川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「おしらさま」について考える

2013-02-10 07:43:19 | 映画  音楽 美術など

2月10日(日)晴

今日の午後、妻が「川越あそびの学校」で「おしらさま」について友人たちに話をするそうです。面白いので紹介させてもらいます


 

「おしらさま」について考える  

                   鈴木倫子

わたしは「おしらさま」の実物は見たことがありません。写真などで見ているだけです。それもほとんどが書物のモノクロ図版となっているものなので、実際の大きさや色などもわかりません。一体でもいいから、一度、実物を見たいものだと思ってきました。

(おしらさま 陸前高田市)

おしらさまとは何なのか。民間に古くから伝わる神様のひとつだということは、確かなことです。むかし、民俗学者の柳田国男さんが、 『遠野物語』という本の中でおしらさまにまつわる話を書きました。それは、大略こんな話です。

 昔むかし、ある家で飼っている馬とその家の娘が心を通わせ、とうとう恋仲になった。それを知った父親がとんでもないことだと怒って、馬を殺してしまった。夜になって愛馬が殺され桑の木に吊るされているのを知った娘は、馬の頭を抱きかかえて嘆き悲しんだ。その姿に逆上した父親が馬の首を切り落とすと、首は娘に抱かれたまま天空に飛び上がり、山の彼方に消えてしまった。そしておしらさまになった。おしらさまは桑の木で作られた。

娘と馬の悲しいい恋物語は、丸木俊先生の挿絵で絵本にもなっています。それでわたしは、おしらさまのことを蚕の守り神様だと思ってきました。あそびの学校の斎藤さんから「おしらさまは東北地方だけかと思っていたけど、日高市(埼玉県)でも、最近までおしら講ということをやっていた家があるんだって」と聞いたときも、「おしらさまは蚕の神様だというから、桑畑がたくさんあった日高市でも伝えられていたのかもしれないね」と話したものです。

それがまったくの間違いだということを、つい最近知りました。柳田国男さんは後になって「おしらさま=蚕の神様」説を捨てているんだそうです。その大きな理由は、おしらさま信仰が一番盛んな青森県では桑の木がなく、養蚕も行われていないからだそうです。だからおしらさまを作る木も桑ではなく、桂とか、ほかの木で作るんだそうです。また、これはわたし自身が最近聞いた岩手県の西和賀というところにある村の話ですが、むかし養蚕は行われていたけれども、おしら講はなかったし、おしらさまを祀ってあるのを見たこともないというのです。

それなら一体、おしらさまというのは何なのでしょうか。そもそも木の棒の上の方を削って顔を描き何枚も布を着せかけた神様をなんで「おしらさま」と呼んでいるんでしょう。柳田さんも、もう一人の有名な折口信夫さんも、おしらさまが人形の原型であるというところまではつきつめたけれど、呼称がどういうところに由来するものなのかということについては、解き明かしきれなかったそうです。

哲学者、宗教学者であり、日本学研究者でもある梅原猛さんの『日本の深層』という本を読んでいたら、おしらさまのことが書いてありました。それは「目からうろこが落ちる」ようなことでした。梅原さんが書いていることは、大略次のようなことです。

 アイヌの人たちがお祀りしている神様のひとつに「シランパカムイ」という神様がある。この神様は人間に一番近いところにいる神様なので、ほかのいろいろな神様への願いも聞いて、その神様のところに届けてくれる。「シランパ」というのはシリ(地)アン(在る)パ(複数を表す)つまり「地に在るものたち」という意味で、植物も動物もすべて「地に在るものたち=シランパ」なんだけれども、「シランパカムイ」と言うと、それらを代表するものとして「木の神様」ということになる。

アイヌにとっては動物も植物も、この地上に在るすべてが神様です。神様は、神様の国にいるときは人間と同じ姿をして、人間と同じ暮らしをしている。そうして、人間=アイヌの世界を訪れるときには熊や猪や楡の木や、それぞれの姿で現れる。人間=アイヌはそれを神様からの贈り物としていただく。だから頂いたあとは感謝をこめてたくさんのミアンゲ(おみやげ)を持たせ、また来てくださいとお願いしながら神様の国に送り返す。それがアイヌの祭りです。

アイヌの祭りで使うものに「イナウ」がある。イナウはシランパカムイを形にしたものです。イナウは白木の表面を裾のほうから削ってまるでテントスタイルの服を着せたように作る。そして上の方には顔を描く。だからイナウにはイナウパロ(口)、イナウシク(目)、イナウサラ(耳)がついているし、イナウネトバ(体)イナウケマ(足)もある。つまり、イナウは木でありながら同時に人間の形をしているわけです。

 (イナウ)

そこまで読んでおしらさまの写真を見たら、ほんとうに姿がそっくりなんです。しかも、青森県で今もお祀りしているおしらさまには、顔だけでなく手足がついたものもあるといいます。おしらさまはアイヌのシランパカムイだったと、梅原さんは説いています。

ところで、イナウというと、わたしには昔から気になっていたことがあります。それは、埼玉県の秩父や寄居、毛呂山、小川町などで山の仕事をする人たちがお祀りしていた「ケズリカケ」あるいは「木花」と呼ばれるもののことです。その形がアイヌのイナウにあまりにもよく似ているものですから、何かつながりがあるのではないだろうかと、ずうっと疑問に思っていました。

山の仕事というのは、日本列島に稲作農業が持ち込まれてくる以前からあったものです。それは特別な技術や知識、知恵、豊富な経験がなければできない専門職ですから、それを親から子へと伝えながら生きてきた人びと「山の民」の暮らしがあったはずです。そしてそれは事実、つい最近(昭和30年代~40年代)まで日本列島の各地で営まれていました。

弥生人たちによって稲作農業がもたらされるまで、この日本列島に住んでいたのは縄文人です。日本で発掘された縄文土器で一番古いものは、なんと1万6千年も昔のものだそうです。そんな大昔から日本列島に住んでいた人々の暮らしを伝えるものがあるとしたら、それは「山の民」の暮らしの中にあるのかもしれません。「ケズリカケ」はそうしたものの一つではないだろうかと、わたしはいま、考えるようになりました。

 (けずりかけ 国学院大学神道資料館)

日本列島に住んでいた縄文人とアイヌの人たちは、先祖が同じです。縄文人の考え方や暮らし方をいちばん最近まで大事に守り続けてきたのがアイヌの人たちだと考えられています。つまり、縄文人が祀っていた「木の神様」を、北海道でアイヌの人たちは「シランパカムイ」「イナウ」として守り伝え続けてきた。いっぽう青森県以南の縄文人は、弥生人との混血、融合(時には敵対)を重ねながら「ケズリカケ」や「おしらさま」という形で伝えてきた。そう考えていいのではないかと思います。

おしらさまは、アイヌのシランパカムイのように山の仕事や焼畑をして暮らしてきた人びとの身近にいて、ときには自分を遊ばせてくれるイタコのようなひとたちの口を借りて「この春には何を作付けろ」「夏の暑い盛りに息子を水に捕られないように気をつけろ」といったふうに教えてくれる神様であったわけです。日高市でおしら講が続けられてきたのも、日高市というところが元来山仕事をする人たちの生活圏であったからではないかと思います。


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