「南セントレア市」にソッポ 合併自体、白紙に 2町住民投票反対が大多数
うまくオチが付いたようで、まことに喜ばしい。
これで、「南セントレア市」なる奇怪な地名に反対する住民の方々が「セントレアン」と呼ばれることはなくなったわけだ。私としては、「セントレアン」という言葉はセントレアンな精神を持った人々に対してのみ使われるべきであると考えていた。偶然町長がセントレアンだったため自分たちの住む地域が南セントレア市と命名されそうになった不幸な人たちを「セントレアン」と呼ぶのはあまりにも気の毒である。今回の美浜町と南知多町の住民たちの選択を私は全面的に支持するものである。
ここで、私の考えるところの「セントレアン」の定義を掲げておこう。
1 ・ セントレアンとは、世間一般の平均から外れた微妙な造語・命名感覚の持ち主である。
2 ・ セントレアンであることと、人格的・能力的な優劣とは関係しない。
むしろ、高い地位にある人がセントレアンであることが目立つ。
命名権を行使するためには一定以上の社会的影響力が必要だからであろう。
3 ・ セントレアンは自分の言語センスに絶対の自信を持ち、反対者こそセンスが悪いと考える。
こんなものだろうか。
さて、ここで疑問なのは、一人で勝手にセントレアンなる造語を定義付けようとしている私自身もまたセントレアンなのではないか?ということだ。上記の定義に沿って考えてみる。「1」については自分ではなんともわかりかねるのでパス。「2」については、私は人さまに影響力を行使できるような立場ではないのでやや物足りない。「3」については、自信を持って条件を満たしていると断言しよう。私は私の定義した用法によってセントレアンという言葉が広く社会で用いられることを望むし、これに代替できる言葉はいまだに存在していないものと信じる。
…どうやらセントレアンという新しいテクニカルタームを創造しようとする私自身がセントレアンであるようだ。これは一体、名誉なのか恥辱なのか? いや、私の名誉などはどうでもいい、大事なのはセントレアンという言葉と私の考えた定義がコンセンサスを得られるかどうかだ。
気になるのは、カタカナ語である「セントレアン」なる言葉が、一連の「南セントレア市命名騒ぎ」を知らない人にとっては完全に意味不明である、ということだ。私も「時間をかければ、名前について理解してもらえる日が来ると思う」(by 斎藤宏一・美浜町長)のだが、南セントレア市の印象が消えていく速さと、私の提唱する「セントレアン」という造語が世間に認められる速度とどちらが速いかを考えると、決して楽観視することはできないというのが正直なところである。
私も日本生まれで日本育ちの日本男児なので、本来チャラチャラしたカタカナ語を好むものではない。できうるものならば美しい日本語で「セントレアン」の概念を言い換えたいと思った。だが、私の語彙が圧倒的に不足しているためか、なかなかこれという言葉を思いつかないのだ。
「奇天烈命名マニア」 品がない。面白くない。「マニア」という言葉は手垢が付いておりネガティブなイメージを与える。
「造語狂」 日本語としてまとまりがいい。大変わかりやすくもあるが、差別語として糾弾されそう。
「ラディカル・ニューワード・クリエーター」 そもそも日本語ではない。
というわけで、やはり私には「セントレアン」という新しいテクニカルタームを立ちふさがる困難に負けず広めていくしかないようだ。これは和歌の神様でもある素戔嗚尊(すさのをのみこと)が私に下したもうた天命かもしれない。
だが、前述したように私の力は限られ、セントレアンという素晴らしい造語・新概念が認められる可能性は低い。世間の無理解、一般人のセンスの悪さが恨めしい。
冒頭で「今回の美浜町と南知多町の住民たちの選択を私は全面的に支持するものである」と書いたが、この言葉を今や私は撤回する。彼らは天命を受け新地名を創造しようとしたセントレアンの同志、斎藤宏一・美浜町長と森下利久・南知多町長の敵であり、つまり私にとっても敵なのである。愚昧で保守的な美浜町民と南知多町民は恥を知れ! と遠慮がちに申し上げたい。
