川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

資料・おろかもの之碑

2007-06-26 09:42:41 | 出会いの旅
僕におろかもの之碑の存在を教えてくれた陣野守正著『大陸の花嫁』(1992年・梨の木舎)がやっと見つかりました。著者は1930年生まれで、都立高校に勤めておられました。お会いしたことはありませんが手紙のやりとりをさせていただいたことがあります。この本は品切れとなっているようなので該当箇所を紹介しておきます。
 
  おろかもの之碑(P216~220)
 1984年第6次の中国残留日本人が肉親捜しに来日した。定時制勤務だった私は、農業実習の授業を終え、生徒と一緒に給食をとっていたときこの問題に触れ、「中国孤児」から何を考えるかと質問してみた。女生徒の一人が「国の罪と戦争の愚かしさ」と答えた。
 それから2年後の1986年10月、群馬県吾妻郡中之条町に小暮久弥氏(当時81歳)を訪ね、「おろかもの之碑」を案内していただいた。
 おろかもの之碑は1961年に建てられたがそのいきさつは次のようである。
 戦争中、大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会等の責任者だった者は、敗戦後、占領政策により戦争犯罪人として1947年より一切の公職から追放された。それから4年後、「公職追放」を解除された吾妻郡内の該当者全員が一堂に会し「あづま会」を結成した。
一同は会の設立以前から戦争に協力した行為を深く反省し二度と過ちは繰り返さないようにと、またお互いに励まし合う意味で年に一度の集まりを持っていた。そうしているうち公職追放などいずれ世の中から忘れ去られてしまうだろう、碑を建てたらどうだろうか、そのほうが集まりやすいし、という話になった。そこであづま会設立10周年に際し「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを犯すことなきをねがい」(碑文の一節)碑を建てることにした。世話係として西毛新聞社社長富沢碧山氏がおされた。
 碑を作る段階で、「全員の名前を刻んでおくだけでもなんだから、名称を考えべえじゃないか」との発言があった。それに応えて萩原進氏が

 とにかく前後も知らねえで悪いことに協力したのは馬鹿もんだから…馬鹿もんというのはおろかもんということだから、どうだ、おろかものとしては…。

 といった。するとみんなが

 それがよかんべ、馬鹿もんだったのだから、おろかものとしよう。
と同意し、碑の名称が決まった。
 このような経過を経て1961年、会員だけで金を出し合い碑を建てた。碑の表には「おろかもの之碑」、裏面には碑を建てた趣旨と会員80余名の名前を刻んだ。
 おろかもの之碑は、戦争に駆り出されて死んだ者はいちばん気の毒で申し訳ないのだからと英霊殿(現大國魂神社)の境内に建てた。ところが村長もやった遺族会会長が「おろかものとは何事だ、人を馬鹿にして」と強く反発、抗議した。
 あづま会の人たちは、
 
 そうじゃない、勘違いしている。わしらがおろかもんなんだ。わしらがおろかもんのために、あんたたちの息子さんたちみんなが戦争に駆り立てられて戦争で死んだんだ。その申し開きのために、反省のために碑を建てることにしたのだから、英霊殿に建てるのが一番いいと思って建てたのだ。

と誠意をこめて説明した。が、相手はどうしても納得してくれなかった。
 そこでおろかものは素直に相手のいうことをきき、林昌寺の理解をえて、現在地の林昌寺の門前に碑を移した。

 以上はあづま会の副会長小暮久弥氏から伺ったことであるが、会の現状についてもたずねてみた。それによると、死去した会員が多くなり、現在は例会も途絶えているとのこと。会員は一、二の例外を除いてほとんどが戦後は一切公職に就かなかったという。小暮氏もその一人である。

 注 富沢碧山氏(故人)は、中之条町にあった月3回発行程度の西毛新聞社社長で公職追放組の人たちとも懇意だった。あづま会の世話係、会員の連絡係を引きうけてくれた。萩原進氏は当時小学校の先生であづま会とも交流があった。二人ともあづま会会員ではない。
 たまたま何かの機会に萩原進氏が集まりに見えて、おろかもののヒントを与えてくれた。

 紹介は以上です。小暮さんが碑の前に腕組みして立っておられる写真が載っています。20年以上前に聞いたことをまとめた文章ですが今となっては貴重な資料だと思います。僕はこれらの人々が「一切公職に就かなかった」という言葉に強い衝撃を受けました。小暮さんについて言えば1905年の生まれとすれば42歳で「追放」となり、以後一切公職に復帰しなかったということです。小暮武太夫さんや岸信介さんたちとは違います。
 陣野さんはつづく文章で次のように書いています。

