川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

父の日記(昭和3年)(11) 自己の力を信ずべき時代

2008-01-31 10:00:39 | 父・家族・自分
このブログをのぞいてくれた方が昨日は91人でした。60~70人代の日が多く、90人を超すのはまれです。ありがとうございます。
 さて、1928(昭和3)年の父・20歳の日記の紹介はとりあえず今回でおしまいとします。

 2月14日(火)雨
 議会は遂に解散せられて 我が憲政史上特筆すべき第一回の普通選挙は実に数日の後に実行されんとしている。
政友 民政 その他の諸政党、各々、自己の善 最と自釈する宣言総綱を掲げて一般大衆を自党に誘導しやうと死に物狂いの抗争を続けつつある。此の時に当たりて一般有権者は如何なる覚悟が必要であるのか。
 弾圧干渉、買収 情実 利益…一部有産階級の選挙時の与党繁栄策の為の選挙…制限選挙の通弊である…政治の腐敗堕落は是による。
 普通選挙は是の弊を救はんが為に生まれて来たものである。先ず お上御最(ごもっとも)の思想、即、事大思想を排撃せよ。古い頭の親方代議士 金持代議士 無能力代議士を一掃して議会に清新の気を注入しなければならぬ。

  2月15日(水)晴
 大臣とか次官とかいふ官職閲歴を以て 民衆を惑はさんとする似て而非なる政治家を排し、真に正義を愛し、民衆の福祉を考える純情の士を議会に送らねばならぬ。
 最早や 金とか地位とかに物を言はして置くべき時代では無い。民衆は自己の力を信ずべき時代である。
 腐敗した既成党の代議士を葬れ。民衆の為の新人物を議会に送れ。是をモットーとして私共は来るべき総選挙に邁進せなばならぬ。
 聡明なる正義に勇進する事は人間行為の最善なるものであると言ふ事を認識しつつ。
 西の浜の安岡氏来たり、大いに飲む。愉快なり。

 8月29日(水)雨
 (略) 青年団大会 小学校に開催。午後より出席して青年諸君の熱烈なる雄弁に接す。思想の程度、発表の能力に於いて 未だ遺憾の点 少なからずと雖も その中天の意気と呑世の大志は当に愛すべく 学ぶべきである。(略)


 大正デモクラシイの時代に学校教育を受けた青年の普通選挙の実施に寄せるあつい思い。このような思いが結集して1925年普通選挙法が成立したのであろう。しかし、時代は父の願いのようには進行しなかった。
 29年には治安維持法の改悪(最高刑を死刑とする)に反対した山本宣治が暗殺され、やがて政党政治家の腐敗と軍部のクーデターによって議会政治は死滅していく。
 父の日記を読んで、昭和の初めに僕が思っていたより遙かに民主主義の思想を身につけていたことに気づいた。父にとって戦後の新しい憲法や民主主義の思想はマッカーサーによって与えられたものではなかったのであろう。
 晩年のある時、父は自分の政治的位置を社会党右派と言っていた。たしか党友で党員では無かったが、自民党の強い室戸で数少ない社会党の人たちが頼りにしていた。学校関係の父の周りには共産党の人が多かったが是には与みしなかった。
 「共産党は地の塩で大事な存在だが、権力を握ってはならない」といっていた。共産党が権力を握ったソ連や中国の現状をどう見ていたのかは解らないが、教職員組合の運動の中で大会で決めたことを共産党が一夜で覆した等ということを悔しそうに回想したことがあった。組合運動の中での体験に基づく考えではないか。
 父の思想の根底に流れているのは青年期に培われた民主主義へのあこがれではないか。何でも世の中のせいにしてすませるのではなく、我々一人一人が社会を支える一員であることを自覚し、その責任を果たすことの重要性を訴えていたように思われる。
 漁師町室戸岬の青年達の意気と大志に励まされた父。今此の国の青年達はどうなっているのか。自己の力を信じて自分に出来ることを精一杯やろうではないか。

北朝鮮帰国者の記念植樹・続報

2008-01-30 17:14:30 | 韓国・北朝鮮
 温かい陽差しに誘われて、自転車で荒川の三つ又沼ビオトーブに出かけました。此処は昔、入間川と荒川の合流点だったところで歩くのにいいところです。冬枯れの中を散歩した後、荒川の岸辺に沿って田圃の中の道を北上し、対岸に渡ります。正面に雪の日光連山。上尾の丸山公園近くの「新道」で昼食、公園を抜けて入間大橋経由で帰ってきました。久しぶりに少し遠出。
 
 高知県室戸市教育委員会学校教育課長の山本勉さんから昨夕電話をいただきました。高知新聞に掲載された僕の投書を読んで、市教委として情報の収集につとめているとのことです。
 北朝鮮に帰った朴さんの同級生たちが平成になってから、記念樹の下で同窓会を開いたという情報も寄せられているとのこと。同窓生などに当たって、もとの木が何の木であったか、なども探求し、出来ることを考えていきたいから時間をくださいと言われました。心弾むニュースです。
 もしかしたら、同級生と朴さんの間に今もなんらかの交流があるかもしれません。そうであればいいのですが。これからどんな展開になるのか、楽しみになってきました。
 木を植えるという行為には「お世話になってありがとう」「私たちを忘れないでね」「いつか、きっと会いましょう」など、さまざまな気持ちが込められて居ます。半世紀近くが経ちましたが、朴さん一家が故郷・室戸岬を訪ねてくれる日をみんなの力で招き寄せたいものです。

 北朝鮮に「帰国」した人々の消息を案じ、救援の手をさしのべている「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」というNGOがあります。関心のある方はHPを覗いてみてください。

  korea/index http://homepage1.nifty.com/north.htm

 

 

父の日記(昭和3年)(10)「御大典」

2008-01-29 20:39:33 | 父・家族・自分
 このブログを読んでくださった方々から嬉しい便りと資料をいただきました。東京教育大学新聞会の後輩・真矢正弘くんからは坊城俊民先生について。僕の池袋商業高校時代の校長が真矢くんの高3のHR担任だったというのです。敬愛する人を共に出来る喜びを感じています。
 お孫さんが偶然ブログを見つけてくれたと言って弘松典夫先生からはご自分の書かれた「終戦前後の吾が略歴」。北朝鮮で迎えた敗戦から、室戸小学校で父と出会う51年ごろまでの貴重な記録です。
 お二人とも紹介することを快諾してくれましたのでいずれ書きつづらせて貰います。

