川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

入場出来なかった三鷹高校長支援集会

2008-09-30 17:44:39 | こどもたち 学校 教育
 28日(日)から急激な気温変化に身体がついていけず、寝てばかりでした。こういうときは呼吸が少し苦しくなり、なれるのに数日を要することは去年経験済みです。心配をかけてごめんなさい。
 土曜日(27日)は横須賀での室戸岬会に出たあと、幼い頃遊んだ記憶のあるNさんたちと喫茶店で交流。吉祥寺の武蔵野公会堂についたのは6時半頃でした。旧知の豊川さんが居られたので様子を聞くと「満員御礼」で入場が出来ないとのこと。そのうちにカツヨシさんと精さんもやってきました。やむを得ず、妻を含む4人で独自の交流会をすることに。川越にたどり着いたのは11時過ぎでした。

 janjanに集会の様子が出ています。とりあえず紹介します。

 

  学校に言論の自由を! 都立三鷹高校校長が都教委の実態を語る
                        佐藤恵2008/09/30


 石原都政の下、東京都教育委員会は職員会議で挙手などによる採決を禁じた通達を06年4月に出した。これによって教員は自由な討論ができず、学校の活性化も失われると批判した都立三鷹高校の土肥信雄・校長を支援する集会が27日夜、都内で開かれた。 

 会場となった吉祥寺の武蔵野公会堂では、350人の参加者が通路まで埋めつくし、ホールに入りきれない400人の人々が場外で待機した(主催者発表)。土肥校長を支援する多くの人々が開場前から長蛇の列をつくり、メディアも多数取材に訪れた。 

 「学校に言論の自由を求めて!」と呼びかけたのは、教育問題にかかわる学者、評論家、知識人ら17人。「保護者&市民の会」が主催した。

 教育評論家の尾木直樹さんは「(一連の事件は)常識の問題で、まったく恥ずかしい。『言論の自由』というレベルの話ではない。信じられないとんでもないことが今、教育現場で起きている。表現の自由と民主主義を守るために、みなさんと一緒に考えたい」とアピール。

 同高校を卒業した大学生は、「土肥先生は学校のトップでありながら、しょっちゅう現場に出向き、生徒と触れ合った。現場のことをよく知っていた。僕の名前もすぐに覚えて、100m先から手を振って大声で呼んでくれた」と、うれしそうに高校時代を振り返った。 

 土肥校長が舞台に登場。土肥さんが厳しく批判してきたのは、 

1.06年4月に都教委が出した通達=都立校の職員会議における挙手、採決等による決定の禁止 

2.同氏への言論弾圧=匿名者の内部告発により、土肥氏が06年「東京地裁9・21判決」を喜んだことや、都教委委員の米長氏を批判したこと 

3.文化祭における生徒掲示物問題=事実に反することや差別的な表現について校長会の席上、同氏に対し教育庁が「指導」した問題 

4.教育研究会における教員原稿の差し替え問題=執筆教員による他誌掲載の論文が「リベラル」であるとして、教育庁によって当人の無関係の文書まで差し替えられた問題 

5.業績評価への介入問題=本来校長の権限による「絶対評価」であるはずの教員の業績評価について、都教委が「C、D評価を何%以上に」と「相対評価」を強要した問題。



 土肥校長は昨年11月の校長会で前述の「挙手禁止」撤回を求め、今年7月、都教委に対し公開討論を申し入れた。9月には「業績相対評価」について、実施要綱に基づかない指導であると内部告発を行なった。 

 土肥校長はとにかく明るく快活な人柄だ。「私は日本が大好き。ただし平和な日本ですよ」。「運動には処分や異動というリスクはあります。でも大丈夫。こんなに仲間がいるんですから。いまは勇気百倍です」。ユーモアとウイットに富んだ闘いの経過報告で、都教委・教育庁の矛盾だらけの対応を糾弾した。 

 岡本厚さん(「世界」編集長)の司会でシンポジウムが始まった。漫画家の石坂啓さんは「正義の味方(土肥さん)がいて、悪役(都教委)がいる。面白い漫画が描けそうだ」と前置きし、大きく様変わりした卒業・入学式の光景を紹介。いかに不起立で君が代斉唱を拒否するかを連想した。 

 西原博史さん(早稲田大学教授・憲法学)は、「強化される管理統制教育で、教育現場が劇的に変わっている。だが生徒も親たちも、この変化の理由がわからない。それを誰に相談していいかもわからない。それが説明されないことがおかしい、と思うことすらままならない」と、教育問題の難しさ、事態の深刻さを指摘。そのうえで「都教委の横暴を許しているのはわれわれ都民なのだ。都教委にはきちんと説明責任を果たしてもらうべきだ」と強調した。 

 藤田英典さん(国際基督教大学教授)は、「論評のしようがない。東京の教育の非常識が全国に垂れ流されている。教育に業績評価はなじまない」と述べた。
 
 尾木さんは、「戦前ではない。これが首都・東京の現代の話なのか。私たちが気を許していると、こういうことがどこでも起きる。教委の一人一人はいい人で本来優秀な人材も多いはず。だが、組織として特別な集団になってしまう」。「主人公はあくまで都民である。一連のできごとを都民に知らせ、教員や校長が都教委を監視・評価していく行動、運動をやっていく」と力を込めた。 

 土肥校長は「過去の歴史を見ても、言論の自由のない組織や社会、国家は崩壊する。言論の自由がすべて。特に子どもたちにとってはなおさらだ」と断言。
 
 司会の岡本さんは、「土肥さんの主張を広げていこう。絶対に孤立させてはならない」と締めくくった。

  出典 http://www.news.janjan.jp/government/0809/0809288304/1.php

天台寺

2008-09-26 07:03:43 | 出会いの旅
 9月22日(月)
 私たちの宿は二戸市浄法寺町の稲庭高原の麓にある。旅の最後の日の朝、この高原を一周したあと、近くの天台寺に参詣する。

 天台寺 http://www.city.ninohe.iwate.jp/kanko/joboji/tendaiji.html

 例によって僕は鐘を突く。本当に素晴らしい余韻。おさまるまで何分瞑想したことだろう。もう一度衝く。
 本堂に上がってお参りしたあと、当番の檀家の方の話を聞く。この寺の檀家は28軒しかないらしい。訪れる人の接待のため誰かが詰めているのだろう。面白かったのはやはり瀬戸内寂聴さんにかかわる話。
 廃寺に近かったこの寺が蘇ったのは、寂聴さんが得度してこの寺の住職になってからである。20年以上前のことだ。寂聴さんはこの寺に常住し毎朝散歩をしているようだった。
 ある朝のことである。この方は長くて急な参道の階段の途中から「手を引いてちょうだい」と声をかけられた。手を引いて差し上げた。やがて「おんぶしてちょうだい」になった。おんぶして階段を上ったという。寂聴さんはもう65になっていたにしてもなかなかになまめかしい話である。
 今は名誉住職ということになっていて、年に数回法話をするだけだが、その日は万余の人が全国から訪れる。得度したとはいえ幾つになっても色気を失わず、人間のありのままの姿をさらすことが出来る人柄が人々を引きつけるのだろうか。