 吾妻郡の戦時下のリーダーであった人々は、戦後、戦争の罪業とおろかさ、国家の戦争責任について深く認識できた。そこから、戦争に協力してしまった反省の思いに明け暮れる日々を過ごすことになった。
 戦後の日本は、本来このような人たちによってこそ国の政治がなされるべきであった。
 
 僕の父のことは今までに書いたこともありますが、折に触れて、戦争責任について語ってくれたことがあります。日記をつけてきた人ですからなにかの記述も在るかもしれません。おろかもの之碑を作った人たちにもきっとそのようなことが在るはずです。おろかもの之碑は私たちに大切なことをたくさん考えさせてくれる貴重な文化遺産です。さまざまな角度から研究を深め、社会の中に押し出していく責任が私たちには在るのです。 

おろかもの之碑考

2007-06-25 11:05:28 | 出会いの旅
 カツヨシさんは木暮武太夫さんにどんな「痛切な思い」があったかくわしくしりたいとコメントしてくれましたが、僕がこの碑文を読む限りではそれは感じられません。
 自らを「本意ナキ罪人」といっています。「職務上」「一方的委嘱状ニヨッテ」就かされた地位によって罪人とされたのであって、自らの意志でやったことではないと言っています。
 「愚直」という言葉も引っかかります。この人たちは政府や軍部の忠実な手下となってこの地方の人々を大東亜戦争に駆り立て、塗炭の苦しみに陥れる役回りを演じた人々です。人々に命令する立場にあり、「愚直」にそれに従うことを人々に強いたのです。自分もまた被害者であったといいたい口振りです。是では愚直に「草むす屍」となってしまった人の遺族から、嫌悪の感情がほとばしっても不思議ではありません。
 この人たちが公職に復帰してから、群馬県ではどんなことがあったのでしょうか。高校生の僕の記憶に残っているのはジラード事件(1957年)と勤評闘争(58年~)です。日教組(日本教職員組合)が「戦争への一里塚」として教員の勤務評定に徹底抗戦したとき、高知と群馬のニュースがよく新聞に載りました。共に弾圧を受けたのですが結果として群馬県教組は壊滅に追い込まれました。
 このとき群馬自民党の幹部であったに違いない木暮さんや吾妻地方の重鎮であったあずま会の人々はどんな役割を果たしたのでしょうか。僕は日教組の闘いが正しかったと言いたいのではありません。「再ビ過チヲ侵スコトナキヲ」願ったこの人たちが今度は政府自民党の政策にどういう判断をしたのかを知りたいのです。
 碑を建てるということが座興でできるとは思えません。あずま会といってもさまざまな考えの人々がおられたに違いありません。それを一つの文章にした萩原進という人やまとめ役(?)の富沢碧山という人の苦労も偲ばれます。この人たちを突き動かした共通の意志をどこに見たらいいのか、僕には疑問だらけです。
 皆さんはどう思いますか。群馬県人や関心を持たれた方々が意見を寄せてくださったり、研究してくださることを期待します。

 吉川勇一さんが「死者は分裂している」という講演のなかでこの碑について考察していることを知りました。
Googleでウェブ検索をするとほかにもいくつかのウェブでふれています。きれいな写真も紹介されています。参考になさってください。

おろかもの之碑(続)

2007-06-23 03:51:31 | 出会いの旅
 「おろかもの之碑」について詳しいことを知りたいと思って中之条町の教育委員会を訪ねたところ、歴史民俗資料館の館長さんを紹介してくれました。
 町中の丘の上に建つ資料館は明治初期の洋風の学校建築物として文化財に指定されている旧吾妻第三小学校の校舎です。一角に見慣れた若山牧水の像があったので早速記念撮影。暮坂峠にある牧水像をブロンズ製に作り替えたとき、もとのコンクリート製のをここに移したのだということです。僕は牧水の歌のファン。
 人過ぐと 生徒らは皆走り寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の
 われもまた かかりき村の学校に この子らのごと 通る人見き
 これは暮坂峠を下って沢渡に向かう途中の大岩小学校跡にある歌碑に刻まれた歌です。かなり昔、この歌碑に出会って、自分にも記憶があるような風景を想像して懐かしんだことを思い出します。。
 『若山牧水歌碑インデックス』という本があります。孫の婿・榎本尚美さんの著作で、日本中にある牧水の歌碑を紹介しています。(脱線)
 学芸員の福田義治さんが応対してくれました。といっても是という資料はなく、西毛新聞社発行の『吾妻郡碑文集』という本に先ほど見てきたばかりの碑文と写真が出ているだけでした。世話係の富沢という人が西毛(群馬県のの西部地方のこと。昔、栃木群馬あたりを毛の国といった)新聞をやっていた人らしいことのほかはわからない。ただこの本の最後に(註)があり、次のように書かれています。
 この碑ははじめあづま会員八十二人の浄財で、昭和三十六年十二月八日、中之条町大國魂神社境内に建設されたが、遺族会からの異議が出て、翌昭和三十七年八月、現在地の林昌寺境内に移転した。