セントレアンの進む道は険しい。周囲の人々は無理解であり、批判が雨アラレと降り注ぐ。だが、セントレアンたるもの、自らのセンスを信じ、新しくそして素晴らしい言葉を広めようとせずにいられようか?(反語的レトリック)
夢破れても、セントレアンはセントレアンとして胸を張って生きていかねばならない。
だってそういう人たちがいなくなったら、「南セントレア騒動」みたいな面白い出来事が減ってしまうからね。
うまくオチが付いたようで、まことに喜ばしい。
これで、「南セントレア市」なる奇怪な地名に反対する住民の方々が「セントレアン」と呼ばれることはなくなったわけだ。私としては、「セントレアン」という言葉はセントレアンな精神を持った人々に対してのみ使われるべきであると考えていた。偶然町長がセントレアンだったため自分たちの住む地域が南セントレア市と命名されそうになった不幸な人たちを「セントレアン」と呼ぶのはあまりにも気の毒である。今回の美浜町と南知多町の住民たちの選択を私は全面的に支持するものである。
ここで、私の考えるところの「セントレアン」の定義を掲げておこう。
1 ・ セントレアンとは、世間一般の平均から外れた微妙な造語・命名感覚の持ち主である。
2 ・ セントレアンであることと、人格的・能力的な優劣とは関係しない。
むしろ、高い地位にある人がセントレアンであることが目立つ。
命名権を行使するためには一定以上の社会的影響力が必要だからであろう。
3 ・ セントレアンは自分の言語センスに絶対の自信を持ち、反対者こそセンスが悪いと考える。
こんなものだろうか。
さて、ここで疑問なのは、一人で勝手にセントレアンなる造語を定義付けようとしている私自身もまたセントレアンなのではないか?ということだ。上記の定義に沿って考えてみる。「1」については自分ではなんともわかりかねるのでパス。「2」については、私は人さまに影響力を行使できるような立場ではないのでやや物足りない。「3」については、自信を持って条件を満たしていると断言しよう。私は私の定義した用法によってセントレアンという言葉が広く社会で用いられることを望むし、これに代替できる言葉はいまだに存在していないものと信じる。
…どうやらセントレアンという新しいテクニカルタームを創造しようとする私自身がセントレアンであるようだ。これは一体、名誉なのか恥辱なのか? いや、私の名誉などはどうでもいい、大事なのはセントレアンという言葉と私の考えた定義がコンセンサスを得られるかどうかだ。
気になるのは、カタカナ語である「セントレアン」なる言葉が、一連の「南セントレア市命名騒ぎ」を知らない人にとっては完全に意味不明である、ということだ。私も「時間をかければ、名前について理解してもらえる日が来ると思う」(by 斎藤宏一・美浜町長)のだが、南セントレア市の印象が消えていく速さと、私の提唱する「セントレアン」という造語が世間に認められる速度とどちらが速いかを考えると、決して楽観視することはできないというのが正直なところである。
私も日本生まれで日本育ちの日本男児なので、本来チャラチャラしたカタカナ語を好むものではない。できうるものならば美しい日本語で「セントレアン」の概念を言い換えたいと思った。だが、私の語彙が圧倒的に不足しているためか、なかなかこれという言葉を思いつかないのだ。
「奇天烈命名マニア」 品がない。面白くない。「マニア」という言葉は手垢が付いておりネガティブなイメージを与える。
「造語狂」 日本語としてまとまりがいい。大変わかりやすくもあるが、差別語として糾弾されそう。
「ラディカル・ニューワード・クリエーター」 そもそも日本語ではない。
というわけで、やはり私には「セントレアン」という新しいテクニカルタームを立ちふさがる困難に負けず広めていくしかないようだ。これは和歌の神様でもある素戔嗚尊(すさのをのみこと)が私に下したもうた天命かもしれない。