 今回の旅はこれで終わりである。浄法寺のインターから高速に乗り、三沢空港に向かった。山並みに遮られて二戸のまちは見えない。
 昔、一緒に一夏を過ごした雅代さんがこの町に住まなければ多分絶対に訪ねることのなかったところである。あちこちで人間の原初の姿を垣間見て縄文の世の大らかさと豊かさを想わせられ心が満たされた旅である。私たち二人は雅代さんと正行さんに改めてありがとうをいった。

二戸(にのへ)

2008-09-25 16:37:16 | 出会いの旅
 9月20日(金)
 起き抜けに宿近くの散歩。善知鳥神社がある。「うとう」神社と読むらしい。説明書きにこうある。
 
  善知鳥神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。また、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建された。

 散歩中の人に聞いても「善知鳥 」をなぜ「うとう」と読むのか、またその意味もわからない。「北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定」とあるから、平安朝の頃「えみし」といわれた先住民を虐殺・平定したあと創建されたのだろうか。
 縄文文化の研究が進み、東北の地の先住民の精神文化の豊かさが解明されている中で「夷人」「悪鬼」だの「平定」だのとよくもいえるものだ。この神社を支えている人々の精神はどうなっているのだろう。

 旧青森港桟橋にいって係留されている八甲田丸を見学。急行に乗って来て「終着駅青森」のホームから我先にと走った記憶が蘇る。朝の陽光に包まれた港から陸奥湾の風光を楽しむのは多分初めてだろう。桟橋から下北半島に向かう観光船に長い行列が出来ていた。今度はこれを利用して妻の母を仏ヶ浦に案内してやろうと思う。

 
 三内丸山遺跡
 巨大な縄文遺跡の発掘あとを公園のようなものにして無料開放している。僕が疲れていて元気がなかったせいかもしれないが、「縄文の風」はどこにも吹いていない。縄文の時代の森や川や海の気配はどこにもなく、人々の生活の息吹も感じられない。ただ展示物が並んでいるだけ。修学旅行の高校生の眠気を覚ます魅力はなさそうだった。早々に退散。

 この日の午後は八甲田山のロープウェイ山頂駅付近に広がる散策路を歩く。湿原の展望台でひるね。絶景。目もくらむ城ヶ倉大橋を経て十和田湖温泉泊まり。


 21日(日)
 奥入瀬渓流から十和田湖・休屋へ。今度の旅で初めての曇り空。乙女の像まで湖畔を歩く。昔来たときとは場所が違っている?

 昼過ぎ、二戸市堀野の雅代さんを訪ねる。18歳の時に別れて以来27年がたったが全然変わっていない。3人の子どもたちのうち二人は高校を出て東京で働いている。高校生の三男は今日、バスケットの試合で県南の一関らしい。
 妻の車で町はずれの景勝地にある田舎料理店「四季の里」に行き昼食。この地方の名物(?)せんべい汁を食べる。夫君の故郷に来て十余年、子育てと労働に明け暮れてきた日々。あと一息で子育てが終わる。これからの長い人生に一抹の不安を感じているようだ。何を生きがいにしていくのか。もともと積極的に友達を作っていく方ではない。妻がいろいろとアドヴァイスをする。四半世紀の月日が流れたとはとても思えない。

 こぶの木神社の祭礼
 
 来る途中で出会った祭を見に行くことにする。新幹線二戸駅のある石切所地区のこぶの木神社の祭礼だが度肝を抜かれた。金勢様(男根)を載せた輿(こし)が先触れとなって練り歩いたあとを老若男女多くの人々にひかれた山車が進む。

 http://www.igr.jp/Column/kobunoki/kobunoki.htm

  神社に行ってみた。参道の民家の軒先につるされている行灯に川柳らしきものが書かれている。健康なエロスの発露。それを臍(へそ)出しルックの女子高校生の一団が声を出して読んで行く。性の営みがこんなにもあけすけに語られる祭りの風景が今の日本にもあったのだ。
 神社には飴色に輝く素晴らしい金精様が安置されている。家族(?)につれてきて貰ったおばあちゃんが当屋のおじさんに勧められて手を伸ばしていいこいいこしている。僕も丁重にさわらせて貰って御利益を祈った。
 このお祭りでは金精様を模した指輪やイヤリングが販売され人気を博しているらしいが、今年は祭りに間に合わなかったという。残念がっている人の声があった。

 二戸駅前のバスターミナルには数台の山車が整列し、その前の広場で様々な出しものが披露されている。僕は地べたに腰を下ろして各層市民からなる吹奏楽団の演奏をきいた。土・日と二日続きでこの地区の文化活動の成果がこの野外で交流されているのだ。新幹線の駅はおおいがこのように地域の人々と直接つながっている風景はそうはあるまい。

  九戸城址

 後ろ髪を引かれる思いで九戸城址に向かう。二戸市の中心・福岡町にある。思ったより広大な城跡であり、歩き尽くすのは僕には少し難儀。秀吉の天下統一に最後に立ちはだかった九戸政実(くのへまさざね)の居城だという。
 近年、ここを故郷とする高橋克彦という人が『天を衝く(つく)』(講談社文庫)という長編小説を発表して政実のことを書いている。妻は前に読んでいるが旅行の前はあわただしく読み返すことが出来なかったらしい。
 「荒城の月」の詩碑があったので読んでいるとこのあたりに住む田村さんが九戸城と豊臣軍の決戦について丁寧に解説してくださった。

 九戸城址 http://www.bunka.pref.iwate.jp/pls/cult/kwd_detail?keyno=F000000192

  九戸城の戦い http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/azuchi_1.html 

謀略によって降伏した政実は宮城県の栗駒山麓で約束に反し、処刑されたという。僕はこれらすべての史実に無知であり、田村さんと妻のやりとりに耳を傾けているだけだったが、ここにも栗駒の名が出てきたので妙に興味がわいてきた。このたびの地震で大きな被害を受けた栗駒山麓への思いは先に書いたことがあるが、政実を祀る神社があると聞き尋ねる理由がまた一つ増えたのである。『天を衝く』も読まねばなるまい。
 それにしても6万もの秀吉の軍勢がこの城を取り囲んだというのだから驚きである。土井晩翠がこの城跡に立って「荒城の月」を詠んだとするのもむべなるかな。しかし、晩翠の詩碑は土にまみれ古城の一隅に放置されている。説明版一つ無い。
 二戸になぜ九戸城址があるのかもわかった。この城は江戸時代初期には福岡城といわれたが南部が盛岡城を築くと廃城となる。近年城址の整備に当たり、福岡城址とする意見もあったが政実の戦いに因み九戸城址と命名されたという。田村さんのお話は穏やかな口調だがふるさとを深く愛し、政実を追慕する気持ちがこもっているようだった。夕暮れの古城址でお別れをして、私たちは今宵の宿「天台の湯」に向かった。

