千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

指揮者・大野和士が語る音楽の本質

2005-10-05 23:24:18 | Classic
大野和士という1960年生まれの日本人指揮者がいる。78年に東京芸術大学に入学後、ミュンヘンに留学し、87年アルトゥール・トスカニーニ国際指揮者コンクール優勝後、ザブレグ・フィルの常任指揮者コンクールに就任。その後順調に音楽暦を重ね、日本人が苦手とするオペラの指揮を評価され、現在ベルギー王立歌劇場の音楽監督である。こんな華麗なる王子のような彼を語るもっとも有名でわかりやすいエピソードが、幼稚園児の頃からの将来の夢が「しきしゃ」という可愛らしいお話である。

閑話休題。
今週号の「週刊文春」に、「ホワイトバンドは正義か偽善か」という主催者と反対派の弁護士の対談が掲載されている。ざっと目を通しただけでも、益々不透明さが増すばかりである。それはともかくとしてこのキャンペーンに当初より疑問に感じていたのが、ホワイトバンドをつけることによって(購入でなく)、人々に世界には1日1ドル以下で暮らす最貧困層の人間がいるということを知って欲しいという趣旨だ。啓蒙活動ではないと主催者側は断っているが、そもそもこのようなキャンペーンに莫大なる広告活動費を先進国に貢いで宣伝されて、はじめて私たちは知ることなのだろうか。自分たちの繁栄が、実はこうした最貧国の人々の生活を土台にして成り立っていることを理解するのに、リッチな有名人を起用した広告で興味をひかれなけらば関心をもたないのだろうか。・・・ほんの小さな感受性さえあれば、この地球上の同じ人間として貧しい国の人々を共感性をもって感じることができる、そう私は考えるのだが。たとえば良い演奏会でこころゆくまで、音楽を堪能して感動した時こそ、”ほっとけない貧しさ”をある種のうしろめたさとともに考えてしまう。

「AERA」の「現代の肖像」コーナーで、上記の大野和士を江川紹子がインタビューしていた。彼の印象は、いかにも指揮者らしいカリスマ性を予感させるような超然とした強いまなざしにある。あのリッカルド・ムーティを彷彿させると言えば、なんとなくうなづいていただけるだろうか。けれどもインタビューに答える彼は、納豆と味噌汁、生卵が大好きで、演歌を口ずさむ、意外にも?人情派でもあった。そして彼の語る音楽の本質は、世界を感じる心さえあれば、ホワイトバンドという形になって見える物は不要であることに気がつく。

2003年テレアビブで自爆テロが起こり、24人が負傷、100人以上の人が怪我をした。その直後に大野和士が振った厳戒体制化でのイスラエル・フィルでの演奏会では、3000人収容するホールがいっぱいになった。またある時は、内戦状態を引きずっているクロアチアでの演奏会では、熱気が普段以上に溢れていた。
「人間の尊厳が脅かされた時、人は人間の拠り所として芸術を求めていく。自分が感性をもった人間であることを再確認する。そのためにも音楽はある。」
そう彼は語るのだが、平和で物質的に豊かな日本にいると、音楽に意味合いを実感するまもなく、ある種のアクセサリーになっていると危惧している。

「恵まれた世界は、この地球の中で3分の1だということ、人々が生死の境にある地域はたくさんあって、そのような人たちこそ芸術を必要としている。」
音楽、芸術を感受できる人がいる一方、そのような世界が存在することすらも気がつかずに、また知っていても楽しむ機会のないままに短い命を終える人もいる。だから
「音楽や音楽会は、本当にそれを必要としている人たちからは遠い」

いつの時代にも、人は芸術を必要としていた。その国の伝統と文化にねざした芸術が、人がパンのみで生きる動物ではないことを証明しているが、芸術どころか小さな生活の喜びさえもなく、生命線ぎりぎりのところで生活せざるをえない人生とは、それではいったいなんのための生なのだろうか。

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10 コメント

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高貴なる倫理 (ペトロニウス)
2005-10-06 01:10:15
>”ほっとけない貧しさ”をある種のうしろめたさとともに考えてしまう。



倫理の一番根源は、これだと思います。なんというか「うしろめたさ」。僕は、競争は大好きだし、遊ぶのも大好きです。おいしいものを食べるのも旅行も。。。でも、うしろめたいのです。へんに経済学を学んだせいもあるが(笑)、子供の頃から、何故かそう言う後ろめたさが付きまとっているのです。なんか、もっと正当に、楽しさを思いっきり楽しみたい。