 碑文に名を連ねて居る方々はこの地方の町村長を始め要職をつとめた人々です。碑文を書いた木暮武太夫という人は伊香保出身の自民党の政治家で、この碑を建てる直前には、池田内閣の運輸大臣(1960・12・8~61・7・18)をやっています。大政翼賛会などに関わり追放になった体験を持っています。
    木暮武太夫@wikipedia

 昭和36年(1961)というのは60年安保闘争の直後のことで、僕が大学に入った年です。保守系とおもわれる地域のリーダーたちがどのような思いで、この碑を建てたのか、碑文以外に詳しいことはわかりませんが、他に例を見ないことです。移設を求めた人たちも「遺族会」とあるから保守系の人たちと思えますがどういう理由で反対したのだろう。今の靖国論争のようなことであったのか。
 林昌寺には『万国戦没者慰霊碑』という敗戦直後、個人が建てためずらしい慰霊碑があります。<万国>にどういう思いを込めたのか。ともあれ、この寺のお坊さんはそんなにもめるのならウチで引き取るよという心の持ち主であったのでしょうか。
 唐沢定市館長が帰ってこられました。僕よりは10歳くらい先輩で、事情に詳しいかといろいろ伺ってみましたが、ご自分よりだいぶ上の年頃の人たちのことでわからないと言うことです。
 僕は満蒙開拓団の送出に関わった人たちの反省の気持ちがこの碑を生み出したという趣旨のレポートを読んだことがあります。この点からも館長さんに聞いてみたのですが開拓団関係のことも詳しくはわからないと言うことでした。福田さんが『中之条町史』と『長野原町史』の開拓団に関わるところをコピーしてくれました。北軽井沢に慰霊碑や記念碑があることがわかります。
 正直言ってすこしがっかりしています。「おろかもの之碑」というのは近代史の貴重な資料です。中之条だけではなくこの地方の歴史研究に多少でも関わりがある人たちが研究対象としていないとしたらその責任や良心が問われることではないでしょうか。学校教育でも近代史の資料として活用されるべきです。碑を巡っての45年前の対立がそれを妨げているのでしょうか。
 おじいさんやひじいさんがどんな思いでこの碑を建てたか、中学生や高校生ならまだまだ調べられるはずです。歴史的評価はしばらく置き、碑に刻まれている人々一人一人の人生を研究することを通して、生きた資料をこの立派な資料館に展示してほしいものです。