 ここにはかなり遅くなってからだが、雅代さんのお連れ合い正行さんが迎えがてら来てくださった。二十歳過ぎに東京に出て働いているときにふたりは結ばれた。人の多いところは苦手らしく故郷に帰って仕事をしているが、その活動範囲は北は大間崎から南は盛岡付近にまで及ぶという。
 僕のイメージする岩手人は隣のおじさんとKさんから構成されているが、正行さんも地味だが率直で親しみやすい岩手人だと思った。今は酒を酌み交わすわけには行かないがいつかまた出会える日があればどんなに嬉しいだろう。練習試合帰りの息子さんが待つ堀野の家に向かう二人と握手して別れる。今日は本当にありがとう。 

下北半島(下) 縄文の風

2008-09-24 15:52:33 | 出会いの旅
 19日(金)
 朝食後、宿(海峡保養センター)の裏山にある町営牧場の展望台に登る。みごとに晴れて津軽海峡が一望できる。先年訪ねた函館山も前方にくっきり。大間崎の尖端に向かう脚下の風景も良い。
 なかなか去りがたくて昨夕訪ねた大間崎に寄る。コンクリートの階段を下りて津軽海峡の潮をなめてみる。よく見ると啄木の歌碑があった。

 東海の 小島の磯の 白砂に

   われ泣き濡れて かにとたわむる

 ほか二首。小島は目の前に浮かぶ弁天島に違いないという。啄木がこの地を訪れたという確かな証拠があるらしい。


 仏ヶ浦

 津軽海峡を右に見ながら南下。切り立った断崖の上を走る。仏ヶ浦に降りる駐車場があった。かなりの高低差だ。降りるのはいいが、果たして帰ってこられるだろうか?疲れて動けなくなったら、僕だけでも遊覧船に拾って貰おう。そう心に決めて降り始める。途中からは急な階段。一歩一歩踏みしめながら降りる。

 国道の展望台から見た展望も素晴らしかったが、海岸に降りて見あげる岩の芸術の迫力と巧みを紹介する力はない。大町桂月は「神わざ鬼の手作り」と詠んだが他にどんな形容句があろうか。僕は昨年、熊野の鬼ヶ城を訪ねた際、皆さんにも機会をつくって訪ねてくださいといいましたが、ここもまたそういうより他はありません。

 http://www.net.pref.aomori.jp/sai/hotoke.htm


 青森の宿までの道のりのことを考え、脇野沢をあきらめ「道の駅 かわうち湖」で遅い昼食。むつ市内(大湊)では斗南藩士上陸地に寄っただけで陸奥湾岸を南下。野辺地港でニチロ漁業の船員だったという方の話しに耳を傾けたあと夕暮れの青森につく。

 下北半島の旅は本当に良かった。そこに吹く風が違った。縄文の風とでもいうのか。
 
 僕は川内の道の駅で買った『下北 忘れえぬひとびと』(田中忠三郎著 荒蝦夷刊)を読み始めたばかりである。著者は今でこそ、名の知られた民俗学者(僕は恥ずかしながら存じ上げなかったが)だが、青年期は縄文土器やアイヌの民具の収集・研究に没頭し、変人扱いされた方である。今回の旅で割愛した脇野沢には明治のはじめまでアイヌが住んでいたらしく、田中さんは足繁く通ったという。
 そういえば東通村にはオイッペという集落があり、学校があったように思う。津軽海峡を行き来するアイヌの人々の交流もつい最近まであったのであろう。
 旅先で偶然手にした本だが読んでいく内に人間の元々の姿にふれていくような感動が呼び起こされる。下北を吹く風の秘密の鍵をたった1000円で買ったのかも知れない。

 『下北』http://homepage2.nifty.com/araemishi/new4.html 

「ぼくの8年間に不正は絶対ありません」

2008-09-23 16:26:13 | ふるさと 土佐・室戸
 高知の「こにやん」がぼくが旅行中に知らせてくれた新聞記事です。大分県のことを聞くたびにぼくは高知県の大崎・前教育長のことを連想していました。やはり、そうだった。「僕の8年間に不正は絶対ありません」。大崎さんだからこそ言い切れることで、大崎さんだからこそ信じられる言葉です。
 この春、職を辞するに当たり、届いた激励の言葉は数千に達したといいます。この国の闇の深さを暗示すると共に希望の在処(ありか)を力強く指し示す数字です。
 大崎さんのような人はそうはいません。まして、「教育長」となれば期待するのが無理かも知れません。しかし、人はどういきればよいのか、どんな人生が楽しく豊かな人生かを教えてくれる貴重な指導者です。僕はまだその謦咳に接したことはありませんが、このような方を知り得たことはとてもとても嬉しいことです。この方のお陰で「こにやん」とも知り合いになれたのです。
 嬉しい気持ち、誇らしい気持ちでいっぱいになったので、皆さんにも紹介します。



 支局長からの手紙:飛べ、たんぽぽの種 /毎日新聞高知版 8月4日
 
  「僕の8年間に不正は絶対ありません」

 大分県教委の教員採用を巡る汚職事件を機に、全国の教育界が揺れています。県教委でも県議に依頼され、元教育長ら元幹部9人が採用試験の合否を個別通知していました。「受験者本人も知った上での要請なら、そのような人間は採用できない」。ある市町村長の依頼を突っぱねたのが、今年3月まで県教育長を8年勤めた大崎博澄さん(63)=高知市桜馬場=です。働きながら夜学に通い、県に入庁後も大学の通信課程で学んだ苦労人です。

 就任直後のことです。「不登校は放っておけない」。幹部の反対を押し切って、当事者の親子に会いました。教育長が直に相談を受けるのは前代未聞です。結局、登校にはつながりませんでしたが、一生懸命耳を傾けたことで、「自分を責めることをやめ、生きる道を見つけたようです」。8年後の今も交流は続いています。

 相談は次から次へと押し寄せました。退職時にも未解決のままの問題があり、「辞めたから知りませんとはいきません」。引き続き相談を受け付ける「たんぽぽ教育研究所」(090・7626・3543)を開設しました。無償です。まだ建物さえありません。

 弱者に目を配る姿勢は体験に基づいています。子どもが保育園から高校までいじめられ、不登校、引きこもり、高校中退に追い込まれました。「20年ほど前は相談窓口がなく、親子で完全に孤立しました」。だからこそ、今、時間をかけて聞くことを心がけます。難しい問題が多く、解決できないこともあります。「教育は水戸黄門のようにはいきません。まずは孤立感を取り除くことです。一人じゃないんだと気づくと、気持ちが楽になります。お母さんがそうなれば、子どもにも伝わります」

