katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

棟梁にリピーターさんにキウイ教室

2017-12-20 01:12:55 | モザイク教室
今日は棟梁にリピーターさんにキウイの相席教室。まずは棟梁。これから張るバックの花の是正の5回目の絵は見事だったのね。しかしながら、夢中で資料を見て描いたのは良く伝わったが、一体何処に配置するのか?その数は適量なのか?を全く意識していなかった。

難しい事は一切無いのね。何度も言うがお弁当を食べるように、1つずつ食べる。欲張らずに順位を付ける。何個も口に入れない。
ただこれだけ。でも棟梁は順位を付けられない・・・ここに問題が生じるのね。

でも問題なのは、例えばとんかつ弁当ならとんかつがメインなのは、見なくても名前で判る。では幕の内弁当なら何を浮かべる?そうすると、中々とんかつのようには出て来ないと思うのね。つまり色んなのがある・・・とは思うだけで、インパクトは無い。

しかも更に言えば全てがちょこっとだから。煮物が食べ切れないほど・・・みたいな量は無いでしょ?つまりあれもこれもがちょこっとだから、インパクトには欠けるがバランスが良いのね・・・それは俺が俺がと誰も主張していないから。

それを踏まえて考えると、棟梁の作品をお弁当に見立てると、メインになる天使に助さん、角さんのような重要な2つの恐竜がいる事で既にお腹いっぱい感はあるけれど、お弁当箱が大きいから、スカスカに見えるでしょ?だからどうする?って事になる。

例えば男の子のお母さんなら、メインを入れたらお腹一杯にするにはご飯を沢山なんて事にしたり、後少しのスペースなら、何かレンジでチンのおかず入れとこうか・・・とか、理由は色々とあるけれど、その理由で何かを付け足す感じになったりすると思うのね。

これが女の子のお母さんをイメージすると、お弁当箱が男の子よりも小さめって事から、そんな大きいメインをドスンと入れたら、他のモノが入らなくなる感じで、そうなるとどうするか?って事になると、あれこれ少量ずつ・・・みたいになると思うのね。

これがとんかつ弁当と幕の内弁当の違いの話で、ここを更に高級感を出せば、あれこれ沢山は何とか御膳になり、とんかつはとんかつのまま良い肉に変わるだけで、スタイルは何も変わらない。こんな違いになって来ると思うのね。

では本題に入ると、メインは決まっているのだから、メインの邪魔をせず、後はバックの作り方もせず、じゃどうする?なのね。実はここに落とし穴があって、良くある間違いは、一か八かみたいな、有りもしない2つを用いてまるで比べてこっちを取った的な、

正直、何も考えずに初めから出来レースの考え方をする場合ね。そもそも1か八かって2つあるようだけれど、大抵はその内の1つは絶対有り得ない事になってて、つまり悩んだフリをしているだけで、最初から答えは決まっていたりするのね。

でも今回の棟梁はそんな単純な事じゃないのね。ちょっと複雑チックに見えるんだけれど、以前のみどりの間違いと同じような、あれもこれも大事としつつ、2列目をしっかりしないで、3列目以降を緻密考えて、結局2列目を触られると木っ端みじんってあれ。

どう言う事かと言うと、この絵の始まりは大事な犬が死んだ事で、あの世で待ってて・・・私ともう1匹が死んでそっちに行くから・・・の絵だった。つまりあの世を描きたかった事になるのね。この時点でこの世に未練は無くあの世に楽しみを持つ・・・。

そんな絵。そんなもの作って楽しいか?って話。そりゃ悲しくて辛くて、やりたくなくて・・・になるわなっ。それで何度も挫折して2年掛かってようやく抜け出したから、こうしてここまで来た。その辛さから抜け出せば、例えば悲しみが多ければ多い程、

マイナス点数は大きかった事になるのだから、例えばマイナス100だったとしよう。けれど抜け出したのならプラスマイナス0に戻った事になる。最低でもね。ただ普通の0に戻るだけなのに100戻らないとならない訳で・・・。

