和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年09月30日 21時02分21秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月30日(水)より転載】

【勝利島60】

 参加者は皆、真剣な表情で、山本伸一の話に耳をそばだてていた。
 「太陽は一つであっても、ひとたび天空に躍り出れば、すべて明々と照らし出されていきます。同様に、信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたいのであります。どこまでも信心は強盛に、強い確信をもってください。そして、決して焦らず、あくまでも堅実に、広宣流布の歩みを運んでいってください。
 島というのは狭い社会であり、昔からの慣習等も息づいている。そのなかで信頼を勝ち得ていくには、賢明な日常の振る舞いが大事になります。誰人に対しても、仲良く協調し、義理を重んじ、大きく包容しながら、人間性豊かに進んでいかれるよう、願ってやみません。
 島のなかで、ささいなことで人びとと争ったり、反目し合ったり、排他的になるようなことがあっては絶対にならないし、孤立してしまうようなことがあってもなりません。仏法即社会です。世間の目から見ても、“立派だ。さすがだ!”と言われるような、聡明な活躍をお願いしたい。
 それが、広宣流布への第一歩であると確信し、身近なところから、着実に信心の根を張っていっていただきたいのであります」
 伸一は、長旅で疲れているであろう離島の同志の体調を思い、話は短時間で切り上げようと思った。最後に、「ただ一つ心肝に染めてほしい御文があります」と強調し、日蓮大聖人が佐渡で認められた「開目抄」の一節を拝読していった。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書二三四頁)




   

小説「新・人間革命」

2015年09月26日 16時16分05秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月26日(土)より転載】

【勝利島57】

 一九七八年(昭和五十三年)十月七日、山本伸一は、離島の婦人部の代表らと懇談したあと、第一回離島本部総会の会場である創価文化会館五階の広宣会館へ向かった。

 会場は、全国百二十の島々から集った代表で埋まり、求道の熱気に包まれていた。皆、固唾をのんで開会を待った。

 午後六時前、会場横の扉が開いた。皆の目が一斉に注がれた。伸一の姿があった。参加者の大拍手と大歓声が轟いた。広島の江田島、能美島、倉橋島の同志が立ち上がり、島をアピールする五メートルほどの横幕を広げ、喜びを表現した。

 「ようこそ! ようこそ!」

 伸一は、こう言いながら、参加者の中を進み、後方へ向かった。旧習の深い島々で戦い抜いてきた同志を、少しでも間近で激励したかったのである。

 声をかけ、握手を交わし、場内を進んだ。

 「遠いところありがとう! よくいらっしゃいました。お会いしたかった」

 黒潮に磨かれた精悍な顔、風雪に鍛え抜かれ、深い年輪を刻んだ顔、笑みを浮かべた柔和な顔――どの顔も、見る見る歓喜に紅潮していった。

 伸一と初めて会う人が、ほとんどであった。立ち上がり、手を振る人もいる。

 労苦の波浪を乗り越えてきた勇者の心意気と、仏子を讃え励まそうとする伸一の思いが熱く解け合い、会場は感動の坩堝となった。

 彼は、場内を一巡し、前方に来ると、マイクを手にした。

 「離島本部の第一回総会、おめでとう! 日々、苦闘を重ね、勝利の旗を打ち立ててこられた皆さんと、お会いできて本当に嬉しい。

 学会本部は、皆さんの家です。今日は、信心のわが家に帰って来たんです。堅苦しいことは抜きにしましょう。ゆっくりして英気を養い、“ああ、本部に来てよかったな”と心から満足して、若返って、お帰りになっていただきたい。それが、私の思いのすべてなんです。戦い抜いてこられた皆さんですもの」





   

小説「新・人間革命」

2015年09月24日 11時41分12秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月24日(木)より転載】

【勝利島55】

 カセットデッキから、「龍郷支部歌」が流れた。勇壮で力強い調べであった。臥龍が時を待って、天空高く昇りゆく姿に、同志の心意気を託した歌となっていた。

 山本伸一は、調べに合わせて、拳を振りながら、歌を聴いていた。

 聴き終わると、彼は言った。

 「いい曲だね。龍郷の新しい出発だね。

 支部の皆さんは、元気かな」

 すぐに、奄美の婦人の幹部が答えた。

 「はい。今は、地域の人たちも、心から学会を理解してくれています。また、多くの同志が、各集落の信頼の柱になっています」

 「それは、よかった。何よりも嬉しいね。日蓮大聖人の仏法というのは、最も苦しんできた人が、最も幸せになれるという教えなんです。また、最も激しい迫害が起こったところこそ、学会員が信頼の根を張り、広宣流布の模範の地域にしていく使命があるんです。

