聖徳太子研究の最前線

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指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】

2017年02月23日 | その他
 2月14日に小学校や中学校などの指導要領の改定案が公表され、新聞などでも報道されました。その歴史教科書の改定案を見てみました。文部科学省は、パブリックコメントを受け付けるとのことですので、出しておく予定です。

 報道によれば、文科省の説明としては、聖徳太子という名は没後になって使われるようになったため、歴史学で一般的に用いられている「厩戸王(うまやどのおう)」との併記の形とし、人物に親しむ段階である小学校では「聖徳太子(厩戸王<うまやどのおう>)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」とする由。

 これは奇妙な話ですね。後代の呼び方はいけないのであれば、天皇の漢字諡號は奈良時代になって定められたのですから、欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになります。さらに重要なのは、奈良時代から用いられて定着した漢字諡號と違い、「厩戸王」という言葉は、使われた証拠がまったくないことでしょう。どの時代の史料にも見えません。

 「聖徳太子」という名は、現存史料による限りでは、奈良中期の『懐風藻』の序に見えるのが最初であり、生前に用いられていたことを示す資料はないのは事実です。聖徳太子という名称を用いると、後代の伝説化されたイメージが強くなりすぎるという懸念はあるでしょう。

 しかし、「厩戸王」はもっと問題があるのです。このブログで何度も書き(こちら)、拙著『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、2016年)でも強調したように、「厩戸王」というのは、良心的な研究者であった広島大学の小倉豊文氏が、戦後になってから後代のイメージに縛られずに研究するために仮に用いた名であって、史料にはまったく見えない名だからです。これを実名であるかのように扱うのは不適切です。あるいは、これは史料に見えない仮の呼び方だと説明するのでしょうか。

 『聖徳太子-厩戸王とその時代-』という題名で人間としての聖徳太子を描く本をまとめようと苦闘した小倉氏は、「私は『厩戸王』というのが生前の称呼ではなかったかと思いますが、ここには論証を省略」します(『聖徳太子と聖徳太子信仰』、綜芸舎、1963年、22頁)と書いたものの、その本は断念し、論証できないまま亡くなりました。

 ところが、この翌年、九州大学の田村円澄氏が『聖徳太子』(中央公論社、1964年)を刊行し、冒頭の「生いたち」という章の最初に「厩戸王」という一節を設けました。史料の根拠を示さずにこの名を用いたのです。末尾の参考文献には小倉氏の上の本も記されています。田村氏のこの著書は、入手しやすい中公新書であったこともあってロングセラーとなり、歴史学者や一般の人を含め、多くの読者を得ました。

 以後、田村氏は、実在人物としては厩戸王、信仰の対象としては聖徳太子というように、名を使い分けるようになっていきます。むろん、論証はしていません。このため、史料に厳密な学者はこの「厩戸王」という名称は用いないようです。

 しかし、この仮の名がいつのまにか世間に広まり、史学者の中にも聖徳太子の実名は厩戸王だと思い込む人が出てきました。その代表が、聖徳太子不在説の大山誠一氏です。大山氏は、「聖徳太子はいなかった。実在していてそのモデルになったのは、ぱっとしない王族で勢力がなかった厩戸王だ」という趣旨のセンセーショナルな議論を展開し、マスコミで話題になったわけです。大山氏は、著書の中で「本名は厩戸王」と明言し、「うまやどおう」というルビを付しています。

 指導要領改定案もう一つの問題点は、「厩戸王」の訓みを「うまやどのおう」としていることです。しかし、「厩戸」の語については、当時の漢字発音としては「うまやと」と清音で訓まれていたことが知られています。また、『日本書紀』の古訓では、「~王」という人名は「~のみこ」とか「~のおおきみ」と訓まれています。

 ですから、現在の高校の日本史の教科書の中には、「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記し、慣用音も考慮して「うまやと(ど)のみこ」というルビを付けているものもあるのです。これが無難な表記でしょう。

 「上宮王」の場合、「かみつみやのみこ」が普通であって、漢字音で訓むなら「じょうぐうおう」でしょう。史実を重視したというなら、六世紀の末から七世紀初めにかけて、「うまやど + おう」といった湯桶読みの例、それも「の」を入れて「~のおう」とした例があるのか知りたいものです。そもそも、「厩戸王」という言い方をしている史料が無いわけですが。

 なお、聖徳太子の真実の姿を追い求め、客観的に研究しようとしていた小倉氏は、文献批判を行って太子に関する不確かな伝説を否定していたものの、太子を過度に凡人扱いしたり過度に神格化したりする傾向には反対していました。