 20歳の新米教師の日記。昭和3年は「御大典」の年。昭和天皇の即位の式典や大嘗祭がありました。

 11月3日(土)晴
 夜来の豪雨、如何と案ぜられしに軒端の雀のさえずりに促されて、雨戸をくれば大空 碧として一片の雲翳(うんえい)を止めず。初の明治節を賀(ことほ)ぐ最好日和なり。(略)九時より拝賀式挙行。校長の訓辞長すぎて児童に嫌怠の氣あり。
十時半より小運動会開始。観覧者多し。(略)夜は丸見にて祝賀宴。終わりて芝居見物。

 11月10日(土)晴
 若き帝の高御座(たかみくら)に登らせ給ふ佳辰也。普天の下 率土の浜(そっとのひん) 誰か今日の佳き日を賀がざらん。六時離床 朝食後、毛剃をなし衣服を更めて登校。青年達大分(だいぶん)に来りて宴会の準備に忙し。
 十時より天杯伝達式。捧受する者三十名。先れも無辺の皇恩に浴して感涙にむせばざる無し。正午終了。
 午後二時より御即位遙拝式挙行。参列する者頗る多く、児童大分にざはつく。正三時、校長の音頭にて天皇陛下の万歳を三唱す。終わりて児童一同にお祝いの饅頭分配。中庭にて村民の奉祝宴開催。会する者一百名、空前の盛会也。最後迄残りて大いにメートルを挙げる。六時より提灯行列。酔に乗じて大分に荒れしが如し。枡嵜兄と学校で寝る。
 
 11月12日(月)晴
 運動会(略)

 11月14日(水)曇 雨
 大嘗祭(だいじょうさい)当日也。児童と共に八幡宮に参拝。天候此頃より漸くにして恢復。
一時過ぎより旗行列を行ふ。校長 枡嵜両氏 仮装。村民にして仮装する者多し。先ず羽根崎に至り、其れより平田岩に至る。我輩は連日の疲れの為途中にて失敬せり。一同は五時解散せり。
 夜、枡嵜兄来たり 共に安岡兄訪問 西岡君も来る。椎をほほばり乍 漫談。九時 帰宅、就寝す。
 
 11月15日(木)雨曇
 折角の御大礼に天候の恵まれざるは終世の恨事。八時登校 児童と共に参拝。奉幣使(ほうへいし)既に来れり。宮司 祝詞(のりと)の後、順次に拝礼。小原書記シビレを切らして立ち得ざりしには吹き出す。(略)

 11月20日(火) 晴
 日本晴の良い天気にして、御大典奉祝のラストデーたり。三時間学習 正午打ち切り。午後より本村 掉尾の催したる懸賞仮装行列をなす。(略)安岡 枡嵜両兄新郎新婦となりて出陣するにつき、其の準備に奔走す。
 松本祐九郎氏来校して曰く。「大分、飲んじょらんとやれんじゃんか。少し、やろうじゃないか」と。早速、鰯酢を購入。菜っ葉をもぎて住宅にて開始(西岡 松本 坂井)暫時にして中島団長、吉松巡査も来たり共にやる。一同、退出後、西岡君と二人にて餅を煮て食ふ…餅汁 遂にぜんざいとなりしは痛快。
 五時より審査。一等,雲助。二等、南洋土人。三等、火消。四等、魚屋。五等、力士 鎧武者等。斬新奇抜、異想天外に出づるもの多し。村内一巡後、丸見にて宴会。松本氏等と最後迄歓を尽くす。拙宅にて魚飯を食して別る。

 11月の初めから唱歌の練習、運動会の予行、会場づくり、打ち合わせなどを含め、「御大典」に関わる日々の連続である。若き帝(1901年生まれ)の即位ということで、日本中の神社という神社に新しい鳥居や狛犬が作られるなど奉祝にわいた。羽根村でも同様だっただろう。村中が祭りのような仮装行列などもあり、「平成の御代」よりはひとびとが天皇の即位をダシにして、はるかに楽しんでいるようにも見える。学校の教員や警察官がいっしょになって、昼間から一杯やって景気を附けるなど、今では考えられない。

 紀元節拝賀式(2月11日)、久宮(昭和天皇の二女)葬式の遙拝式(3月13日)、天長節の儀式(4月29日)、御真影(昭和天皇の写真)奉戴式(10月6日)など天皇に関わる儀式は春から続いている。父は10月6日、学校前道路に整列して「御真影奉迎」をした際には「指揮者の位置に就きて枡嵜先生と意見合わず、津呂・室戸以東の御真影に対し、敬意を表し得ず、憤懣に堪えず」と記している。天皇に対する思いも深かったようである。

父の日記(昭和3年)(9)嵐

2008-01-28 13:53:42 | 父・家族・自分
 兄から電話があり、室戸岬小学校の朴一家の記念樹が枯死したとの僕の高知新聞への投書があちこちで話題になっているとのことです。朴姉弟の同級生などが関心を持って取り組んでくれるなら、それが最高です。そして、なんとかして姉弟の消息を探し出し、いつの日か、再会を喜んでほしい。その日まで、三代目になるかもしれませんが記念の木をみんなで育ててください。それが僕の願いです。
 室戸岬の嵐は並大抵のものではありません。僕の小学校の中谷義高校長は式典のたびに岬の松の木のように背は低くともしっかり根を張ってねばり強くたくましく生きよと訓示されました。高台にある学校の校庭で幼木から育てるのは大変だと思います。

 20歳の父の日記にも嵐の日の記録があります。
 
 1928(昭和3年)8月18日(土)雨
 
 暴風雨。夜来の荒海の為、港塞 殆ど潰えんとす。
 豪快と言ふべきか 悲惨と言ふべきか。偉大なる自然の力に対しては文化を誇る 人力もあまりに小さい。数か月の日子と萬を越ゆる労力と而して十数万の巨資を 費(す)。その人類砕身の営みの結果を自然は一瞬にして粉砕し去ったのであ  る。
  神は常に万生を愛すとかや。
 身方不相応の出資と数ヶ月の苦闘に、今や疲労困憊の極に達せんとしつつある、 六千八百津呂町民の頭上に突如一大鉄槌を下し給つる神の御旨は如処にかある。
 あはれ 貧しき町民の苦闘は更に一入(ひとしお)の激しさを加えた。
 例の通り経済学の勉強。新家の法会 一同手伝いに行かる。日没天候愈々悪し。 兄姉上等家の造作に骨折らる。

