とのさま不経済新聞 by 雲葉

「よるのとのさま」から改題(2013年2月1日)

12年前のふたり(6日目=最終日)

2014年11月30日 | とのさまの漫遊
☆2002年11月30日(土) 

  ホテルで無料の朝食を。おにぎりと味噌汁、コーヒー程度だけど、他に新聞のサービスもあり、これで税込み8700円だからますます初日の(以下略)

  なお東横インは館内の自動販売機が割安な点も気に入っている。もちろん部屋も快適だった。

  楽しい旅も今日で最終日、帰るだけなのだが東京まで「こだま号」で乗り通そうという酔狂な企画を実行する。これは拙者が0系に、嫁はんが100系の個室に乗りたいという互いの思惑による結果だ。博多0818時発の「こだま620号」は今や少数派の3+2列シート、但し3列側は固定ではなく回転できる。ガラガラなのをよしとしてボックスを作って過ごす。

  
   博多駅にて

  新下関でふくめし(1150円)を購入。(註:現在は終売) 2人で分け合って食べる。一度は食べてみたいと思いつつも、拙者には駅以外の場所で駅弁を買う趣味はない。なんでわざわざ自分の家で冷えた飯を食わねばならないのか。旅先で食べるからこそ美味しいのだと思う。容器も可愛いので持ち帰る。

  3号車のビュッフェ(売店営業)で珈琲を飲みながらアナログ式速度計を楽しむ。最近の車輌にはこの楽しみがない。

  鈍行より速いし、なによりすいているし、フリースペースで気分転換もできる。今や0系こだま号こそ最も贅沢な列車といえるようになってしまったのではないか。随所で待避のために3~5分の停車時間があるから兵糧の調達に困ることもない。

   これぞ夢の超特急
   新大阪駅にて

  新大阪で57分の待ち合わせとなるため昼食に。そして東京への最終走者は1400時発「こだま420号」9号車3番の2人用個室を利用する。

  国鉄名古屋総本部が運用効率化なる野望を達成すべく、あと1年でムリヤリ引退させられる100系に乗り込む。2階席は閑古鳥でも個室は乳幼児連れで1~2人用は満室だ。こだま号ならグリーン回数券でも利用できるし(註:当時)需要はある。裏を返せば新幹線はなるべくビジネス以外では利用してほしくないという鉄道側の意思表示とも受け取れる。

  お世辞にも広い部屋とは言えないながらも楽しいひと時を過ごし、博多から9時間48分かけて東京駅19番線にすべりこんだ。ホームには旧知が3人、出迎えに来てくれていた。その後は蒲田へ移動し、5人で酒を酌み交わして旅の打ち上げとした。
(終)


  お付き合いいただきありがとうございました。

12年前のふたり(5日目)

2014年11月29日 | とのさまの漫遊
☆2002年11月29日(金) 

  ホテルで朝食、宿泊料に含まれているため別途料金は発生しない。それなりのお宿だけあって流石に料理もおいしい。でもチェックイン時に支払いでクレジットカードを出したら、オンライン端末ではなく、昔ながらの手動インプリンターだったのにはたまげた。 カードをセットして横にガッチャンとスライドさせるアレです。

  チェックアウトの後、手始めに向かいの福岡合同庁舎内局、続いてJT博多ビル内局(註:2013年11月1日付で「博多駅東郵便局」へ改称)と立て続けに征圧する。地下鉄で姪浜へ移動し、能古島(のこのしま)上陸作戦を展開する。九州旅行案内社刊「綜合時間表」に航路の時刻が載っていた。昼間は60分間隔、所要10分で運賃は220円とある(註:今は230円)。1215時の便に乗り、下船してすかさず福岡能古局へ。僅か20分の滞在で1245時の便に乗りとんぼ返りする。

   能古島(船から)
   島から本土を望む(嫁はんが逆光になってしまった

  バスで百道地区へ。福岡タワーに上ってみる。鉄道写真展が催されていて、展望台の壁一面に写真が展示されている。福岡ドームを眺め、付近の局を退治して今日の宿へ。おなじみ東横イン博多口駅前を予約している。チェックインしたら“夜遊び”に出ます。

  中洲の屋台に入り、おでんなどを頼むと味はなかなかなのにコストパフォーマンスがすこぶる悪い。小さな店に手伝いなのか3人もいては人件費も嵩むだろう。横浜駅西口ビブレ対岸の通称「リバーサイドレストランアベニュー」なら独りで切り盛りする規模だ。ヤングたちで頑張っているのは分かるが、もはや店自体が少なく、空き屋台が放置されている有様だ。斯様な商売を続けていてはますます寂れるだろう。

