「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「じじ・ばばと 福寿草」

2012-02-27 00:08:54 | 和歌
 
 毎朝庭に降り立って、「一つ、二つ、三つ・・・」と虚庵夫人が数えるのは、福寿草の花芽の数だった。土くれの中から頭を出し始めたのを数えるのは、誠に子供染みているが、日に日に数が増えるのは将に「春の訪れ」の足音を聞く思いだ。

 そんな数日を経て、福寿草が咲いた。


 
 開花を告げる虚庵夫人の声は、喜々として弾んでいた。
「ずんぐり・むっくり」の福寿草の姿は、厚着して寒さに耐えてきた「雪ん子」を思わせる。陽の光に満面の笑みを湛えて、何時までも「日向ぼっこ」をするのは、余ほど寒かったに違いあるまい。

 翌日になって「元気かな」と覗いたら、「雪ん子」は小さな手を拡げていた。
昨日からの「日向ぼっこ」で、太陽様の恵みを精一杯に受けて手を広げるまでに成長したのだ。この時期の福寿草は、毎日の変化に目を瞠る。陽を受けて手を拡げ、背を伸ばし、日が陰れば忽ち花を閉じて身を守る。「うつろ庵」のじじとばばは、福寿草の敏感な変化に一喜一憂の日々である。


 

          ばば様の

          数える声は幾たびか

          一つ二つと繰り返し

          見逃すまじと目で追うは

          僅かに覗く福寿草の

          花芽の数と土塊と

          紛う姿にたわむれて

              日毎に増えるを

                じじに告げるや

          
          
          ばば様の何時になき声 福寿草の

          花咲いたわよと 庭から響きぬ 
          

          雪ん子の厚着の姿を思わせる

          福寿草かな笑みを湛えて
                    

          あくる日に花は如何にと寄り添えば

          小手を拡げる福寿草かな






「うつろ庵の飛び石」

2012-02-23 00:09:02 | 和歌

 ごく狭い「うつろ庵」の庭の「飛び石」を、俄か庭師に変身した虚庵居士が、配置替えをした。無造作に飛び石を並べただけであったが、住人の加齢を考えれば、地表面からかなりの高さの「飛び石」は、危険であることに気が付いた。運動神経が衰えた老人が足を踏み外せば、間違いなしに転び、足首を挫いたり骨折の可能性すらあるのだ。そこで、飛び石を土中に埋めて、地表面との落差を無くそうと考えた。

 庭師に頼もうかとも考えたが、たかだが「飛び石」の高さ調整だと安易に考えたが、意外に大変だった。
 
 「飛び石」の高さ調整の序に、乱形の鉄平石と小石を組み合わせて、風趣を添えようかと考えた。頭で考えるだけなら、いとも簡単だ。庭師作業に取り掛かる前に、乱形の鉄平石の調達から始めた。鉄平石は、周辺が刃物の様に鋭利な状態ゆえ、この部分を掏り取ったものを探し求め、「飛び石」の周辺に、ごく大まかに鉄平石を並べて按配を観た。

 ほぼイメージ通りに納まりそうな状況を確認して、スコップを手に作業を開始したが、予想以上に時間が掛り、予定を大幅に延長せざるを得なかった。立て込んだ日程の合間を縫って、空いた短い時間を積み重ね、数日掛る見通しだ。

 更に難問が重なった。
この手の作業は、殆どが腰を屈めての作業になることを失念していた。元来、慢性的な腰痛持ちの虚庵居士は、ちょっと無理すればたちまち腰痛が復活する。案の定、初日の作業での腰痛には閉口した。短時間の作業だったが、夕食後にはマッサージ・チェアの按摩に思わず時間がとられた。それ以降、作業の合い間には腰痛体操を繰り返し、作業時間を細切れにせざるを得なかった。



 作業を終えて一両日後に、藪椿の根元のアガパンサスに真紅の花が咲いた。
アガパンサスの帯状の緑葉に、藪椿の落花が留まって、絶妙な景色を「飛び石」に添えて呉れた。
また翌日には、ごく小ぶりの白梅にメジロの番が飛び来て、花蜜を吸いつつ「飛び石」を愉しんでいるかの素振りであった。藪椿の落花もメジロの仕草も、「飛び石」とセットになって目に映るのは、俄か庭師の勝手な思い入れというものであろうか。