 12月12日(水)雨

 久しく行方不明を伝へられし津呂港漁船 多満丸 本日無事帰港せりとの事。本県水産界の為、又乗組員諸氏の為 衷心(ちゅうしん) 慶賀に堪へず。(略)
 床次(とこなみ)竹二郎氏 行き詰まれる日支交渉に一道の光明を見い出さんとして、本日南京入りをなせし由、成功を祈りて止まず。(略)
 
 当時、父の兄は漁船に乗っていました。港は村の命。しかし、天然の港ではなく嵐には耐えられません。沖に出たまま行方不明になる船もあります。僕が子供の頃でもそれは同じで、伯母さんについてあちこちの海の神様にお参りに行きました。
 この年は「満州某重大事件」で張作霖が爆殺され、日中関係が緊張していきます。父は鶴見祐輔の著作などの他、総合雑誌『改造』も読んでいます。社会主義者の言論にも接していたことになります。

父の日記(昭和3年)(8)部落差別

2008-01-27 22:16:05 | 父・家族・自分
 朝青龍と白鵬の決戦を見ました。力のこもった素晴らしい相撲です。僕は大鵬の再来かと前々から白鵬の応援団ですが朝青龍が復帰して、大相撲に楽しみが増えました。内舘牧子という人が朝青龍に罵詈雑言を浴びせていましたが、自分の品格をこそ問うてほしいものです。こんな意地汚い人が東京都の教育委員をやっているそうでいかにも現代です。我が家の女性陣は魁皇の応援団で、怪我なく8勝をあげたことを喜んでいます。

 二十歳の新米教師の日記。
 
 11月29日(木)雨

 夜来の時雨止まず 宿にてかうもり傘を借りて登校。
 第二時限 一年女子実地研究  渡辺さん未だ経験たらず研究の余地大いにあり
 三時限 理科 初めて面白くやる
 午後 ○○部落学芸会の稽古 民たる彼等にはやはりどこか野卑な所があ  る。不愉快だ。余程注意しなければならぬ。(略)
 七時 ○○の学芸会に出席。生徒・観衆にて公会堂は破れんばかり也。十時終  了。田原君を紹介、夜学に関する懇談。十一時帰宅、就寝。

 12月11日(火)晴
 
 六時起床帰宅、冷水摩擦。八時登校、格別変化なし。
 児童に是と言って力をつけ得ざるは自己に確たる信念計画無きによる。慚愧に堪 へず。年来の目的を放棄して教育の研究に従事すべきか、児童を省みずして、自
 己の目的に猛進すべきか。理非は截然(せつぜん)たれども未だにその一を選ぶ を得ず。憐れむべし、往く者は水の如く、昼夜を分かたずとは、大聖孔夫の言。 我、速やかに現在の無為に目覚めて溌剌たる青春の日を一大理想の下に価値づけ つつ過ごさねばならぬのを痛感する。(略)
  
 12月18日(火)晴
 
 本日より常欠児童八名入学(略)

 12月19日(水)晴
 常欠児童多数来たりて室内騒然、全く落ち着きたる学習不能也。読 算 地理の 考査を為す。(略)前の兄さん、相撲見物より帰る。土産話沢山。七時登校 校 長来談。十時就寝。近来全く学業放棄。猛省要。


 12月20日(木)晴

 寒気俄に酷しきためか遅刻児童多し。朝運動をやる。新入児童例によって騒々しくほとほと困怯。読 修 理 考査。
畑山局長、吉松巡査等話しに来る。午後 綴 体(六高)考査 報告後庭球をやる。日没終了。帰宅 夕食。読書…支那の現状。十時就寝。

 この時期、夜間、校下の(地区)ごとに「学芸会」をやっています。学校と言うより村の行事なのかもしれません。どの地区のも大盛況のようです。被差別の学芸会の練習で何があったのでしょうか。「野卑」「不愉快」「注意しなければならぬ」等の表現があります。「民たる彼等にはやはりどこか」という文脈からするとこのころの父の中に差別の意識が宿っていたと言うことでしょうか。
 この年の日記の中で問題に触れているのはもう一カ所です。
 「○○公会堂にて融和講演会あり。講師二人とも訥弁甚し。融和会と言ふのに偉い人が高いところにすはって傲然と構えているのは感心せん。」(7月23日)
 全国が結成されたのは1922年のことです。差別の厳しい高知県では問題を避けて教育は成り立たないとおもわれます。長欠児童の多さにも差別の陰が想像されますが、これにどう対処しようとしたのか、どういう問題意識を持っていたのかを伺うに足る記述は見あたりません。父はこれ以後の教員生活を通じて問題とどう向かい合ったのか、関心のあるところです。
 長欠児童が登校するようになって授業が成り立たなくなる様子は僕が北高で残留孤児二世を担当していたときのことを思い起こさせます。学校に入れなかった二世の子どもたちがグループで校内に入ってきて学校中が騒然となる日があったのです。
 大学に進むことをあきらめきれないで悩む父、あちこちから養子の話があり困惑する父、読んでいると愛おしくなります。

太田議員の誠意ー 国籍取得特例法案の本質

2008-01-26 08:09:43 | 在日コリアン
 昨日、「朝日新聞」は自民党の「国籍問題PT(河野太郎座長)」が特別永住者の国籍取得特例法案を国会に提出する方針を決めたと報じました。このことについては一昨日共同通信の記事を紹介しました。「朝日」の記事で大切なのは太田誠一議員のコメントです。
 
 前回も地方参政権との関連で取り上げられたが、心外だ。戦後、本人の意思を聞かれずに韓国朝鮮籍になった特別永住者に『申し訳ない』ということで、簡単に国籍を取得できるようにするもので、地方参政権の問題は視野に入っていない。

