katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイ教室って言うか・・・と東錦の表札

2017-10-07 08:09:48 | モザイク教室
今日はキウイ教室だったんだけれど、教室はわずかな時間でほとんどが今作っているドールの装飾台の撮影。かぐやと繋げて、あぁだの、こうだの・・・と大家さんの庭を借りて・・・。そりゃ、俺の画像とは全く違ってお洒落に見えるようにしてくれたのね。

そんなこんなでドタバタしたのもあって、キウイの画像の撮り忘れしちゃって・・・それについては次回。そんな中、俺はまたまたドールの装飾台を1つ作らせて貰って・・・・。


お教室が終わった後は、数日振りの東錦の表札。


まだ終わっていないけれど、タイトルが東錦の表札って言うと、これは何か?と聞かれたら、国語の話になるけれど、表札になるのね・・・。何とかの表札・・・つまり最後に付いた言葉がその物って事になるからね・・・。

では表札ってどんな大きさ?となると、普通は20cm程度だったりする。って事になると、日本の中でも・・・と言って良い位の大きさの表札になる。ちなみに昔80cmの表札を作った事があるけれど・・・・ね。

話を戻して、これが看板、つまり屋号だったら大した大きさでは無いけれど、個人宅の名前であると、看板では無く表札だから、ビックリするほど大きい事になるのね。それで、普通に考えると、名前に東錦が付いている事になるのね。表札だから・・・。

それが東錦を頼まれたとしたら、東錦に名前が付いている事になるのね・・・実はこの違いが全く違う事になるのね。要するにどっち寄りになるか?で、意味が違うものになるのね。そもそも表札なのに大きくした理由は何?となると、東錦寄りにしたいから。

となると、大事なのは東錦であって、何処まで浸食して良いか?みたいになると、国盗り合戦の図みたいに考えれば、名前の部分にも東錦が入っているから、相当な東錦寄りになっているはずなのね。となると、単純に東錦に名前が付いているものになる。

じゃこの話は置いといて、打ち合わせの時にご主人から、katsuさんの作品が欲しい・・・って言う話をされたのね。そんな中、ご主人が写真を撮る人で、かなり本格的で・・・そんな中での話に、例えばカッターを撮影するとして、一般的には全体を入れて、

カッターを見せようと撮るけれど、刃を出してアップにすると、よりカッターに見える・・・って話があったのね。確かにそうなのね。ただそれはカッターを知っているって前提であって、普通カッターを知らない人がいないから・・・なのね。

つまり東錦の場合には、頭だけではオランダ獅子頭に見えてしまうかも知れないから、体の色を見せないと誤解を生むのね。もっと言えば、全身作っても、金魚に詳しく無いと、一般的には金魚?って事になる。だから念を押して東錦なんて言葉を入れたのね。

ただそこまでは必要無かったらしく、こうなったんだけれど、ここで話を戻して、実は一番この表札の中で占めているのは名前でも東錦でも無くバックの柄なのね。完全に矛盾している事になるのね。しかもカッターの話からすると、もはやバックはいらない

事にもなるだろうから・・・。けれどね、もう1つ大事な話があって、katsuさんの作品が欲しい・・・ってここ。となると、katsuらしいものにする・・・って何?となった時、それは俺にしか出来ない事・・・それって何?って、モノには必ず理由がある・・・

ってスタイル。となると、名前は表札だから絶対入れる、東錦は東錦の愛好家のご主人にOKを貰った。ここまでで東錦の表札には見えるようになった・・・ここまでなら誰もがそこそこの腕があれば作れると思うのね。少なくともこの下絵があれば、

アトリエの常連クラスなら特に問題は無いと思うのね。となると、katsuらしさとは?名前と東錦を混ぜた事がどっち?では無くて、どっちも・・・みたいなアイデアと、バックで何が言いたいか?ってモノの考え方を入れたいのね・・・。

そもそも遠い昔から、金魚に携わった人が、品種改良を経て東錦にたどり着いたのね。それを現在の愛好家さん達は受け継ぎ、そして自分の1品を作り出したくて、日々の世話をし、交配をし、選別をし・・・って毎年毎年繰り返しているのね。

それって果てしなかったりする時間や、繰り返しの時間、少しづつ何かを変えて・・・試行錯誤して・・・そんな事の繰り返しなんじゃないのかな?って思うのね・・・だから、繰り返しのパーツが欲しいのね。

しかも愛好家さんは普通に飼うのなら難しくないですよ・・・って。ならば繰り返しのパーツなんて難しくないですよ・・・って事にしないとね・・・普通な事は普通にサラッと・・・つまり俺の作り方は話のまま、体験したまま、その日のままなのね。

そう思っただけなのね・・・しかも和風っぽくとも言ってたのね。ただきっと金魚自体が和風ではあるけれど、念を押した和風の文字、浅葱色って色、そして更にバックの模様・・・としたいのだけれど、そこは単純では無くて、ぽくなのね。あくまで。

そもそも愛好家さんは東錦なら何でも良い訳じゃないのね。自分の1品なのね。でもルールの中で・・・つまり単純に和風柄を入れれば良いんじゃなくて、いにしえの東錦じゃなくて自分の1品だから、古典落語じゃなくて新作落語なのね。

だからまんまじゃなくて、あくまでぽく・・・。和風ぽく・・・そこが大事だったりすると思ったのね。それがもし単純に東錦の表札って名前の通りに作ったとしたら?もしバックを無くしてカッターの刃のままにしたら?・・・

東錦に凄く似ていて、文字も上手くて・・・ってだけになる。そうじゃなくて、katsuの作品となった時、作品って何?となったら、katsuが作っただけで良いのと、katsuの作品では、意味が違って来る気がするのね・・・。

何しろこのブログのタイトル通り・・・芸術家への道なのだから。きちんと似ているだの綺麗だのだけじゃなくて、芸術品に見えるようにしたい訳で・・・。それならそこに意味のある事をしないと・・・何と無く綺麗で良いのなら、装飾台と同じになる。

これもまた俺の作ったものに違いは無いが、katsuが作っても芸術品では無いと思うのね。これは誰でも真似が出来るから。見ればね。けれど、考え方だったり思想がガッチリ入ったものは、上っ面は真似が出来ても、そこに真の意味があるか?無いか?では、

同じ人が作っても全く意味の違うものになる・・・そう言う気持ちで作っている・・・なぁんてね。


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