ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

スシラ ブディ ダルマ・6章の1 カルマとオープンとラティハンの進み方//

2018-07-29 | 日記
さてそれで、スシラ ブディ ダルマのそもそもの書き出しが何とカルマについての記述から始まっています。
そうしてこれらの文章の意味は一読しただけではよく分からないのですが、詳細に読み進めると分かってきます。
そういう訳で以下、第1章 シノム 3節~11節から引用、検討していきましょう。

『3、まずここから説明を始めよう。
オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、直ちに生命のバイブレーションが感じられる。
それは広がって全身を被い、まもなく心にとっては非常に奇妙に思える動きを引き起こす。(注5)

4、この状態は実際、心にとってはまことに奇妙なものである。
なぜならそれは思考で作り出せるようなものではなく、思考の影響をもはや受けていないある感覚(Rasa)によって受け取られ直接確認される事実だからである。(注5)

5、この事実を受け確認したならば、引き続き自分の内部で実際には何が起こっているのかをよく感じるようにせよ。
そうすれば正しい道への指針が得られよう。
さらには、真の内部自我(Diri Pribadi)の本来の姿が明らかになるであろう。

6、それゆえに、あなたは自分がこれまで常にどのような欠陥を荷ってきたかを知るであろう。(注1
それは子供を授かる以前にあなたの両親が行ってきた行為によって生じてきた欠陥である。(注2

7、この状態はまことに驚くべきものである。
なぜなら人間としての地位(注:ジャスマニJasmaniと呼ばれるレベル)にふさわしい特性の中で、あなたに欠けているものが何であるかが示されるからである。
それらの特性が欠如している為によりたかく昇る、つまり完成の領域(注:ロハ二Rohaniと呼ばれるレベル)に達する可能性は微々たるものになっている。

8、子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。(注3
また深く考えるならば、これは少しも例外的な事ではない。
それどころか誰もが経験する事である。
何故なら第一に、ほとんどの人はこれから起こる事柄を前もって知る事は出来ないし、
第二に何と言おうと人間は人間でしかないからである。
人間の状況はたやすく変化し、感情をかきたてる状況によって容易に影響を被る。
それゆえ、欠陥の出所が確かに親にあるとしても、子供が親を責める事は何の役にも立たない様に思われる。(注2

9、親の中には、身の処し方を完全なものにしようと懸命に努めている人たちがいるかもしれない。
将来、自分の子供たちが優れた性格を持ち、人生に立派に対処していけるようにと望んでのことである。
しかし、努力が誤った方向へ向けられている為に、彼らの希望は叶えられない。(注4

10、従ってそのようなやり方をしない方が良い。
とりわけ、望んでいるものを作り出す為に、もっぱら意思を強め集中するような仕方であれば、なおさらである。(注4
なぜなら、得られる結果は、ハート(Hati)から生まれた空想の産物以外の何物でもないからである。

11、それゆえ親にとって何よりも必要な事は、多少なりともジワ(Jiwa)に関する事(クジワアン:kejiwaan)を意識することである。
そうすれば後に子孫から非難の的にされる様な事にはならない。』

(注:kejiwaanはke(接頭語)+Jiwa(名詞)+an(接尾語)という合成語で、Jiwaに関連したもの、という意味になります。
ついでながら、クバティナンkebatinanとはジャワ的な神秘主義にジャワ人が与える名称であり,「内」を意味するアラビア語からの借用語バティンbatinを語根としている。
このコトバもke(接頭語)+batin(名詞)+an(接尾語)と分解でき、「内」batinに関連したもの、という意味になります。
これを意訳するなら「内面の道」とでもなりますか。)
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注1
さて最初からいとも簡単に自分の真の内部自我(Diri Pribadi)、これは真我とでもいうべきものであり、生まれてからこの方獲得してきた人格、ペルソナではなく、いわゆる「本来の自己」のことなのですが、「それが分かる」とバパは言うのです。
しかしながら実際の会員の状況はそう言う様には推移してはいない様です。
ラティハンの道は下り坂ではなくのぼり坂であって、少なくとも自分の欠点を見つめてそれを正そうという気持ちは必要でありましょう。
そしていわゆる「自分の欠点」に気がつく、それに対して自覚的になる、ということはそれなりの時間が、ラティハンの積み重ねが必要になっている様です。