 大聖人は、一生のうちに自身の一切の謗法を消滅できるのは、法華経のゆえに数々の大難に遭ったからであると言われている。

 そして、『願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』(御書五〇九ページ)と仰せです。その原理のうえから、弾圧の嵐が吹き荒れた地で戦ってこられた奄美の皆さんは、地域広布の先駆となって、人びとを幸せにしていってほしいんです。

 龍郷をはじめ、奄美の皆さんは勝った! 仏法は勝負です。十年、二十年、三十年、いや五十年とたった時に、すべては、ますます明らかになる。勝負は一生です。より根本的には、三世という尺度で見なければならない場合もありますが、最後の大勝利を確信し、不退の勇者として生き抜いてください。

 それには、心が強くなければならない。臆病では信心を全うすることはできません。大試練に耐えるとともに、自分の慢心や名聞名利への執着などに打ち勝つ強さが必要です。

 学会を離れれば、最後は後悔します。孤独です。広宣流布の陣列から離れることなく、はつらつと歓喜の大行進を続けてください」





   

小説「新・人間革命」

2015年09月18日 11時23分02秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月18日(金)より転載】

【勝利島50】

 各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。

 長崎県・五島列島の福江島をはじめ、対馬や壱岐、鹿児島県の沖永良部島などでは、学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が開催されていった。メンバーは、島に受け継がれてきた郷土の歌や踊り、伝統文化の保存、継承にも力を注いだ。

 また、学会員の多くが、島や集落のさまざまな仕事を積極的に引き受け、責任を担いながら、島民のために献身した。

 学会員が島に貢献する姿を通して、島民は創価学会の実像を知り、学会への理解を深めていったのである。法を体現するのは人であり、人の振る舞いが広布伸展のカギとなる。

 学会への偏見や誤解から、迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、学会員への信頼は不動のものとなり、「非難」は「賞讃」へと変わっていった。各島の同志は、広宣流布への決意を、いよいよ燃え上がらせたのである。

 かつて学会員が村八分にされ、車やオートバイを連ねて「学会撲滅」を叫ぶデモが行われた奄美大島でも、学会理解は大きく進んでいた。

 一九七六年(昭和五十一年)六月二十一日、山本伸一のもとへ、「奄美広布決議」と題する一文が届けられた。奄美群島の同志は、伸一が奄美総支部結成大会に出席した六三年(同三十八年)六月二十二日を記念して、6・22を「奄美の日」とした。決議は、その新出発の総ブロック(後の支部)総会等を開催するにあたり、採択したものであるという。

 「一、奄美創価学会は、どこまでも異体同心にして朗々たる勤行と唱題を実践し、宿命的惰弱な生命を打ち破り、奄美の島々から苦悩の二字を抹消していく。

 一、奄美創価学会は、利他の実践に全魂を傾け、慈悲の雄弁をもって、力強く運動を展開する。

 一、奄美創価学会は、会長の数々の指針を胸奥にきざみ、御書運動と人間革命運動をもって、師弟共戦の戦いを固く誓う」






   

小説「新・人間革命」

2015年09月15日 16時14分55秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月15日(火)より転載】

【勝利島46】

 一九六八年(昭和四十三年)六月、小笠原諸島は日本に返還される。しかし、翌年の春、勝田喜郎の父親は他界した。

 勝田は、大阪で会社勤めをしていたが、〝自分だけでも母島に帰って農業をし、父との約束を果たすべきではないか〟との思いが、日を追うごとに強くなっていった。

 勝田の先祖は一八七九年(明治十二年)に小笠原の母島に定住した最初期の一家であった。彼は、亡き父親が大事に持っていた、勝田家の「総括録」と題した綴りを目にしてきた。移住二代目にあたる祖父が記していたものだ。そこには、想像を絶する開拓の苦闘と気概が綴られていた。

