「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「ジンジャーリリー」

2012-09-30 01:19:34 | 和歌

 「ジンジャーリリー」が純白の、かなり大きな花を咲かせていた。

 ハワイのコンドミニアムのガーデンに、この花が咲いていたのが思い出される。ニューヨークから孫を伴って娘家族が合流して、ゆったりと長逗留したのは、何年前だったろうか。広い芝生で幼い孫と転げまわって遊んだが、そのガーデンの片隅にもこの花が沢山咲いていた。

 ご近所の菜園風の庭に毎年咲くので、改めて調べたら「ジンジャーリリー」、別名「花縮砂」と判明した。食用の生姜とよく似てはいるが、背丈は生姜よりかなり高い園芸種のようだ。名前からしても、ジンジャー(生姜)のお仲間であることは違いないようだ。虚庵居士は残念ながら見たことはないが、純白の花の他にも、彩豊かな花もあるようだ。

 花には気品のある香りがあるので、部屋に飾ったらどんなにか寛げることだろう。

 


          はからずもジンジャーリリーの純白の

          花観て稚けき孫を偲びぬ


          孫を抱き花の香りを共に嗅げば 

          じじ いいカオリとて ほっぺに手をあて


          目を閉じて想いおこせばおさな児と

          戯れ駆けたハワイはきのうか


          わぎ妹子とジンジャーリリーの花の香を

          夕べに聞くかな代わる代わりに






「公園のコスモス」

2012-09-28 00:19:13 | 和歌

 隣の町内の児童公園に、コスモスが咲いていた。

 住宅地の外れの児童公園だが、かなり大型の遊具が備わっているので、子供たちの人気の遊び場だ。集まって来る子供たちに、花に親しんで貰いたいとの心であろう、公園へのアプローチの両側にコスモスが揺れていた。

 

 花に迎えられて公園に入れば、子供たちは遊具に駆け寄ってキャッキャと遊ぶので、お花の存在は無視されたかにみえるが、子供たちの視野にはコスモスの花が
                              鮮明に焼き付いている筈だ。
ここの町内の皆さんの、子供たちへの温かな気配りが窺えて、誠に爽やかだ。

 コスモスの足元の道路脇には、背の低いポーチュラカが赤・白・黄色と群れ咲いていた。

 ふと見れば、小さな手書きの看板が立てられている。花の名前と写真の切り抜きが添えられていて、花の種類を見分け、名前を覚えられるような配慮が行き届いていた。

 このような環境の中で、のびのびと遊べる子供たちは幸せだ。
昨今は子供の虐待や、大人の身勝手な行動が新聞沙汰になる世情ではあるが、地域の皆さんが手を取り合って子供達を守り、育んで欲しいものだ。

 昨日の散歩でこの公園に立ち寄ったら、コスモスが根元から刈り取られていた。
気配りの出来る皆さんのことだから、次の準備を何か整えているに違いあるまい。
何が植えられるか、今から楽しみだ。子供たちも、同じ思いであろう。

 


          背の高きコスモス揺れるは子供らと

          ともに遊ぶや声はなけれど


          子供らは取り巻くお花に応えるや

          コスモス透かして遊ぶを見やれば          


          コスモスの花咲くベンチにしばし坐して

          キャッキャと遊ぶ子らの声聞く






「るりふたもじ と 珊瑚の実房」

2012-09-26 10:23:45 | 和歌

 「うつろ庵」の「るりふたもじ」が、生垣の陰でひっそりと咲いていた。

 近くのお宅の一郭に咲いていた可憐な花に魅入られて、花の名前を尋ねた際に、そのお宅の奥方がご親切に株分けして下さったものだ。「うつろ庵」に嫁いできてからかれこれ7年にもなる。毎年、初夏から秋にかけて花を咲かせる律儀者だ。

 頂戴した一株を小鉢に植えたが、忽ち株が増えて古いプランターに移植した。直射日光で劣化したプランターが程なく割れて、生垣の根元に取り敢えず仮置きしたら、そのまま根付いてしまった。珊瑚樹の根方の半日陰に納まっているが、何れ陽当りの佳い場所へ移植してやりたいものだ。

 