  気分直しに旧知推薦の「まる家」へ。なるほど料理も旨く値段も手ごろであり、最初からこちらに来ていればよかった。

12年前のふたり(4日目)

2014年11月28日 | とのさまの漫遊
☆2002年11月28日(木) 

  朝食はホテル2階のロイヤルホストへ。そこがホテルのレストランということらしい。今日は1530時の「かもめ30号」まで市内散策とする。昨夜に嫁はんが「オンナノミヤコ行きのバスがバンバン走ってるけど何だろう?」と言い出した。バンバンといってもいちご白書とは関係なさそう。iモードのタウンページで「女の都」と入力して検索してみると、病院に小学校、老人ホーム、それにファミリーマートまである。これで地名であることは分かった。〒もあるようなので行ってみよう。

  長崎駅前からバスで30分ほど、長与町との境界付近に女の都=めのとがある。ちなみに「女の都入口」バス停前に県交通局長与営業所があり、そのために“オンナノミヤコ行き”のバスが頻発しているのだった。〒へ行くと「あなたの街の女の都郵便局」の看板に、嫁はんは腹を抱えて笑っている。(註:女の都局が長崎市ではなく長与町に属していることはこれを書いてるときに知りました)

   オンナノミヤコ郵便局
   県交通局長与営業所

  駅へ戻って駅レンタカー営業所へ。ここで電動機付き自転車を貸し出している。2時間500円のところホテルのカードキーを提示すると半額になる。(註:今もこの特典があるかは不明) 続いては新聞の投書欄で見つけたダイヤランドへ。途中で二本松、新戸町と2局続けて簡易を征し、流石は電動機付きで快調に走る。ただ下り勾配では抑速発電制動が効かない(そんなものはない)ため所により怖い。ダイヤランドは横浜の釜利谷に似た雰囲気の住宅街だった。で経験値1とゴム印1を入手し、麓へ降りて国道499号を走って市街へ戻った。

  昼食は嫁はんの勧めで中華街の「江山楼」でチャンポンとトンポーローを。後に駅ビルの直営売店で真空パックのトンポーローも買った。それだけ気に入ったのです。

  自転車を返却して博多へ向かうべく「かもめ30号」に乗る。周遊きっぷだと鳥栖‐博多は特急券が必要なのだし、せっかくだから肥前鹿島から特別車輌を驕る。九州は料金も安いし、飲み物とおしぼりのサービスも健在だ。斯くなる上はN'EXやワイドボル東海といった“ボルチック艦隊”は撃沈されていただきたい。

   特別急行「かもめ」、左は大村線のキハ66

  1時間48分があっという間に感じられ博多へ。今夜は筑紫口側のハイアットリージェンシー福岡に泊まる。クレジットカードの特典でリッチなサービスを楽しんだ。

12年前のふたり(3日目)

2014年11月27日 | とのさまの漫遊
☆2002年11月27日(水) 

  ホテルグラスハウスの一部をYHにしている宿は食事も露天風呂付きの浴場もなかなか。前日に比べれば快適至極でしかも安いのだ。

  昨夜は苦労した道を再び徒歩で一旦駅へ。荷物を預けて平戸島へ向かう。駅前へ入るバスは少ないため桟橋まで歩を進める。ところがいつまでたっても桟橋バスターミナルが現れない。道端の観光案内所で尋ねると、どうやら通り過ぎてしまったらしい。いったいいつの間に…。すると居合わせた女性が平戸市役所へ行く用事があるからと自家用車への便乗を勧めてくれた。渡りに船ならぬ車で、あれうれしやとここはご厚意に甘えるとしよう。お礼にとさっき買っておいた缶コーヒーを進呈した。

  平戸バスターミナルでバス時刻表と、1000円のミックス回数券(国鉄バスでの呼称は、便利でお得なセット回数券)を入手する。1000円で1050円分と割引率では劣る。時刻表によれば市北部の田助地区への路線が浜川崎線並みの頻繁運転で(註:当時のこと)、〒もあるようなので行ってみよう。〒は予想外にも特定局で、造船工場もあるかなりの規模の集落だった。

  市街へ戻って平戸城を見学、商店街ではカスドースなる菓子を購入する。これはその昔、殿様がカステーラよりうまい菓子を作るよう命じ、完成品を食べたところ、あまりのうまさに民には食べさせるなと布令を出したという、いわば秘密の菓子である。見栄えのわりに値段もよいが確かにうまい。かなり手間のかかる製品と見た。

  
  