まっ借金みたいなもん。一挙に返せるなら簡単だが、ばくち打ちでも無い限り、コツコツな訳なのね。それでコツコツ返してやっと0なのね。そしたら悲しみから抜け出した借金0は気分良く、気分も体も楽になった感じで、悩んだ事が何だったか?みたいに、

進んだ訳ね。そうなると今度は加速した。そうね加速。きちんと身の丈で進めば1つ1つ・・・と、悩み借金を返したように、進めば良いのだけど、加速ってのは度を越えるとスピード違反にもなるように本人の自覚無く麻痺してしまうのね。早さに。

それがいつしか普通ってね。慣れって怖いのね。つまり自分の中に勝手にここまで進むって言うような事を思い描くのね。しかもやった事の無い場所であったとしても・・・・計算問題と応用問題では全く違うはずなのに。

そんな加速したままに、バックの絵に入った・・・じゃ一体何が起こる?本人の気持ちなら、じゃ好きな花を選んで、今まで白でこらえて来た分、はじけてド派手に・・・こんな感じだったと思うのね・・・実はそこに落とし穴。

進みたいが故に、あれもこれもと描いた絵は、どれもこれもが適当だった・・・それは早くやりたいから。ノアさんのフラメンコの作品を見て、影の付け方とかが凄い・・・あんな事して見たい・・・と言ってた割に手を抜いた。それではそうならない。

そこで意識を変える事を教えた。当然意識が変われば行動が変わる。とても丁寧な絵にはなったし、ストレートな絵で無く、カーブな絵も描けるようにはなった。しかも以前とは違って、今日はとても上手くなっていた。本人もこれなら・・って自信があった

はずなのね。でもね、根本的な事として、お弁当箱に入らないおかず作ってもね・・・こう言ったとする・・・例えばね。すると、じゃ小さくすれば良いんですか?・・・とすぐに答えが欲しくなる癖があるのね。じゃこれを色んな事に当てはめると、

しょっぱいね・・・と言われたら、じゃ薄めれば良いですか?とか、砂糖入れますか?みたいになっちゃっているのね。これでは物事の解決にはならないのね。その場はしのげてもね。増して、教える側なんて無理なのね。だってそこに何故?が無いんだもの。

棟梁に大事なのはプロセス。何故そうなったのか?であって、直して進む・・・じゃないのね。どうしてそうなったのか?の検証。そもそもつだけ丁寧に・・・と言ってあった絵は、カラーもバラもポピーも全てきちんと描かれていたのね。

今までこれで全てが上手く行って来たんだろうね・・・けれどね、どんなに上手く描けていたとしても入らなくちゃ全部使えないのね。絵画をしていたんじゃないんだから。しかも、じゃ小さくすれば良いんですか?・・・・入れば良いってだけ。

違うのね。既にやりたい事・・・つまり天使と恐竜2匹がいる・・・その残りの場所って考えるのか?それともそれらを引き立たせる為のこの花はここ・・・みたいな、ここにはこれ、ここにはこれであって、ただ綺麗に描けました・・・では、入らないから

小さくするってだけでは、きっとまた入らないから・・・とまた悩むはず。場合に寄っては、何度かやって入らないから・・・と、今度は極端に小さくしたりするだろうね・・・きっと。それは能率効率で何でもしようとするから。

一度で済ます。描き方判れば全部一緒・・・コピーを縮小するのに、全部倍率一緒とか、みんな自分の中のマニュアルのままに、能率効率で進めようとするのね。何故?これは習慣なのね。つまりお店をテキパキ回すには、モタモタはしないなのね。

モタモタってのは、同じ場所を手ぶらでは歩かないみたいな感覚だから、ここに行くならこれも一緒的な感覚。これによって得られる事はスピードアップ。ただ良い事と悪い事は背中合わせで、当然スピードと引き換えに何かを失っている訳で・・・。

先に進みたいんで、そこは触れないが、こんな事が棟梁の中にあって、まずこれを直さないとならないのだけれど、実はもっと深い所に根があって、大抵そんな人は2列目にあるものなのね・・・要するに作るに当たって・・・って最初の方にね。

要するに寂しさの中の絵だった時には、あの世つまり天国だった訳ね。仏像彫刻のようなものをやっている人・・・つまり神様や仏様を作っているのだから、普通の人達よりも天国を良い場所ととらえていると思うのね。

