら、と思うのだが、この季節はただ水平線だけである。



それでも私がこうやって飽かず眺めているのは、地球をシナバー色に染める入り日は、やはり得難い美しさがあるからだ。幼いころ、新潟の砂浜で遊び疲れ、夕日が海に黄金色の道を延ばして行くのを眺めるたび、これを渡って佐渡まで行けたらどんなに楽しいだろうと思ったものだ。その少年が70歳になって、同級生と野積の海辺で同級会を催している。幼いころとは異なるとはいえ、古希の爺は爺なりに感銘に浸っているのである。



爺の感銘とは「残り時間」との案配である。少年は、ただひたすらその美しさをポカンと眺めていたらいいだろうが、人生をほぼ知り尽くした爺ともなれば、そう単純ではない。常に「残り時間」が頭の片隅にあるから「この美しさにまた出会うことがあるだろうか」と考える。「まだまだいくらでも機会はあるさ」と強がってはみても、腹の中では「無いかもしれないから、よーく観ておこう」の方が勝つ。だから私は飽かず眺めている。



落日が夕日らしく色づくまで、ホテル裏の高台を歩いてみる。眼下に大河津分水の河口から日本海が一望される。そのパノラマに向き合うように、別荘やマンションが建っている。ここからの夕日は、冬の烈風を差し引いてもなお魅力があるということか。新潟市近郊で別荘適地を求めるとすれば、確かにこの弥彦山周辺の海側エリアということになろう。庭の手入れが行き届いた別荘がある一方で、マンションは痛みが放置されたままだ。



人生にまだたっぷり時間があるなら、別荘を持つことは選択肢の一つになろう。この地で夕日を眺め、温泉に浸って過ごす週末は贅沢の極みである。だがそう理解はしても、私は別荘に興味は無い。厭き症だから、どんなに美しい風景でも、何度も通えば厭きてしまうと自覚しているからだ。美しい風景もいいが、それ以上に知らない街を歩いてみたい。「そうした街が君にはまだたくさん残されているぞ」と、「残り時間」が囁いて来る。



野積については以前書いたことがあるけれど、集落をゆっくり歩くのは今度が初めてだ。西蒲原で生まれた私にとって、弥彦山の裏側は海しか無い、まさに彼岸のような未知の里だった。しかしこうした集落が営まれ、長い暮らしがあるのだ。路地を廻っていて、知らずに隣家の庭先に出た。まるで漁村のように家が密集している。山と海に挟まれた限られた土地だから、屋敷より耕地を優先し、防風林で守って水田を確保しているのだろう。



門の脇に立派な墓を建てる家がある。陸軍二等兵とか軍曹といった文字が刻まれている。写真が貼られている墓標もある。赤紙1枚で「残り時間」を奪われた人たちだ。バンザイで送り出し、英霊として迎えることになった集落が、そうした墓を建立させる時代があったのだろう。古希の私は終戦の翌年に生まれた。復興の苦難は幼少期に通過し、平和な経済成長下で人生を送ってきた。申し訳ないほど恵まれた世代である。(2016.10.14-15)










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