 かつて、「るりふたもじ」との名前が気になってあれこれ調べた結果を、以前に
「るりふたもじ・瑠璃二文字」にご紹介した。そちらも併せてお目通し願いたい。 
 「にら」のお仲間だが「るりふたもじ」との名前は、この花に相応しく、何やら奥床しさが感じられるから不思議だ。 「名は体を表す」との古語があるが、古人もなかなか粋な名前を付けたものだ。

 庭の片隅で、「るりふたもじ」と久しぶりに言葉を交わして、ふと目を挙げたら、珊瑚樹の実房が陽ざしに輝いていた。

 半日陰の環境ではあっても、己の優雅な姿を誰に見せるでもなく、ひっそりと咲く 「るりふたもじ」と、残暑の陽射しを一杯に浴びて輝く「珊瑚樹の実房」が、際だって対照的であった。ごく狭い空間の中での自然界の姿ではあるが、何やら人間社会の縮図を見たような想いであった。


          久方に瑠璃二文字との会話かな

          秘めごとならずも近くに寄り添い


          生垣の根方がお気に召したるや

          木漏れ日に咲く るり二文字かも


          懐かしく偲ばるるかな嫁ぎきし

          そ文字との出遭いを指折り数えぬ


          見上げれば残暑に輝く紅の

          珊瑚の実房は眩しかりけり


          いと狭き庭の片隅に思ほゆる

          自然の対比と人の世のこと






「山萩と一文字セセリ」

2012-09-23 00:08:13 | 和歌

 「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通り、お彼岸を迎えて、めっきり過ごしやすくなった。気象庁の9/22発表に拠れば、今年は1961年以来の「異常気象」であったという。

 汗かきの虚庵居士は、朝昼晩のシャワーが欠かせない毎日であったが、これにて一息つけるかとホッとする思いだ。

 

 涼しさに誘われて近くの原野に出掛けたら、山萩が咲いていた。
手入れの行き届いた庭園の萩と異なり、自由奔放に手を拡げた姿は屈託ない、のびのびとした豊かさがあった。背高泡立ち草や名も知らぬ野草が寄り添い、寛いだ雰囲気が虚庵居士を迎えてくれた。

 山萩に見惚れていたら、昆虫の動きが目に入った。これほど忙しく飛び回るのは一文字セセリに違いあるまい。花に止まった姿をやっとカメラに収めたら、案の定「一文字セセリ」であった。

 





 そんな忙しい動きを追いかけていたら、枝先に緑の塊が目に入った。枝を引き寄せて見れば、何と「カナブン」だった。葉陰に身を隠して、ご機嫌で昼寝の最中だ。
それにしても、自分の葉隠の術を信じて、斯くも熟睡できるとは幸せなカナブンだ。カナブンに感心していたら、一文字セセリのお仲間が萩の花に止まった。爺には似つかわしくない反応で、カメラに収めた。
一文字セセリは危なげに飛ぶオプレイとは比べ物にならぬ、「雄姿」に見えた。


 



          野に出れば山萩迎える彼岸かな

          数多の野草も爺を迎えぬ


          萩の花愛ずれば俄かにお仲間に

          入れてよとてか飛び来る蝶はも


          忙しげに飛ぶやそ文字は誰ならむ

          案に違わず一文字セセリか


          一文字セセリを追えば枝先に

          葉隠れするらし緑のカナブンは


          カナブンの仮眠か昼寝か目覚めぬは

          爺も仲間か 総てを委ねて


          山萩と戯れおれば我もわれもと

          友にならむと寄り来る彼らは






「ランタナの競演」

2012-09-21 21:18:28 | 和歌

 長いこと次々と咲き続ける「ランタナ」は、何時までも気楽に愉しめる優れものだ。


 

 花の色も様々だし、ボール状の花房も思わぬ色の取り合せなど、種々の咲き方を演出してくれるので、根強い人気を保っているようだ。


 

 今回はそんなランタナ嬢達の競演ぶりを、まとめてみた。
ランタナに限らず、花にはそれぞれの種類があり、おなじ種類の中でも個性があるのは当然だが、ランタナは殊更に変化が多いようだ。継続的に観察した結果ではないので、或いは虚庵居士の思い違いもあるかもしれないが、どうやらランタナは季節や環境により咲き方が変化するようだ。同じ株から伸びた枝でも、房花の中には花色の取り合わせに変化が観られるのは、面白い現象だ。

 人間は、時と場合を適宜判断し、或いは気分によって装いを変化させるが、根付いた場所を替えられないランタナは、微小な変化を敏感に感じ取って、咲かせる花を変化させているのだとしたら・・・。