 自分の体に、その開拓者の血が流れていることに、彼は誇りを感じた。

 〝よし、帰ろう! 先祖が心血を注いで開いた母島の土地を守ろう! そして、島の広宣流布に生き抜こう!〟

 彼には、農業の経験は全くなかった。しかし、〝信心で、どんな苦労も乗り越えてみせるぞ!〟という意気込みがあった。

 勝田は、一年間、横浜で農業研修を受け、一九七一年(昭和四十六年)秋、農業移住者六世帯のうちの一人として母島に渡った。一般の人たちの本格的な母島帰還よりも、二年ほど早かった。

 二十七年間、無人島状態であった母島は、島全体がジャングルさながらであった。勝田は父島で材木を調達し、自分で家を建てることから始めた。出来上がった家は、六畳一間で、ランプ生活である。

 畑作りのため、開墾作業に励んだ。慣れぬ労作業に体は悲鳴をあげた。しかし、飢えに苛まれ、密林を切り開いてきた先祖の、厳しい開拓生活を思い起こしながら唱題した。

 〝これを乗り越えてこそ、母島広布の道が一歩開かれる! 負けるものか!〟

 勇気が湧いた。

 広宣流布の使命に立つ時、わが生命の大地から無限の力が湧き起こる。地涌の菩薩の大生命がほとばしるのだ。

 学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。

 島には、次第に観光客も増えていった。それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。

 島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。

 また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。移り住んだ八丈島で一家は入会。彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。







   

小説「新・人間革命」

2015年09月11日 16時37分09秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月11日(金)より転載】

【勝利島45】

 離島本部からの報告では、小笠原諸島には、三十世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。

 山本伸一は、首脳幹部を通して、小笠原を訪問する離島本部の幹部に伝言した。

 「この機会に、小笠原に大ブロックを結成してはどうでしょうか。学会本部ともよく話し合って、人事なども、具体的に検討してください。

 また、島の皆さんに、こう伝えてください。

 『地理的には遠くとも、御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています。私は、日々、皆様の健康とご一家の繁栄を、真剣に祈り続けております』」

 そして、島の同志への記念品を託した。

 離島本部長の三津島誠司らが、小笠原諸島の父島に到着したのは、五月四日朝のことであった。船酔いの苦痛のなか、船を下りると、数人のメンバーが、こぼれるような笑みを浮かべて待っていた。そのなかに、母島から来たという、七十二歳の男性もいた。父島と母島とは、約五十キロ離れている。

 「本部から幹部の方が来られると聞いて、もう待ち遠しくて、二日前から父島へ来て待っとりました。山本先生はお元気ですか」

 彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った、「生涯、私と共に広宣流布に生き抜いてください」との言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。

 「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。

 三津島たちは、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。

 ――小笠原の広布は、一九六八年(昭和四十三年)に小笠原の島々が日本に返還され、本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時から始まっている。そのなかに佐々本卓也や浅池隆夫らの学会員がいたのである。

 佐々本は、漁業を行うために漁業協同組合をつくって組合長を務め、浅池は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長となった。








   

小説「新・人間革命」

2015年09月05日 19時32分03秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月5日(土)より転載】

【勝利島40】

 仏法の世界で偉いのは誰か――御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。

 山本伸一は、話を続けた。

 「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。

 もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する師子身中の虫です。そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」

 伸一の眼光は鋭く、声は厳しかった。
  


 一月二十五日、霧島連山の中腹にある九州総合研修所には、肌を刺すような寒風が吹きつけていた。午前十一時前、離島本部の第一回代表者会議に参加するメンバーのバスが到着した。バスを降りると、そこに待っていたのは、伸一の笑顔であった。

 「ご苦労様です! よくいらっしゃいました! 広布の大英雄の皆さんを、心から讃嘆し、お迎えいたします」

 伸一は、手を差し出し、握手した。島の同志たちも、強く握り返した。彼らには、伸一の手が限りなく温かく感じられた。その目に、見る見る涙が滲んでいった。

 多くは語らずとも、皆、伸一の心を、魂の鼓動を感じた。勇気が湧いた。

 この日の代表者会議では、各島にあって、伝統文化を守り、島の発展に尽くすことを決議した。また、島の実情に応じ、社会性を大切にしながら、活動に取り組んでいくという基本方針を確認し合った。