 この法案の柱は特別永住者に限って、届け出だけで国籍取得が出来るようにすることです。こんな画期的なことをするのには歴史的な反省があるのです。
 1952年4月28日、日本の連合国からの独立に際し、日本政府はたった一片の通達で在日コリアンの日本国籍を剥奪し、外国人にしてしまいました。彼等はこの日から主権者としての地位を失ったばかりか、社会保障の権利をも奪われたのです。後に国民年金制度が作られたときにも外国人であるという理由で排除され、在日一世の大半が今日、無年金者であることはみなさんもご存じでしょう。
 当時、朝鮮人の組織が我々は独立国家の公民だと、この措置に反対しなかったのは事実ですが、長く日本に住み、日本国民として生きてきた方々の一人一人の国籍選択権を認めなかったことは国際法に反する暴挙です。この法案を推進してきた太田さんが「申し訳ない」といっているのはこのことを指します。遅まきながら、これらのひとびとに国籍選択権を認めるということです。僕は日本の国会議員の中に太田さんのような方が居られたことに敬意を抱きます。誤解や敵意と向き合いながらあきらめることなく課題に取り組んでこられたのです。その根底に『申し訳ない』という心が宿っているからだと思います。
 このことと外国人に地方参政権を認める問題とは直接には何の関わりもないことです。2001年当時、一部の在日コリアン人権活動家たちが「参政権運動つぶし」などと言って、反対したのですが僕には信じられない行動です。
 日本はいずれ1000万人に上る外国人を受け入れなければ社会が動かなくなるといわれています。今でも200万人近くの外国人が住んでいます。これらの方々の社会参加を促進したり、在留を安定させたりするために、地方参政権を付与したり、国籍取得を容易にする事などを検討する事は大事です。自民党のPTでも二重国籍を認めるかどうかをも含めて検討が始まったようです。
 植民地時代から日本に住む在日コリアン(約40万人)の国籍選択権を確立することは日本の民主主義の強化にも欠かせない課題です。このことについて前に書いたブログがあります。読んでいただければ幸いです。

       http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070716

「北朝鮮帰国姉弟の母校の記念樹枯死」

2008-01-25 15:22:21 | 韓国・北朝鮮
 1月23日付けの『高知新聞』が届きました。僕の投稿が「声ひろば」欄に載っています。長すぎたのか、原稿の一部が手直しされていますが、掲載されて喜んでいます。500円の図書カードまで附けて送っていただき、高知新聞社に感謝します。
 
 「小学校の築山に一本の小さな木(ヒマラヤスギ?)が植えられていた。北朝鮮に帰られた朴さんの記念の樹だ。何か胸に迫るものがあった。(中略)38度線のさびしい鎖。そんなものも、遠からず、きっと取り除いてほしい。日本海を間に一衣帯水の両国、早く遊びに来てほしい。少年たちの生まれたふるさと・室戸岬に来てほしい」
 僕が19歳の時(1961年)の正月の日記です。
 昨年夏、母校・室戸岬小学校を訪ねた時、この木が完全に枯れ果てていることに気づきました。私は顔も知らないのですが、記念碑によれば、私にとっては後輩となる中学生と小学生だった朴貞香・朴元達の姉弟が北朝鮮に帰国したのは日記を記した前年の1960年10月。近くに住んでいた僕の同級生に聞くと、貞香さんと一緒に遊んだり、家族との交流もあったそうで「出来れば会ってみたい」とのことです。
 北朝鮮に帰国した在日コリアンやその日本人妻は独裁政権によって社会の最底辺に位置づけられ、想像を絶する苦難を強いられている人が多いようです。僕も脱北した何人かの方から直接体験を伺ったことがあります。お二人が元気なら、故郷の友達や風景を懐かしく思い、いつの日か訪ねるのを生きがいにしているかもしれません。
 室戸市の関係機関へのお願いです。枯れた木の二代目を植えてもらえないでしょうか。そして今も学校の片隅に立つ記念碑の由来を調べさせ、子どもたちに木の世話を頼んでくださいませんか。いつか北朝鮮から故郷の町に帰ってきた時、その木の元に案内してあげられるように。
 【鈴木啓介=66歳・元高校教員、埼玉県川越市神明町(室戸市出身)】

 校舎の建て替えで記念碑は築山から校庭の一隅に移されました。その碑の脇に立っていたのは細い桜の木です。2003年の春、この記念碑について原稿を書くため、兄に写真を撮って送ってもらったのです。満開の桜の元に碑が立っています。
 僕の日記には「ヒマラヤスギ?」と書かれていますが、もとの木がなんであったかは解りません。小学校を訪ねて校長先生に当時の学校日誌などに記録がないか調べて貰いましたが、廃棄したのか見つかりません。
 あらたに植えて貰うことが出来れば三代目になりそうです。当時の同級生などに聞いて確かめられたら一番いいわけですが、解らなければ桜でもいいような気がします。関係する方々にこの声が届いてほしいと願うばかりです。

 僕の同級生の話によればいつのことか、友達のお母さんに貞香さんのお姉さんから手紙が来て「日本の婦人雑誌を読みたい」「裁ちばさみがほしい」などと書いてあったそうです。
 また島村泰吉先生の書かれた『室戸史余話』には「昭和三十五年北朝鮮に帰った朴一家の音信は絶えていたが、それから三十年近くたって、もとの同級生などへ便りがあり、当時の学友たちが懐かしがっているとの新聞報道がされていた」とあります。
 90年前後の高知新聞などで話題になったのでしょうか。同級生などに当たれば朴一家の情況の一端が解るかもしれません。
 北朝鮮に渡ったコリアンは元日本国民です。またコリアンの妻として渡った日本人は今でもその大半が日本国民です。当時子供だったひとびとはこの日本が故郷です。これらの方々の消息を確かめ、自由な往来を認めさせることは日本国家の義務といわなければなりません。日本人拉致の問題と同様に国民的課題でもあります。今年はなんとかしてこの問題にも光を当てたいものです。

  

嬉しいニュース・国籍取得特例法について

2008-01-24 17:27:50 | 在日コリアン
 東京新聞のHPを覗いたらこんなニュースが流れていました。先日の国会で民主党の鳩山幹事長が外国人の地方参政権の実現にふれたことはこのブログでも伝えましたが、それに対する自民党の対応かもしれません。私たち(在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会)は一日も早く、2001年に自公など与党が発表したこの国籍取得特例法案を国会に提出するように運動してきました。ですから本当なら嬉しいことです。是非ともこの国会で議決してほしいものです。
 永住外国人に地方参政権を付与する問題については丁寧に議論し、付与するとすれば選挙権だけでなく被選挙権も一体でなければならないというのが僕の意見です。40万人の特別永住者のうち、希望する人に無条件に国籍を認めることに国会内にはほとんど反対はありません。全党派の賛成で成立させてほしいものです。  

    国籍取得の要件緩和を 特別永住者で自民部会
                 2008年1月24日 12時50分

 自民党法務部会は24日、国籍問題に関するプロジェクトチームの会合で、朝鮮半島や台湾など旧植民地の出身者と子孫である「特別永住者」について、国籍取得要件を緩和する法案を今国会に提出する方向で検討することを決めた。

 特別永住者が日本国籍を取得するには法相の許可が必要だが、法相に届け出れば日本国籍を取得できるよう手続きを簡素化する内容。2001年に与党が共同提出を目指したが、公明党は永住外国人への地方選挙権付与を強く要求。反対する自民党議員が「代替措置」として国籍取得の要件緩和を主張するなど足並みが乱れ、法案提出を見送った経緯がある。