   平戸市内点描

  オランダ商館跡などを見学して1431時発の平戸口駅行きで島を後にする。長崎県北西部には「○○免」という地名が多く見られる。これについては末尾に記します。

  平戸口から列車で佐世保へ。松浦鉄道が新発売という金券式回数券の2000円券(200円券11枚綴り、註:今はICカードに代わられ終売しているよう)を購入しておく。1502時に発車、これで日本の鉄道最西端へ到達した。(松浦鉄道のサイトを見ると、今も「日本最西端の鉄道へようこそ!」の文字が見え、2線軌条式なら今も最西端ということなのでしょう)

   日本最西端の駅の碑

  駅間距離が京急の北馬場と南馬場のような佐世保市街を通り、1627時に佐世保へ定刻到着。10分の連絡で大村線特別急行「シーボルト3号」に乗る。閑古鳥乗り放題の感であり難なく前面展望車へ。出発すると鉄道唱歌が流れガッカリする。気動車はやはり“死にそうなアルプスの牧場”でなくてはなるまい。

  筑豊から流れてきたキハ66を眺めつつ長崎へ。今夜はJR九州ホテル長崎に泊まる。ビジネスホテルガイドではツイン1万1千円とあったのに予約時は1万2千円だった。最近になって改定したのか。しかし嫁はんが持ってるセゾンカードを提示したら3%引きになった。(註:今もこの特典があるかは不明) 部屋も広く快適で、初日の(以下略)

  バスで稲佐山へ。夜景を見て、毎年8月になると「さる筋の人たち」が“集会”を開催する野外ステージにも行ってみる。当たり前だが今日は真っ暗で人っ子ひとりいない。下りとなるゴンドラで往復乗車券を求めると掛員に怪訝な顔をされた。それはそうかも。どう考えても通常とは逆の行動なのだし。つまり麓まで往復した後、バスで山を下りたのです。

   稲佐山からの夜景


※長崎県内の地名に見られる「○○免」について

  国司や荘園領主に対して土地の占有権を主張してきた小豪族や大家族の上層農は、12世紀ごろには1年契約ではなく引き続いて土地を耕す権利を持つようになり、その土地に自分の名を付けて「○○名(みょう)」と呼ぶようになった。このような田を名田、農民を名主と言った。
  旧平戸藩以外で○○名という地名は名田に由来している。平戸藩では「みょう」を訛って「めん」と言ったことから「免」の字を当てている。
  免は他県にも各地に点在しており、これは年貢の免除地を表わすといわれる。平戸藩の祐筆はこのことを意識して「免」の当て字をしたのだろう。

  (この疑問のために地元自治体へ電話で質問いたしました。丁寧なご回答をいただき、改めてお礼申し上げます)

12年前のふたり(2日目)

2014年11月26日 | とのさまの漫遊
☆2002年11月26日(火) 

  ホテルの食堂で朝食。無料でごく普通の和定食だがこれほど丈夫で歯ごたえのある鮭の切り身は初めてだ。部屋にユニットバスはあるものの別に大浴場もあり、それにしてもツインルーム税別1万1千円で部屋も薄汚れていたし、これではよほどでなければおススメはしかねる。

  0806時の141Mで黒崎へ移動し、初めての本家「ソニック」へ。車内は満席でほとんどが通勤客だ。不況とは縁遠い人が多いのか。博多では20分ほどの乗り換え時間で地下ホームへ。0919時発の筑肥線西唐津行きに乗る。ドアが閉まる際に「チッ」という音がしないため、愛好家の間では外道とされている103系1500番台が来た。

  別会社化による運賃高負担や長編成のワンマン運転といった、今日の鉄道利用者に高負荷を与える先例を築いた福岡市営地下鉄でも103系には車掌が乗務している。内装やドアーエンヂンは201系と同等でも高速域では脳天を突き抜けるようなモーター音と全身マッサージのようなコイルバネ台車の乗り心地が103系であることを雄弁に物語っている。とりあえず西唐津まで乗るも小銭式格納庫すらないため唐津線のキハ47で唐津まで戻った。

  ここでは荷物を格納庫へ預けることができたので貸自転車の調達を試みる。駅前の「ふるさと会館アルピノ」で貸し出しているとの情報を入手し、行ってみるとなんと無料 さて当初は呼子への遠征も計画していたが、このころから雲行きが怪しくなってきた。天気予報というものは晴れは当たらなくとも雨はよく当てる。困ったものだと嘆いても仕方ないので市内散策に切り替える。

