聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子を演じる芸人:百面相の波多野栄一と1人コントの脳みそ夫

2021年03月05日 | その他
 聖徳太子はいろいろなものの元祖とされており、芸能でも尺八は太子が元祖とされ、能も太子が秦河勝に命じて始めさせたと伝えられています。どちらも後代になって生まれた伝承ですが、その太子を主人公とした芸能もたくさんあります。

 この点については、3年ほど前に「聖徳太子と芸能」シンポジウムの企画を任された際、研究者を集め、基調講演をやりました(こちら)。そのうち、活字にしましょう。私は「日本笑い史年表」(こちら)を作ったくらいであって、これが本業と言っても良いくらいの芸能好きであり、その方面で書いたものも多いです。

 その講演の冒頭でツカミとして紹介したのが、聖徳太子のものまねをやっている2人の芸人です。1人は、爆笑問題や私の大好きな日本エレキテル連合(最初の単独ライブや以後のライブにも行きました)が所属する芸能事務所であるタイタンの芸人、脳みそ夫です。1年半ほど前、タイタン・シネマライブに出かけた際は、結婚直後であって、奥さんが作ってくれた衣装を着て登場していました。

 脳みそ夫は、聖徳太子が女性になって現代に生きていたらという設定で、いろいろな状況を1人コントで演じてくれます。修学旅行に行った飛鳥中学3年2組の女子中学生という設定では、「行き先は奈良。法隆寺観光? あたし造った」などと言って笑わせ、「おったま遣隋使」といったギャグも飛ばします。

 飛鳥商事のOLだったらという設定のコントでは、受付で10人もの言葉を同時に聞き分ける聖徳太子OLが休憩で給湯室に行くと、蘇我馬子が隠れてエロ本を読んでおり、とがめると馬子は「これ『魏志倭人伝』」と言い訳します。太子OLが、物部守屋がこの数日出勤していないと言うと、馬子は「守屋? オレ、滅ぼした」と答える、といった調子で楽しませてくれます。

 この二つは、タイタンの公式サイトであるタイタンチャンネルにライブ動画がアップされています(こちらと、こちら)。これ以外の聖徳太子ネタもありますし、モーツァルトが給食当番をやるコントなど、面白いものが多いです。

 もう一人の太子ものまね芸人は、百面相の波多野栄一(1900-1993)です。Wikipedeiaに記事があがってますが、書きかけのままであって簡単すぎますね。波多野の著書や波多野をモデルにした小説なども紹介されてないし。

 東京で生まれた波多野は、子供の頃から芸能好きであったため新劇の世界に入り、田谷力三らの浅草オペラに加わった後、漫才などもやり、吉本興業に入って活躍しますが、戦後、やることがなくなります。

 そこで、進駐軍のキャンプ回りの声がかかった際、アメリカ人でも見てすぐ分かる百面相をやることとし、ボール紙を切り貼りしたり布でざっとこしらえたりした雑な衣装や背景を作って、チャップリン、カウボーイが撃ち合う場面、マダムバタフライなどを演じてみせると受けたため、以後、この芸で生きることになります。

 百面相というのは、江戸時代から寄席で演じられていた芸であって、落語家の三笑亭可上が、目かつらという簡単なマスクのようなものを次々に取り替えつつ物真似を「百眼」と称してやったのが元祖と言われています(物真似芸の歴史については、本を書いてます。こちら)。

 波多野が演じてみせるのは、そっくりに似せることを最初から放棄した学芸会のような芸ですが、暖かい笑いが起きるのは、飄々とした人柄ととぼけた表情のベテランなればこそです。このため、落語の名人たちに好まれ、独演会などではその前座をよくつとめていました。

 カウボーイのネタ以外には、『金色夜叉』の貫一とお宮の別れの場面を一人で演じるネタが何とも珍妙で人気でした。もう一つ有名だったのが、聖徳太子のものまねです。有名な肖像を真似るために、白いワイシャツ姿で黒い冠のようなものをかぶってヒゲをつけ、笏めいたものを手にするだけですが、最後にサービスとして、一万円札を拡大して肖像の部分をくりぬいたものを持ち出し、そこから顔を出すという演出になっていました。

 そうしたゆる~い芸がおさめられているDVDの表紙がこちらです。上述の講演会の際は、DVDの中身を動画でなく画像で少しだけお見せしましたが、販売しているNHKソフトウェアに事前に連絡し、学術利用ということで許可を得ておきました。



 波多野については、相撲取りから演芸評論に転じた小島貞二が聞き取りによる伝記、『ぼくの人生、百面相―波多野栄一芸界私史』(学芸書林、1991年)を出しています。他には、晩年の味のある芸が魅力的だったため、内海隆一郎が老齢の波多野夫婦とその娘夫婦をモデルにした小説、『百面相』(講談社、1995年)を書いており、また芸人を扱った吉川潮の短編小説集、『本牧亭の鳶』(新潮社、2001年)のうち、「カラスの死に場」は、最晩年の波多野が舞台で演じながら死のうとしてうまくいかない様子を描いています。

 波多野は、浅草での活動が出発点だったため、『今昔浅草物語 附東京風物詩 』と言う本を私家版で1971年に出し、その当時の浅草の状況を描いています。意外な事実が多く書かれており、参考になります。

 あと、ものまねではないものの、聖徳太子をネタにしている有名な例では、ナイツの「言い間違いによる日本史」ネタがありますね。ナイツの独演会にもしばらく行けていないのは残念です。私の願いとしては、新撰組に関するネタが面白いラバーガールに聖徳太子ネタもやってもらいたいところです。

【付記:2021年4月25日】
波多野は洒落た芸人だったため、『風流艶笑一夕話』という艶笑ジョーク集を出しています。ただ、ガリ版による私家版であって、「波多野栄一篇」とあるのみで、出版社も刊行年月も記されていません。末尾には「あとがき 私の芸歴書」なる2頁の略歴が付されており、最後は「昭和39年6月12日」であり、「神田明神会館にて、舞台生活四十五年起念パーティを開催し、恩師・先輩、友人、百数十余名の来支援を得て盛大に行う」という記事で終わっているため、そのやや後に記念に出したか、当日の引き出物として配ったかですね。
【付記:2021年4月29日】
もう一つ忘れてました。波多野は、昔のいろいろな番付を集め、また自分で作ったりしたものをガリ版で出してます。波多野栄一作並びに編『今昔浮世萬番附』であって、ガリ版の「あとがき」によれば、「昭和六十一年八月盛夏」となっており、近所の新栄印刷さんのご尽力を得たとあります。番付の最後が、「艶笑替唄番附」であるのは、波多野らしくて良いですが、艶笑というより、単なる春歌です。
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