 知事の交代などを機に、07年12月に辞表を出しましたが、知事に慰留されます。議会との関係も厳しくなり、年明け以降、苦境に立たされます。そんな時、自身、びっくりすることが起こります。「辞めないで」「本当にお世話になりました」。手紙、メール、電話、面談……声援が次々と届いたのです。これまで相談に応じた保護者や先生、一般県民らからでした。「誠実な努力は無駄にはならないのですね。自分のやってきたことに自信が持てました」。激励の数は何千にも及びました。

 取材は大崎さんが監事(監査役)を務める高知大で行いました。私が個別の相談事例を具体的に尋ねようとすると、穏やかな口調で「本人が読んで傷つくことがあってはいけません」。いじめと不登校問題がライフワークです。今はたった一人の活動ですが、仲間を増やすべくたんぽぽの綿毛は飛んでいきます。【高知支局長・大澤重人】

大崎さんからの挨拶状 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080604 

下北半島(上) 尻屋崎・恐山

2008-09-23 10:49:08 | 出会いの旅
 好天に恵まれ、満ち足りた思いで、北東北の旅から帰ってきました。以下、備忘録。

 9月18日(水)
 三沢から北上、六ヶ所村むつ小川原港に寄る。ここには1973年3月、妻の弟を誘って来たことがある。「むつ小川原開発」が国策として押しつけられ、これに反対していた寺下村長が僅差で村長の座を追われた直後のことではなかったか。あの頃には影も形もなかった巨大な港ができあがっており、今もなお、拡大工事が行われている。
 
 むつ小川原港の様子 https://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2000/kakunen/kak0131.html

 国策に翻弄された末に今は石油備蓄基地や原子燃料サイクル基地として「発展」しているが、今回の旅ではカット。寺下さんたちの思いを受け継いだ人たちが今もいて、流れに抗した生き方を模索しているようだ。


 菊川慶子さん http://komanoyu.hp.infoseek.co.jp/kikukawa_01.html


 東通村の猿が森砂丘の近くにヒバの埋没林があるというので訪ねる。

http://www16.plala.or.jp/shimokita-isan/new_page_111.htm


 尻屋崎
 とうとう地の果ての岬に来た。車道正面から大柄な野生馬が迫ってくる。運転している妻が怖いといって暫く停車。無事よけて通り過ぎていってくれた。あちこちに立派な馬糞の山。残念ながら津軽海峡のむこうに北海道はみえない。昼食。
 馬と灯台が素晴らしい岬だ。http://simokita.org/sight/siriya/


 恐山 
 海岸線から美しい森の中を恐山へ。途中でヒバの森をくぐってくるおいしい水をいただく。恐山はいったいが小宇宙、宇曾利山湖という大きな「海」に面しているのには驚いた。
 ぼくは13歳の時に弟を亡くした。そのとき以来、弟は賽の河原で石積みをしているものだと思っているふしがある。妻が教えてくれるにはせっかく積んだ石も鬼がやってきては壊してしまうので石積みは限りなく続くという。ここ恐山には子供の頃誰かに聞いた説話の世界がわかりやすく再現されている。
 子に先立たれた親の思いとはどんなものであろう。遠い昔から地の果てとしかいいようのない恐山にまで巡礼の旅を続けてきた人々のことを思う。
 五智山展望台で千葉から来たという青年に出会う。恐山菩提寺は曹洞宗の寺で、住職がやっているブログで玄侑という人との対談に触発されてたずねてきたと教えてくれる。僕らがマルクス主義に希望を見たのと変わらない精神の働きなのだろうか。疲れ果てたが何とか一周することが出来た。

 恐山あれこれ日記 http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2008/01/index.html 
 

 恐山菩提寺 http://kenbun55.hp.infoseek.co.jp/osorezan.htm


 夕陽が津軽海峡に落ちる頃、大間崎に着く。ここぞまさに本州の最北の岬。岬端を道が廻っており、海抜2~3M。カモメ食堂の主人だという方がかすんで見えない函館方向の地名を教えてくれる。埼玉県和光市の出身でここは奥さんの故郷。あちこちで食堂をやってきたが風光に優れ、客足が落ちないここが最高だという。灯台のある弁天島の西方に日が落ちてゆく。
 

三沢

2008-09-18 07:20:31 | 出会いの旅
 17日(水)13時半、三沢空港着。
 太平洋をみんと四川目という海岸に直行。展望台もある公園になっている。金毘羅神社脇に大きな石碑。米軍機の演習による騒音被害が限界に達し、この地区の人々が1988年以来集団移住することになり、閉村にあたりたてた記念碑。そういえば、轟音を発しながら米軍機が太平洋のかなたに飛び去ったばかりだ。
 やや北上して小川原湖畔にある「斗南藩記念観光村先人記念館」を訪ねる。廣澤安任という先人の事績を顕彰する立派な記念館。会津藩が滅ぼされた後、新政府に願い出てこの下北半島の荒地に移住、設立されたのが斗南藩。廃藩置県で青森県になるが、会津出身の廣澤安任という人はここに洋式牧場を開き、殖産興業の基礎をきづいたという。
 小川原湖畔に沿った道を三沢に向かう。長芋とごぼうの広大な畑が見事。こんな長芋畑は見たことが無い。
 夕暮れの古牧温泉渋沢公園着。カッパ池を中心とする広大な敷地に渋沢栄一の東京の本邸などが移築されていて、構内を車で回ることもできる。民間の会社が運営しているが入場は無料。渋沢神社に栄一と敬三の巨大な銅像が並んでいてびっくり。十和田の山中の産だという「ミロのヴィーナス」はすごい。巨大なケヤキの木の皮をはいで磨いただけ。投げ入れ観音ともいう。なぜ、こういうか?皆さんも機会があったら尋ねて実感してみてください。

 ミロのヴィーナスhttp://blogs.yahoo.co.jp/groundwork555/22424265.html 


 古牧温泉元湯に入る。肌がぬるぬるする気持ちのいい温泉。一日の疲れが取れる思い。
 今日はこれから下北半島へ。好天。

大間崎

2008-09-17 07:31:54 | 出会いの旅
 今日はこれから羽田へ。昼過ぎの飛行機で三沢に向かいます。行き当たりばったりの旅ですから、雅代さんに会うことと宿泊地の他は何も決まっていません。
 明日は大間崎です。台風が接近中とのことだけれどせめてここだけはよく晴れてくれるといいなあ。先日の15夜の日にここの夕陽とお月様を撮影した方のブログがあります。 
 
