人それぞれ、お誘いなどを受けた時の断り方があるようです。
良寛の場合。
越後長岡藩の第9代藩主・牧野忠精(ただきよ)は稀代の明君をもって聞こえていました。
牧野忠精は青年のころから幕閣に仕え、寺社奉行、大坂城代など要職を歴任しています。
その牧野忠精が領内の巡視を行い、文政2年(1819年)ついでに良寛の住んでいる国上寺に参詣し、良寛の
高徳を聞き及び、良寛に
「長岡に寺を建立して良寛禅師をお迎えしたいが」と申し入れをいたしました。
良寛はつつしんで聞いていましたが、だまって紙と筆をとり
「焚くほどは 風が持てくる 落ち葉かな」
と、さらさらと一筆して忠精の前に差し出しました。
忠清は無理にすすめることは迷惑と悟り、そのまま立ち去ったといわれています。
そして夏目漱石の場合
1907年(明治40年)西園寺公望が私邸に著名な文学者を招待して歓談の宴を催そうとし、森鴎外、坪内逍遥、
二葉亭四迷、幸田露伴、泉鏡花などと一緒に夏目漱石にも招待しました。
これは政治的でもなく、単なる歓談の席ですが夏目漱石は断りました。
「虞美人草」の執筆のためと称していますが、本音は嫌だったのです。
「時鳥(ほととぎす)厠半ばに 出かねたり」
トイレの途中というわけです。
実は夏目漱石は博士号授与などお上の姿勢には強い不快感を持っていた、とされています。
因みに漱石は良寛の書を欲しくてたまらず、様々な手段を使っています。
ふたりには何か共通点があるようですね。
写真の城は長岡城です。