マンガの書評なんかでもわかるかもしれませんが、僕は絶対的な弱者救済の思想に強いシンパシーを感じます。樹衣子さんのおっしゃるとおり、小さな感受性があれば、十分わかることなんだと思います。



・・・にしても、これほどうしろめたさがあって、弱者救済の思想に強いシンパシーがあって、、、、なおかつ子供の頃から共産党的なモノが大嫌いで、経済学は徹底的に小さな政府で古典派とネオリベラリズム支持というのも、自分ですごく矛盾を感じる(笑)。会社でも、コストカッターだもんなぁ(笑)。でも、自助努力をしない人に、生き残る資格がないと思うのもまた事実なのです。自助努力ができないことは許せないが。。。



・・・・樹衣子さんの文章を読んでいて、初めての海外旅行に、一人でバックパッカーでトルコからロンドンまで陸路で放浪したことを思い出しました。トルコのイスタンブールで、スラム街を歩いていたら、小さな女の子が、生ゴミの上で倒れているんです。たぶん、食べ物をあさりに来て、疲れて倒れたんだと思いますが・・・それの表情が完璧に無感動で、その空虚なあきらめきった表情で空を呆然と眺める姿に声もかけられませんでした。。。またその子が、すごいキレイな子で、貧乏に負けない理知的な感じがしたんですよ・・・・僕の思い込みかもしれませんが、それだけに、もし少しのお金と機会があれば、まったく人生が異なったであろうというのがはっきりとわかるだけに、なんだか忘れられなくなりました。



なんというか、「あきらめ」の虚無感が、これほどせつないものに感じたのは、このときが初めてで、人生に希望がないことのせつなさ、そして、それに対して無力な自分のやるせなさは、今でも強烈に覚えています。。。
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Unknown (yuta)
2005-10-06 04:28:48
こんばんわ。

この記事で取り上げられている週刊文春が気になって、いま立ち読みしてきたところなのですが(笑)、次原悦子さんとWBPに非常に好意的な見方をするならば、「日本のNGO活動の文化が非常に立ち遅れているために明示的な情報開示ができていない。それゆえに「日本のWB運動はおかしい」という批判だ」ということだと思いました。英国のように「WBは購入する必要はない」、「寄付金をどのNGOに寄付するか選択できる」という方式は日本の事情からしてできなかった、と。(もっとも、NGOは政治的に利用される存在だ、という次元になるとまた話は違ってくるんですが。)



結局のところ、「ほっとけない貧しさ」に対する意思表示を第三者の手に仮託する、というチャリティー目的でのホワイトバンド購入、という態度に問題があるのですね、きっと。ボランティアではなく政治運動としてコミットする覚悟のあるひとだけが、白い布を手に巻く資格があるはずなのに。そのずれがこの騒動の問題なので、私は一方的にWBPの団体側だけを批判することはできません。WBを買った私の問題でもあります。



長くなってごめんなさい。

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業務連絡 (樹衣子)
2005-10-07 00:27:04
>長くなってごめんなさい



いえいえとんでもないです。多分、私のコメントの方がもっと長くなります。

というわけで、おふたりへのコメントは明日打ち返します。申し訳ないです。(夜更かし禁止の家訓なもんで)



その前に、弊ブログでyutaさんの話題がちょこっと出ているのをご存知でしょうか。「サッカーくじ~」のところです。

内緒にしておこうと思いましたが、やっぱりうちあけとこっと。
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長い・・・ (ペトロニウス)
2005-10-07 23:05:15
yutaさん、、、貴兄が長いといったならば、僕なんかブログあらしですよ(笑)。でも大丈夫、このブログはきっとそのような長さも寛大に受け入れてくれると信じています(笑)。



樹衣子さんへ



寝不足は良くないですよ、まじで(笑)。最近、さすがに疲れてきたです。でも、書きたいんだよなー。推敲するヒマはないし、熟成も出来ないけど、人の反応はとても面白いのです。
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長くなりますが (樹衣子)
2005-10-08 00:01:01
我田引水的な内容は避けるべし、と決めつつも近寄り難い印象だった大野和士さんのお話に感動し、考えたことですが