 大間崎の夕陽と満月http://blogs.yahoo.co.jp/trsfy879212/25641483.html

 岬の風景はこんなふう。http://kenbun55.hp.infoseek.co.jp/ooma.html

 ぼくは四国の室戸岬で生まれたせいか、「はじっこ」が好きです。北の宗谷岬や礼文島のスコトン岬から沖縄・与那国島の西崎(いりざき)まで訪ねた土地では必ず「岬」というところに行って来たといえるでしょう。そういえば喜納昌吉の歌で知られた与那国島の東崎(あがりざき)では短い時間でしたがおすぎさんとご一緒させて貰いました。この島で行われた映画祭の講師として来られ、同じ宿に泊まったのです。http://homepage1.nifty.com/takeishi/okinawa/yaeyama/yonaguni/newpage4001.html

 喜納昌吉 「東崎」 http://jp.youtube.com/watch?v=bt_SoYSSBiM

 まだ見ぬ大間崎、どんな出会いがあるのだろう。楽しみです。泊まりは「大間温泉・海峡保養センター」です。

 旅先でインターネットが利用できれば別ですが、「川越だより」はまた数日間お休みです。いい土産話ができますように。

北東北の楽しみ

2008-09-16 07:49:18 | 出会いの旅
 脚のシビレがいくらか改善されたようで、昨日は体を横たえることなく一日を過ごしました。この半年、気になりながら、話せなかった人々と電話で交流しました。話し相手も内容も「中国残留日本人孤児」「同2・3世」にかかわることが大半です。10月になれば健康もスッカリ回復して自由に活動できるという思いが積極性をうみだしはじめたのでしょう。気力も回復基調といえるのかな。
 このようにぼくはまことにわかりやすい人です。体調に気力も行動もほぼ完全に左右される超凡人です。

 明日から北東北の旅をしてきます。宿泊予定地は17日(三沢)18日(大間崎・下北半島尖端)19日(青森)20日(十和田)21日(二戸・岩手)です。下北半島・三内丸山遺跡などの見学と池商の頃の生徒だった雅代さんと会うのが楽しみです。
 雅代さんは78年入学で一年次にぼくがHR担任。彼女が3年生の夏休みに北海道・十勝・広尾の三親牧場に世話になりました。生徒5名、我が家4名が2週間ほど牧場近くの一軒家で生活したのです。我が家の娘と息子はお姉さんたちにかわいがられて忘れられない思い出をつくりました。(筈です)。

三親牧場 http://www.do-plan.co.jp/sansin/

 卒業から27年がたちました。クラスメートたちとは会うことがありますが、岩手県に住むようになった雅代さんとは多分卒業以来でしょう。この旅の計画はサクラの季節に思い立ったものです。抗ガン剤治療を思ったより早く始めることになったためお蔵入りになっていました。紅葉の季節には早いのですが、気がせく性分はどうしようもありません。21日、互いに辿ってきた人生の話を交流する一時が楽しみです。

三鷹高校長・土肥信雄さん

2008-09-15 15:09:52 | こどもたち 学校 教育
 こんな新聞記事があることを知りました。励ましを受ける思いです。
 

  日刊スポーツ '08人物体験記
 ● 校長先生たった1人の"反乱"
  「言論の自由を守れ!」

 東京・三鷹に気骨のある校長がいる。2年前、東京都教育委員会は、都立学校の職員会議で先生の挙手、採決を禁止した。都立三鷹高校の土肥信雄校長(59)は「現場の言論の自由が奪われている」と抗鐵の声を上げて今も戦いを続けている。現職校長が、都教委に公然と異議を申し立てるのは異例のこと。なぜ校長は立ち上がったか。背景には確固たる信念があった。

●都教委「職員会議での挙手禁止」に異議

 1人ぼっちの「反乱」だった。都教委は06年、職員会議で挙手や採決によって教職員の意向をはかることを「不適切であり、行わないこと」と通知を出した。同年11月の校長会で土肥校長は都教委に「子ともたちに民主主義を教える教職員の言論の自由を奪うのは大きな矛盾。何より生徒と直後触れ合っている教職員の声が反映されないと活性化につながらない」と撤回を求めた。
 人事権を握る都教委に現職校長が反旗を翻すのは極めて異例。降格や異動を恐れたのか、約200人が出席した校長会で賛同した校長は1人もいなかった。都政委の意向は強く、翌07年には通知が守られていないとして4校の校長が厳重注意を受けた。
 今年4月の校長会で土肥校長は撤回を再度求めたがまた1人ぼっち。「通知は校長の権限強化のためというが、本音は校長を言いなりにして、かつて多数決によって職員会議の決定権を握った教職員を完全に管理したいだけ」という。8月には「意見を述べ合い、都民にどちらが正しいか判断してもらう」と公開討論を要求したが、却下された。


●東大・大手商社

 中学・高校時代、サッカーや野球に打ち込むスポーツ少年だった。畜産に興味を覚え、東大農学部に進んだが大字紛争の真っただ中。入学から約1年後には安田講堂事件が起きた。権力構造を批判するクラス討論には参加したが「思想には共慰したが暴力的なことは嫌いだった」。権力構造のトップに立つエリートも養成する東大にいることに矛盾を感じ、中退して紛争にのめり込んでいく学生たち。畜産の夢が捨てきれず、卒業して大手商社に入社したが「思想に共感しながら中退というリスクを負わす、企業に入った後ろめたさを強く感じていました」。
 輸入制限商品だつた牛肉を取り扱ったが、談合の実態に直面。「社会的地位も高い会社がなぜこんなことをしなければいけないのか」と上司に訴えると「利潤の追求のためなら仕方がない。みんなやっていること」と黙殺された。「言いたいことが言えて筋が通る職場にいたかった。自分の居揚所ではないと思った」。2年で退職した。
 30歳で都立高校の教師にになった。「平等や民主主義を考えながら、思想の伝達をしたかった。自由にものを言える場所だとも思った」。教員免許を取得し、小字校勤務を経て、高校の教壇に立った。組合の闘士でもあったが「主張が自分たちの権利獲得ばかりになり生徒のために汗をかかなくなった。中には楽をしたいという思惑まであった。何のために教師になったのか」。自問自答の上、管理職になることを決意した。

●リスクを負う

 2つの信念がある。「リスクを負う」「言論の自由を守る」。東大と会社時代に身をもって得た人生のこだわり。現職校長でありながら、都教委に立ち向かろ姿は、その信念を体現している。
 毎朝昇降口に立ち、生徒に声を掛ける。全国大会出場のサッカー部をはじめ各部活動の合宿先にも顔を出す。多くの生徒の名と顔が一致する。保護者や生徒から信頼も厚く、今回の「反旗」も支持され、市民団体も署名活動を始めた。
 来年3月に定年を迎えるが「もちろん戦い続けます」。嘱託の採用試験を受け現場に立ちながら都教委と向かい合っていくつもり。「(試験は)落とされるかも。妻から『都教委に逆らわなければ嘱託ものんびり続けられたのに』と嘆かれました。それでもいい。落とされたら都教委を問いただすだけ。リスクを負って言論の自由を守り、生徒たちの未来を守る。それでいいんです」。 【松田秀彦】