 ランタナは高度な自己表現力を備えた、極めて特異な植物なのかもしれない。

  


            庭先に日頃見慣れた花なれど

            目を奪われぬ しみじみ見入れば


            何げなく見やれば何時もの花なるに

            つぶさに見ればあまたの愕き


            斯くばかり並べて観れば驚きぬ

            ランタナ嬢の競演ぶりには


            花房の一つ一つにそれなりの

            己の主張を小花に観るかな








「水菓子」

2012-09-19 11:58:04 | 和歌

 昔の皆さんは、粋な言葉を日常的に使っていた。例えば「水菓子」だ。

 最近は「水菓子」など、殆ど聞かなくなった。死語と言えるかもしれない。
梨やジューシーな果物などの代名詞で、「お抹茶」と共に供される「生菓子」などとの対比から使われたものであろうが、「水菓子ですが、お一ついかが」などと、遜った遣い方が多かったようだ。

 お抹茶も日常性が薄れ、簡便なペットボトルのお茶やジュースなどが幅を利かせる昨今だから、「水菓子」などの言葉が消えて行くのは、至極当然の成りゆきかもしれない。しかしながら食事の後のフルーツ、或いは「お三時のおやつ」などでは、果物は相変わらずモテモテだ。

 化石人間に近い虚庵居士は、食事の後の「水菓子」には得も言われぬ満ちたりたものを頂く毎日だ。滴る果汁に指を濡らしながら、梨の皮を剥くのは、至福のひと時だ。家族が居て、他愛ない会話を交わしながら梨の一切れを渡し、次には自分も口に入れる。やがて梨がリンゴに代わり、或いは柿に代わるが、たった一つの果物がもたらして呉れるものは、限りなく豊かだ。 


 



          未だ固き梨を手にする残暑かな

          渇きを癒やす 水菓子尊し


          皮剥けば滴る梨の果汁かな

          手早く剥きて隣に渡しぬ


          梨剥けば何時やら消えぬ蝉しぐれ

          残暑なれども秋立つを知る


          孫が来てテーブル賑わうランチかな

          梨を頬ばるおみなご頼もし


          爺の口に突如飛び込む梨半分

          梨の向こうに破顔の孫かな


          川の字に孫を挟んで横になれば

          眠気を誘う 孫のささやき






「三沢空港のほうずき」

2012-09-17 03:47:11 | 和歌

 さる会社の社員研修の講師として招聘を受けて、羽田から三沢へ飛んだ。

 若い社員の皆さんとシニアの対話研修は、企業の社員教育としてはかなりユニークな試みであるが、実績からその効果のほどは高く評価されて、既に数年継続されている。若い皆さんとの膝を交えたごく素直な対話会は、若者にとってシニアの経験と知見は得難い教材であり、シニアにとっては若者の問題意識やフレッシュな感性等は、極めて貴重な視点の提示だ。双方にとって目から鱗の数々を体験できる、稀有の機会でもあるのだ。

 対話テーマやその詳細は、企業機密になるので差し控えるが、丸一日を費やした研修会を終えての懇親会では、老若男女が入り混じって和気藹々の談話が弾むのは、至極当然だ。研修という域を超えた交流のなかから、若者もシニアも更に素晴らしいものを掴んだに違いあるまい。


 


 翌朝は、三沢空港のリンゴを見るのが楽しみで空港の敷地を散策したが、消毒や手入れが不十分だったようで、今年のリンゴは散々の状態であった。空港にリンゴの樹を植えて、在るがままのリンゴの姿を乗客に堪能させたいとの発想は上質だったが、その後の手入れまでは管理者の配慮が足りなかったようだ。社員教育の方は、既に数年間の実績の蓄積が証明しているが、何事も長期的な視点での配慮の有無が、結果には如実に表れるものだ、との「無言の訓え」といえよう。


 


 リンゴの樹の下に、「ほうずき」が植えられていた。
ほうずきは、赤く色付いた実がなっていたが、この先はどうなるのだろうか?

 色付いたほうずきが更に手際よく管理されて、乗客の皆さんに三沢の旅情を添えるのだろうか。或いは、ほうずきの袋が網の目状の透かしになってから刈り取られて、空港のロビーにお目見えするのであろうか。願わくば立ち枯れて、朽ち果てるまで放置しては欲しくないものだが・・・。そんな思いを抱いていたら、ジェット機はあっという間に空港の上空に飛び立っていた。


 



          若者の素直な応答はもの足りぬ?