          ポケットに手をいれ庭の飛び石を

          伝う妹子の足元危うし


          ポケットから手を出しなさいと注意するに

          厳寒ゆえかポケット恋しは


          古希迎ふ妹子に怪我はさせまじく

          庭の飛び石 地面にせむかな


          年金の暮らしを思えばこの程度の

          庭師の作業は我が手で為さむと


          気が付けば腰の痛みはぶり返し

          疲れの程も予想を超えにし


          ふと見ればアガパンサスに藪椿の

          落花は石等にささやく気配ぞ


          お披露目を未だせぬ庭の初客に

          つがいの目白は寛ぎにけり


          メジロ二羽 飛び来て梅の花蜜を

          吸いつつ庭の風情を観るかな


          飛び石に趣添える花と鳥に

          癒されるかな俄か庭師は






「柊・ひいらぎ」

2012-02-18 20:54:06 | 和歌
 
 X'masシーズンを外れて、「柊・ひいらぎ」を掲載するのは些か野暮天だが、赤い実と鋭い鋸歯葉が見事であった。

 「うつろ庵」からの散歩の途上、何時も気になっていた一株だ。赤い実は長持ちするので、その内にカメラで写そうと念じつつ、年を越え、二月も半ばになってやっとカメラに収めた。


 
 X'masの飾りに使う「クリスマス・ホーリー」とは何処か違うようだが、葉っぱの鋸歯も真紅の実も、何とも装飾的ではないか。西洋では魔除として「クリスマス・ホーリー」を玄関に飾る習慣があるというが、我が国ではその様な習慣も、宗教もお構いなしに、カッコいい飾り物として物真似して、X'masの飾りをする軽薄なところがあるようだ。

 「クリスマス・ホーリー」と何処か違うのが気になって、念のため調べてみたら、ヒイラギモチ(柊黐)が正しい名前らしい。別名チャイニーズホーリーとも呼ぶと云うが、様々な異種があるようだ。鋭い鋸歯を持つのは「柊」だとばかり早合点していた虚庵居士が、恥ずかしい限りであった。「軽薄な物真似」などと尤もらしい言い分は、出過ぎた物言いであった。

 カメラに収めた一株は腰ほどの小ぶりであるが、ものの本によれば五メートル程にも成長するという。この赤い実が鈴なりの巨木は、見事な柊黐に違いあるまい。


 

          野暮天の虚庵居士かなクリスマスを

          とうに過ぎるに「ひいらぎ」掲げて


          斯くばかり鋭き鋸歯葉が寄り添うに

          実に傷跡の絶えて無きとは


          紅の実房を抱き寄り添える

          木の葉の鋸歯は我が児を守るや


          紅の実は人びとの好みなれ

          数多の種類のヒイラギモチかな


          くれないのこつぶのもちのみにたくす

          ひとのこころをしみじみおもひぬ






「葉山の冬野菜」

2012-02-12 00:50:25 | 和歌

 葉山のゴルフ場で、お土産に「葉山の冬野菜」のセットを買った。

 圧巻は、直径が20センチはあろうかという蕪大根だ。ズシリと重い手応えも、なかなかだった。発砲スチロールにパックされた冬野菜は、彩も鮮やかで、「たべて食べて」と訴えている様にも見えた。普段はお野菜など買ったこともない虚庵居士であるが、新鮮な野菜を携えて意気揚々と帰宅した。蕪も種類の異なるものが各種、ミニ人参と赤大根、小松菜とキャベツなど、早速カメラに収めた。

 親戚の若者が、アルバイト先が決まって書店に勤めることになったとの、お手紙を頂戴した。彼は非常に優秀な若者で、さる有名国立大学に現役で入学したが、体調を崩して郷里に帰って静養していた。一日も早く健康を取り戻して、彼の長い人生に雄々しく立ち向かって欲しいものと念じていたが、先ずは書店のアルバイトから復帰の第一歩を踏み出すとの知らせだった。

 葉山の冬野菜を見ながら、優秀な若者のこれからの人生に思ひを馳せた。
肥沃な畑で、お百姓の丹精込めた手入れがあれば、斯くも豊かなお野菜が育つ。色鮮やかな小蕪も、緑豊かな小松菜も、それにミニ人参もそれぞれに己の特性を存分に発揮して、魅力ある冬野菜として収穫された。

 冬野菜の写真を絵葉書に仕立て、ごく短い励ましの手紙を送った。彼に相応しい人生を歩み、豊かな収穫を願わずには居れない。


 