『退場!』宣告

2007-06-21 11:27:56 | こどもたち 学校 教育
 昨日は東京地方裁判所で嘱託教員解雇裁判の傍聴をしてきました。卒業式で国歌斉唱を拒否し、その数十秒間を着席したため、クビにされてしまった教員たちが原告です。たとえ、国歌であっても卒業式で歌うのは僕にもできません。
 ですから、文京高校でHR担任をした人たちの卒業式で僕も着席しました。生徒にも保護者にも手紙を書いて僕の考えを伝えました。斉唱を強制する鈴木勝利という校長と祝杯をあげる気にはなれないので祝賀会も欠席しました。02年のことです。
 日を改めて僕が担任したクラスの保護者が<謝恩会>を開いてくれました。「変わった担任で面倒をかけます」と挨拶したら、「特定の生き方を強制しない先生に恵まれた」というメッセージを戴きました。クラスの一人一人をお互いがよく知り、交流することを通じて自己形成をすることの大切さを身につけるように指導してきたつもりだったのです。生徒が順番に書くクラスノートは何冊にもなりました。そういう僕のあり方を理解してくれたとしたらこんな嬉しいことはありません。
 今回、裁判に訴えた人たちは04年の卒業式で僕と同じような行動をして、嘱託をクビになったわけです。裁判長の「原告の請求を棄却する」「訴訟費用は原告が負担する」というたった数秒(?)で判決法廷は閉じられました。
 「君が代」を拒否するような教員はクビになってもやむを得ないと裁判所が石原都政のやり方にお墨付きを与えたわけです。
 昨日は国会で教育三法が成立しました。その一つは学校に副校長や主幹という新しい職を置き管理体制を強めて教育改革を進めるという趣旨です。石原さんが東京で進めていることを全国で実施しようというわけです。
 僕が心配していることはこの裁判にしても関心を持つ人がきわめて限られていることです。昨日の裁判の傍聴希望者は多く、僕がくじに当たったのが不思議なくらいですが、ほとんどが仲間内のように見えました。
 原告たちも本当に自分の卒業生やかつての同級生、親族や地域の知り合い、等に自分の考えや生き方を伝え意見の交換の場を作っているのだろうか。少なくとも「君が代」や「日の丸」を巡っては僕と世間の多くの人との間には意見の違いが在ります。僕の生徒であった人も同様でしょう。
 この僕にしてからが教員になったころにはNO!という強い感覚はなかったように思います。さまざまな人々と出会い、驚きや感激を伴いながら自分なりの学習をしていくなかで、身に付いた生活態度です。ですから人に理解してもらうのは困難かもしれないと自覚しています。このブログを読んでくれる皆さんもどうか、自分の疑問を大切にして、意見を表明してください。
 <東京から日本を変える>という石原さんの挑戦は少なくても学校教育の「改革」という面では成果を上げつつあるようです。そして僕のような教員は「退場」を宣告されている、僕は今の事態をこう認識しています。喜んでいるわけではありません。ただならぬ事態です。子も親も教師も生徒も心を開いて語り合って、希望を見つける努力をしなければなりません。

おろかもの之碑

2007-06-20 06:43:27 | 出会いの旅
 武尊牧場のブナ林を散歩したあとは榛名山の国民宿舎・吾妻荘に泊まりました。<高原学校>ということで地元の東吾妻町立岩島中学校の生徒たちが同宿しています。近くですから学校から歩いて登ってきました、といいます。地図で見ると八ツ場ダムの建設で消える川原湯温泉の下流10km位のところに岩島中があります。吾妻川のほとりです。距離にしても高度差にしても相当あるように思われます。今の時代でもこのような学校と生徒が居るのかと感心しました。礼儀正しく子どもらしい。元気づけられます。
 翌13日は中之条町の林昌寺を訪ねました。おろかものの碑というものがあると聞いていたからです。墓地脇の駐車場から入ってしまったため、最初に小渕元首相の大きな墓碑に頭を下げました。小渕さんは僕がつとめていた都立北高校の卒業生なのですがこの町で幼少期を過ごしたのでしょうか。のちに訪ねた図書館の前の広場には銅像が建っています。
 この地方では有名なしだれ桜の横をおりると立派な山門があります。山門を出て、正面の参道から見ると山門のすぐ左側にその碑はありました。説明板はありません。いつものように碑の後ろに書かれている文章をカメラに収めようとしましたが碑があまりにも塀に接しているため、それもできません。この碑の由来を知りたい人に不親切というほかはありません。やむなく妻が筆記しました。
 ここに全文を記しておきます。
 <正面> おろかもの之碑     参議院議員 木暮武太夫書
 <裏面>昭和十二年七月七日支那事変ハ、ツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル。日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ職務上、或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレソレ大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会ノ郡町村責任者トナッタガ、敗戦後占領政策ニヨリ其ノ職ニ在ッタモノハ、スベテ戦争犯罪人トシテ、昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職カラ追放サレタ。本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ。昭和二十六年八月全員解除サレルヤあずま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル。創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ、再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ、卑名ヲ下記ニ列ネテ碑ヲ建テル。  昭和三十六年十二月八日     あづま会建之

 中之条町中之条 7名氏名(略) 旧沢田 6名 旧伊参 5名 旧名久田 5名 
 東村 6名
 吾妻町原町 5名 旧太田 5名  旧岩島 8名 旧坂上 5名 
 長野原町 7名
 嬬恋村 8名
 草津町 3名
 六合村 7名
 高山村 5名 
 岩島  1名
 世話係 富沢碧山

 萩原進撰文 木檜宇志雄書  斎木政市刻   (つづく)