          素直に見まほし 批判を加えて  


          ともすれば爺等の言葉は多過ぎか

          若き思いを吐露さすためには


          半世紀 先に重ねし無駄骨も

          辛苦の道をも 活かしてま欲しき


          様々な事ども見しかな道草に

          要らざる話は 轍を踏むなと


          数々の辛苦をかさね得たものを

          君等に告げなむ後を委ねて


          グラス手に笑みを湛えてお互いに

          憧れ抱きぬ 己に無ければ






「白桃」

2012-09-14 11:27:14 | 和歌

 果物籠に白桃が盛られていた。

 見事な白桃だったので大皿に三つを受けてみたが、溢れて落ち着かなかった。
一つを籠に戻して、やっと落ち着いて納まってくれた。ぽっちゃりと膨らんだ姿形も、色合いも見事で、しばし見入っていたら仄かな香りが漂ってきた。

 果物に眼が無い虚庵居士は、我慢できずに早速手を伸ばして、一つを平らげた。


 



          いとおしき桃の頬かなふくよかな

          まるみに手をそえ稚児をおもほゆ


          はからずも我がおみなごを腕に抱き

          頬に触れなば笑みしを偲びぬ


          気品ある香りを更にと鼻寄せて

          桃の産毛としばし戯むる


          皮剥けば指に滴る果汁かな

          感涙ならむや 疾く召しませと


          透き通る果肉を食めばその味に

          全てを忘れぬ こころを奪われ






「プルーン」

2012-09-12 15:47:28 | 和歌

 瑞々しいプルーンの果肉が、光を受けて輝いている。見ただけで、甘酸っぱい味が思い出されて、口の中に唾が満ちて来た。

 枝からもぎ取って、そのまま食べた子供の頃が思い出される。虚庵居士の生家は田舎家であったので、広大な敷地の庭から菜園にかけて、数種類のリンゴや柿等の大樹に挟まれて、プルーンの木も植えられていた。

 この時節になると、緑葉の間に赤黒く熟した果実が鈴なりだった。色濃く熟した実を選んで、木からもぎ取りそのままかぶり付くと、プルーン独特の甘酸っぱさが口一杯に広がった。お友だちは、このプルーン目当てで遊びに来ては、何人かがキャッキャと声をあげて一緒に食べたものだった。

 プルーンの季節には、早生の青リンゴも熟して食べごろを迎える。青リンゴの銘柄は忘れたが、仄かに黄色味がかると美味しいリンゴだった。プルーンと青リンゴの双方を好き勝手に食べられるから、お友だちには大人気であった。






            わぎ妹子の手捻りの皿にプルーン受けて

            しばし見惚れぬ涎を垂らして


            包丁で一つを割ればみずみずし

            滴る果汁は光り輝き


            待ちきれずプルーンをほうばる爺なりき

            あふれる味覚は昔と変わらず


            枝見上げ手でもぎ取りてためらわず

            カブリ付きしか 子供の頃はも


            緑葉の葉隠になる赤黒き
            
            プルーンを偲びぬ 幼き友をも






「混沌の十二首」

2012-09-10 12:19:45 | 和歌


            廃坑の縁に佇み覗き込めば

            あなぐら深く 後ずさりする


            いと狭きゲートに身を置き如何にして

            通過するかと身悶え重ねつ 


            このゲートは何処へのゲートか行き先も

            解らぬ混沌 暗闇のなか


            薄暗く 光ひと筋 射し込まぬ

            此の世にもがき身悶えるとは


            廃坑のガラクタの中に逞しく

            ごった煮振る舞う食堂見つけぬ


            ごった煮をいと浅き皿に何故盛るや

            こぼれる汁は 如何とも し難く


            ごった煮を口に含めば美味いらし

            しかとは判らぬ混沌の中


            ごった煮を平らげた皿を携えて

            何処へ行くのか道路を彷徨う


            時雨降る雨音を聞き朦朧と

            布団をいでて窓を閉めにし


            何時になく冷えた躰を覆わむと

            シーツをま探る私は誰か


            薄目明け光を感じぬ 朝なるや

            横たわる身はむき出しのまま


            射し込める細き光が眩しくて

            混沌を抜け うつつに戻りぬ




     今朝の目覚めは、混沌からの脱出であった。
     ひょっとすると、あの世からの回帰であったかもしれない。

     余りにも異様な目覚めであったので、傍の紙片に、思い出すままに
     書き留めた十二首だ。
   
     日常生活に戻って、冷静に読み返してみれば、何やら現在の混沌とした
     社会の中で、もがき苦む自分自身を詠んだかのようにも思われる。
     夢か朧か、目覚める前の朦朧の世界は、意外と心の真実を吐露している
     のかもしれない。

