仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

地元講演:「栄区のなかの平安京~伝承をめぐる臆説~」

2006-12-07 13:30:00 | 議論の豹韜
○六人衆の道案内シリーズ10(全4回) 主催:六人会
 ・日時:12月2日(土)13時30分~
 ・会場:横浜市栄区本郷地区センター

【11/05】 父ともどもお世話になっている、地元の歴史サークル・六人会の方々の企画です。まだ何も考えていません。ごめんなさい。
【11/19】 ようやく準備を開始しました。その前に書いておかなければならなかった『古代文学』の仕事が終わらず、併行して作業する羽目に陥っています。来週は下にある、『周氏冥通記』をやらなきゃいけませんしね(そういえばここのところ、馬王堆の『黄帝四経』(知泉書館)だの『老子』(東方書店)だの、今までありえなかったような注釈本を手にすることができ、かなり浮かれています。熟読する時間がないのでコレクターと化していますが、早く『五十二病方』もみたい!)。ところで分かりきったことですが、上の話は〈秦氏〉と〈葛原親王〉がキーワード。アカデミックな歴史学の世界では見向きもされないような地域伝承から、地元、山内荘本郷のイマジネールの世界を考えてみたいと思っています。とうぜん、考察は粗っぽくまさに〈臆説〉にすぎないのですが、聴いてくださった方々の目に映る見慣れた景色が、いつもと少し違うようにみえてくる材料を提供できれば幸いです(皇女神社の写真は、HP葛原親王の仮御所よりお借りしました。関係記事・史跡を網羅した資料的価値の高いページです)。なお、主な検討史料は次の一文のみ。
『神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌』公田村条/社(抜粋、神奈川県郷土資料集成12)
皇女御前社 同社東方字台ニアリ。葛原親王ノ皇妃照玉姫ヲ祀ル
里伝ニ云フ、往昔、姫親王ニ従テ東国ニ下リ、本村ニ居リ。天長元年九月二十八日薨ス。今ノ社傍ニ葬ル。里人之ヲ皇ノ御前ノ塚ト云ヒ、又女臈塚トモ云フ。文禄元年壬辰二月朔日、僧信永ナルモノ社ヲ建テ其霊ヲ勧請ス。又姫ノ侍女相模局・大和局ノ二人、姫ノ薨スルニ及ビテ尼トナリ、死後姫ノ塚ノ傍ニ葬リシヲ、同時之ヲ両塚明神ト崇ムト云フ。其塚今猶ホアリ。

