ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

インドネシアのクバティナン事情4

2018-09-09 | 日記
以下は「IS SUSILA BUDHI DHARMA (SUBUD) A RELIGION?」(スブドは宗教か?)からの引用になります。<--Link

AL-ALBAB
第6巻第1号2017年6月

著者 Watini ワティニ

ガジャマダ大学宗教異文化研究センター
(Center for Religious and Cross-cultural Studies, Gadjah Mada University)

・概要

インドネシア政府は法律で特定のカテゴリに基づいて6つの公認宗教を認めています。
SUBUDとして知られているSusila Budhi Dharmaは、その中には含まれていません。

SUBUDを宗教として含めることに関する議論は、スブドの存在の始まりからありました。

この研究は、宗教研究とその論文において、人々と学者の両方の認識に関連したSUBUDの経験を探求しようとしています。

Richard Kingは、スブドは宗教であると信じています。
なぜなら、ラティハンlatihan kejiwaanによってスブドには(神への服従という)神秘(主義)が見られるからです。

彼は、それがlaso がキリスト教で練習されているもののように構成されていると言うかもしれません。(注1

Subudはスブドのメンバーが主張出来るような宗教的な教えを持ちませんが、ラティハンlatihan kejiwaanは神から来て神の意志に適合している(という主張)ゆえに、Subudは宗教とみなされます。

マルクス主義者、デュルケーム派、フロイト派の議論では、スブドは依存を促進し、経済を邪魔する傾向があるため、宗教とみなされます。(注2

他方でヴェーバー派(マックス・ヴェーバー)とエリアーデ派の両方の見解では、SUBUDは神聖な存在に関連し、伝統主義であるため、宗教とみなされます。

この研究は、宗教研究の人々がSubudを現場の理論に基づく宗教として受け入れるためには、より深い情報が有益であることを示唆しています。

タラル・アサドTalal Asad の理論によれば、スブドがリーダーと人々の構造を持つ組織に分類されているので、それが宗教であるというようにスブドの用語(言葉の使い方)をみなすことができます。

確かに、Subudはヨーロッパ諸国と米国では、スブドの成長と発展のために州からは独立していることが証明されています。

キーワード:SUBUD、宗教研究、Java、宗教。

・前書き

Aliran kepercayaanアリラン・クプルチャヤアンは、約353のジャワの神秘的な宗派の連合であり、1987年以来、インドネシア政府から正式な機関として認められています。(注3

Pattyが引用したように、Samuelは、スブドはインドネシアでの宗教を扱うものとしての宗教省(MORA)の代わりに文部省の担当下に置かれていると書いています。

そして、イスラム教徒はSubudが宗教として受け入れられ、MORAに含まれるという考えに同意しません。

またSamuelは政治的不安定性や社会経済的窮乏が運動の成長に大きな役割を果たしていると述べています。

Subudはaliran kepercayaanアリラン・クプルチャヤアンまたは神秘的な信念の宗派であるため、宗教として認識されません。

しかし、Subudは新しい宗教運動です(Patty、1986、iv-v)。

Subudは宗教として認められていませんが、今日まで成長し続けています。

パティはまた、アリラン・クプルチャヤアン(aliran kepercayaan)は、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教のようなインドネシアの公認宗教以外で、自分の信念体系を定義しようとする、ジャワ文化の伝統を引き出す人々のグループを指す言葉であると述べています(Patty、1986:1)。

独立後、インドネシアはパンチャシラPancasilaとして知られている五つの原則を、その国の基礎として取り入れています。
それは唯一の神を信ずること、人道主義、インドネシアの民族主義、民主主義、社会正義です。

1つの神を信じることは、政府がすべての宗教に自由を与えて教義を表現することを意味し、政府はまた、国において「公認宗教」として受け入れられたすべての宗教を最終的に支持する事になります。

それらはイスラム教、カトリック、プロテスタント、ヒンズー教、仏教、そして後に儒教であって、そのために宗教省は宗教の公式定義を提案しています。

宗教としての承認を必要とするグループは、預言者、聖典、国際的な認知を持つような特定の要件を持つべきである(Patty、1986:1)。

植民地時代にはイスラム教が官僚化と行政の対象となったため、カントゥア・ヴォール・インランドシュ・ザッケン Kantoor voor Inlandsche Zakenが作られた。

最初の長官はSnouck Hurgronjeです。

インドネシア人はその組織を「宗教庁(カンタール・アガマ)」と呼び、後にそれは宗教省となった(Sihombing et al 2008:73-74)。

今日ではそれはKementrian AgamaまたはMORA(Ministry of Religious Affair:宗教省)として知られています。

カンタール・アガマの設立は、人々の行政とその宗教上の業務を管理することを意図していました。

しかし、その時、kepercayaanクプルチャヤアン、あるいはkebatinanクバティナンは存在していました。

この特別なクバティナン集団に対して、政府はPengawas Aliran Kepercayaan Masyarakat(Pakem)と呼ばれるものを設立しました。

