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四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(1)

2011年07月05日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収の諸論文のうち、このブログで最初に取り上げるのは、古代の氏族などに関する研究書を多く著しておられ、幅広い史料調査に基づく堅実な学風で知られる加藤氏の論考、

加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」

です。

 加藤氏は1989年の論文では、14歳であった聖徳太子の誓願に基づくとする『日本書紀』の守屋合戦記事は、四天王寺側が「我が寺は飛鳥寺と同等、ないしそれ以上の由緒を持つのだ」と主張するために、蘇我氏と物部氏の政治抗争による武力衝突であった守屋合戦に宗教的意義を付したもの、と論じていました。今回は、その論文以後の考古学的研究の進展の紹介から始めています。

 以前は、四天王寺の創建瓦と若草伽藍の創建瓦は同時期のものとされていましたが、若草伽藍の創建瓦は、実際には飛鳥寺の瓦を作るために用いられた瓦当笵(作成用の木型)が、その造営が一段落した頃に豊浦寺に移され、さらに若草伽藍の工房にもたらされたものでした。ついで、その若草伽藍の工房で二次的な軒丸瓦の瓦当笵が作成され、それが繰り返し用いられて笵崩れが生じた段階で、大阪府枚方の楠葉・平野山窯に運ばれ、そこで四天王寺の瓦を焼いたことが明らかになったのです。

 つまり、四天王寺は若草伽藍(斑鳩寺)より創建が遅かったのですが、加藤氏は、その創建時期に関して考古学では二つの対立する説があることを紹介します。まず、佐藤隆「四天王寺の創建年代」(『大阪の歴史と文化財』3号、1999年7月)は、楠葉・平野山窯では時代がやや遅れる須恵器が四天王寺創建瓦とともに出土していることから見て、四天王寺金堂は7世紀第II四半世紀の造営としています。仮に630年あたりに建立を開始したとすれば、舒明天皇の代に造営が始まったことになります。

 一方、網伸也「古代寺院の創建と瓦陶兼業窯」(『あまのともしび』2000年)は、楠葉・平野山窯は若草伽藍の瓦当笵を用いて四天王寺の瓦を焼くことを主な目的として開かれ、その仕事が一段落してから須恵器も並行して焼くようになったのであろうから、四天王寺金堂は7世紀第I四半世紀に造営を始めたと見て良いとしています。
 
 四天王寺は最初は玉造に建立され、後に現在の地に移ったとする伝承を平安期の成立として否定し、四天王寺創建の時期を下げて考える加藤氏は、佐藤説に従うべきだとしますが、その際、注目するのが、『書紀』推古31年(623)の記事です。難波を中心とし、朝鮮との対外交渉を行うために組織され、難波に対外用施設を複数有していた難波吉士氏に属する吉士磐金と吉士倉下が、新羅使をともなってこの年の7月に帰国した際、新羅使が献上した仏像は秦寺に、舎利・金塔・灌頂幡は四天王寺に納められ、その同じ船で大唐学問僧の恵光なども新羅経由で帰国したとある有名な記事ですね。

 『大同縁起』と呼ばれる四天王寺資財帳の逸文では、四天王寺の金堂には、その恵光が唐よりもたらした阿弥陀三尊が安置されていたと記されています。福山敏男は、創建時の四天王寺はその仏を本尊としていたと推測しており、加藤氏はそれに賛同します。さらに、加藤氏は、四天王寺は聖徳太子が建立した寺でなく、厩戸の追善のために建てられた難波吉士氏の寺だったとする田村圓澄説を紹介し、そのように「考えることも可能である」と評価します(加藤氏自身は田村説や大山説の「厩戸王」でなく、「厩戸王子」という呼称を用いていますので、ここではそれに従います)。

 ただ、加藤氏はその後で、新羅と厩戸王子との関係を強調して四天王寺は新羅系の難波吉士氏の氏寺だとする田村説を訂正し、難波吉士氏は新羅でなく加耶系の渡来人であることを指摘します。さらに氏は、『広隆寺縁起』によれば、推古30年に「聖徳太子の奉為」に秦河勝が建立したとされる広隆寺(秦寺)も、四天王寺と同じ頃に同じような経緯で創建されたとされているものの、そうした両寺に仏像や仏具が納められたのは、日本との関係改善を狙う新羅王が政治的な意図で贈呈したものが「厩戸王子の追善」という名目で納入されたにすぎず、「両寺の創建は、本質的には厩戸王子と関わりがないと解すべきである」と説いています。

 加藤氏は、四天王寺が位置する難波の郡領の地位を難波吉士系が独占していたこと、四天王寺で飛鳥瓦が多量に出土したのは塔・金堂の周辺と中門であって、回廊や講堂の建造は7世紀後半とされていることから、四天王寺は難波吉士氏の寺であって、「大化前代から渉外用の施設とタイアップする形で、宗教施設として准官寺的な寺院」であったものが、乙巳の変によって寺の性格が変わったと見ます。

 孝徳天皇の4年(648)に大臣であった阿倍倉梯麻呂が四天王像などを安置して大がかりな法会を催しているうえ、斉明天皇の崩後にさらに四天王像が安置され、伽藍が整備されている点から見て、対外関係が厳しかった7世紀半ばあたりから四天王信仰が高まり、難波吉士氏の寺でも「四天王寺」という名称と性格が形成されたのであって、大化期以降は「官寺的要素の強い寺院と位置づけることができる」と説くのです。

 そして、新羅との関係が変わって難波吉士氏の活動が不要になるにつれ、同祖とされて難波吉士氏と関係のあった阿倍倉梯麻呂が四天王寺の外護役となっていったのであって、阿倍氏自体の氏寺も四天王寺の近辺にあったことなどを明らかにしていきます。

 このように、四天王寺の初期の姿とそれを支えた勢力がこれまで以上に明らかにされており、すぐれた研究として評価できます。ただ、四天王寺は「本質的には厩戸王子と関わりがない」とする点については、やや論証が弱いのではないでしょうか。
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