 

小説「新・人間革命」

2015年09月02日 19時42分53秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 9月2日(水)より転載】

【勝利島37】

 派遣された幹部が、山本伸一の伝言を語るにつれて、伊豆大島の同志の目は潤み始め、その顔は紅潮していった。

 「先生は、また、こう言われました。

 『伊豆大島に会館を建設したいと思う。島の同志の方々が希望に燃えて、元気に頑張っていけば、島は必ず復興し、ますます繁栄していく。その原動力となるよう、会館建設を進めていきたい』」 

 話が終わらぬうちに、大きな拍手が起こった。参加者は肩を抱き合って喜んだ。

 座談会の空気は一変していた。

 皆、口々に、決意を語り合った。

 「この災難を、大島の大発展のバネにしていこう! 今こそ、仏法を持った者の強さを示していこうじゃないか!」

 「そうだね。島のみんなは、希望をなくしている。励まし、元気づけよう! そして、信心をすれば、どんな苦難も必ず克服していけることを、訴え抜いていくんだ」

 「それが大事だと思う。この大火を変毒為薬していく道は折伏だ。島中に、弘教の大旋風を巻き起こしていこう!」

 皆の胸に、闘魂が燃え上がった。

 戸外には、月明かりの下、焼け跡が黒々と広がり、吹き渡る風も焦げ臭かった。

 しかし、同志は、清新な建設の息吹を胸に、この夜から喜々として仏法対話に走った。

 焼け出された学会員には、“これから先、どうすればよいのか”という強い不安があった。しかし、“友の再起のために、仏法を語ろう”と、弘教を開始すると、いつの間にか、自身の悩みの迷宮から脱していた。“必ず乗り越えてみせるぞ!”という固い決意と、“絶対に乗り越えられる!”という強い確信が、胸に込み上げてくるのだ。

 境涯革命の直道は、弘教にこそある。

 大島の同志は、話し合いを重ね、会館が完成するまでに、会員千世帯をめざそうと誓い合った。誰もが意気盛んであった。

 元町に建てられた被災者のプレハブ住宅では、同志の唱題に力がこもった。





 

小説「新・人間革命」

2015年08月29日 20時18分14秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月29日(土)より転載】

【勝利島34】

 多かれ少なかれ、どの島でも、村八分などの厳しい迫害の歴史があった。そのなかで、学会員は、御本尊を根本に、御書、機関紙誌と、同志の励ましを支えに耐え抜き、試練を勝ち越え、幸の花々を咲かせてきたのだ。
 山本伸一は、島の広布開拓にいそしむ人たちの激励には、ことのほか力を注いできた。
 一九五八年(昭和三十三年)四月、第二代会長・戸田城聖が世を去り、六月末に総務として、事実上、学会の一切を担うことになった伸一は、七月には佐渡島を訪問している。
 恩師亡きあと、悲しみに沈む島の同志を励ましたかったのだ。発迹顕本された日蓮大聖人が、御本仏として新しき闘争を起こされた佐渡で戦う勇者と共に、新しき希望の前進を開始しようと、心に決めていたのである。
 六〇年(同三十五年)五月三日、彼は第三代会長に就任すると、七月には、沖縄支部を結成し、琉球諸島の同志を励ますために、沖縄を訪れた。また、世界への平和旅の第一歩を印し、海外初の地区を結成したのは、ハワイ・オアフ島のホノルルであった。東洋広布への起点としたのも、香港である。
 国内では、徳之島、奄美大島も訪れた。この時、奄美総支部が結成されたのである。
 各方面を訪問した折には、離島から来た友がいると聞けば、会って懇談し、和歌などを揮毫した書籍を贈るなど、渾身の激励を心がけてきた。離島で広宣流布の道を切り開いていくことが、いかに大変であるかを、彼は、よく知っていたからである。
 常に、最も苦闘している人たちの幸せを願い、心を砕き、光を当て、最大の励ましを送る。それが創価のリーダーの生き方であり、そこにこそ仏法の人間主義の実践がある。
 六四年(同三十九年)九月下旬、台風二十号が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。なかでも、鹿児島県の種子島、屋久島に甚大な被害をもたらしたのである。
 種子島では、いたるところで家屋が倒壊するなどの事態となった。また、屋久島では、最大瞬間風速六八・五メートルを記録している。