     生の虚庵居士を曝け出してお恥ずかしい限りだが、ご笑覧あれ。





「無花果」

2012-09-08 11:17:31 | 和歌

 年金生活の「うつろ庵」の食事はごく質素なものだが、季節の果物が添えられるのがうれしい。

 田舎育ちの虚庵居士の子供のころは、果物がおやつ代わりの毎日だった。季節の果物が口に合い、美味しく頂けるのは有難い。最近では海外から輸入したり、冷凍保存した季節外れの果物が店頭に並ぶが、それらの大変なエネルギーを費やした果物は、虚庵居士の好みに合わない。何といっても、ありきたりの季節の果物がいい。

 無花果は、肉料理などに添えて出されるが、相性が抜群だ。
ステーキの肉を頬張る合い間に無花果を頂くと、口の中がリフレッシュされて、無花果もお肉も双方が美味しく頂けるから、堪らない。

 最近は、無花果の姿・形も以前に比べて随分立派になった。栽培をする農家の皆さんの、研鑽のたまものだろう。無花果のごく柔らかい実は、熟せばたちまち口を開き、扱いも難し果物だから、摘果してから消費者に届くまでの管理もさぞや大変だろう。

 海外では乾燥無花果がかなり出回っているが、取り扱いの面では格段の違いがあろう。過日、虚庵居士はホームコース売店で、無花果の甘納豆を見つけてお土産に買った。乾燥無花果を甘納豆に加工したお菓子だが、薄く切ってお薄に添えたら、上品なお菓子であった。

 乾燥無花果を食べたら、遠い昔、虚庵夫妻と娘夫妻が初めて富士登山した、あの感激が甦ってきた。息を切らし、へとへとになった頂上で、図らずも、無花果のドライフルーツを初めて口にしたことが想い出された。


 


          最近の無花果の実は美人かな

          かつては熟してくずれる果実が


          手に受ければ自ら割れて赤き実が

          たべて食べてと せがんだいちじく


          白き皿の貴賓席かな無花果は

          じじの夕べの食事の憧れ


          富士山の頂きに立ちお隣に

          あめ玉一つを祝いにあげぬ


          お隣はザックの中から無花果の

          ドライフルーツ 一つのお返し






エネルギー政策論における「国家」と「安全保障」

2012-09-07 22:37:51 | 和歌
 

 皆 様

 国会は極めて大切な政策決定を擲って、会期末を迎えました。いまや与野党を挙げて近視眼的な政局に明け暮れ、ポピュリズム政治は「国家」の長期展望すら眼中にありません。政府は自ら仕組んだ「3つの選択肢」による国民的議論ですが、国民の反応が余りにも原子力ゼロに傾き、「原子力依存の低減」を当初の基本方針に掲げながら、ここに至って足元が定まらないのは、不幸中の幸いかもしれません。 

 こんな社会環境の中ですが、学生とシニアの「往復書簡」が真摯に積み重ねられております。この試みは2009年いらい今年で4年目になりますが、大分遅れて私見を書き送りましたので、皆様にもご披露します。もとより、国民の皆様にすり寄る姿勢ではなく、日本は如何に判断すべきかを学生にストレートに訴えたものです。
青いねと、ご笑覧下さい。


 往復書簡については、
「学生とシニアの往復書簡 2011」とのタイトルで概要をご紹介した。また一般市民の皆様にも、是非お読みいただきたいとの声に応えて新書版を出版し、エネルギー新書「福島事故と原子力の明日」を上梓しましたとのタイトルで、このブログでも概要をご紹介したので、併せてお目通し頂きたい。