『日刊スポーツ』(2008/9/8)の原典は見つかりません。

 出典 http://wind.ap.teacup.com/people/2645.html

 この記事だけではなぜ管理職の道を選んだのかはわかりません。しかし、「自己に忠実に生きようとしている人だなあ。」「こういう人は信頼できる」というのがぼくの感想です。
 1960年代末の東大闘争をはじめとする全共闘の運動の基底にあった思想に触発されたからこそ、ぼくの人間として、教員としての生き方に大きな変化が生まれ、70年代以後の自分なりの歩みがありました。
 闘いの渦中にあった人たち自身はその後どんな生き方をしてきたのか、ぼくにはよく見えません。とくに「公教育解体」などのスローガンを叫んでいたと思われる人々がすすんで我が子を「有名」私学に通わせるなどということは僕には理解できないことです。
 先日亡くなったぼくの後輩のお連れ合いは当時、あるセクトの活動家だったそうですが、今は東大教授で政府のどの分野かの相談役(?)です。その後輩については卒業以来出会うことが一度もなかったのでどういう生き方をしてきたのか皆目見当がつきません。葬式には元大臣などが来て弔辞を述べたそうです。「畏れ多くも」天皇からの「おことば」もあったといいます。ぼくからは遠い世界の人になっていたのです。

 人生ですから変化はつきものです。ただ、かつて親しく交流したことがあるものとしてはどこかでその人の人生にふれ、聞いておきたいことがあったなあと思わないわけではありません。

 若い頃の自分のあり方をずうっと心に留めて、今、自分に出来る闘いに生きようとする土肥さんの話を読んで、ぼくはこういう人の友達でありたいと思うことしきりです。

 27日には横須賀で故郷の「室戸岬会」があります。終わったら土肥さんの話を聞きに行こうと思っています。

http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/9bd9900614c3472901a478b1cba8a545 集会案内
 

信州での療養生活

2008-09-14 12:50:14 | 出会いの旅
 9月9日(火)
 群馬県下仁田で高速を降り、南郷村経由で佐久に向かう。村のはずれの勧能集落の先で全面通行止め。やむなく下仁田に戻り、コスモス街道経由で望月のみどりの村の温泉へ。丘の上の別荘地の中にある。遙かに北アルプスを望む露天風呂で休む。
 湯ノ丸高原への登り口近くのAさん別邸についたのは6時頃。5月に世話になって以来、庭の整備工事中である。

 10日(水) 
 体がなかなか動かない。それでも近くの上田城へ。学生の時、先輩のKさんを訪ねて上田に来たときに寄って以来である。まさに病気療養中の老人のよちよち歩き。城内を行き来する高校生の姿がおおい。上田高校のクラスマッチが付近の施設を使って行われているらしい。ぼくは市営の球場にいってソフトボールの試合を見る。こういうことは久しぶりだが本当に気分がいい。
 山本鼎(かなえ)という人の記念館による。農民芸術運動の指導者だという。温かくふっくらした感じの人物画が記憶に残った。

 山本鼎記念館 http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kanae/index2.html


 堀あとのけやきの散歩道を歩いた後、別所温泉の安楽寺、青木村の大法寺となじみのある風景を楽しむ。大法寺近くの「蕎麦どころ・坂井」で昼食。妻はここのそばが大いに気に入ったようだ。ぼくは疲れ果てて横にならせて貰う。この日は早々に帰宿。


 11日(木)
 湯の丸高原から池ノ平へ。マツムシソウ、ヤナギランの綿毛などが目立つ山道を時間をかけて一歩一歩前進。北高校の中国クラブの面々と登った日を思い起こす。「雲上の丘」に何とかたどり着く。好天に恵まれ、日本アルプスの山々もはっきり遠望することができる。浅間の噴火口は指呼の間だ。驚いたのは奥秩父の山の上に浮かぶ富士のシルエット。気味が悪い。せっかく姿を現してくれたのだがぼくにはそう感じられた。
 シートを敷いて昼食。真下は池の平湿原で野外学習の子どもたちの声が良く響く。妻が薦めてくれるままに仰向けになって一眠り。これぞ地上の楽園。

 池の平 http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/ikeno02.html 

 宿近くの「湯楽里館」で入浴、八ヶ岳から美ヶ原あたりまでの景観が眼前に展開する。

 12日(金)
 中仙道の長久保宿と和田宿によって霧が峰に向かう。二つの宿場歩きは健康が回復してからにとっておく。
 八島湿原の駐車場が空いていたので寄る。本当に久しぶり。よく整備された木道を例によってヨチヨチ歩き。鎌が池というところまで800M。トリカブトの青紫の群落が印象的。池近くのベンチで昼食。ここでも仰向けになって一休み。通りがかりのお姉さんが優しい声をかけてくれる。
 帰りに聖徳大学附中の子供たちの一団をやり過ごす。望月に寮があり、毎年この付近に来るらしい。元気溌剌の女子中学生の笑顔を見ると嬉しくなる。
 今日は立科の「権現の湯」に入る。ここはいいよと勧める人がいただけのことがあるすばらしい展望。眼前に広がる黄金の穂波の向こうから浅間連山が迫ってくる。ここでも天を見ながら一寝入り。

http://www.town.tateshina.nagano.jp/b02_sisetu/onsen/onsen.htm 


 14日(土)
 妻は前夜から片付けや掃除、おかげで10時過ぎには帰途へ。コスモス祭りでにぎわう内山峡により、萩の見事な園城寺を見学。夕刻に帰越。

 ただいま

2008-09-13 19:55:46 | 父・家族・自分
 先ほど帰ったばかりです。信州・東御の友人宅に4泊させて貰い、あちこちで少しですが歩いてきました。お陰で元気が出てきました。

 留守中も「川越だより」を多くの方が覗いていただいてありがとうございます。

 この間に、熊本県知事が川辺川ダム計画の白紙撤回を求めるという嬉しいニュースがありました。全国各地の不要なダムの見直しにつながってほしいものです。

川辺川鮎日誌 http://blog.goo.ne.jp/fsfc-gamei/d/20080912 

 もうひとつうれしいニュース。保坂展人(のぶと)くん(社民党・衆議院議員)が民主党との選挙協力で、東京8区(杉並区)から立候補するということ。従来どおり6区からでは小選挙区での勝算はありません。前回は自民党の大勝のお陰で、比例区で奇跡的な議席を得たことは皆さんも記憶されているかも知れません。