 民主党は永住外国人への地方選挙権付与に積極姿勢をみせており、与党内の調整が難航する可能性もある。(共同)



 以下は朝日新聞のHPのニュース速報です。

   永住外国人の選挙権案、与党揺るがす火種 民主提出方針

                 2008年01月24日08時08分

 永住外国人に地方自治体の選挙権を認める法案が、与党の結束を揺さぶる波乱要因となる可能性が出てきた。在日韓国人を中心に待望論があり、公明党などが繰り返し提出してきたが、そのつど自民党内から反発が出て成立していない。ところが、民主党の小沢代表が成立に向けて踏み出し、公明党がその動きに期待を表明した。民主党案が提出されれば、与野党で賛否が入り乱れる構図となりそうだ。

 「ぜひ党内をまとめ、提出してもらいたい。私としては歓迎だ」

 公明党の北側一雄幹事長は23日の記者会見で、民主党の動きをこう評した。さらに、自民党内の保守色の強い議員らの反発を念頭に「自民党内でも理解いただけるようお願いしたい」とも語り、今国会での成立に向け、自民党の協力に期待を表明した。

 この法案は、公明党にとって自民党と連立を組んだ当初からの悲願だった。連立参画を翌年に控えた98年に当時の新党平和として提出したのを皮切りに、これまでに衆院だけで計5回提出。しかし、自民党の賛否がまとまらずに廃案を繰り返し、5回目の法案は継続審議となっている。

 ところが、ここにきて最近にない「追い風」が吹いてきた。参院第1党の民主党が小沢代表主導で独自に法案提出に動き出した。そして何より、福田政権になって、こうした法案に理解を示す議員らの発言力が強まってきているのだ。23日には、参院の代表質問で自民党の鶴保庸介氏(二階派)が人権擁護法案の成立を促し、福田首相も「人権擁護は重要な課題だ。政府も真摯(しんし)な検討を図る」と応じた。

 ただ、道は平坦(へいたん)ではない。22日にあった中川昭一氏が会長を務める「真・保守政策研究会」の会合で、最高顧問の平沼赳夫氏がこうのろしを上げた。「2年余り前に幕を下ろした人権擁護法案のほか、外国人の地方参政権問題も動きが出てきた。我々は、いわゆる保守の旗をしっかりと掲げていかねばならない」

 民主党は週明けにも、法案とりまとめに向け議員連盟を発足させる。小沢代表自らが旗をふり、約50人が参加する見通しだ。

 「我々がまとめれば、公明党を追い込んでいける。そうしたら自民党はどうしようもない」。小沢氏は18日の韓国特使との会談で、今国会に法案提出する狙いをこう説明した。民主党が動けば公明党も同調し、慎重論が強い自民党との間を分断できる、という読みだ。

 もちろん、民主党内にも異論はくすぶる。00年7月を最後に提出していないのも、議員連盟で法案作成を進める手法をとるのも反対意見に配慮するためだ。だが、政局優先で小沢代表が主導していることから、最終的にはまとまるものとみられている。

 〈永住外国人地方選挙権付与法案〉 日本に永住が認められた20歳以上の外国人による申請をもとに、地方自治体の首長や議員の投票権を認める法案。最高裁が95年に「(選挙権付与は)憲法上禁止されていない」との判断を示し、在日本大韓民国民団を中心に地方選挙権を求める運動が広がった。98年以降、公明、共産両党などが法案提出を繰り返している。


恐ろしいこと

2008-01-23 22:57:32 | 中国
 西村さんの「異種の考えを認め尊敬する社会の構築を」を読んでいただけましたか。僕はほぼ全面的に西村さんの考えに同意します。異なった考えを認め尊敬するということは、自分の考えを絶対化しないということです。他流試合をしながら自己の考えの普遍性を高める努力をつづけていくことですし、だから、間違っていたことが解ったら潔くそれを認めなければなりません。これは、当たり前のようで実はなかなか難しい生き方です。しかし、そのような努力をつづけようとする一人一人の存在が民主主義を支えているのであり、それが消えていけば民主主義は成り立たなくなって、「一神教」が猛威をふるいます。
 
 さて「三年自然災害」です。この事典(岩波現代中国事典)の文字を写しながら、出会ってきたあの方この方のお話を思い出しました。短い文章の中にひとびとの受難の実態と背景がよくわかるように書かれていると思います。
 しかし、恐ろしいことに、このおぞましい「人災」の、殉難者数をはじめ肝腎なことが、中国の社会では今日に至っても何一つ明らかにされていません。共産党の独裁政治が連綿と続き、大躍進を主導した毛沢東が今日なお建国の父であり、その権威を否定するわけにはいかないからでしょう。社会のタブーとなって調査や研究の対象にならないようです。
 大躍進の頃、僕は高校生で何の記憶もありませんが、教員になったのは1966年で文化大革命が始まった年です。いつのことか、岩波映画社が制作した『夜明けの国』を授業でみせたことがあります。中国東北部の人民公社などが紹介されているのですが、僕がそれを肯定的にとらえていたことは間違いありません。紹介されているひとびとの言葉に「人類の希望」を感じたのかもしれません。(今、改めて見てみたいと思っています)。
 大躍進は「人民公社の設立、また大衆動員によって、鉄鋼・穀物生産などをきわめて短期間に、急激に増産しようとし、急進的な理想社会の実現を目指した運動」で毛沢東らはこれによって共産主義社会への移行は間近であると述べていたそうです。
 この映画が作られ始めた66年は4000万人(?)の死からまだ数年しか経っていません。しかし、映画のどこにも悲劇の痕跡はなく、希望だけが語られていたのです。やがて僕は遠くから聞こえてくる文革のニュースに耳を澄ますようになり、共産党の独裁を否定する人民の共同体(コンミューン)が生まれるかと期待を寄せたりしました。
 文革に疑問を持つようになったのは残留孤児の帰国が始まり、都立高校の定時制に二世の生徒たちが来るようになってからではないかと思います。誘われてハイキングに参加したりしているうちに、日系人の受難に関わる話を聞いたりするようになったのです。