  手始めに唐津二夕子局で経験値1とゴム印1を入手し、唐津大島局へ向かうも道を間違えてしまい魚市場へ入り込んでしまった。そこに100円の飲料自販機があったので珈琲を所望するとなんと2本出てきた。不審な点は見当たらないためありがたく頂戴しておく。近くの場末のような食堂で昼食に。700円と妙に安い刺身定食を頼むと、「ヤズ」という魚だという。イナダの当地での呼び名らしい。歯ごたえがあってうまかった。

  
  
   唐津城からの展望

  食後に散策を再開すると今度は陽が差してきた。気まぐれな天気である。唐津大橋を渡り、虹ノ松原へ立ち寄ってから唐津城へと向かう。売店ではケナフドリンクなる怪しい飲料を売っている。他にも青じそ、ウコンがあり、輸送に鑑みケナフだけにした。ラベルを見ると小松飲料合資会社なる唐津の会社が作っているよう。(註:2008年に株式会社化) 炭酸入りで味は悪くなかった。

  天守閣から展望を楽しんでいると西の空がどうにも怪しい。急ぎ撤収するも間に合わなかった。今度は雷まで鳴っている。結局ずぶ濡れで自転車を返却した。 今日の戦果は7局と実に自然体であった。

   ケナフドリンク

  1614時の筑肥線で伊万里に1702時着、1711時の松浦線で今夜の宿がある平戸口へ。たびら平戸口ユースホステル(註:当時の名称)に泊まる。ところがこのYH、ガイドブックでは駅から“徒歩15分”とあるのに、我々の足でも軽く20分はかかり、しかも途中は真っ暗で商店すらない。次第に心細くなったところで高台に明りが見える。未知との遭遇かトトロの森かと思っていたらYHだった。雨がやんでいたのが幸いだった。

  夕食はオプションで佐賀牛のステーキも。せっかくだし少し贅沢しよう。

12年前のふたり

2014年11月25日 | とのさまの漫遊
  本棚を漁っていたら12年前の新婚旅行の記録が出てきた。まだパソコンは買っていなかったためデジタル化しておらず、この機に留めておくことにいたします。なお幾分昔のことのため現状とは異なっているケースも生じているかと思いますのでご了承ください。価格も当時のものです。


☆2002年11月24日~25日(月) のち

  結婚して早くも半年、ようやく2人で旅行でもという余裕ができた。つまりは新婚旅行である。今日び日本国内なんて布哇や朝鮮半島より金がかかるし狂気の沙汰とも思える節もあるが、互いの希望があり九州とした。きっぷは悪評高い周遊きっぷ「長崎・佐賀ゾーン」を使用した。

  武蔵中原の自宅を21時に出立、今宵の宿は「サンライズ出雲」ののびのび座席だ。しばらくミニサロンでビールを飲んだりして過ごす。数日前に微熱を出した余波があるのかいささか熱っぽい。夜中の最後の停車駅となる浜松を過ぎても隣が空席だったのを幸いに、毛布を2枚使わせてもらう。おかげで翌朝はかなりスッキリした。

  0627時着の岡山で5時間のインターバル。まずは市内の路面電車2系統の制覇に向かう。大荷物を小銭式格納庫に押し込み先に来た東山行きへ。同じ東山でも京都や名古屋に比べたら侘びしく、そこから清輝橋までは徒歩行軍で。このような行程で岡山電軌を征した者は多いという。

  岡山へ戻って吉野家で牛丼を朝食に。ちょうどよい頃合いとなったので後楽園(≠ゆうえんち)へ足を運ぶ。天守閣を眺めながら月見橋を渡り南口からの入場を試みる。すると正門は8時開門でも南口は8時30分とあり、10分ほど待たねばならない。ふと付近の案内板を見ると「水辺のももくん」なる記載があり、面白そうなので行ってみる。そこには桃太郎らしき銅像が尻丸出しで桃を掲げているだけ。寄贈者にはなぜか高知県ライオンズクラブも名を連ねている。余りにも情けなくくだらないシロモノのため、首切り役人の山田朝右衛門に命じて成敗してもらおうか。

  
    ともに後楽園にて

  正門から退場し、鶴見橋を渡る。道すがら出石局と天神局に出会い、中央局で岡山版の年賀はがきを購入、やはり桃太郎が絵柄となっているがなんとも不細工だった。

  岡山からは6時間29分の耐久レースに挑む。ここから下関行きの普通列車を乗り通すのだ。車は定石どおりの115系3000番台、すいているのをいいことにボックスを作って過ごす。1142時に出発し、三原で10分停車する間に昼食を調達に。改札外の売店で「たこめし」(900円)と「松茸めし」(950円)を入手した。たこはうまいけど松茸は値段のわりにショボい。