朝鮮総連が『人権擁護団体である』とは

2007-06-19 11:46:17 | 在日コリアン
10日ほど『休養』してしまいました。気力がわかなかったのです。荒川の岸辺をサイクリングしたり、群馬県の武尊牧場にレンゲツツジやブナの新緑を見に連れて行ってもらったりしていました。日曜日には「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の会合にも出席しました。書きたいことが溜まってしまいました。また、つきあってください。
 魑魅魍魎というか、お化けというか、朝鮮総連の本部売却騒動を巡る二人の老人の姿はこの国の病状を象徴しているようです。
 正義と人道を看板にして朝鮮総連を守ろうというのですから、お笑い草です。朝鮮総連が「人権擁護の団体で在日朝鮮人の心のよりどころ」だというのです。この老人たちはそれぞれに「人権」で飯を食い、総連の「調査」で禄を食んで来た者たちのトップの一人なのです。
 僕はコリア系の生徒たちとの出会いがきっかけで、在日コリアンの人権を確立することが日本の民主主義を確かなものにするために不可欠と考え、70年代に入ってから自分のできることに取り組んできました。すぐに朝鮮総連という巨大な壁にぶち当たりました。
 在日コリアンの青年が日本の企業や公務員に就職しようとすると、民族や国籍を理由に差別を受けるのが普通の時代でした。これに挑戦する二世の若者や支援者に朝鮮総連は驚くことに「同化主義者」というレッテルを貼り、攻撃したのです。私たちが日本の学校の中で民族差別問題を教育の課題として取り上げるように都教育委員会と交渉したときも同じです。挙げ句の果てに出てきたせりふは「日本の学校は差別をしていればよい。そうしたら、朝鮮の子どもは朝鮮学校に来るようになる」。
 日本の社会や政府の差別を言あげしながら、それと闘う人々を攻撃し、人々を金日成教団とも言うべき、朝鮮総連(学校や企業・銀行などをもつ)に囲い込んでいくのが彼らのやり方です。差別が強ければ強いほど金日成教には都合がいいというわけです。
 そのやり方は今も変わっていません。そのため在日コリアンは3世が主流の現代においても選挙権・被選挙権、公務員就任権を持たない無権利集団となったままです。このことに当のコリアンもあまたの人権運動家も文句の一つも言わないのですから驚きです。(民団という一部の人たちはどういう訳か、地方選挙に限った投票権を求め、どういう訳か、公明党と一部の「知識人」が是を推進してきました)。
 金日成教に洗脳されたり、囲い込まれた人々の運命は悲惨です。1960年頃には10万人近い人々が「地上の楽園」(北朝鮮のこと)に送られました。72年の金日成の還暦の時には200人の朝鮮大学の学生が「生ソンムル(生の贈りもの)」として「献上」されました。これらの人々を人質として、在日コリアンをゆすり、金品を巻き上げてきたのが此の45年の歴史なのです。朝鮮総連の指導者たちは金父子の忠僕としてその分け前にあずかってきたのです。
 心のよりどころだと思っている人がいるとしたら、どのような人であるかは推して知るべしです。
 土屋さんは84歳、緒方さんは73歳だそうです。どういう人生を歩んでこういう判断にたどり着いたのか、TVカメラの前で語り尽くしてほしいものです。拉致被害者はもとより、北朝鮮に閉じこめられて居る『人質』とされた人々の命運を思うとき、これらの老人の罪は限りなく重い。
 (追記)
 「生ソンムル」のことは『在日朝鮮人はなぜ帰国したかー在日と北朝鮮50年』(現代人文社・2004年刊)という本の中で洪祥公もと朝鮮大学校教員が詳しく証言しています。およそ信じられない『現代の生口』の存在、日本にこんな学校があり、こんなことが許されつづけている現実に驚くばかりです。オオムどころの話ではありません。