 岩波書店は、『事典』の中でこそ大躍進についてこのような記事を載せていますが、その膨大な出版活動ではどうでしょうか。『事典』の中でこんな記述をしているなんて、よっぽど関心のある人でないと知らないでしょう。僕は同じ学校に勤めていた忠幸さんに教えられて初めて知ったことです。
 岩波の発行する月刊誌『世界』は大躍進も文革もそれを積極的に評価し、日本の知識人に影響を与えてきたメディアですが、その舞台裏の人民の受難について何かを伝えているのでしょうか。気づいた方は教えてください。『世界』の前の編集長が、金日成の談話やそれをたたえる美濃部亮吉都知事などの記事は載せても、世の中の人が普通に疑問に思う事にはふれないということを知って以来、僕は長い間この雑誌を読んでいないのです。
 驚いたことに、その編集長は、植民地統治をしたことのある日本人は朝鮮の政治を批判する資格が無いと言っていたのです。韓国の「独裁政治」に対しては容赦のない批判を繰り広げていましたから、言っていることのつじつまが合っていません。中国に対してはどうだったんでしょうか。同じようだったかもしれません。
 60年代から70年代にかけて僕に影響を与えた日本のメディアや学者たちのほとんどが、いまだに中国共産党に遠慮してか、真実を追究する努力を放棄しているようです。なんで「中国社会のタブー」に日本のメディアや学者が同調しなくちゃならないんですか。浮かばれないのは中国の民衆です。本当にこんな事でいいのでしょうか。
 オリンピックが近づくにつれ、「日中友好」の声が高まるに違い有りません。それはそれで結構なことですが、中国では今も共産党の独裁が続いており、ひとびとに真実を追究する自由がないこと、人権を確立するたたかいで数知れないひとびとが獄中にあることなど厳しい現実に対する想像力を失わないでいたいものです。そのためにも、僕にとって、身近に住む中国から来たひとびととの交流を深めることはとても大事なことなのです。僕はそういうことこそが「日中友好」の内実だと思っています。
 

「3年自然災害」という人災

2008-01-22 08:13:08 | 中国
 昨年から残留孤児やその中国人妻のお話を聞くようになって「大躍進期の飢餓」が身につまされるようになってきました。皆さんの多くには何のことか解らないでしょう。僕もほんの少し前まで年表的理解を出ませんでした。そこで、少し長くなりますが『岩波現代中国事典』の該当語彙の説明を書き写すことにします。時間をかけてゆっくり読んでみてください。大変なことです。                  

  三年自然災害  1958年の大躍進政策の失敗で、59年から61年までに2000万人から4000万人という史上空前の大量の餓死者を出した事態。中国では「自然災害」と呼んでいるが、政治的要因も大きく「天災」ではなく「人災」だったともいわれている。なお、「3年経済困難」という言い方もされる。

 [死者数、損失規模の推計]
 
 59年から61年にかけて大躍進政策の失敗によって大量の餓死者と膨大な経済的損失が出たことは長らく秘密にされてきた。しかし、文化大革命後の82年に人口センサスが行われた結果、この時期に人口の絶対数が大幅に減少しており、大量の死者が出たことが確認された。また最近の公式文献や研究論文でも断片的にその惨状が明らかにされ始めているが、中国では「非正常死亡」と呼ばれる当時の餓死者数について公式に確認された数字はない。公式文書では2000万人ともいわれていたが、93年に発表された研究では「農村地帯のみで4040万人」、あるいは「出生数減少を含め4000万人減」という推計も出ている。また経済損失は総額1200億元といわれている。
 この惨禍について、中国当局は「経済困難期」があったことは認めたが、その原因は「自然災害、ソ連の(対中援助の)契約破棄、一部指導上の誤り」と主張してきた。しかし、その後の研究によれば、この期間に重大な自然災害は発生しておらず、また「ソ連の契約破棄」も食糧生産にほとんど関係がなかった。つまり、この大量餓死事件は人為的な原因による「人災」であることが明らかにされている。

 [「人災」の諸原因] 

 これまでの中国内外の研究では、この惨劇を引き起こした最大の原因は「生産水増し報告」であったとされる。当時農業の奇跡的大増産を目指した大躍進政策を成功させるか否かが政治問題として農民、特に各地区の幹部にとって大きな圧力となり、生産額の誇大報告が蔓延した。その結果、供出割当量が急増し、供出を達成したら自家飯米もなくなったという。供出を達成できない場合いには「ごまかし報告摘発運動」で隠匿食糧も摘発され、餓死者を増やすことになった。ちなみに当時の公式発表では58年の食糧生産量は3、75億トンであったが、実際はその半分以下の1,7億トンと推計される。
 農業の大増産運動と同時に農民は土法による鉄鋼生産、水利工事に動員され、農村労働力が枯渇し、作物が収穫できなかったところも多い。また毛沢東は自らが描く共産主義ユートピアの一部として大躍進期には農村での無料公共食堂を開設させたが、結局は大量の食糧を浪費する結果となり、まもなく解散された。事態を深刻化させたもう一つの原因は、飢餓が発生した地区の農民は歴史的に流民となって村を離れ他郷で働いたり、乞食をして危機を乗り切ってきたが、大躍進期には地方幹部が流失を阻止したため、無用の被害を増加させ、一部では流失しようとする農民を逮捕し暴行を加えたという。

 この災害を破局まで導いたのは59年の廬山(ろざん)会議であり、この会議の結果、中国共産党中央は毛沢東の命令通り、大躍進の強化継続を命じた。また、彭徳懐(ほうとっかい)批判に続いて全国的に展開された反右派闘争で大躍進の継続に躊躇する多くの地方幹部を右派分子として粛正して運動を強行したため、犠牲者をさらに増やした。
 これらの惨状は文革終結までひた隠しにされてきたが、文革後になって河南省信陽地区の実情の一部が明らかになった。「信陽事件」として知られるこの大量餓死事件も当初中央に報告されることなく、事態をいっそう悪化させた。60年になり党指導部は大量の幹部を送り込み救済を始めたが、すでに同地区の人口の5~20%が餓死していた。安徽(あんき)省でも300~500万人が餓死したという。当時、党中央が救済に乗り出し責任者の処分を決定(実際の処分はなかったという)したのは信陽地区の一例のみであり、全国的状況について信頼できる資料は残されていない。
 一家・一村全滅、食人事件、食糧暴動に対する流血の弾圧など当時の惨状を断片的に伝える資料や文学作品も現れている。しかし、今なお大災害期の餓死者数、そのほか被害に関する正確な数字を知ることはできない。
 こうした大躍進の惨憺たる結果について劉少奇らは大きな衝撃を受け、調製政策へと転換するが、これを不満とする毛沢東との対立が発生し、後の文革(66年からの文化大革命のこと)発動への導火線となった。(辻康吾)