 このため、太子が天皇絶対主義の元祖として尊崇されていた戦時中に、しかも太子の国家主義的利用を推し進めていた文部省主催の研究会で、そのことを勇気をもって明言したのです。私は小倉氏のこうした姿勢に共感しており、氏を尊敬しているため、拙著の冒頭に小倉氏のその言葉を掲げました。

「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」(小倉豊文)

【訂正:2017年2月24日】
「厩戸王」の語は、いかなる資料にも見えないと書きましたが、『甲斐国志』巻四八に見える由(こちら)。ご指摘、ありがとうございます。江戸後期の編纂ですね。となると、近世以前の著名な文献の用例は知られていない、と書くべきだったか。

【追加:2017年3月9日】
「廐戸皇子」の「皇」は律令制以後の呼称だから避けたいものの、大山説に賛成しているように思われても困るためか、「厩戸王」でなく「廐戸王子」という呼び方をする研究者もいますが、賛成できません。これも資料に見えない名だからです。こうした呼び方については、刊行されたばかりの北康宏『日本古代君主制成立史の研究』(塙書房、2017年2月)も、混乱をひきおこすとして反対しています(533頁)。北氏のこの研究書は有益な考察を多く含むため、近いうちにブログ記事でとりあげましょう。

【追加2:2017年3月10日。13日少し訂正】
 3月8日に、国会でこの問題が取り上げられ、民進党の笠議員が質問したところ、松野文部科学大臣は「日本書紀や古事記において、厩戸王などと表記されていることに触れ、聖徳太子についての史実をしっかりと学ぶことを重視している」と説明した由。大臣自身の判断でなく、文科省の事務方が用意した原稿に基づいて答弁したのであれば、その人たちも「厩戸王」という語が『日本書紀』や『古事記』に出てこないことを知らなかったということになります。質問した議員もそうした答弁を批判しなかったそうですので、知らないんでしょう。むろん、事実誤認を報じなかったマスコミも……。
 聖徳太子に対する評価は人それぞれですので意見が異なって当然ですが、「厩戸王」という名は古代の主要な史料に見えないということは、単純な事実問題です。

【追加:2017年3月20日。21日さらに追加】
 本日、文科省は「厩戸王」は用いずに聖徳太子に戻す方向で検討中という記事が産経新聞と朝日新聞の朝刊で報じられました。厩戸王という名は古代の主要資料には見えないという点を報じたのは、私に取材してその談話という形で掲載した産経新聞だけであり、これはこの事実をマスコミが報じた最初です(新聞に載った最初は、拙著の刊行をきっかけとして依頼され、2016年3月12日の読売新聞夕刊に「聖徳太子 史料検討の不足」と題して掲載された私のエッセイ。ラジオでは、8月7日(日)のNHKラジオ第2「宗教の時間」8:30~9:00で語りました)。
 このところ、他にも新聞・テレビ数社の取材を受けましたが、どこもこの問題に触れないのが不思議でした。産経新聞の記事は短いながら、聖徳太子論争はなぜ熱くなるのかに関する私の意見についても紹介しており、私の意図をくんだ記事となっています。私の本やブログを読んだうえで取材し、まとめたためでしょう。ただ、紙面の都合で記事をかなり略抄したようであるため、聖徳太子が日本ないし日本人のアイデンティティになっているという部分は、誤解を招くかもしれません。私は「だから聖徳太子の名を守れ」と主張しているのではなく、そうした主張は戦前の国家主義的聖徳太子観に戻る危険性のあるものと見ており、むしろ懸念しているのす。
 今回の指導要領案の方針変換については、文科省は明言していないようですが、事実を指摘した私のパブリックコメント、そして東京大学インド学仏教学研究室の下田正弘教授を初め、私の主張を支持してコメントを出してくださった研究者の方々のコメントの影響が大きかったものと考えています。
 ただ、私はあくまでも客観的な事実を指摘しただけであって、今後もそうした立場で研究を続けていくつもりです。私は、聖徳太子は優秀な人物であって生前から神格化され始めていたと考えていますが、『日本書紀』のすべての太子関連記述を事実として認めているわけではありませんし、このブログの「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」シリーズ(こちら)でとりあげた超国家主義者たちのような狂信的で危険な聖徳太子礼賛をやる気はまったくありません。
 産経新聞の記事にあったように、私は、聖徳太子論争が熱くなるのは日本ないし日本人のアイデンティティと関わっているためであることを指摘してきましたが、これは警告でもあります。過去の聖徳太子観の変遷の歴史を学ばないと、昭和初期と同じように自分に都合の良いイメージを聖徳太子に投影し、それを日本や日本人のアイデンティティと同一視して深刻な問題を招く危険性があります。
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