     



小説「新・人間革命」

2015年08月22日 20時24分26秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月22日(土)より転載】

【勝利島28】

 離島本部の総会には、鹿児島県のトカラ列島からも、メンバーが参加することになっていた。トカラ列島は、鹿児島港から約二百キロ南の海上に連なる火山列島である。口之島、中之島など、屋久島と奄美大島の間に位置する十二島から成り、これらの島々で鹿児島郡十島村が構成されていた。
 学会では、この十島村と、薩摩半島南南西四十キロにある竹島、硫黄島、黒島等から成る三島村で十島地区を結成。一九六四年(昭和三十九年)三月、石切広武が地区部長の任命を受けた。
 以来十四年、彼は鹿児島市内に居住しながら、これらの島々の同志の激励に通い続けてきたのである。
 石切の入会は、五六年(同三十一年)十月、四十一歳の時のことである。
 鹿児島で生まれ育った彼は、水産会社やアイスクリーム製造業などを手がけたが失敗。多額の借金を抱えていた時、知人から学会の話を聞いた。神秘主義的な教えではなく、生命の原因と結果の法則を説く宗教であることに共感し、信心を始めた。入会後、学会活動に意欲的に取り組み、十世帯、二十世帯と仏法対話を実らせていった。
 依然として経済苦は続いていたが、入会の翌年、弘教のため、大阪を訪れた。その折、大阪に来ていた青年部の室長の山本伸一と会って、名刺を交換した。
 この年の七月、参議院大阪地方区補欠選挙で支援活動の最高責任者を務めた伸一が、選挙違反という無実の罪で不当逮捕されたことを知った。そして、釈放された伸一から葉書が届いたのだ。
 そこには、何があっても決して動揺することなく、広宣流布の使命に生き抜き、悔いなき一生を送るようにとの、烈々たる気迫の言葉が綴られていた。石切は感動した。
 “ご自身が最も大変ななかで、たった一度しか会ったことのない、事業にも失敗した敗残兵のような男のことを心配し、励ましてくださる。これが、これが学会の心なのか!”

小説「新・人間革命」

2015年08月21日 20時02分04秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月21日(金)より転載】

【勝利島27】

 浜畑マツエは、島で推されて、掃除、洗濯、食事等の世話をする家庭奉仕員として働いていた。彼女の心配り、仕事への熱心さは、次第に高く評価されていった。
 やがて、“浜畑さんのやっている宗教なら”と、信心する人が増えていった。彼女の周りには、いつも談笑の輪が広がった。
 大ブロック担当員である浜畑の担当範囲には、隣の戸島、日振島も含まれていた。このうち日振島に行く船は一日一便で、嘉島発午後二時、日振島着同四時半。帰りの船が出るのは翌日である。船はよく揺れる。年末、天候の悪化で、船が一週間ほど、欠航になったこともあった。
 大きな会合は、本土の宇和島で行われた。船便の関係で、夜の会合に出席するにも、午前中に島を発たなければならない。また、会合が終わると、戻りの船はなく、翌日、帰ることになる。それだけに彼女は、せっかく宇和島に来たのだから、すべてを吸収して帰ろうと、求道心を燃え上がらせた。
 小さな島では、一人の人の影響が極めて大きい。一人の決意、姿、振る舞いが、広宣流布を決定づけていく。そして、一つの困難の壁を破れば、一挙に学会理解が進むこともある。
 浜畑の存在は、島の広布の一大推進力となっていったのである。
 わが地域の広宣流布は、わが手で成し遂げるしかない。それが、自分の使命である――そう自覚した同志が、次々と誕生したことによって、離島広布は加速度的に進んできたのだ。これは、いかなる地域にあっても、永遠不変の原理といってよい。
 また、嘉島には、本土の宇和島からも、よく幹部が激励に通っている。使命の自覚といっても、そこには、同志の励ましや指導といった触発が不可欠である。
 種を蒔いても、放っておいたのでは、鳥に食べられたり、朽ち果てたりしていく。
 丹精を込め、こまやかな激励の手を、徹底して差し伸べていくなかで、種は苗となり、一人立つ真正の勇者が育っていくのだ。