「けんちゃんの吠えるウオッチング」

2008-01-21 15:43:35 | ふるさと 土佐・室戸
 雪の予報でしたが川越は降りません。昨日は高校のクラス会で銀座に出かけました。関東在住の11人の出席で、僕は病状を含め近況を報告しました。この年になると病気を抱えている人、体験した人が少なくありません。かつて僕の主治医に同じように世話になった信夫君からいろいろと話を聞かせて貰いました。その主治医は今回欠席です。これからの連絡体制を相談したところ、9人がメールをやることがわかり、とりあえず僕がネットワークづくりをする事にしました。

 先ほど、民主党の鳩山幹事長の代表質問を聞きました。政府・自公に対する批判と民主党政権への意気込みが伝わってくるいい演説だったと思います。具体的な課題としては、アイヌの先住民族としての権利にふれていたことに注目します。アイヌ文化振興法はこの先住権を認めていないため、アイヌ系のかたがたの生活権の確立の点できわめて不充分です。民主党政権ではこの課題に挑戦するのでしょうか。日本の国のあり方にとってはきわめて重要な課題です。
 外国人参政権にもふれていました。これも同様に大事ですが、外国人に地方参政権を認めるとするなら、被選挙権も選挙権と同様に認めなければなりません。公明党のように選挙権だけとするのは新しい差別をもたらすもので民主主義の強化にはつながらないと考えます。
 また、植民地時代から在日するコリア系のひとびとについては国政を含む参政権を保障する道を別途、考慮しなければならないことはたびたび指摘してきたとおりです。この点についてはあいかわらず、何の言及もありません。
 この国会では民主党には腰砕けにならないようになんとしても頑張って貰わなければなりません。どんな権力でも長く続けば腐ることは誰にでも解ることです。自民党政権が腐り果て、統治能力を欠いていることは国民の多くにも解っています。公明党・創価学会の支援が無ければ小選挙区でも当選出来ない議員が大半です。参議院選挙では公明党・創価学会の支援があっても一人区で惨敗しました。今日の鳩山さんの演説のようにしっかりと主張し、市民と手をつないで行くことが出来れば自公政権を終わらせることが出来ます。
 この国に民主主義が根付いていくために、政権交代が実現することが是非とも必要です。民主党と野党の真価が問われる歴史的な国会が始まりました。

 さて、いささか旧聞に属しますが、「けんちゃんの吠えるウオッチング」というブログに面白い意見が載っていたので紹介します。このブログの主は高知の西村さんで、朴保の室戸公演の時にも紹介させて貰いました。民主主義の社会の確立をめざす市民の倫理を実践している方だと思います。

 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_3560.html

治療方針

2008-01-19 07:13:16 | 父・家族・自分
 ガン研有明病院に出向くのは今年4回目です。今日から僕の主治医になるのは呼吸器内科の西尾医師です。2年前の今頃、術後の抗ガン剤投与を受けた際のお医者さんです。抗ガン剤治療を受けるに当たって、患者に病状に対する認識がきちんとあるかどうかを厳しく問われた印象があります。甘い認識では治療に伴う副作用や危険性に対応できないからだろうと思いました。
 一昔前にはガンについて患者に告知するかどうかを廻ってずいぶん悩んだり、議論があったりしたものですが、今、僕が体験している医療現場ではそのような悩みはあり得ないように見えます。患者に対し、コンピューター画面で病状を丁寧に説明し、治療方法を提案し説明し、同意を得た上で治療が始まるのです。患者が病気と向き合うことが医療の前提になっています。僕の友だちでもある中川医師は病状を淡々と説明するのですが、医者個人としてはつらいことも少なくないと言って居られました。
 さて西尾医師の説明で解ったことです。僕の病状は肺に2、3カ所転移が確認されるが、ガンは全身にあると推測される、進行は今のところ緩慢だが、急に進行することもある。前回と違ってこれからの抗ガン剤治療の目的は、進行を遅らせること。ガンが一時的に小さくなることが期待されるがそれは、10人に2~3人の確率である。
 抗ガン剤の副作用などを考えるとこのまま治療をせず、身を天に任すことも一つの選択です。結局のところ、少し様子を見ながら、治療を始める時期を見定めることにしました。月に一回程度外来で間接撮影、3ヶ月ごとにCT検査。様子見が長く続くことを期待するばかりです。
 再発した以上「治る」という希望はなくなりました。然し、希望がまったくなくなったわけではありません。ガンとつきあいながら社会的活動を続けている先輩も居られます。昨日書いたように、今のところ僕は元気です。一日一日を大事に生きていきたいと思います。かわらぬ交誼をお願いします。

ガン患者として生きることになりました

2008-01-18 11:43:14 | 父・家族・自分
昨日は寒い一日でした。妻、娘と3人で月島のもんじゃ焼き「おしお本店」でゆっくり昼食のあと、ガン研有明病院で中川医師から検査結果を聞きました。ガンが右肺に転移していることが確認されました。昨年、10月の検査でほぼ確認されていたことなので驚きは有りません。肺のCT検査に加え、PET検査で裏付けられた格好です。他の臓器などへの転移は認められません。
 外科的治療法は不可能で、時期を見て抗ガン剤治療を行うことなどが考えられます。18日に呼吸器内科の先生に内科的療法について説明を受けることになりました。病気の進行は緩慢で、いずれにしてもゆっくり対応を考えるのがよいというのが主治医の意見です。
 手術から2年、僕は再び「ガン患者」になりました。今の医学ではガン細胞を完全に撲滅することは出来ません。体力、気力、免疫力を高め、ガンと共存しながら生きる他はありません。手術の時点で5年生存率は30%。先のことは誰にも解りませんが、日々を大切にしていきます。今まで通り、やりたいことをやり、会いたい人に会い、自然の恵みに抱かれながら生きていきたいと思います。
 僕は信頼する医師や家族・友人に恵まれた幸せな「ガン患者」です。友人の皆さんに心配をかけますが、病気になり、いつか死を迎えるのは避けられない定めです。皆さんと一緒に精一杯与えられた人生を楽しむことが出来れば、それ以上のことはありません。きいちご基金などの当面する活動には、何の差し支えもありません。移動教室、一泊研修旅行などの企画立案に早速取りかかります。
 毎日が日曜日ですから暇はたっぷりあります。思い出したら川越にも是非遊びに来てください。勿論、声がかかれば出かけることもします。(でも、夜の会合は苦手です。宿泊付きなら大丈夫。)
 よけいな心配だけはなさらないようにお願いします。病状なども遠慮無く聞いてください。

