《駒ヶ根》と聞いた時、不覚にも私はその街の位置を特定することができなかった。伊那は知っている、飯田も行ったことはないが場所は分かる。しかしその中間に、駒ヶ根市という街があることはまるで認識していなかった。私は元々地理が好きだし、取り組んで来た仕事の関係もあって、国内の地名には詳しいと自認していた。しかし「市」という単位の街を知らなかったのだから、私も「まだまだ」である。
駒ヶ根とは、駒ヶ岳の麓 . . . 本文を読む
《谷》というからには渓谷沿いの集落を縫って、くねくねと細い道が続いているのだろうと想像していた。しかし実際の《伊那谷》はまるで違って、広々とした空の下を天竜川が悠然と南下しているのだった。西は中央アルプスが近く、東は南アルプスが霞んでいる。もっと南の静岡県境に近づくと文字通りの《谷》になるのかもしれないけれど、ここ伊那市周辺の上伊那地域は、むしろ《伊那平》と呼んだ方がふさわしい。
私の勘違いは . . . 本文を読む
《高遠》にはいつか行きたいと、ずいぶん以前から想い続けてきた。それが桜の季節なら申し分ないのであろうが、吉野と競う花の名勝となれば、その時期の雑踏を考えただけで足がすくむ。それよりも真夏の、焦げ付くような日光の下で、桜の緑の陰を楽しむことも一興ではないか、と出かけることにした。ほとんど誰ともすれ違うことなく、古城の石畳に揺れる桜葉の影を踏みながら、私は白日の夢の中にいた。
私にとって、なぜ《高 . . . 本文を読む
浅草は曲者だ。何度行ってもよく分からない。街の《気分》のことである。敷居が高いわけではないのだけれど、かといって「街に迎え入れられている」という感覚からは遠いのだ。銀座から地下鉄で15分も揺られれば、そこはもう《情緒の街》浅草である。しかし問題は、その《江戸情緒》や《下町情緒》なのである。《情緒》に隠れて街の素顔がよく見えない。観光用の方便だと割り切ってしまえば、ことは簡単なのだが。
ここで言 . . . 本文を読む