Pakemのメンバーは、独立記念日の後で合法化されましたが、植民地時代からこのアイデアの本質は存在していました。

創始者はSnouck Hurgronje(Sihombing等、2008,73)であった。

PakemはPokok-pokok Pola Pelaksanaan Tugas Pakem(Pakemの任務)で言及されており、aliran keagamaanは宗教、宗教運動、宗教的コミュニティの団体であるとされています。

Pakemはまた、「Aliran keagamaanの教えは聖書としての憲法に基づいています。」と述べているKejaksaan Agung Republik Indonesiaによっても知られています。

アリラン・クプルチャヤアンaliran kepercayaanの聖書は、ciptarasa、karsa、およびhasil karya manusia(人間の創造の結果)の結果として、成長し社会に体現された精神性(クロハニヤン)を含んでいます。 (Jakarta:Kejaksanaan Agung RI, 3 in Nurdjana 2009:20).

Nurdjanaは、アリラン・クプルチャヤアンaliran kepercayaanは、宗教か非宗教かを問わず、社会のあらゆる団体(madzhab、セクト、ordo、イズム:主義 などなど)から来ていると述べています。

グループ(の種類は多様であり)それらは、神秘的な事、ジャワ伝統的な事、預言、超常現象、形而上学に関連する活動などを行います。(2009,21)

この論文では、Nurdjanaの言葉を使用して、SUBUD(Susila Budhi Dharma)と呼ばれる、ヨグヤカルタのアリラン・クプルチャヤアンaliran kepercayaanについて説明します。
・・・・』

注1:laso<--現状では意味不明のコトバです。

注2:バパは従来の宗教がそのような傾向を持つ事に対しては批判的でした。
したがって会のメンバーに対しては常に「世的な必要事を無視しない様に」と注意していました。
しかしながら「世的な必要事」を無視する会員の存在を完全にゼロにする事は出来ませんでした。
ですので人にもよりますが、ラティハンそのものがそれを修練する人が注意し、自覚ていないと「世的な必要事を無視する、軽視する傾向を生み出す」という事は事実であって、注意を要する事であります。

注3:Aliran kepercayaan アリラン・クプルチャヤアンと呼んだりkebatinan クバティナンと呼んだりします。
他にはKejawen(インドネシア伝統的神秘道)という事もあります。
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上記の引用部分の英文は以下を参照願います。
・Circumstances of Kebatinan in Indonesia No.4<--Link
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PS
次の記事は、クバティナンのwikiから引用されています。
・Kejawen <-- リンク

『クバティナン団体
本式なクバティナン運動の出現はインドネシアの近代化を反映している。

クバティナン運動は、1900年代初めに都市の伝統的なエリート界で、ナショナリズムとモダニズムイスラム運動であるムハマディヤの登場とともに登場した。
・・・・・
いくつかの人は非常にエリート主義者のままであったが、他の人々は都市や村落の下位層を受け入れることで、シャーリア重視イスラムの代わりに、アバンガン、すなわち混交的イスラム教を普及させた。

1949年の独立後、クバティナンは政治的支援を受け、大きな支持を集めた。

クバティナン運動は、世俗的な民族主義的エリートによって、政治的イスラムの勃発に反対する同盟団体として見られた。

イスラム教徒と共産主義者、民族主義者との間の政治的闘争は、混合主義とシャーリア重視イスラムの間のより鋭い区分けにつながり、 それによって大部分のクバティナン運動は共産党またはナショナリズムの政治団体と提携した。

正式な宗教としての正統性と認知を得るために数百のクバティン団体を代表する傘の様な組織(HPK)がある。

彼らはHPK(Himpunan Penghayat Kepercayaan:唯一なる神への信徒協会)に登録されており、PAKEM(Pengawas Aliran Kepercayaan Masyarakat)によって管理されています。

スハルト時代(1967-1998年)の後、クバティナン運動は政治的支援を失い、活動性が低下しクバティナンの支持者は公的関与を避ける様になった。

全体で数百のクバティナングループが存在し登録されており、最もよく知られているのは以下のものである.

スブド Subud
スマラー Sumarah
パンゲスツー Pangestu
サプタ・ダルマ Sapta Dharma
マジャパヒト パンチャシラ Majapahit Pancasila.』

注:マジャパヒト王国(Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国です。
マジャパヒト パンチャシラは最近になって登場してきたクバティナンであって、その名前が示す様にヒンドゥー教の流れをくむものと思われます。

PS
以下はクバティナンに関連している出来事を整理した年表になります。
ご参考までに。
インドネシア・クバティナンの歴史とバパの歩み(独立戦争~現在まで)<--リンク)

PS
ご参考までに。
・クバティナン関連の目次です。<--リンク


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