katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじら教室

2017-05-27 01:12:04 | モザイク教室
きょうはくじら教室。まぁ本人が言ってたが、確かにくじらの教室の雨天の確率は相当なもんで、言われて意識したもんだから、今日も雨なの?って感じてしまうそんな朝・・・。そうね、正直くじらの教室ってのは、作家katsuとの会話のやり取りって言うのが大半だから、モザイクの技術論を言っても、

何の意味も無いんで普段でもブログを広げにくいんだけれど、今は更に広げずらい事情があって・・・。ただ話せる範囲で言えば、何かを作るって言うのは考える・・ってスタイルのオリジナルと、考えるのでは無く反復練習の賜物ってスタイルがあったりすると仮定する。

例えばくじらの大事な方・・・つまり俳句とここに習いに来ているモザイクなんて比較をして見ると、くじらの俳句もモザイクもオリジナルなのだから、どちらも考える繫がりになり、一見同じ側にあるように思える・・・がしかし、そのくくりを仮に手を縛って考えて見よう・・・。

何だそりゃ?って思うだろうが、手を縛ってはモザイクは出来ないけれど、俳句は言葉が話せれば、いちいち書く必要は無かったりもする。つまり場所も材料も必要としないのだから、考える事だけじゃなくて手を使わなくても俳句は完結出来る。

しかしモザイクは考えた事をタイルを切ったり張ったりする事で表現をしないとならないから、考えた構想を技術で更なる向上を目指さないとならない。
つまり同じ考える繫がりだったのに、手を使うか使わないか?とくくりを絞ると、仲間だったはずなものも見えない線で仲間じゃなくなる。

しかも俳句は考えた時点で完結だけれど、モザイクをするって行為は、折り紙やら絵画のような制作時間では無くて、どちらかと言うと彫刻のような果てしない感じサイドにいるもので、全く持って相反する側にも感じたりするのね。

更に言えば似たような感覚にするのなら、コースターのモザイクを永遠に作り続けるって言う事にして、しかもルールは同じデザインは無しと1つだけ規制を作るとかなり感覚は似て来ると思うのね。要するに大作って言うのはどちらかと言うと、小説的な感覚になると思うのね。

つまり文字制限が無い分、全てが足し算になる気がするのね。スペースが広いからね。これが俳句となると17文字にそぎ落とすって感じになるから、必要最低限の情報を盛り込む訳で・・・つまりコースターの広さでどう表現するか?って話になり、どちらかと言うとそぎ落とす感覚は引き算な感じになる。

まっどうでも良い人には一切関係の無い話だけれど、感性って何?って言う話であって、そもそも自分の興味のある事しか脳が動かなくなったらおしまいなのね・・・その時点で普通の大人脳。それが例え子供だろうがね。ただ別に大人の脳が悪い訳じゃないけれど、許容範囲は狭くなるだろうね・・・。

つまり色んな事に反応しないって事は、例えばくじらの脳が自分の興味がある事にしか動かない脳だとしたら?じゃ今日は小雨が降っているし、では小雨のお題で俳句を作って・・・ってスタイルには脳が動かず・・・って事になる。つまりお題は常に自分発信って事になるって事。

それがくじらの脳が子供脳だとしたら?小雨ってどんな量が小雨で、どっから小雨じゃなくて大雨になるんだろうか?いや、小と大だから、中はあるのかな?・・・とか、何かトンチを利かせたり、お洒落な雨はどっち?とか、悲しい雨はどっち?とか、どうしよう・・・収拾が付かなくなっちゃった・・・

いっぱいあって・・・って位、引き出しが多い脳って事になる。そんないっぱい浮かんだ事を今度は17文字に整理して行く技術って言うのは、言いたい事をそぎ落とす行為になったりする訳で・・・単なる必要最低限の情報発信なら、4行広告みたいな話で、5W1Hみたいな英語の授業みたいな話で、

そこに情緒なんてもんはいらない。つまり説明にもならない情報・・・みたいな俳句ってどうなんだろう?なんて思ったりもする。こんなやり取りをし続ける・・・それがくじら教室であり、これが受け入れるのも必要だったりして、例えば有名な芭蕉の古池や・・・ってあの俳句・・・。

これの何処が良いのか?何が凄いのか?判らない・・・この疑問に、くじらがこんな説明をしてくれたのね・・・昔はかわず・・・つまりカエルって言葉が来ると、鳴き声の前フリみたいなもので、鳴き声を広げて行くスタイルが支流の中で、かわずと言いつつ、鳴き声では無く飛び込んだ音を、

クローズアップした事が斬新だった・・・・って説明になるほどね・・・そこね・・・って1を知ったのなら、って事は、例えば、昔アイドルは可愛いが支流って中で、悪いイメージの三原じゅん子さんや明菜さんは斬新だったし、その定義が確立していればいるほど効果的になる。

そんな話?とか、ボケと突っ込みって役目が判れているのが支流の漫才を笑い飯さんのように、突っ込みが無いボケ合い合戦は珍しいスタイルだろうし、いずれにせよ、それを演じる側だけでは成立せずに、見る側に理解をして頂かないとならない・・・・。

それを更に広げると、以前取り上げたと思うが、談志さんと志の輔さんの落語みたいな話で、色んな人達が談志さんの落語を評価するのだから、きっと素晴らしいのだろう・・・がしかし、余り聞いた事が少なかったりした頃は、確かに家元の談志さんは凄いんだろうが、

どちらかと言うと志の輔さんの方がタイプだった。その理由ははっきりしていて、枕の下品さが嫌だったのね・・・単刀直入に押し付けっぽいし・・・ただねぇ・・・どちらかと言うと、俺は志の輔さんのように国営放送で冠番組を持てるような品が無い・・・。

つまり好きでは無い方側にいる事になる・・・・そこで何個も聞くと、少しなるほど・・・って思う事があったのね・・・それは普通こなそうと思うと1つの演目が30分位はあるのだから、それを覚えるだけでもかなり苦労する訳で・・・つまり寄り道はせずに進もうとするだろうね。

所が談志さんはこの演目は誰が得意で、こんな雰囲気で・・・と演目中に説明をし始める。しかも物真似付きでね。かと思うと、江戸言葉が今使われていないので、歌舞伎の電子説明のように、アナログで自分が説明をしたり・・・。完全に演目から何分も反れたりする・・・。

ただでさえ長い時間の掛かるものなのに・・・しかも、演者も演者なら支えるファンも中々出来たファンで、反れた談志さんがあれ?何処まで話したっけ?・・・ってお客さんに言うと、ここまで・・・なんて舞台に聞こえるように言うお客さんもいたりして・・・・。

おっ、そうだった・・・なんて、何事も無かったように元に戻ったりして・・・これが落語ってスタイルからは大きく離れた事をやっているのだけれど、落語って枠の中に納まるのでは無くて、談志さんを聞きに来た人達みたいな感じで・・・それがたまたま落語ってカテゴリーだったって感じで。

受け入れ方が半端じゃないのね・・・お客さんのね。けれど、言い方を変えたら説明されないと判らない事を引きずったまま進まれてもね・・・って言うのが普通だったりするのに、それを説明されたら、後の話をすんなり聞けたりする訳で・・・・。

長くなったけれど、オリジナルを作る・・・って言うのは、追及すればするほど、こんな感じの繰り返しだと思うのね・・・。こんなやり取りがくじらは必要と思ってくれてここに来ている・・・そんな中、すーさんが先日のご新規さんと来て・・・更にその後に、父親同士が兄弟弟子のタイル屋さんがいらして・・・この話を広げるのはまた次にでも・・・。


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