休養

2007-06-08 06:34:51 | 父・家族・自分
 4日から7日まで伊豆高原で過ごしました。ここには公立学校共済組合のホテル伊豆高原という保養所があり、若いときから利用してきました。定年後は10年間、年金生活者でもゆったり過ごせるサービスを受けられるので、気分転換に出かけたのです。
 川越から西武新宿線、小田急線と安い私鉄を乗り継いで小田原へ。熱海までの東海道線で駅弁の昼食、2時頃には伊豆高原に着き、足湯に浸っているとホテルの車が迎えに来てくれます。昼寝をして、露天風呂にはいる。是で一日が終わりです。
 5日は海洋公園から海沿いの道を八幡野という漁港めざして歩きます。蓮着寺をすぎると急に人影が消えます。大島を左に見ながら、岩に砕ける波の音を聞きながら進むのです。やまももの大樹が生命のちからを分け与えてくれます。昨年、抗ガン剤の治療のあい間にここを歩いたとき、タブの木の幹の周りをかじって傷つけるリスの姿に気づきました。おが屑のようなものが散らばっているので注意しているとリスの作業を目撃することができたのです。不思議なことにリスはタブの木のみを選び、しかも気に入った木を下から上までかじっています。長年にわたる作業の痕跡が木肌に傷跡のように残っているので誰にでもわかります。
 太田区立雪谷小学校6年生の一行と出会いました。この付近に大田区の施設があり、ここを歩くのが野外学習の定番とか。落伍グループとおぼしき子どもたちに妻がリスの話をしています。先生が台湾リスは悪いことをしますねといっていました。悪いことかどうかはともかく、子どもたちが海辺の森を歩く楽しみに気づくといいのですが。
 タブは僕の田舎では「どうねり」といいます。1973年に岩手県田老の「タブの木荘」という国民宿舎に泊まったとき、気づいたことです。黒潮の影響か、故郷の植生とあまり変わらない北国の海岸に懐かしさを感じたものです。
 昼過ぎに橋立の吊り橋にたどり着いたので弁当にします。この日の午後はバスで一碧湖にいき、アシの茂った湿地の周りを歩きました。
 気分転換というのは不思議なものです。うちに居るとできない(しない)ことができるようになるのです。一日中、歩いても爽快です。
 夕食時にいやなことがありました。一人の女性がかかってきた携帯電話で話をします。その大声で静かでゆったりした気分が破壊されます。しかも、その人の顔が離れては居ますがぼくの正面に見えるのです。この人は60年も生きて、人々の中で生きる最低の気遣いも身に付いていないのでしょうか。友人なのか、夫なのか、グループの誰も注意しません。
 心が傷つけられるような不愉快な気分で、食事を終えて立ち上がったとき、今度はその女性が自分から電話をかけ始めました。僕は思わず、みんなの目の前で、くだんの女性を指さして一喝してしまいました。何を言ったかは覚えていませんが反省なきものへの指弾です。この一件で「静養」は吹っ飛んでしまいました。翌朝、宿の方が「ありがとう」を言ってくれました。当の本人はみんなに謝ることもせず、何食わない顔で食事後、出発したようです。
 保養所があることによって僕は助かっています。宿の人たちもとても親切で、いい雰囲気なのです。利用する人に特別のことは求めません。間違ったときには謝ってくれればいいのです。それができない人には断固として反省を求めてほしいとアンケート用紙に書いて提出しました。
 6日は下田を訪ねます。通りがかった大安寺で16烈士の墓を見ました。薩摩・佐土原藩士が材木を江戸に運ぶ途中、嵐のため、積み荷を捨てたことが罪に問われ、少年を含む16人全員が自決したというのです。故郷で葬式を出すことも禁じられたとか。歴史の事実に怒りがわいてきます。
 妻が開国博物館にいきたいというので寄ってみたのですが僕には高いだけで苦痛。館内のベンチで休む始末です。こういう箱ものはもともと苦手のところにきて、検証や説明を抜きにものを並べられても退屈なだけなのです。プチャーチンがバルト海のクロンシュタットから喜望峰を回って来たという航路図だけが記憶に残ります。恥ずかしながら、僕の頭の中では沿海州あたりから来たようになっていたのです。
 城山に登るとどんどん元気が出てきました。紫陽花の山です。青い空、紺青の海。本丸跡に立つと下田港の展望も見事です。紫陽花はこれからが盛りです。暇がある方におすすめです。本当に全山が紫陽花山、しかも、ただ。おおらかで気分良し。
 水族館の横から和歌浦という名の付いた海沿いを歩きました。下田港外の鏡のような入り江です。橋が架かっているのでわたってみた雁島には遭難した人々の供養のために建てたお地蔵さんが並んでいます。外国人の墓石のようなものもあります。ちょうど白人の家族と出会ったのですが興味はなさそうです。
 ペリーが上陸したという所に出ました。この町ではペリーが開国の恩人とのみ喧伝されているようです。ペリーロードと名付けられた古い町並みを歩いたあと、朝から目をつけてあった30円也の甘夏かんを一個買う。ぎりぎりで間に合った電車で早速、賞味。是がまた美味。
 7日。宿の後ろの大室山に挨拶をする気持ちで登ったあと、往路と同じ途をかえる。途中、妻が真鶴で下車してなじみの店で塩辛を買う。僕はホームのベンチで一休みして待つ。今度は甘夏かんを4個買ってきてくれました。

希望はどこにあるか?(2)

