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「ケネディ」-「神話」と実像 土田宏著

2008-07-17 22:57:38 | Book
1963年11月22日、この日は米国民にとって自由と民主主義が銃声とともに破壊された悲劇の日となった。アメリカ合衆国の若き第35代大統領J・F・ケネディが暗殺された。

ケネディの時代に生きた人も、彼を歴史上の大統領としてしか知らない若い世代にも、そして日本人の中にも、彼の中に青年期の米国の理想と希望を見る人々が多くいる。私自身も、そのひとりと言ってもよい。著者の土田宏氏は、ケネディの人生と暗殺事件と常に向き合う生活を送るうちに、いつしか研究者となっていた。。ケネディは、まるで大統領になるために生まれたような人。リベラリストで、夢は見るものではなく叶えるものと説いた人。冷戦時代のキューバー危機をのりこえた決断する能力と勇気を備えた政治家。10年以内に月に宇宙飛行士をおくりこみ、帰還させる計画を宣言して、実現させたひと。そして、女性関係も英雄にふさわしく華やかだった。今も尚、多くの謎を残した暗殺事件とともに、ケネディ像はなかば歴史のなかに「神格化」されているが、本書は、幼少時からの病気との戦いから、政治家としての時代との戦いまで、その実像を紹介したJ・F・ケネディ入門書である。

アイルランド出身の裕福な資産家のカトリック信者らしく子沢山の家庭に生まれ、ハーバード大学を卒業。しかし、私の知らなかった、しかも意外なケネディの素顔を知ることとなった。

その1・・・ケネディは長男だと思っていたが、実は次男だった。
2歳年上の父と同じ名前の長男ジョセフ2世(ジョー)は、よくある話だが父にとっては特別な期待の星だった。誕生直後から、ハーバード大学からボストン市長、もしくはマサチューセッツ州知事にさせ、ゆくゆくは大統領になるという人生のレールがしかれていた。2番になることは意味がない。常にトップで勝つことを求められたジョーは、この期待にこたえ、名門校でも学業・運動ともに飛びぬけて優秀な成績を誇る自慢の息子だったのだが、戦死した。この後、父の夢を継ぐ大役は、ションにまわった。長男を特別扱いする家庭環境において、年の離れた三男ほど気楽ではなかった次男という立場のジョンは、ある意味、兄のスペアであり、一番しかゆるさなかった強烈な父は、彼に関心がうすかったと思われる。長男がもし戦死しなかったら、ホワイト・ハウスの椅子に座ったのはジョーだったと私は考える。

その2・・・ケネディは、病弱だった。
大統領選挙を勝ち抜くだけでも、常人以上のタフな神経と体力が必要だし、PTボートの指揮官時代の活躍で「太平洋の英雄」になった経緯もあり、ケネディは健康的でタフなイメージをもっていたが、幼い頃から病弱で入退院をくりかえし、何度も死の淵をさまよったことがあった。当時、服用した薬の副作用で生涯激しい腰痛に悩まされ続けた。このような体験も、辛抱強いケネディの資質をつくる要素になったかとも思う。

その3・・・一丸となってケネディの選挙戦を支えた一族であるが、幼い頃から両親の仲は不和であり、夫婦愛は冷めていた。
なんと言っても、元々の能力が高いのだが、若い頃から向上心にあふれ、闘争心や出世欲もあり、金儲けも上手だった父の存在が大きい。家族にも競争相手に勝つことを強いる夫と、敬虔なカソリック信者の妻が寄り添うのは難しいだろう。けれども、彼はそんな父に対立しても、政治生命をかけても守るべき自分があり、自分自身で考え、自分自身で結論するのを理想とする新しいタイプの政治家だった。

本書を読みとおし、病弱で長男にいつも負かされていたジョンが、大統領への道を歩んだ軌跡は、資質的に当然なようで、実は苦難に満ちた危うい道すじだったことがわかった。それでも、彼は大統領になった。それは、父の夢を実現するためでもあったが、ただひたすら自らの理想を追い求めた努力の果実だった。大統領として活躍していた1000日、ベルリンやアイルランドを訪問した時、彼の演説に熱狂する群集の写真が雄弁に政治家として人としての魅力を語る。真の意味でのカリスマ性とオーラに包まれた人だったのだろう。
そして、運命の日。今では、誰ひとりオズワルドが暗殺犯だと考えていないだろうが、著者は真犯人を実名であげている。この推理が真相をついているのか、結局、今となっては永遠にその解答を誰もみることができない。そのことが、ケネディ暗殺が残した米国への深い傷と痛みを想像される。また、ケネディを語る時に何度も繰り返される暗殺シーン。妻のジャッキーが後部座席に異動して、夫の飛び散った脳を無意識に拾う映像。ここには、個人の尊厳はない。ケネディの政治家としての人生も、むなしく悲劇の銃弾が主役となってしまった。

いや、やはり、私たちが記憶に残したいこと、残すべきことは、1961年1月20日の大統領就任時の演説であろう。彼は氷点下5度の厳寒のなか、コートを脱いで母親の家に伝わる聖書に手をおき、憲法に規定された宣誓を読み上げ、そして語った。

「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。」

大統領就任公式行事の前日、ワシントンDCは朝から雪が降り積もっていた。しかし、降り積もる雪とは対照的にジョンの表情はあかるかったという。


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