私見: エネルギー政策論における「国家」と「安全保障」

 エネルギー政策に於ける電源構成で、重視すべきポイントとしては、3E即ち、供給安定性(Energy Security)、環境性(Environment)、経済性(Economy)を掲げ、ドイツでは倫理判断を更に加えていることは、識者の皆さんのご指摘の通りです。政府が提示して、国民的議論を重ねた「3つの選択肢」とも密接に関連しますが、エネルギー政策を論じるうえでは、「国家」の概念が極めて大切です。政府の基本問題検討委員会における議論でも、閣僚のエネルギー・環境会議でもこの視点が希薄なのが気に掛かります。政府の判断に、筋金が一本欠けてる所以でしょうか。

● エネルギー政策は「国家」の政策だから、「国情」を踏まえるのが大前提だ。
狭い島国の日本は国土の2/3が山岳、海洋条件は遠浅海岸が殆ど無く、風況条件の劣悪さなど、自然エネルギー利用には国土の地理条件の吟味が欠かせない。化石資源は極めて乏しく、エネルギーの自給率はたった4%だ。他国とのガス・送電網などでの供給は至難で、石油は中東依存に極めて偏っている。例えば、ホルムズ海峡の封鎖が発生すれば、日本は万事窮すだ。米・中・露・欧などとの国情比較が不十分なエネルギー政策論は、空論になりかねない。

例えばドイツの国情は、潤沢な石炭埋蔵、欧のガス・送電網など、原子力依存なしでもやり繰りが可能だ。その様なドイツが脱原子力政策のために、倫理判断を持ち出したのは、大変乱暴な見方だが、ドイツ国情の一つと捉え、ドイツ流と断じたい。
ドイツ国内では脱原子力を選択し、電源不足になればフランスの原子力電源を輸入するご都合主義だ。日本人が「倫理判断」の理解に苦しむのは当然だ。

● 如何に「国家」を護るかが、エネルギー政策の原点だ。国民を守り、国家を護るのが「安全保障」の原点だ。日本の政治には残念ながらこの概念が乏しく、従って国民にもそれを求めて来なかった。世界からエネルギー資源を絶たれて、やむにやまれず大東亜戦争に踏み切ったが、第二次世界大戦の連合国に敗れた。が、一億国民の総ガンバリで奇跡の発展を遂げ、エネルギー資源を金で調達できたので、「国家」と「安全保障」との視点が放置されて来た。

● 大飯3・4号機を除く全原発が停止したままだ。火力発電の燃料調達で日本の国際収支は赤字化の一途だ。国際収支の赤字化とは、まさに「国家」の「安全保障」と逆行する。

● 『愚かな日本は、脱原発で「国家」の「安全保障」を蔑ろにして、二等国・三等国に向うのか?』 と海外から揶揄されつつ、それでも、日本国民と政府は「原発ゼロ」に向かうのか?
愚かな日本の凋落を、世界各国は冷ややかに待っている。彼らは、日本の産業と経済力に取って代わる機会を、虎視眈々と狙っているのだ。

● 国民は福島事故を、放出された放射能を、原爆・チェルノブイリと共に怖れ慄き、忌諱するが、原子力関係者も政府も国民の安全を守り、国民の安心と信頼を回復するための努力が足りない。原子力関係者と政府は福島事故を教訓として、「国民の安全を守る決意表明」が強く求められていることを、肝に銘じたい。

● 国民に「安全保障」の視点が乏しいのは残念だが、世界で唯一の原爆被災国が、なぜ原子力基本法を制定し、原子力の平和利用に踏み切ったかを、「国家」の「安全保障」の観点から、今こそ政府は国民に改めて説明すべきだ。

● 再生可能エネルギーの活用は大いに結構だ。が、日本の国土条件・実用化への長期戦略・発電コストと国民負担・お天気任せの不安定性の克服など等を勘案すれば、「3つの選択肢」に盛り込まれた数字は、夢と希望を描いたものだと断ぜざるを得ない。

● 「エネルギーの安全保障」とは、夢と希望を絵にかくのではなく、最も現実的で確実なエネルギー選択により、明日からのエネルギー供給の安定性を保証することだ。
将来、夢と希望が徐々に実現したら、その時点で戦略を転換するのが「安全保障」の本来の在り方だ。