          緑濃き菜の葉も小蕪も取り出せば

          手応えズシリと大蕪ひかえぬ


          赤大根は 色鮮やかに問いかけぬ

          如何なる料理をお望みなるかと


          ミニ人参の香りよろしと我妹子の

          つぶやき聞こゆ調理の合い間に
 

          大蕪を早や薄く切り だし昆布と

          漬物仕込めば明日ぞ待たるる


          故郷に静養重ねる若者は
          
          復帰の一歩に書店を選びぬ 


          末永き君が人生思ふかも

          葉山の冬を彩る野菜に


          様々な野菜に擬え願うかな

          君が人生豊かにあれかし






「厚葉君が代蘭」

2012-02-07 21:27:12 | 和歌

 半月ほど前になるが、町内を散歩していたら何と「厚葉君が代蘭」が咲いていた。

 別名「ユッカ蘭」とも呼ぶが、本来は初夏に咲く花がなぜ真冬に咲くのだろう。冬の澄み切った青空に、背丈を伸ばしたユッカが誇らしげであった。近寄って花の表情をよく見れば、中には、開花してからかなりの日数を経ているのも見受けられたが・・・。

 今年の冬は、日本海側では連日の大雪に見舞われ、雪掻きすら侭ならない状態が報じられているが、一方、太平洋に面した地域では、季節外れの花もちらほら咲いているようだ。東太平洋から西太平洋に巡る海流の、地球規模の温度変化が、複雑な気候変動をもたしているようだ。気象学に関する知識は、全く持ち合わせていない虚庵居士であるが、思わず出会う自然の気まぐれに、驚かされるこの頃だ。

 それにしても、余りの季節外れ振りが気になって、花図鑑をひも解いたら、ユッカ蘭は二度咲きだと知れた。殊に秋の花は、開花時期がかなりのバラツキがあるようだ。9月下旬頃から咲き出すものと、11月になってから咲き出すもの、場合によれば『年を越して咲きつづけるものもある』との解説に出遭って納得した。

 「厚葉君が代蘭」との名前も気になるところだ。日本の国歌「君が代」を名前に頂くとは、どのような謂れがあるのだろうか。チョット離れて「花の佇まい」を暫らく眺めていたら、ハタと気が付いた。命名の理由が見えてきたのだ。
ユッカ蘭の花茎は背筋をピンと伸ばして直立し、厚葉は、高貴な白い群花を見上げて、恰も万歳をしているようにも見えるではないか。整列して「君が代」を斉唱し、声を張り上げて万歳を三唱した子供の頃が、懐かしく思い出された。

 それに引き替え昨今の学校教職員の中には、式典での「日の丸」掲揚や「君が代」の斉唱たいして、異を唱える者がいるようだ。しかも全校生徒が起立する中で、席に坐したまま余所見をする教師は、神聖な教職員として相応しい姿勢であろうか。「国家」を盛り立て、「国家」を護るとはどの様なことなのか、その為に国民は何が出来るのかを、改めて考え直す必要があるようだ。


 

          夏花が何故に真冬に咲くのかと

          見上げる厚葉君が代蘭かな


          大雪の異変も花の狂い咲も

          地球の気候変動ならむや


          念のため図鑑をひも解き調べれば

          早とちりを恥ず二度咲く花とは


          誰が授け伝えて来しかもこの花に

          厚葉君が代蘭の名前は


          花の名に君が代戴くユッカ蘭の

          姿を惚れ惚れ仰ぎ観るかも


          君が代を姿勢を正して歌いしは

          尋常小学 一年生かな






「バラ一輪」

2012-02-03 15:40:29 | 和歌


          紅の薔薇一輪は抱けるや

          寒に耐えつつ熱き思ひを 


 
 雲の垂れこめた寒い「うつろ庵」の庭に、たった一輪だけの紅の薔薇が咲いた。
この時節で、莟から開花に至るまでの辛苦は並大抵のものではなかろう。花茎自体も頑健には育たず、細首のままだから寒風に吹かれれば、前後左右に振り回される。気の毒なことに、花びらには数か所に棘の傷跡がついたままだ。

 「うつろ庵」のこの真紅の薔薇は、以前にも何回かご紹介したが、「高貴な乙女の化身」だと虚庵居士は信じて疑わない。本来ならば馥郁と香りたつ気品を湛えているのだが、厳寒のこの季節ではそれも侭ならない。にも拘わらず、寒に耐えて咲くのは、こころに熱き思いを抱いているからに違いあるまい。

 寒空に佇み、薔薇の心を忖度しつつ、暫しもの思いにふける虚庵居士であった。


 

          襟元を開いたままに凛と立ち

          首(こうべ)をたれぬは出自を語るや


          ただ独り君を想えば寒空も

          厭うものかは薔薇を召しませ


          化身なるわが身の思ひを如何にせむ

          ただ紅の花に託すは


          見たまふや想寄せにしかの人は

          寒に咲くばら思ひとどけと