小説「新・人間革命」

2015年08月20日 18時25分26秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月20日(木)より転載】

【勝利島26】

 人の住む島といっても、その規模は、さまざまである。佐渡島のように、面積も八百五十平方キロメートルを超え、二万数千世帯もの人が住む島もあれば、面積も小さく、数世帯、数十世帯の島もある。
 愛媛県の宇和島港から西方約二十キロの海上に浮かぶ嘉島は、周囲三キロほどの小さな島である。この一九七八年(昭和五十三年)当時、嘉島の人口は七十四世帯二百二十五人であった。島には、学校は小学校しかなく、中学校から島を出て寄宿生活になる。
 その島に、二十一世帯の学会員が誕生していたのである。地域世帯の三割近くが学会員ということになる。広宣流布が最も進んでいる地域の一つといえよう。
 嘉島広布を支えてきた住民の一人が、大ブロック担当員(後の地区婦人部長)の浜畑マツエであった。彼女は六四年(同三十九年)、闘病を契機に、島の学会員の紹介で信心を始めた。小さな島では、皆、仲間である。ところが、弘教を開始すると、人びとの態度は、急激に変わっていった。
 島の旧習は深かった。誰かが病気で手術をするなどという時には、“お籠もり”といって、社寺に集まって皆で祈ることも行われていた。人びとは、入会した浜畑が弘教に励む姿を見て、島の秩序を破壊しているかのように感じたようだ。
 あいさつを返してくれない人が増えた。なかには、ひそかに、「すまんのぉ。あんたと話しおったら、あんたらと一緒やと思われるけんのぉ」と告げる人もいた。
 また、仏法の話を聞いて納得はしても、入会には踏み切れず、こう言うのだ。
 「いい教えだと思うけど、ここにおるうちは、信心するわけにはいかんけんのぉ。ここから出たら、信心してもええが」
 島が小さければ小さいほど、人間関係は深く、強い。人びとは、すべての面で助け合って生きねばならない。そのなかで学会理解を促すには、日々の生活のなかで、信頼を勝ち取ることが必須条件となる。                                 

小説「新・人間革命」

2015年08月19日 20時01分08秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月19日(水)より転載】

【勝利島25】

 落下する石の直撃を受けた佐田太一は意識不明になり、この時も本土の病院へ緊急搬送された。頭蓋骨にたくさんのひびが入っていた。ところが、不思議なことに、致命傷にはいたらなかった。
 “信心をしているのに、なぜ、またしても、こんな目に遭うんだ?”という疑問が、頭をよぎった。しかし、すぐに「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)という言葉を思い起こした。信心によって過去世の重業を転じて、現世で軽くその報いを受けることをいう。
 “頭の怪我を繰り返すのは、過去世からの悪業にちがいない。本来ならば命を落とすところ、信心をしてきたおかげで二度も救われた。命拾いをしたのは、俺には広宣流布をしていく使命があるからだ!”
 御本尊への感謝と歓喜が胸にあふれた。
 彼は、一カ月ほどで、さっさと退院し、ほどなく、以前にも増して元気になった。
 佐田は、民宿の経営に力を注ぎ、宿泊客は、年々、増加の一途をたどった。
 彼が、一つ、また一つと功徳の体験を積むにつれて、信心を始める人も増えていった。
 そして、一九七二年(昭和四十七年)には、民宿を大改築し、客室数三十余室の“天売一”のホテルを誕生させたのである。
 また、佐田に激励された人たちのなかから、島の広宣流布を担う人材も、続々と育っていった。天売支部の初代支部長を務め、後年、郷土資料館「天売ふる里館」を開く森崎光三も、その一人である。
 天売島の同志の様子は、山本伸一にも報告されていた。
 彼は、離島本部の幹部に語った。
 「島では、実証を示す以外に、広宣流布の道を開くことはできません。学会員が現実にどうなったかがすべてです。だから、功徳の体験が大事になる。そのうえで、最も重要なのが、学会員が、どれだけ島のため、地域のために尽くし、貢献し、人間として信頼を勝ち取ることができるかです。それこそが、広宣流布を総仕上げする決定打です」
                                      