注2
バパは「それらの欠点の出所は両親の行為の結果である」としています。
これがバパが主張するカルマ論の基本になります。
そうであれば、「これから両親になるであろう人たちをラティハンで浄化しなくてはならない」というのがバパの最終目的の一つとなるのです。
これがバパが提唱する「よい子供が生まれる事により、良い人類が誕生し、地球に平和がもたらされる。」という人類救済のストーリーにつながっていく事になります。
又それはバパにとっては「人類がつみ重ねてきたカルマを逆回転させて消し去る」という壮大な計画の表明でもあります。

しかしながら他方でバパは「全ての人はリンカネーションしている。」という立場をとります。
そうすると、生まれてくる子供のJiwa(魂)のレベルというのはその子供が前世までの生活で到達したレベルである事になります。
そうしてそれはまさにその子供の責任であり、その子供の行動の結果によって決まったものです。

そうしてその子供のJiwaがどのようにして生まれてくる事になる人体に宿るのか、ということについてはバパは「両親の内部感覚のレベル、それは両親のJiwaのレベルが決めるものでもありますが、それに見合った子供のJiwaが引き寄せられて宿るのだ」と主張されます。<--リンク
そうなりますと、確かに両親の行為によって決まるであろう両親たちのJiwaのレベルがありますが、他方で子供自身がもっている子供責任によるJiwaのレベルもあります。
そうして人が生まれる、ということは両親と子供、その2つのJiwaのレベルの一致によるものでありますから、一方的に「両親の行動の結果によって子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況、そこに発生している間違いの総量(カルマ)の受け渡しが決まる」という事にはならないと思われます。

このようにその状況を詳細にみていきますと、そこには両親と子供の間に一種の相互依存関係があることが分かってきます。
そうであればバパが言う様に一方的に「子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況は全て親の責任である」とは言えなくなります。
つまり「子供は今いる状況、一定の間違い(カルマ)を背負っている責任を免責されない」ということです。
しかしながら、そうなりますと議論が複雑になります。
それでバパはここでは一応子供に対しては「親の責任ではあるが、仕方ないものとして現状を容認せよ」、「そうしてそこから歩き始めよ」という立場をとります。

それに対してリンカネーションを認め、「子供のJiwaのレベルは前世までのその子の責任である」としても、子供はいずれにせよ「今ある所から歩きだす他に道はない」のでありますから、最後の結論は結局のところバパの言及と同じことになりそうです。

注3
『子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。』

そのようにスシラ ブディ ダルマは言うのですが、なぜ自分では取り除けないのか、どうする事もできないのか、という事を説明したトークがあります。
それで以下は(3月13日,1965)トークからの、カルマとその解消についての引用になります。
『・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。

そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。

それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。

それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・』

さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。

注4
ジャワの伝統のなかには「人は努力をすることによって、良い子孫を得る事ができる」というものがある様です。
しかしながら、バパはそのようなやり方には賛成しないのです。
それはGumelaring Jagad(宇宙の重層性)です」の第44節と第47節の1を参照してみてください。<--リンク
以下はそこからの引用です。
『(44)節
良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。
これは「良い子をどうやって生み出すのか」という方法の問題に帰着します。
生命の種は、チピタ cipta(感情の頭)からプラマナPramana(最高物質)までの父親からのものであり、性交渉中の父親の感情によって、母親の子宮に生命の種子が落ちる。
父親のチピタciptaは新しく生まれた子供の基本的な性格になるので重要です。
父親のチピタcipta/マインドが平和で神聖なときにカップルが性行為をすることができれば最高です(ジャワ語で Lejar)。
・・・・・
子供は良い性格を持つべきであり、常に神を崇拝することを熱望していなければなりません。
性交渉の時間も重要です。最高のものは、深夜から日の出までです。
あなたの魂を浄化し、性行為をする前に祈ることが賢明です。
・・・・・
(47)節
・・・・・
真夜中、多くの人が眠っているとき、あなたは荘厳に彼を崇拝する。
あなたの体は清潔で、あなたの体はきれいで、あなたの心ははっきりしており、平穏です。
あなたはマット/床に座っています。
心の集中によって体の9つの穴を閉じます。
全てをわすれ、そこには彼しかいない。
厳粛に瞑想し、静かに吸い込んで呼吸することによってあなたの呼吸を制御してください。
あなたは鼻のピークを見ます。
彼に全面的に降伏させる。
あなたは少なくとも1時間真夜中にそれを行うべきです。
うまくいけば、神秘的なシグナルやメッセージ(sasmita gaib)があります。
・・・・・
(注:彼とは超越者、あるいは「唯一の神」とジャワで呼ばれている存在のことです。
ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。<--リンク)』