>小さな感受性があれば、十分わかることなんだと

毎度の私の口癖で申し訳ないのですが、一番言いたかったことがそこなのです。対象は音楽でなくても、スポーツでも、自然でも漫画でもよいのです。大事なことは、そんな小さな感じる心と積み重ねなのですね。



>なんというか「うしろめたさ」

こどもから大人に成長するにつれ、関心の対象や範囲も広がりっていきます。やがて世の中の残酷さや矛盾、にもかかわらず混沌とした美しさにも気がつきます。その時に感じる、たまたま平和で先進国に住む自分の生活が、貧しい国の人々を踏み台にして成り立っていることを多少なりとも知らざるをえない、いえ知るべきなのです。先日、ペトロニウスさまがこのような欧米人のボランティア活動をルターの時代から求めている”免罪符”と表現していましたよね。私が感じるこの「うしろめたさ」こそ、自分にとっての”免罪符”かもしれないと考え始め、更にそこからまた「うしろめたさ」を感じるという堂々めぐりにおちています。しかも、もう老後こそ別の活動をして社会に貢献したい、というもうひとつの”免罪符”まではりつけて。

結局、なにも行動がないからというのもあるのでしょう。なかなか考えさせられます。



>経済学は徹底的に小さな政府で古典派とネオリベラリズム支持というのも、自分ですごく矛盾を感じる

私も市場主義社会を好ましいと思っていますし、ブランドもののバッグは特別欲しいとは思いませんが、演奏会の日はワインとちょっと美味しい料理、雰囲気にふさわしく礼儀にもかなった上品な服装で音楽を楽しみたい、やっぱり欧米流にそまっています。うしろめたさを感じながらも、”自分”はひとときの時間を楽しめる時代と国に生まれてよかった、とつくづく思います。これも矛盾なのです。でも、それでよいのだと思うのです。その複雑さこそが、人間の魅力ではないでしょうか。



>小さな女の子が、生ゴミの上で倒れているんです

5年ほど前でしょうか、新聞で見た写真が、やはりゴミ箱のそばで眠っている8歳ぐらいのブラジルの女の子の写真です。こうした捨てられた子どもたちが街にたくさんいるとのロイターの記事がのっていました。今でも鮮明に覚えています。やっぱり忘れることができないのです。一番良い服を着せられて捨てられたのでしょうか、小公女のような綺麗な服装(でも少し薄汚れている)で、風にゴミが舞っているなかで実に安らかに眠る女の子が、やっぱり愛らしい顔立ちなのです。だからこそ、この女の子を被写体に選んだカメラマンの計算を感じましたが、現代版マッチ売りの少女のような姿に、衝撃を受けました。

おそらく目の前で、倒れている女の子をご覧になった時のペトロニウスさまの印象は、私以上に強烈だったと察します。



>人生に希望がないことのせつなさ、そして、それに対して無力な自分のやるせなさ

それは理解できます。貧困は、今世紀、撲滅すべき重要課題なのですね。
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免罪符 (ペトロニウス)
2005-10-08 00:32:08
>先日、ペトロニウスさまがこのような欧米人のボランティア活動をルターの時代から求めている”免罪符”と表現していましたよね。



先日、ひさしぶりにニーチェを読んだのですが、このキリスト教的原罪の意識から免罪符を求める意識を斬って捨てた明快な断定を見て、なかなか考えさせられました(苦笑)。



つまらない?原罪意識なら捨ててしまえ。そして、価値創造できるように積極的に生きろ・・・と。そんなふうに読んでしましました。。。。



でも、そうも思い切れないんですよねぇ(笑)。免罪符、原罪、、、うしろめたさ、、、なんか、ホワイトバンド以来、無視していたことをいろいろ考えさせられます。これがブログの良さなのかもしれませんが、、、貴ブログような場所に出会えたせいもあるのでしょうね。
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yutaさまへ (樹衣子)
2005-10-08 00:33:08
以前、弊ブログでホワイト・バンドをつけていた俳優の佐藤浩市に感動したとおっしゃていましたよね。私は俳優としても、インタビュー記事を読んでも、人間的な厚みと中年の色気のある佐藤浩市さんを好ましいと思っています。