「蝉しぐれと空蝉」

2012-09-03 00:13:10 | 和歌

 蝉しぐれが賑やかだ。

 「うつろ庵」の近くの公園は、欅の大木が鬱蒼と茂っているが、欅の近くに立てば将に夏は真っ盛りだ。

 欅の大木一本だけでも、どれ程沢山の蝉が合唱しているのだろうか。余りにも多くの蝉が鳴き競うので、蝉しぐれなどという生易しさを通り超えて、激しい耳鳴り状態に見舞われる。

 散歩の際に、時に通過する程度の者にとっては、「将に夏は真っ盛りだ」などと呑気な感想を漏らすが、ご近所の皆さんにとっては、早朝から夜分にかけて常時聞かされるから、堪ったものではあるまい。将に騒音公害であろう。

 しかしながら不思議なことに、蝉たちは申し合わせたかのように、一時、ピタリと鳴きやむこともある。ほんの僅かな暫らくの静けさではあるが、大合唱との
落差が大きいだけに、得難いものが感じられる。「うつろ庵」の庭にはそれ程の大木はないので、公園の騒音公害程ではないが、それでもかなり賑やかだ。



 
 「うつろ庵」の庭木の下には、沢山の穴が開いている。
蝉の幼虫が這い出した穴だ。そんな穴の近くの枝先をみれば、蝉が脱皮した殻が其のまま空蝉となって留まっている。中にはアクロバット風な、ユーモラスな姿態を留めているものもあって、脱皮に掛けた蝉の思いが偲ばれる。

 何年かの土中の幼虫時代を経て、穴から這い出し、脱皮した後の蝉は成虫として、数日の命を懸けて鳴き明かすことになる。陽のもとで精一杯鳴き、新たな命を育んで夏を終わるのだ。蝉の騒音公害などという雑音は無視して、夏を謳歌せよ。
そしてまた、大切な命を大地に預けよ。



 

            殻を脱ぎ陽ざしを浴びて飛び立てり

            あの鳴き声はかの蝉ならむや


            空蝉の姿を見やりこの蝉の

            脱皮に掛ける思いを偲びぬ


            蝉たちは暑さに負けじと今日も鳴くや

            照る陽をうけて命の限りに


            蝉しぐれ互いの鳴き声確かめて

            ひと時やすみてまた謳うかな


            蝉たちの聲を聴きつつ励まさむ

            余命の短き夏の命を


            鳴き合うて新たな命を結べかし

            大地に委ねよ君らの卵を






「夕立とへくそ蔓」

2012-09-01 06:37:00 | 和歌

 久しぶりに夕立に降られた。

 近くの郵便局からの帰り道、自宅近くになってパラパラと降られ、自転車をガレージに収納中に本降りになった。かつて、雨に降られて雨宿りしたり、慌てて庇の下に駆け込んだりしたことがしばしばで、そんな情景が懐かしく想い出された。

 歳をとると用心深くなって、出掛ける際などは天気予報とニラメッコしつつ、傘の用意などをする習慣が付いて、外出して雨に濡れることなど殆どなかったが、ごく近くへの外出だったので、雨具の用意などせずに出掛けた帰りだった。

 この頃はどうしたものか夕立がめっきり減ったように思われる。気候変動の影響などという、大げさな変化ではないのだろうが・・・、などと考えている間に、夕立は降りやんだ。

 ふと気が付くと、お隣さんの生垣に「へくそ蔓」が小さな花を咲かせていた。細長い葉に雫を湛えたまま、その葉に埋まるような姿が、何とも可憐であった。それにしても、こんな可憐な花が、在ろうことかトンデモナイ名前を付けられたものだ。葉茎が放つ異臭のためとはいえ、余りにもそのものズバリで、口に出すのさえ憚られ名前だ。

 当て推量に過ぎないが、この蔓草にはそれなりの理由があって、特異な臭いを身に付けているに違いあるまい。例えば、害虫を寄せ付けずに身の安全を守るとか、或いは子孫繁栄の策かもしれない。それなりの研究を重ねた植物学者には、多分面白いネタを提供している事であろう。


 

            パラパラと雨降りだせばそそくさと

            逃げ足早めぬ自宅の近くで


            夕立に降られて昔をおもほゆる

            濡れて駆け込む大屋根庇に


            夕立の脚の速さやいましばし

            降りてまほしき庭木のためには


            佇めば通り過ぎにし夕立の

            雫を湛えてかずら咲くかな


            夕立に濡れそぼる葉に埋もれなや

            のぞく二輪のかずら花かも