だが、前述したように私の力は限られ、セントレアンという素晴らしい造語・新概念が認められる可能性は低い。世間の無理解、一般人のセンスの悪さが恨めしい。
冒頭で「今回の美浜町と南知多町の住民たちの選択を私は全面的に支持するものである」と書いたが、この言葉を今や私は撤回する。彼らは天命を受け新地名を創造しようとしたセントレアンの同志、斎藤宏一・美浜町長と森下利久・南知多町長の敵であり、つまり私にとっても敵なのである。愚昧で保守的な美浜町民と南知多町民は恥を知れ! と遠慮がちに申し上げたい。
セントレアンの進む道は険しい。周囲の人々は無理解であり、批判が雨アラレと降り注ぐ。だが、セントレアンたるもの、自らのセンスを信じ、新しくそして素晴らしい言葉を広めようとせずにいられようか?(反語的レトリック)
夢破れても、セントレアンはセントレアンとして胸を張って生きていかねばならない。
だってそういう人たちがいなくなったら、「南セントレア騒動」みたいな面白い出来事が減ってしまうからね。
僕もひそかにテクニカルタームを創造していますが、なかなか広まりません。
ここで僕のテクニカルタームを広め、誰かが一言発するたびに1円づつ徴収するビジネスモデルを目指そうと思います。
「コメントスクラまれる」
コメントスクラムという現象は無いが、コメントラッシュを受けた側がスクラムを受けたような印象を表現することば
「居直りブロガー」
言を左右にしてまともに議論をしないままマイルールを強弁するブロガー
「リテラシー弱者」「リテラシーデバイド」
書いてあることは読めるが、意味の把握、適正な対応ができない人。学歴・職業・知能指数に関わらず存在する
nomadさんもまたセントレアンの一人と知って(ご自身では否定なさるかもしれませんが、nomadさんの額に刻まれたセントレアンの印は見る目を備えたものにとっては自明です)私は感涙に咽んでおります。
「コメントスクラまれる」「居直りブロガー」「リテラシー弱者」「リテラシーデバイド」どれもセントレアン指数の高い素晴らしい言葉です。意識の低い人たちにもぜひ使ってもらいたい、いや、強制してでも使わせたい!という思いがふつふつと沸きあがってきます。思えば、小倉弁護士もそのようなやむにやまれぬ思いで「特定の思想集団」「ネット右翼」「コメントスクラム」と言った言葉をお使いになっていたのでしょう。今はただ、それを見抜けなかった自らの不明を恥じるのみです。
さて、絶賛したあとでケチをつけるようなことを言うのもなんですが、「コメントスクラまれる」という言葉はいささか長すぎて普及を妨げるのではないか、との疑問を抱きました。「すくらまれる」という短縮形で使用することは可能でしょうか?新しいテクニカルタームの普及のためには、一般人の低レベルな意識に合わせる必要も時にはあるのではないかと愚考いたします。
けっこうな語感に思います。これは普及するカモ。
もし普及したら、儲けは折半で。
よろしくお願いします。
これにとても関心があるのですが…
ほりえもんも驚くような驚天動地のアイデアをお持ちなのでしょうね。ここで秘密を漏らせとは申しませんが、ぜひ成功を収めていただきたい、できれば私にも一枚噛ませていただきたいと切望しております。
セントレアン~
広まるとイイね
すみません、酔っ払ってるもんで。
頂いたコメントには、素面の時にresします。
造語は、作られるインスピレーションより広まっていく過程の方にこそ意味があると思います、とのみ記させて頂いて、ドロン。
http://white.ap.teacup.com/q-face/
少なくとも我が家周辺では流行らせますよ。セントレアン。
私も命名好き(最近の流行で言うと「新しいテクニカルタームの創造」ですか)なので、セントレアンの予備軍くらいになっているかも知れません。
うちは社長がセントレアンなので、頭痛い通達がたまに回ってきますonz