  広島まで乗務した女性車掌はスラッと長身で顔立ちも凛々しく、車掌にしておくのはもったいないほどの風貌だ。間違っても悪いマニヤなどに引っかからぬよう願うや切。1658時の小郡でも10分停車。川崎ならすでに真っ暗の時間なのにまだ西の空が明るい。流石は西日本だ。九州場所の余韻か力士も乗っていて、身なりから関取であることは分かるものの名前が思い出せず、失礼に思いサインなどは遠慮した。

  1811時の定刻からなぜか4分遅れて下関着、表定速度59km/hは名ばかりのボル特急に匹敵するのではないか。

  今夜の宿は戸畑駅近くの「ビジネスホテル初音」を予約してある。チェックインした後に渡し船(若戸航路)で対岸の若松へ。夕食にと適当な赤提灯を物色するも、店自体が少ないうえにどこもシャッターが降りている。やっと開いている店があったと思いきや、中から出てきた母親と息子と思しき2人連れが「この店まずいビールも残してきたんだよ」と忠告してくれた。

  やむなくもうしばらく歩を進めると、その名も「赤提灯」という、わりと構えの大きな居酒屋が出現した。さっきの親子も入ったようだ。魚介料理がメインで価格は東京並みでもモノが断然違う。満悦して再び船で戸畑へ戻り、駅への途中に間口2間の店が5軒並んだ長屋を見つけ、そのうちの1軒で焼酎のお湯割りをもらってからホテルへ帰った。

鉄道趣味のこと

2014年11月12日 | とのさまの休日
  去る6日夜、レイルウェイライターの種村直樹氏が亡くなられた。それを知ったのは翌7日、夜勤明けに旧知からのメールでした。

  拙者が氏の「友の会」に入っていたことは2010年2月1日付に記しています。その記事にもあるように、そこでのサークル機関誌の企画からなぜか“覚えがめでたく”なってしまったのは光栄至極でした。

  とはいえ友の会に入ったのは大学に入ってから、イベントに参加するようになったのはさらに後(平成になってから)だったため、他の方々に比べると古いお付き合いというわけでもないのです。

  そんな拙者ごときが氏の想い出を綴るのもおこがましく、鉄道趣味のことを記して追悼といたします。


  もともと鉄道に乗って出かけるのが好きだったので車輌形式に興味を持つようになったのは高校に入ってからと遅いほうでした。そこへ当時の鉄道ジャーナル誌が車輌の走行メカニズムなどを解説する記事を連載していて関心を深めるように。

  拙者はわりと機械いじりが好きなので動力装置に興味がありました。電車の制御方式や気動車のエンジンなど、知っていたところであまり役に立ちそうにはありませんが。

  かの宮脇俊三氏は雑誌で、ひと口に鉄道といっても分野は多岐にわたり、“まるで総合大学”と語っていました。乗って写真を撮るだけでなく、土地に興味があれば地理学、メカニズムに興味があれば工学、ローカル線や事業者の経営状態なら経済学などというところ。どの分野に興味を持つかで趣味の広がり方もまた違ってこよう。

  その雑誌に種村直樹なる人がルポやコラムなどを執筆していて氏の存在を知るようになりました。

  氏といえば著書にみられるように“汽車旅”の第一人者という印象が強いですが、ジャーナル誌に連載されていた「レールウェイレビュー」で見られたように、鉄道を取り巻く様々な状況に鋭い批評を展開することにも感銘を受けました。

  ただ汽車に乗って楽しむだけでなく、路線の状況やサービスのあり方など、一面的でない考え方には多くの影響を受けました。

  冒頭写真は朝日新聞9日付に掲載された訃報欄です。自動車評論家の徳大寺有恒氏との並びに、ひとつの時代が終わったことを感じさせます。両名のように世相に臆せず発言する“ご意見番”のような存在を同時に失ったことは残念です。同様の気概を持った次の世代が現れてほしいと願ってやみませんが、何か言うとすぐにこじつけて批判して潰したがる現在の風潮も嘆かわしい限りです。

  無限の楽しみ方があるはずの鉄道が日々画一化されていく。東北地方をPRする駅のポスターに登場する車輌が、ご自慢の最新型ではなく国鉄車輌というのも皮肉めいています。

  国鉄分割民営化で長距離列車は次々と姿を消し、九州の豪華列車も早々に曲がり角に来ているよう。氏がお元気だったならどのような“苦言”を呈しておられただろうか。