2007-06-03 06:17:45 | こどもたち 学校 教育
 北朝鮮の難民と見られる4人が青森県の深浦で保護されたということです。8世紀から10世紀にかけて今の北朝鮮から中国東北部を版図としていた渤海の使節がこのあたりに漂着したという話を思い起こしました。白神山地をはじめて訪ねたとき十三湊(とさみなと)に寄り、知ったことです。笹舟のような船で良くもたどり着いたものです。
 <北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会>が早速、声明を出し、政府にたいし、北朝鮮人権法に基づき、難民として処遇するように求めたことは時宜にかなっています。これからどれだけの人々がこうやって日本海をわたってこられるかはわかりませんが、助けを求めてきた人たちを受け入れる心と仕組みを作って行くことがいよいよ現実味を帯びてきたのです。
 北朝鮮に関わる人権問題は拉致事件だけではありません。金独裁政権は今日の世界で、私たちの常識では考えられない支配体制を作り上げています。僕は古代の王朝国家のようなものかと想像しています。そこには国民はいません。人々は王様の巨大な墓を作ったり、王権に従わない人たちを征服する戦争に動員される奴隷のような存在です。朝鮮戦争という征服戦争に失敗して、その人員不足を補うため日本から動員した10万人くらいの人たちの運命は過酷です。近代的な市民の意識を持っているため、反抗的と見なされ、強制収容所に入れられたり、公開処刑されている人も少なくありません。10年ほど前には300万人に達する人々が餓死したと伝えられました。今も多くの人々が飢餓線上をさまよっていると思われます。
 僕の想像が多少とも事実であるとすれば、隣人である私たちは否応なく、この事実に直面させられます。戦争などの極端な悲劇を避けるために今できることを力を合わせてやるほかはありません。
 金正日が日本人拉致を認めた日(02・9・17)をさかいに、僕は拉致問題をはじめとする北朝鮮問題に力を割くようになりました。もとより微力ですが、友人たちと協力して、横田さん夫妻を招いてお話を伺ったり、早くから北朝鮮難民の救援に取り組んできた方々の報告を聞いたり…。「考える会」の機関誌『木苺』でもこれらの貴重な取り組みやさまざまな考えを交流するようにつとめてきました。人権や教育に関わるグループでこのように取り組んできた例はあまり聞きません。
 「考える会」を終結させることを僕が考えるようになったのは、直接的には私たちの高齢化・病気などにより、責任ある活動が困難になったという事実からですが、私たち世話人の問題提起に答えてくれる会員や読者が少ないというより深刻な事実を認めざるを得ないからでもあります。呼びかけても活動に参加してくれない、意見も書いてくれない。誰がどういう考えを持っているかがさっぱりわからないのです。新しい友人たちとの出会いは私たちを励ましてくれたのですが、新しい酒は新しい革袋に入れるほかはないようです。世話人会で相談し、終結の力が残っているうちに会を閉じることにしました。(つづく)

如意寺の住職さん

2007-06-02 05:49:20 | 中国残留日本人孤児
 5月20日のきいちご移動教室は41人が参加しました。中国残留孤児4名とその家族のほか中国から来た人々が多いのが特徴です。今回は青海省から来た人、内モンゴルから来た人がいます。皆私たちの生徒であった人やその家族、友人です。韓国から来た人とその家族、コリア系の人々、そして僕のような在来型日本人。通訳になろうとして中国語に挑戦している娘さんが2人もいました。
 前日の雨が大気をすっかりきれいにしてくれて本当に素晴らしい初夏の空。木々の緑も鮮やかです。Fさんが「夏は来ぬ」の歌唱指導をしてくれました。小さいときから朝鮮総連系の学校で育った人です。拉致問題や北朝鮮の人権問題を学ぶ中で出会った僕にとっては比較的あたらしい、そして若い友人です。日本の唱歌への理解も深く、指導力も優れています。今回はPさんもWさんも欠席なので唱歌の時間の心配をしていたのですが、帰りのカラオケ大会を含めて素晴らしいできでした。
 関越道赤城インターでおりたあと利根川の右岸を北上し、岩本という駅のところで岩本発電所を遠望しました。第二次大戦末期、この発電所建設工事のため連行された中国人が過酷な労働のため、たくさん犠牲になったのです。
    朝鮮新報 岩本発電所に関する記事
 