 東京8区 wikipedia.org/wikihttp://ja./%E6%9D%B1%E4%BA%AC8%E5%8C%BA 

 国会の質問王を自認していますが、八ツ場(やんば)ダム(群馬)問題でも活躍しています。民主党がこのダム計画の白紙撤回をマニフェストにいれるという話もあり、保坂議員の活動が現実味を帯びてくるかも知れません。
 彼が中学を卒業する頃からしばらくの間、私たちと交流があったため、我が家では今も「のぶとくん」です。相手は石原伸晃さん(自民党総裁候補)。応援のし甲斐があります。
 真面目で鋭い質問王が骨太で信頼感のあるリーダーに変貌していくことをぼくは期待しています。民主党との選挙協力は正しい選択で、彼のみならず、社民党の閉鎖的な体質を変えることにつながるかとも思っています。

 保坂展人のどこどこ日記  http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/599b09ba50381257f0db9d31f657c3cb

「仮釈放」

2008-09-09 07:17:01 | 父・家族・自分
 4月から続けてきた抗ガン剤治療はひとまず終結する事になりました。
昨日、主治医の西尾先生の診察がありました。血液検査では引き続き第6回目の抗ガン剤治療をおこなうことに何の障害もありません。
 しかし、10月にはいると足尾への移動教室からはじまって、週末には毎週たのしい企画が予定されています。二つのクラス会、北海道からの来客。これらの機会を生かし、人々と交流することがぼくにとっては何よりも楽しく意義のあることです。闘病にとってもプラスになるはずです。
 9月に6回目の治療を行うと副作用のため、10月の楽しみに影響が出てきます。さしあたり、移動教室は無理です。
 先生の意見。抗ガン剤治療は目に見える成果を挙げた。よく頑張った。あと一回やるのもいいが、それで顕著な変化が期待できるとはいえない。ここは休養して、好きなことを楽しむのも一計だ。
 と、いうわけでたちどころに結論が出ました。「無罪放免」というわけではありません。しかし、治療の効果は着実にでています。日常生活を楽しんで様子を見ていきましょう、ということです。とりあえず、10月の中旬にCT検査をしてこの半年の治療効果を検証します。

 副作用も徐々に回復していきます。10月に入れば普通の市民生活に戻れるでしょう。ご心配を懸けましたが、従前同様ご厚誼の程、よろしくお願いします。そのうちに2回目の快気祝いをやらなければなりませんね。

 午後、かつて教育大学新聞会で活動した友人たちと東大前の「馥苑」で落ち合って昼食会をしました。彼らは増上寺であった旧友の葬式帰りです。
 
 せっかくいただいた人生です。大事にして精一杯楽しみたいと思います。今日はこれから長野県東御市の友人宅を訪ね、週末までのんびり過ごさせて貰います。春に行きたかった北東北の旅も近く実現します。


三鷹高校長への弾圧を許してはならない

2008-09-08 04:58:03 | こどもたち 学校 教育
 公開討論を求める三鷹高校の土肥校長に対し、都教委は卑怯にも別件で難癖をつけ、弾圧を始めたようです。


    都教委:三鷹高校長から聴取、守秘義務違反を理由に
                        9月5日毎日新聞


 都教育委員会は4日、職員会議で教職員の意向を確認する挙手・採決を禁止した通知の撤回を求めている都立三鷹高校の土肥信雄校長(59)から事情聴取を行った。都教委は「個人情報に当たる」として内容を明らかにしていないが、土肥校長によると都教委側は、土肥校長が教職員の業績評価に関する内部情報を公表したことが、地方公務員法上の守秘義務違反の疑いがある点を聴取の理由にしたという。
 土肥校長は8月4日に、都教委に対し公開討論の開催を求める要請書を提出したが断られたため、同22日に自身の見解を示した文書を報道各社に配った。この中に都教委が同19日に公開討論を断った口頭の回答を載せ、業績評価について都教委が各校長に「C・Dを合わせて少なくとも3割程度はいるはずである」と指導したとする内容を記した。
 都教委は00年度から業績評価を伴う人事考課制度を導入。教職員の自己申告を踏まえ、校長らが4段階(A~D)で評価している。
 聴取後に取材に応じた土肥校長は「都教委は業績評価の実施要領で『絶対評価』をするよう明記しながら、『相対評価』を前提としたような指導をわれわれ校長に強要した。この不正を国民に知らせることが国民の知る権利を保障することだ」と主張した。
 さらに土肥校長は「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉を引き、「私は確かに校長会、都教委の1人としては孤立している。しかし、それ以上に多くの方が支援してくださったのに感謝している」と述べた。
 一方、都教委の担当者は一般論として「業績評価の分布は公表しておらず、外部に漏らすのは不適切だ。評価が上位に偏るのが課題という意識は持っているが、画一的な指導はしていない」と話している。【木村健二】



 なんということだろう。今度は内部告発に対する報復である。

 「都教委は業績評価の実施要領で『絶対評価』をするよう明記しながら、『相対評価』を前提としたような指導をわれわれ校長に強要した。この不正を国民に知らせることが国民の知る権利を保障することだ。」

 内部告発は憲法や法律で定められた公務員の義務であり権利ではないのか。自分たちで定めた「実施要領」を自ら破り、本当は相対評価を校長に命じているとすれば事情聴取を受けなければならないのは教育長である。民主主義のイロハもわからない連中が都教委を占拠しているのか。

土肥校長の公開討論提案については教育委員(もと副知事)からの動きがあると報道されていました。

  8月29日 都教委:「意見聞いて」教育委員が注文 採決禁止問題
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080829k0000m040160000c.html 


「連帯を求めて孤立を怖れず」。 懐かしい言葉である。しかし、土肥校長は決して孤立などしていない。孤立してなりふり構わなくなっているのは都教委の役人たちではないか。

 学校が荒廃している。どうしたらいいのか。職員会議のあり方、教員評価、どれも大事。それを公開で議論しようというどこが悪いのか。
 日本の権力を握り続けてきた自民党の総裁選挙という公開討論がはじまりそうだ。その次には総選挙という公開討論がある。世界も日本も壊れてしまいそうな昨今である。こういうときだからこそ民主主義の根本に帰って衆知を寄せ集め、何とかして羅針盤を整えなければ。
 学校も教育行政も同じではないのか。

 こんな集会があることを知りました。ぼくは今日、癌研有明病院で検査を受けます。抗ガン剤治療を終結するという結論になったら、土肥校長の応援に行きたいと思います。こういう人を大切にしなければなりません。私たちの社会を成り立たせるための貴重な存在です。

 
 ◎ 学校に言論の自由を求めて!
 ~都立三鷹高校の土肥校長が、東京都教育委員会の実態を語る

■日時:2008年9月27日(土)
     午後6時10分<開場> 6時40分<開演>
■会場:武蔵野公会堂ホール<℡・0422-46-5121>
     井の頭線・JR吉祥寺駅公園□徒歩2分
■「今までの経過と都教委の実態」
     土肥信雄さん(都立三鷹高校校長)
■パネルディスカッション:「都の教育の現在を考える」
  パネラー:土肥信雄さん(都立三鷹高校校長)/藤田英典さん(国際基督教大学教授)/尾木直樹さん(教育評論家)/西原博史さん(早稲田大学教授)/石坂啓さん(漫画家)(順不同)
  コーディネーター:岡本 厚(雑誌「世界」編集長)
資料代●500円