>WBを買った私の問題でもあります

それにホワイト・バンドをつけている方を非難する気持ちもありません。それは純粋な善意からの”行動”なのです。それをとやかく言えるものではありません。



>政治運動としてコミットする覚悟のあるひとだけが、白い布を手に巻く資格がある

そこまでの”覚悟”と”資格”を求めるというのも、本来の運動目的から遠ざかります。

ただふにおちなかったのが、大事な目的に使われるはずのお金よりも、宣伝活動費の方が何故か2倍です。主催者もたまたまということですが、PR会社で出演者も自分の事務所専属の人間。会計も不明瞭、目的も明確ではない、、などです。それに気になったのが、次原悦子さんが使っていた「啓蒙活動」という言葉です。この啓蒙という言葉には、上から人民を啓発するといようなニュアンスを感じます。このような教えるもの、教えられるものという関係は、運動の主旨から考えるとふさわしくないです。



「ほっとけない貧しさ」は、ホワイトバンドを購入する、しない、運動に賛同する、しないに関わらず、世界の貧困に気がつくべきなのでしょう。大事なことは、自ら世界に関心をもつこと、それを言いたかったのです。



日本のNGOの活動は、欧米並みのスマートさや合理性に欠けるようなことを、次原さんは嘆いてらっしゃいましたね。そのお手伝いをしてさしあげたいと。こうしてNGOの活動もだんだんプロフェッショナル集団になっていくのでしょう。けれども一番大切な活動の主旨と気持ちが、お仕事的なルーティンワークで沈まないことを願います。
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Unknown (yuta)
2005-10-08 00:52:51
>>政治運動としてコミットする覚悟のあるひとだけが、白い布を手に巻く資格がある

そこまでの”覚悟”と”資格”を求めるというのも、本来の運動目的から遠ざかります。



すみません。「政治運動」という言葉で言いたかったのは、ひとりひとりが現状についての意識を持つ、ということです。とくに具体的な「運動」に参加しろ、という意味で言ったのではないのです。(欧米のlive8に参加した観客は、参加という行為で、意思の表明ができたのだと思います。)



>「ほっとけない貧しさ」は、ホワイトバンドを購入する、しない、運動に賛同する、しないに関わらず、世界の貧困に気がつくべきなのでしょう。大事なことは、自ら世界に関心をもつこと、それを言いたかったのです。



私が言いたかったのも、まさにそのことで、WBを購入する=募金活動を済ませた、という風に考えて終わって欲しくない、と思うのです。



>こうしてNGOの活動もだんだんプロフェッショナル集団になっていくのでしょう。



世間の「貧困」への意識の高まりと、NGO活動の成熟、の両面があって、日本の貧困問題に対するかかわりが今後前進するのだと思います。

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Unknown (ヒロコ)
2005-10-09 13:54:32
>平和で物質的に豊かな日本にいると、音楽に意味合いを実感するまもなく、ある種のアクセサリーになっていると危惧している。



この言葉、そっくり小泉首相に捧げたいと思います。TVニュースで首相がオペラ鑑賞や、きょうもエンリオ・モリコーネ氏(映画音楽だけど)のコンサートに出かけたことが報道されていました。この人にこそ<「音楽や音楽会は、本当にそれを必要としている人たちからは遠い」>ことを考えて欲しいのだけど、無理でしょうね。
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たくさんのコメントをありがとうございます (樹衣子)
2005-10-10 22:35:54
yutaさまへ



>世間の「貧困」への意識の高まりと、NGO活動の成熟、の両面があって、日本の貧困問題に対するかかわりが今後前進する

この”世間”というのが、大事ですね。一部の関心のあるもののみが考えていくことでなく、誰もが少しでも貧困の実態を理解し、一緒に撲滅へと模索していこうという考え、きっと今回のホワイトバンドの一番のメッセージは、そこではないかと思います。あまりにも今まで殆どの日本人は、関心が低かったです。



hirokoさまへ



小泉首相をお嫌いなのですね。(笑)

私は以前、サントリーホールで小泉首相をお見かけしたことがあります。林真理子さんが惚れているように、実際素適な紳士でしたけれど。

小泉さんはG8でも援助資金を増額するとの声明をだしましたが、それは国家としての話しで、この方自身には弱者への思いやりが欠けている方というのが私の印象です。音楽に感動する首相を好ましく思う部分もありますが、極論するとその感性は権力者がワグナーを好む姿に重なる部分を思い出させます。権力者にはこのような美しいものに感動する感情が、ときとして自己陶酔に向かい、ひとりひとりの市井の人々の生活まで思い至れないことは、残念ながら往々にしてあるものです。
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