パソコン教室きらく館教室日記

教室での出来事や塾長の生活を綴ってみます

ウォーキング日記 2022/08/23

2022-08-24 14:38:11 | 塾長の生活
夏の日中の暑さもそろそろ峠を越すかと思われますが、今日の朝はいつものさわやかさと程遠く湿気がへばりつく不快さを感じながら歩いています。
 
花も夏の暑さに少しまいっているのか勢いがありません。
 
それでも紫系やそれに近い色の花たちが行く人々に残暑を告げているようです。
 
野牡丹                                    瑠璃茉莉(ルリマツリ)
  
 
ルリマツリとルドベキア         シコンノボタン             柳葉るいら草
  
 
アメリカンフヨウ            ノウゼンカズラ              ゴールデンカンナ
  
 
クレオメ                ニチニチソウ              ツルニチニチソウ
  
 
百日草                ランタナ
 




ウォーキング日記 2022/08/18

2022-08-18 15:47:36 | 塾長の生活
立派な夏の象徴ヒマワリを見ることが少なくなってきました。
明治池中学校道路際柵の内側咲いているヒマワリです。
 
 
千日紅                         ガーベラ
 
 
可憐で優雅な白ユリは様になります。(立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花)
美人に譬えた先人の気持ちが分かりますね。
 
 
                            シュウメイギク(秋明菊)
 

日々の変化ではないが、道端に咲く花は季節を克明に刻んでいます。
 

ウォーキング日記2022/08/13

2022-08-13 16:15:34 | 塾長の生活
暑い盛り、オレンジ色黄色の花が特に印象的です。
 
ルドベキア                       キバナコスモス
 

ルドベキア・ヒルタ                     ルドベキア・ヒルタ
 
 
ルドベキア・ヒルタ                   ルドベキア・ヒルタとアメリカンフヨウ
 
                        
キバナコスモス                     キクイモモドキ
 

ハマナス
 
 
サフランモドキ                       ルリマツリ
 



七回忌を前に亡き妻を偲ぶ(6)

2022-08-10 10:55:53 | 塾長の生活

出雲大社八足門(福岡に住む長男夫婦と朝合流し、出雲大社を参拝)

世界遺産岩見銀山 大久保間歩(2013.10.5)

 

 江戸時代から明治時代にかけて大規模に開発された坑道です。
坑内には江戸時代と推定されている縦横に走る坑道や、明治時代の開発で坑道を拡幅(かくふく)した様子など見ることができます。

 江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安が槍(やり)を持って馬に乗ったままで入ったという伝承から、大久保という間歩名になったといわれています。 坑口付近には、明治時代の再開発の時に敷かれたトロッコの軌道(きどう)跡や削岩機(さくがんき)による採掘の跡が残っています。

 主坑道は坑口から約150m地点で落盤し、坑口から50m地点と約110m地点西に分岐しています。坑内の天井までの高さは最も高いところで約5mを測(はか)り、大規模な坑道であることが分ります。
坑口から約50mのところで、大久保間歩の下部に位置する金生坑道(きんせいこうどう)と連結する明治時代の竪坑(たてこう)・斜坑(しゃこう)があり、坑道の掘さく技術の移り変わりを見ることができます。

 

道の駅キララ多伎                       水木しげるロード(鳥取)


ウォーキング日記 2022/08/07

2022-08-07 09:30:45 | 教室情報
いつもと違うコースを歩いてみました。
住宅地の中、小高い丘に惹かれ上ってみました。
「廿山北古墳」の標識があり、この地の説明がありました。
(この記事の最下部に説明文を載せました)
 
 

 

 

 

廿山北古墳(つづやまきたこふん)は、富田林市の西域にあたる羽曳野丘陵上の標高約130メートルのところにあって、現在の金剛東団地南方の津々山台三丁目に位置しています。
この古墳は、りぼんどおりに接した津々山台2号公園として昭和63年度に保存・整備され古墳公園となっています。造成された区画の中では、ひときわ高く盛り上がっていて、遠くからもよくわかります。
古墳の規模は、一辺約32メートル、高さ約7メートルあって、古墳の形は、二段築成の方墳と考えられます。墳丘上には埴輪(はにわ)や葺石(ふきいし=土留めなどのために並べられた石)などの外部施設はなかったと思われます。また、内部構造や出土遺物についても明らかではありません。もとは、古墳の周囲に小さなため池があって、周濠(しゅうごう)があったことを思わせます。
古墳の築造年代については明らかではありませんが、この古墳の北東約700メートルには、同じ方形の外形をしている宮林古墳(4世紀後半)があることや奈良県明日香村の石舞台古墳(7世紀)と外形が似ていることも年代を考える上で参考になると言えます。
いずれにしても、市内南部の地域に勢力を誇った豪族の墳墓と考えられ、石川谷に存在する古墳の中で、保存・整備され市民の憩いの場として活用されている貴重な文化財です。