聞き書きをやりませんか。

2008-01-16 17:09:18 | 中国残留日本人孤児
 きいちご基金の忠幸さんが中国残留婦人・孤児の聞き書きを一緒にやろうというかたを捜しています。①意欲がある②暇がある③中国語が出来る、の3条件が整っていれば最高です。然し、仮に③が満たされていなくても①②が有ればなんとかなると僕は思います。
 右も左も「侵略」とか「植民地支配」とか「開拓団」とか「残留孤児」とか…という言葉で歴史が解ったつもりになっている人が多いのが現実です。歴史の証人が隣人としてこの社会で生きているのに、これらの人と会話の一つも出来ない(しようとしない)人が歴史論争をやっていたりするのです。
 私たちは、閉ざされた世界で孤立を余儀なくされているひとびとと友だちになって、私たち自身の現実の生活を豊かなものにすることを目的に活動しています。それらのひとびとの歩みを知ることは、私たち自身が生きているこの時代をよく知ることにつながります。そして私たちの一人一人が歴史を書く人になっていくことが大事です。
 関心がある方が居られたら連絡してください。
 
 忘れない内にお知らせしなければならないことがあります。尋ね人です。
今から7・8年前、中国黒竜江省寧安市民主村(旧寧安県石岩鎮)に肉親の墓を捜しに来た日本人を知りませんか。
 3・4人の日本人(内一人は白髪の男性)が来たのですが、墓は見つからず、「学校の近くだった」という事でそのあたりに花を供えて帰っていったそうです。
 ところがその後、水道工事で穴を掘った際、人骨が出てきました。男女各一体。男は軍人だったようで軍服の階級章と長靴が出てきました。
 このときの工事責任者は1月12日のブログに書いたTさんの奥さんの弟さんです。Tさんご夫妻はそのとき里帰りしていて、偶然この現場を目撃したのです。弟さんは遺骨と遺品をビニール袋に入れ再び穴に埋めたということです。
 Tさんご夫妻はそれ以来、墓捜しに来た日本人の手に遺骨を渡してやりたいと思い続けて来たのですが、どうすればいいのかわからず、気になったまま、今日に至っているそうです。
 
 どうすればいいのでしょうか。どなたか、いい智慧が有りましたら教えてください。

 22日に目黒の祐天寺で日本政府が主催して韓国人の遺骨の送還、慰霊式があると友人が知らせてくれました。韓国から50人の遺族が来日して出席するとのことです。23日にはソウルで式があり、約100人の遺族の手に遺骨が渡るといいます。九州に住むこの友人のようなひとびとの運動が実って、解放独立から63年目にして漸く実現します。あちこちに散らばっているたくさんの遺骨はこれからです。なんと言うことでしょう。
 
 Tさんの奥さんは1941年に河北省で生まれた中国人です。日本軍の侵略をもろに受け、国共内戦、大躍進期の飢餓などを生き抜いて、残留孤児のTさんと結婚しました。「日本鬼子」と一緒になったばかりに文化大革命期の苦労はなみたいていのものでは無かったでしょう。その奥さんが旧日本軍軍人の遺骨のことをここ数年気にかけているのです。なんとかして遺族を捜し出したいと思います。

父の日記(昭和3年)(7)悪戦苦闘

2008-01-15 17:30:31 | 父・家族・自分
父の日記のつづき。新米教師の授業など子どもたちとの日々。
  4月27日(金) 晴
 春季遠足。朝から子供が問ひに来るので校長に相談に行く。校長宅にも蝟集せり。西浜の漁師の処へ日和を聞きに行く。遠方の児童は既にかまえて来だしたので日和はあまり面白からざるも出向と決定。八時半出発す。
 加領郷に行きしに、鯨取れしとの事。半時間位待ちて見に行く。児童珍しかる事、切。
 其れより、田野川原迄行き、昼食。福田寺を見て帰途に就く。途中、道草を食ふ児童多く実によはる。五時半、羽根崎にて解散。砂上に座して子供相手に又しゃべくる。安岡兄サイダーを持ち来る。石にて抜いてラッパを吹く。うまい。帰りて校長宅にて鶏の御馳走。

  4月30日(月) 晴
 (略)月末計算。常欠の者はスッカリ特別へ入れた。百分数 九十四・七
割合に良い方である。

  5月1日(火) 雨
 自習の時間、児童があまりに解らぬので遂に鬱積を爆発させた。白墨入れのふたがこはい事 割れよった。読方を三時間やり、更に昼食にも帰さず、ぎっしきやる。雨天の為六年に体育に関する話をなす。(略)

  5月2日(水) 晴
 昨日の爆発がこたへたと見えて今日は学習振りが余程宜しい。始めて気持ちよく勉強した。午後合同体操。六高は安芸先生がやられる。体操もきちんと予定を立ててやれば存外面白い。(略)

  5月3日(木) 晴
 午後より螟虫取り。暑い中をあっちこっちと監督して廻るのも楽で無い。途中で安芸先生と八幡神社の境内に至り、ビハの御馳走になり、枡嵜神官の話を聞く。四時帰校。(略)
  5月4日(金)
 今朝、川へ顔を洗ひに行く。実に気持ちが良かった。今日は算術 読方共に割合面白く行った。昼は餅を焼いて食ふ。
 午後は又虫取り。ブラブラと監督(西の方面)。(略)

  5月11日(金) 雨
 四年実地研究。児童の活動頗る緩慢。枡嵜先生、遂に途中にて放拠す。
菓子を食ひ乍、批評会。終わりて(略)安芸先生と読方教授に就きて議論を戦わす。自分もどうもしっかりと解って居らない。(略)
 
 漁師に天気予報を聞きに行ったり、遠足の日の様子が想像されて楽しい。このころまだ鯨が取れていたのか。父の父は若い頃鯨捕りの花形だ。
 5月に入ると連日、田圃の害虫取り。7日の日記には「虫取り…五年は本日六円余りもとった」とある。農業組合などが買い取ったのだろうか。村では子どもたちが欠かせない労働力であったことが解る。僕の子供時代(1950年代の始め)にもまだ農繁休というものがあり、米やサツマイモの収穫を手伝った。
 「月末計算」とはなんだろう?子供の出席率か?長欠の者を除外して計算するのか?
 授業で悪戦苦闘する姿は今も昔も変わらない?うまくいかないクラスや生徒のことを考えると病気になりそうだ。僕は妻などに語って慰めて貰ったが、父の小学校では、僕にはほとんど体験のない研究授業が沢山あり、授業を廻って同僚が批評し合う事が多かったことが解る。