 月夜野の如意寺に着きました。利根川の段丘の山裾に位置する曹洞宗の寺院です。驚いたことに住職さんが私たちを本堂にいれ、中国人殉難者の法要を営んでくれました。お経を上げ、参加者に焼香をさせてくれました。前夜、思いついて、慰霊碑を見学する際、卒塔婆を建てて供養できないかと住職さんに相談したのです。
 イイですよといってくれたのですが、こんなきちんとした法要を営んでくれるとは考えてもいませんでした。考えない方がおかしいのです。卒塔婆を建てて供養するとはこういうことだったのです。形だけのまねごとを考えていた自分の浅はかさがまたもあらわれてしまいました。
 住職さんは法要のあと、お話をしてくれました。先々代の住職は中国人殉難者の遺骸を引き取り法要を営んだのですがこれには当時の特別高等警察(特高)が良からぬことと干渉した。敵国の捕虜の死を弔うということは非国民的行為というわけです。当時の村人の証言によれば、住職は訪れた特高を寺域には入れず、外で話をつけ追い返していたそうです。また、寺の過去帳には中国人の名も村の人たちの名も同様に記されていると言います。このことを知った中国の人たちが住職を中国に招待したが何かの事情で行けなかったと言うこともあったそうです。先々代とは住職のおじいさんのことだと思われます。恥ずかしいのか、そうはおっしゃらなかったのですが、先々代を尊敬していると力を込めて話されました。
 お話のあと、本尊(釈迦如来)をまつってある須弥壇(しゅみだん)の裏側に私たちを案内してくれました。中国人の遺骨を安置してあった所です。横長の板に墨書されています。
 遺骨安置所 中国人 前中華民国  岩本発電工事就業中 殉難病没死者五十三体 外六霊 当時俘虜 昭和二十八年七月遺骨送還公約日 住職玉峯道仙是ヲ親書ス
 何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ 現住十九世自記ノ所
 
 遺骨送還が決まった日、住職はここに歴史の事実をはじめて書き留めたのであろうか。もうすぐふるさとへ帰ることができることを故人に伝え、その霊を供養する尊い姿が浮かび上がってきます。またこのことを後世に伝えようという19世住職の強い意志が感じられます。半世紀ののち是を読む私たちに歴史の事実を心に刻み、未来に生かせと教えています。遺骨を入れてあった木の箱が今も本尊の下に安置してあります。
 住職さんの心遣いのおかげで本当にいい学びができました。参加者がどう受け止めたか、後日文集を作ってお届けすることを約してお礼を申し上げました。
 裏山に建てられている慰霊碑を見学し、小学生のN君が卒塔婆を供えました。慰霊碑の裏には殉難した人々の名前が刻まれています。昭和28年(1953)7月といえば僕がこのN君と同じ小学校6年の時です。殉難者の遺骨は無事遺族の手に渡ったのでしょうか。今日なお、韓国への遺骨送還に心を砕いている友人のことを思い出します。
 バスに乗って花の終わったリンゴ畑の中を高山高原牧場に向かいます。僕がたくさんの犠牲者が出た朝鮮人の慰霊碑はなぜないのか?とといかけました。高柳俊男教授が答えてくれました。どんなこたえだったとおもいますか?皆さんも考えてください。
 高原牧場と群馬県立天文台の楽しい4時間については参加者に語ってもらいましょう。次回は10月の中旬の日曜日です。どなたもどうぞ楽しみにしてください。
(昨日の訪問者は73人でした。ありがとうございます。) 

きいちご大学への夢

2007-06-01 11:48:25 | 友人たち
 このブログにコメントを戴いている方々に感謝します。日が浅いにもかかわらず、昨日は61人のかたが寄ってくれました。短くてもコメントを戴くことはとてもうれしい。恥ずかしいからとメールを送ってくれる人も居ます。もちろん有り難いことです。皆さんに読んでもらうのがいいなと思うものばかりです。どうか、遠慮なさらず、投稿してください。
 僕には昔からの夢があります。「きいちご大学」を創ることです。共に希望を見つけだすために異なった生き方や考え方をする人々が対等に出会い、語り、討論する民主主義の大学です。退職したらと思ってきました。ブログをはじめてみて、こういう形でも出来るかもしれないと考えるようになりました。ときどきはスクーリングのように教室で出会う。
 私たちの一人一人が先生になり、生徒になる。そのためには誰もが語る勇気、聞く力を身につけていかなければなりません。どうですか。やってみませんか。どうしたら実現できるか、知恵を出してください。友人たちと語り合って提案できるようにしたいと思っています。
 とりあえず、このブログに感想や意見を遠慮なく書いてください。交流しあいながら生きることは楽しいなーという思いからすべては始まります。