小説「新・人間革命」

2015年08月18日 20時14分03秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月18日(火)より転載】

【勝利島24】

 佐田太一を診察した医師は、家族に、手の施しようがないので退院するように勧めた。しかも、「このまま、寝たきりになってしまうこともあります」と言うのだ。
 佐田は、自分に言い聞かせた。
 〝俺が倒れたら、誰が、天売の広宣流布をやるんだ! 必ず全快してみせる! これからが、本当の勝負だ!〟
 家に戻った彼は、首を固定するための装具を着けて、じっと寝ていなければならなかった。全身にしびれがある。呼吸をすることさえ、辛く感じられた。
 多くの人たちは、“これで佐田も終わりだ”と思ったようだ。彼の耳にも、そんな話が聞こえてきた。祈った。必死に唱題した。
 “島の広布のために生き抜きたい”という執念が佐田の生命を支えた。二年がたち、三年がたった。どうにか歩けるまでに体は回復した。広宣流布の使命に生きる人は、地涌の菩薩である。ゆえに、その人の全身に大生命力が満ちあふれるのだ。
 もう家に、じっとしてはいられなかった。皆のために自分が「聖教新聞」を配ると言いだした。首にコルセットをはめたまま、よたよたと歩き、家々を回った。さらに、折伏を開始していった。
 コルセット姿の佐田を見て、「まるで宇宙人だ」と噂し合う人もいた。
 彼は、笑い飛ばしながら、こう言った。
 「私は、一命を取り留めた。これが、既に功徳なんだ。でも、これからますます元気になるから、今の姿をよく見ておきなさい」
 佐田は、試練に遭うたびに、ますます闘魂を燃え上がらせていったのである。
 そして、自ら宣言した通り、医師もさじを投げた怪我を、完全に克服したのだ。
 この事故から、六年後の一九六八年(昭和四十三年)のことであった。ある日、岩海苔を採るために、舟を出し、崖の下に着けた。岩に上がって作業を始めた。
 その時、突然、崖の上から落下してきた、こぶし大の石が、彼の頭を直撃した。
                                            

小説「新・人間革命」

2015年08月15日 16時59分12秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月15日(土)より転載】

【勝利島23】

 佐田太一は、“島の広宣流布のためには、まず生活に勝ち、実証を示すことだ”と結論し、祈りに祈った。
 唱題は、生命力、智慧の源泉である。
 “漁師のほかにも商売ができないものか”と思案を重ね、住まいの一部を改造して、民宿を始めることにした。民宿といっても、布団は三組しかない。それでも、五月から九月の間、客は、よく来てくれた。
 天売島は冬季に入ると、島を訪れる人は、ほとんどいなくなる。海は荒れ狂い、空は鉛色の雲に覆われ、吹雪は咆哮をあげて襲いかかる。船も一日一往復となり、天候によっては何日も欠航が続く。
 佐田は、“今なら、じっくり対話ができる”と思った。吹雪のなかを弘教に歩いた。折伏をするために字を覚え、『大白蓮華』「聖教新聞」を読み、御書を学んだ。
 島に戻って二年後には、八世帯の弘教が実った。民宿も辛抱強く続け、毎年、少しずつ改修を重ね、設備も整えていった。
 一九六一年(昭和三十六年)秋、天売島が脚光を浴びることになった。ここを舞台にしたテレビドラマ「オロロンの島」(北海道放送制作)が全国放映されたのである。
 ドラマの主役は、島に住む子どもの姉弟である。その弟役には、佐田の息子・一広が起用された。この放映によって天売島は、風光明媚なオロロン鳥の繁殖地として、一躍、名を馳せ、多くの観光客が訪れるようになる。
 民宿の業績も順調に伸びた。しかし、島には水が少ない。六二年(同三十七年)、佐田太一は、客に不自由な思いをさせたくないと思い、裏山の沢から水を引くため、ホースを取り付けに行った。
 三十メートルほどの崖に登って、作業を始めた。その刹那、体のバランスを崩し、真っ逆さまに転落した。意識を失った。本土の病院へ緊急搬送された。検査の結果は、頭蓋骨陥没である。頸椎もずれていた。辛うじて命は取り留めたが、医師は、「命に及ぶ危険があるので手術はできない」と告げた。