今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

738 秋山郷(新潟県)山深く隠れ里なり今もなお

2016-11-06 21:47:50 | 新潟・長野
「秋山郷に行ってみたい」と私が言い出すと、運転役の友人の奥さんは「えっ、あの道を」と絶句した。行ったことがあるから、その道の酷さを承知しているわけだが、しかし行ったことがない私は「それでも国道なのだから、通れないことはないはずだ」などと暢気に構えている。それが甘かった。こんな国道があるのかと恨めしくなるほど道幅は狭く、深い谷は底が知れない。この先に人の暮らしがあるということが、信じられない。



秋山郷とはどこか。まずはその存在を世に知らしめた鈴木牧之に敬意を表し、その著書『北越雪譜』から引用する(岩波文庫版)。「信濃と越後の國境に秋山といふ處あり、大秋山村といふを根元として十五ヶ村をなべて秋山とよぶなり。秋山の中央に中津川といふありて(末は魚沼郡妻有の庄を流れて千曲川に入る川なり)川の東西に十五ヶ村あり」。現在は長野県栄村と新潟県津南町に分かれるが、構造は牧之の時代と変わっていない。



私には「秘境憧憬癖」がある。4年前に津南町を歩き、「秋山郷」を指す道路標識を見あげて「ああ、あの山の彼方か」と立ち尽くしたことがあった。いよいよその地に分け入るのである。道は国道405号線。栄村最奥の信濃秋山郷まで通じ、いったん途切れる。そして県境を越えて、群馬県の野反湖畔から再び405号線となって南下する。つまり秋山郷の先から野反湖の間は未着工の国道なのだ。このことからも、いかに山深いかが知れる。



中津川を遡る。しばらくは快適なドライブが続く。発電所があり、時おり道路拡幅の工事に出合う。山深くはなったけれど秘境と言うほどではない。見玉不動尊という大きな寺のある里に着く。茶屋のおばあさんが「ここは入口。秋山郷はここからですよ」と教えてくれる。1828年(文政11年)秋、牧之は案内人を得てこの不動尊に1泊、翌日「桃源を尋ぬる心地」で秋山に分け入る。従者には「米味噌醤油鰹節茶蠟燭」を持たせている。





現代でも、道はここから一気に険しくなる。簡易な舗装は続いているのだが、狭くて対向車とすれ違えない。しかし牧之が描く「絶壁に張り付き、這い進む人たち」や、谷底近くに渡された丸木2本を四つん這いで渡る「猿飛橋」に比べたら、ハイウエーのようなものだ。秋山郷を外界と繋ぐ自動車道はこの道しかないらしい。信濃秋山の人たちは、村役場に行くにもこの道でいったん新潟県に出て、そこから村へ回り込むしかないのだろう。



江戸の人々を驚嘆させた雪国の暮らしは、壮絶である。郷の中心・大秋山について牧之は「人家八軒ありて此地根元の村にて相傅の武器など持しものもありしが天明卯年の凶年に代なしてかてにかえ猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり」と註釈している。その大秋山の手前、越後秋山の最奥になる大赤沢集落は牧之の時代と変わらず今もある。遠望した限りでは、牧之が記した9軒よりもっと多くの屋根が見える。



中津川は群馬・野反湖に発する。私はその湖の村で土を捏ねて遊んでいる。山奥だと思っていたが、秋山郷を知った今は長閑な里山に思える。大赤沢の茶店で、撞き上がったトチ餅をふるまわれた。無料でいただくのは気が引けるほど、おいしい餅だった。アクを抜くのに何ヶ月もかかるという。山の暮らしは智恵と忍耐だ。「なぜこんな奥地に」と考えるには、今日は空が余りに明るい。身構えて雪を待つ秋なのだろうが。(2016.10.15)
























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