【11/27】 葛原親王伝承は、常陸・上野の太守、太宰帥を歴任しているため同地周辺に多いようす。中部の伝承も『続日本後紀』の領地関係記事に基づくもの。千葉は千葉氏、神奈川は鎌倉氏関係が多いですが、『平家物語』や幸若舞に基づく可能性もありますね。しかし、佐賀県に親王後裔を名乗る波多氏がいて、実在の親王家令に土佐大目・秦忌寸福代がいるということは、栄区の伝承から考えると面白い。親王・ヒコホホデミ・豊玉姫を祀る、高山の桂本神社との関係はどうなんだろう。
【12/02】 先ほど、ようやくレジュメを作り終えました。あとはチェックを残すのみ。なんとか間に合いましたね。昨日木曜日の作業で、公田の皇女神社がいかなるものか、やっとある程度の実相を掴むことができました。といっても、創建主体と創建年代の特定は難しいですけどね。やっぱり大庭氏かなあ…。
【12/03】 昨日、一応は講演を終えることができました。ラストは急ピッチで仕上げたのですが、ある程度の結果は出せて安心しています。お集まりの皆さんにも、どうやら喜んでいただけたようですし。結論は、「栄区の皇女神社は、葛原親王を祀っていた御霊神社から派生したものであろう」という単純なもの。鎌倉周辺の御霊社は祇園社の系統とは異なり、主に鎌倉景政を祭神としています。もとは、鎌倉・大庭・梶原・村岡・長尾五氏の祖先=五霊を祀っていたのではないかというのが、『相模国風土記稿』以降の一般的な考え方(最近の樋口州男さんの事典項目も、この説を採用していました)。鎌倉周辺には、藤沢宮前と鎌倉坂ノ下・梶原にありますが(離れたところでは群馬にもあります)、いずれも葛原親王伝承を伴うもので、恐らくは五氏共通の祖先たる親王も合祀していたのでしょう。野口実さんらの研究によると、平氏政権期の相模国武士団は、上総介忠清の代官的存在となっていた大庭景親に掌握されていたようです。現在の栄区を領地としていた須藤経俊は、石橋山の合戦以降、景親と行動を共にし頼朝と敵対していますから、そうした縁から本郷にも御霊社が建てられたのかも知れません(現在は神明社合祀ですが、かつては皇女神社付近、同じ公田村内に立地していました)。では、この御霊社から皇女神社が分かれたのはいつのことでしょうか。また、親王の妃・照玉姫に関わる物語は、どのように生み出されたのでしょうか。手がかりとなるのは、姫が葬られたという上臈塚と、そこから姫の霊魂を勧請して社の神にしたという僧・信永の存在です。塚そのものの実態は不明ですが、御霊社の近くにあるということで、佐賀県東松浦郡の親王塚古墳のように、いつしか親王の墓であるという伝承が生じたとしてもおかしくはありません(「上臈」には「葛」字が含まれており、言葉どおりの意味のほかに、何らかの〈遊び〉がある気もします)。公田は鎌倉街道に接続する要衝のひとつで、廻国修行者の碑もあちこちにみられます。信永がそうした僧侶のひとりであったとすると、浮かび上がってくるのが〈祟りの物語のパターン〉です。かつては信仰を集めた寺社なり偉人の墓なりがやがて衰亡、忘れられた存在になったとき、干害なり水害なり疫病なり、原因不明の災害が発生する。物理的な対抗手段を失った民衆は神仏にすがり、託宣と救済を乞う。それに応えた近隣のシャーマンや廻国の修行僧が、廃絶寸前の寺社、墓の祟りを持ち出し、それを供養し鎮めることで災害が止むと説く…。神田明神の創祀などは、この典型的なパターンですね。『皇国地誌』に載る皇女神社の成立譚に祟りの発生は語られていませんが、塚の死霊を神に昇華させる祭儀が行われたとすれば、何らかの契機を想定した方が自然でしょう。『吾妻鏡』にも祟りや鳴動の記事が載る坂ノ下御霊社の分身ですから、祟りのパターンを介して塚と結び合わされるなかで、葛原親王に関係する神社が誕生したと考えられます(「王の御前社」という別名は、この段階にこそ相応しい名称ではないでしょうか)。文禄元年という年紀が正しいのかどうかは分かりませんが、照玉姫の物語は、このとき以降に生まれてくるものでしょう。現在みることのできる『平家物語』には、葛原親王は系図上の一人物としてしか登場しませんが、千葉氏が『源平闘争録』を生み出したように、鎌倉氏後裔の武家にも独自の祖先神話が存在していた可能性があります。また、室町期に当道座に編成されてゆく平家語りのなかには、葛原親王への信仰が強い地域を訪れた際、期待に応えてオリジナルのエピソードを披露した(即興で創作した)盲僧もあったかも分かりません。「照玉姫」という名称自体、神話に登場する最もポピュラーな女神呼称「玉依姫」や、小栗判官物語の「照手姫」を想像させます。親王の孫平政子が東国下向中に葬られた地を、平の塚ということで「平塚」と呼ぶようになった、という伝承も関係する可能性があります。いずれにしろ照玉姫のエピソードは、中近世の物語り世界との結びつきのなかで誕生した、比較的新しい縁起譚といえるでしょう(また信永による勧請そのものが、何らかの縁起からの創作である可能性も捨てきれません)。
しかし前にも書きましたが、興味深いのは、葛原親王の実在の家令に秦忌寸がおり(葛野付近を本拠としていれば当然のことですが)、彼の末裔を称する戦国武将に松浦の波多氏がいることですね。栄区は、以前から郷土史の世界で話題になっているように、秦氏との関係性が指摘されています。山城国葛野郡と関わりの深い「桂」地名、横穴式石室を持つ七石山古墳群、そして秦川勝の創建と伝える「光明寺縁起」(ウチの寺ですけどね)…。いずれも明確な証拠ではないわけですが、親王の観点からみてゆくと秦氏が浮かび上がってくるから面白い。常陸筑波出身の家令有道(丈部)氏道のように、親王は関係地の在地豪族を家産機関に取り込み、領地経営に役立てていたようですから、ひょっとしたら本郷にも…。また、最近の塩谷菊美さんの研究によれば、神奈川の真宗寺院は荒木門徒系が多いようです(光明寺も含めて)が、同集団には本願寺の『御伝鈔』と異なる親鸞伝が伝承されており、そこに登場する親鸞の妻は九条兼実の娘でなんと「玉日姫」…。これは!とついつい臆測を膨らませてしまいますが、想像力を喚起して史料不足を補うとともに、どこで自分を抑制し踏みとどまるかが、郷土史を研究するうえで大事なことなのでしょうね。
講演終了後、どうしたわけか乗り慣れたバスを乗り間違え、公田周辺(ちょうど皇女神社から御霊社跡地の上あたり)を彷徨うことになったのですが、これは果たして葛原親王のお導きか、ひょっとしてお怒りだったのでしょうか?
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