 二〇〇六年四月、東京都教育委員会(都教委と略す)は職員会議での挙手や採決で教職員の意向をはかるのを禁止する通知を出しました。
 これに対し都立三鷹高校の土肥校長が「この通知によって、教員の間に何を言っても無意味という空気が広がり、自由な討論がなされず、学校の活性化にもつながっていない。」と通知の撤回をもとめました。
 そして、子どもたちや学校のために、自分か都教委かどちらが正しいのか、人びとの前で意見を交換しようと都教委に対して、公開討論を要求しました。


 しかし都教委は応じようとしません。それならばと、土肥校長は「自分の意見を広く一般に表明し、今まで都教委がしてきたことを全て話そう」と決意されました。それがこの集会です。
 先生たちの言論の自由を奪うことは、子どもたちの活発な活動や、自由な意見を抑えることにつながります。
 とにかく都の教育がどのような実態にあるか、知ることが必要です。みなさん!ぜひご参加くださり、土肥校長のお話しを聞いてくたさい。

■主催:「土肥校長と共に学校に言論の自由を求める」保護者&市民の会

呼びかけ人:
 藤田英典(国際基督教大学教授)・尾木直樹(教育評論家)・勝野正章(東京大学准教授)・石坂啓(漫画家)・広田照幸(日本大学教授)・喜多明人(早稲田大学教授)・西原博史(早稲田大学教授)・池田香代子(翻訳家)・醍醐聰(東京大学教授)・奥地圭子(東京シューレ)・小森陽一(東京大学教授)・毛利子来(小児科医)・暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)(敬称略・順不同)

『黒潮』から

2008-09-07 06:57:54 | 父・家族・自分
 ぼろぼろになりそうなガリ版刷りの学級文集『黒潮』創刊号があります。1952年12月、津呂小学校(高知県安芸郡室戸岬町)5年東組発行となっていますが担任の増井忠義先生が編集発行したものです。

 作文 詩 俳句 の3部に別れて作品が紹介されています。先生は巻頭でこう呼びかけています。 
  
 文章は心の鏡のようなものです。見たこと、聞いたこと、自分の心に強く感じたことを すなおに ありのままに 心の鏡に写し出すように心がけましょう。

 詩と俳句が中心です。中野善久くんが「岩の上 みんな書いてる 俳句かな」と詠んでいます。浜にいってみんなで俳句に挑戦したのでしょうか。

 どの部門にもぼくの作品が載っていますが我ながら気恥ずかしくなる駄作です。とくに作文と詩はひどく、先生の願いとはかけ離れています。それでもこれがぼく自身なのです。隠すわけにはいきません。
 増井先生のおかげで残っているぼくの小学生時代の<作品>のうち、「詩」と「俳句」を級友たちの作品(一部)と共に紹介します。



  <詩の部>から
     


     あら波   山下礼儀(みちのり)

  あらなみが モーターボートをけずる

  よせてくる波のあとから

  また波がおしよせてくる

  ごうごうとしぶきをあげて よせてくる

  立っているぼくまでも

  つれていかれそうだ



     海    中野善久

  大波小波にのった船

  かじ取り元気で いさましい


  大波小波にのった船

  それ 港に近づくぞ

  それ 今のまに 早く入れよ

  いそげよ いそげ



      太平洋   鈴木啓介

  広い広い太平洋に   

  船が 木の葉のように

  うかんでる 

  どこまでも続く
 
  この海は

  だれにもまけない 

  強い心と大きい希望を

  もっているらしい

  僕らもこの海に負けない

  強い心と大きい希望を

  もちたいものだ



     戦争はいやです   鈴木啓介

  昭和16年にはじまった 世界大戦

  思い出すとはらはらする

  7年前に終戦になったとき

  胸をなで下ろしたことを 思い出す


  戦争のため 足をなくし

  どことなく歩いていくひとの

  あわれなすがた   

  たくさんの人々は

  このあわれな人を

  どうみまもって いるだろう


  戦争のため

  たくさんの損害を受け

  多くの人の命をなくし

  どこにも良いことはないのに

  人々は どうして戦争するのだろう

  ぼくは戦争をするのは

  ぜったい反対です

  世界中がゆたかな 平和な国に

  早くなりたい 


   <俳句の部>から

  ゆうぐれに 堤防の子供 とんぼとり    中野善久

  松の上  からすとんでる 二羽三羽    山下礼儀

  海は波 山はみどりに 囲まれて      釣井千恵子

  夕暮れに 空いちめんに  うろこぐも    中谷美与

  子守して 畑に行った 母を待つ       中谷加代子

  冬の朝 さむいさむいと ひばちふち     中野治雄

  しずけさよ きらきら光る お星さま     堺 政子

  うれしいな みんなたのしい お正月     田所知子

  松の木に カラスとまりて さわがしや    門田兵敏

  サイレンの 声聞かぬ前 火の始末      中川里子

  秋風に すすきがゆれる さびしそう     松井美恵

  庭の花 風に負けずと 立っている      寺尾美和

  あめふりに ぬれてとんでる すずめの子

  白雲が 山のかげから もくもくと      森 節子

  冬空に 寒そうに見る 星の数

  夕焼けの あとに残った からすかな     柳井美奈子

  夕暮れに からすかあかあ 泣いている    沖 幸智

  岩のかげ からすとびたつ 羽音かな     松本邦啓

  猫の子が こたつまいくる 冬の雪      岸川文子

  菊の花 ゆったり咲いて 咲き乱れ      松田充司

  秋の花 色とりどりに 咲き乱れ       福留君子

  うつくしき 星の火花が 夏空に       大黒安佐子
 
  カチカチと ふくめんもいる 火の用心

  流れ星 あっというまに 消え去った     山崎 淑

  チンチロと 虫のさびしく 泣く夜かな

  遠い海 お船は遠く かつおつり       吉岡範子

  冬の山 枯れ木に小鳥 とまってる      鈴木啓介

  冬の空 ピイヒョロとなく とんびかな

  めじか船 帰る頃には 白(しら)がたつ

  夕焼けに からすのむれは そまりそう
  

 昨日(土)、大阪高槻の敬宰さんが様子を見に来てくれました。お連れ合いの優子さんとともに老人介護の仕事をしていますがそれが楽しく、やり甲斐がある様子です。高校生の時から、地域の子供会をやってきた人です。人間が本当に好きなのでしょう。青年の頃から、笑うとえくぼが出る表情は変わりません。
 敬宰さんを見送った後、近くの山田というところに「かかし」の作品展(?)を見に行っている留守に、matumotoさんがヤマメを届けてくれました。今回もお母さんを奥多摩に案内した帰りだったに違いありません。感謝。