つまり言いたい事は天国とこの世どっちが良い?ってこんなにシンプルな事が天国に大きく点数が入っているって事なのね。しかもかなり大きくね・・・つまりあの世を辞めてこの世にするって言うのは、敵から味方にみたいな感覚になっているはずなのね。

要するにそんな事を乗り切るには頑張らないとならない・・・的な。それも自覚無く。今だからこそ自覚って言っているのね。その1歩が意識ってね。意識を持てば行動が変わるからね。それが証拠に絵は意識を持って上手くなった。

ただ、根本的な生きる事が大事なのに、あの世を美化し過ぎていて、行った事も無いのに、幸せであるかのごとくあの世を語る。なのに見て来たこの世の幸せをあの世のようには語れない・・・この矛盾。ここに大きな問題があるのね。

つまり、棟梁の中であの世を辞めた時点で1番好きな場所が作れない気持ちが大きく、あの世を作れば、作る道中に辞めたくなるくらい悲しい気持ちのままの制作になり、この世を作ればあの世より見劣りする2番目以降の順位のものを作る事になる。

こんな葛藤があると思われるのね。所が受け入れてしまったが故に頑張らないと・・・と、また知らず知らずに意地を張ると、今度は気分を高める為に主張をし始める。つまり1つ1つの花を大きく描く事で全てが自己主張となり、テンションを上げる為に、

利用している・・・そんな感じ。しかも好きな順にね。つまりお弁当箱に大きくおかずを入れないと、小さい花ばかりでは埋め切れないなんて事も影響しているんだろうね・・・所が上手く描けたのに、どれもこれも描いた絵を下地に置くと大きい・・・。

1つだけ・・・って言ったのは、ここなのね。つまり1つの花だけの失敗なら1つ分のマイナスを背負えば良いが、何個もやれば、何個もやったのに・・・となる。しかも、複雑なのはチェッって言える性格なら楽だが、やっちゃった・・・とへこむ。

けど、上手く行ったらスピード違反的にバンバンやっちゃう・・・すっかり忘れて。目先のテクニックなんてここまで来た人は、どうでも良いのね。それよりも心。作り手の心がこんなに迷っていては、へこたれるのね。

全て準備が整っているのだから、問題なのは棟梁の心の中のあの世よりもこの世が良く描けるか?なのね。大きいばかりを繰り返せば大きい事が普通。小さいだけでは小さいだけが普通。メリハリってのは、大きいものもあって、小さいものもある。

そんな中、将棋なんかで例えたが、棟梁には判って貰えなかったが、足軽のような歩は沢山いないと存在感は薄い。それが香車や桂馬や金銀だと2枚づつになり、角や飛車そして王は1枚。バランスってものはこう言うものだろう。

つまり大きいものばかりでは無いと言う事。大きいものをより大きく見せるには、小さいものが必要であり、濃いものを濃く見せるには薄いものが必要になる。ただこんなテクニック以前に、あの世よりもこの世、死んだものより生きているもの。

こうしたはっきりした事がはっきり判れば、そっちに立ってあの世を見れば、少しだけあの世も作れるだろうが、あの世もこの世も同点だのあの世が勝っているとしたら、それは身の回りの人とは価値観がずれているかも知れないのね。

しかも立っている場所がずれているのに、普通と言われても共感は出来ない・・・まずテクニックよりも自分自身の正直な気持ちと向き合うべきなのね・・・そうして2列目が固まれば、基礎がしっかりした土台に家は建つのね。おぉ長っ。


逆にリピーターさんは、まだ自分の思ったような形に切れない・・・だから、頑張って切る。進むよりも質。あぁこれなら・・・ってパーツになるまで、納得の1枚になるまで切る。楽して進まない。これだけなのね。


長くなったからキウイははしょるけれど、きっと2人に刺激的な人だったと思うのね。物事がはっきりしていて、自分の意見を持っている・・・見た目からはイメージとは違う事が返って来る・・・キウイが凄いのは何か?みたいなものを感じたとは思うのね。

まぁしかし、どれもこれもが凄いんで、教える方も気が抜けないのね・・・。

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