EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地 好古騎馬像 

2010年05月12日 | 往年の名車 メグロ
秋山兄弟生誕地 好古騎馬像 

秋山好古(陸軍大将従二位勲一等功二級)
好古は、大正9年12月28日陸軍の最高幹部の一つである教育総監兼軍事参議となり、大正12年3月31日付で予備役、元帥に推薦されるがこれを辞退した。(元帥になろうと思ってもなれない、これを辞退したのは好古が最初で最後である)
明治天皇は、元帥を辞退した好古に特旨を以って従二位を与えた。
そして故郷松山の強い要望を受けて北豫中学校長として単身で赴任した。

好古騎馬像である。
好古は、銅像建立の如きは最も好まなかったもので生前から常に極力拒絶してきた。
将軍を北豫中学校長に迎え入れた井上要氏は将軍の死後、生前の高徳を慕い同志とはかり自ら建立委員長となり銅像製作を東京の彫刻家、横江嘉純に依頼設計共々一任した。

像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」と言われた将軍の銅像を馬から下ろす事は、好古の真面目と真骨頂とを失うものとの意見多く遂に騎馬像に改められた。横江氏は、深く好古の人格と偉勲に感銘し物資の報酬を超越し芸術的良心を将軍の性格行跡を極め特に馬に関しては専門家に就いて熱心に研究、好古の副官であった山内少将を度々乗馬モデルとしてその努力は驚くものであり、風貌姿勢等は好古の近親者の詳細綿密な注意と指導とにより度々改更修整を経て一つ一つ実物とほぼ同じ銅像が出来たのである。

昭和11年1月11日近親者をはじめ、北豫中学校職員生徒600名松山連隊兵500名、地方官民有力者多数参列、銅像建設委員長式辞・陸軍大臣・第11師団長、県知事・市長の祝辞、遺族代表秋山信好氏の答辞、銅像の台石には、同郷の後輩、陸軍大将川島義之の筆による頌(しょう)功(こう)分が刻まれてあった。

昭和11年(1936)道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立されたが、先の大戦中に金属供出でつぶされた。幸いそのレプリカの一つが県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元しました。 製作地は、富山県高岡市で、重さ:800Kg、高さ:3m、台座巾:2,5mのブロンズ像である。
 好古の乗馬姿は、ヨーロッパ諸国を視察の際フランスに立ち寄った、山形有朋に直訴し、その後日本の騎馬隊の原型となった、フランス式の乗馬姿勢です。(ドイツ式は、見た目には綺麗な姿勢だが、長時間乗馬すると非常に疲れる)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋山兄弟生誕地 生家 1  | トップ | 秋山兄弟生誕地 好古騎馬像 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

往年の名車 メグロ」カテゴリの最新記事