さてバパは「やり方がまずい」といっているのであって、
『良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。』
というジャワの伝統的な考え方には大賛成なのであります。
そうして、そのためには従来の方法ではなくラティハンによるべきである、というのがバパの主張になります。
そうであれば第1章シノムの9節、10節は「ラティハンへのいざない」と取るべき文章となります。

注5
3節と4節はオープンとそれに引き続いて起きてくる事柄についての説明です。
『オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、・・・』と簡単に書かれていますがまずは頭脳が考える事をやめる事などは、他の方法ではそんなに簡単には実現できない事です。
それは「無心」と言われる様な状況であって、瞑想を実習する人たちが何年もかかってようやく到達する心理的な状態でしょう。
どうしてそんな事がいとも簡単におこるのか?
それがラティハンの秘密であり、神秘であります。

まあしかし、今話したいのはそこではありません。
注目すべきは『思考が感覚(Rasa)から切り離されると、』という記述についてです。
ここで言っている『感覚(Rasa)』は五感のことではありません。
もともと五感というのは思考とは別物であります。
そうして思考と五感がくっつくとしたら、それは幻覚の世界でありましょう。
正常な状態とは思えません。

さてそれで、Rasaというのはインドネシア人にはなじみ深い表現なのでしょうが、英語にも日本語にも相当するコトバがなく、仕方なく翻訳者は feeling 感覚と訳しています。<--リンク
そうしてより正確にはRasa Diri 内部感覚という表現になります。
以下上記リンク先より引用します。

『もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」となります。

そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。
こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。

しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。
「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。
これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。

実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。
そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。』

そういう訳でここは「内部感覚の中に起こっている思考がオープンによって止まり、思考の影響が内部感覚の中から消えると・・・」という様に理解されます。
こうしてスシラ ブディ ダルマに書かれている文章の意味を理解する、ということはなかなかに骨の折れる、難しい事である、というのが分かるのであります。

さてそうではありますが、そのような難しい込み入った話などはオープンを受けてラティハンを始める事に当たっては、「まあ知っていても損は無い」くらいの話であります。
そのような「知的な理解」にはかかわりなく「全托する事」によってオープンは起こり、ラティハンは始まるのでありました。

追記
feeling を「感覚」と訳している内はいいのですが、「感情」の訳をあてている所が日本語訳で多く見受けられます。
「情感」であればまだましですが、「感情」の訳は違うと思われます。
「感情」はRasa(Feeling)ではなくHati(Heart)の働きでありましょうから。
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スシラ ブディ ダルマ・6章の4 カルマと運命について

2018-07-04 | 日記
さてそれで、未来はすでに決められており、人の自由意思は幻である、という立場をとる人もいます。
しかしながら、バパはそのような立場をとりません。

未来は予定されている部分はあるものの、それはあくまで予定であって、人の自由意思と努力がそれに合わさり現実の結果を生み出す、そういう立場をとります。

しかしながら、人の選択やら努力を超えて起きてくる事柄があるのではないか、という問いが残ります。(注3)
その事についてはスシラ ブディ ダルマの記述内容を超えてしまいますので、また後日ということになります。
そうしてスシラ ブディ ダルマは人の世に起きる事を全て記述しているという訳ではないという事に注意しておく必要があります。

ところで、人の世の人生において避けられない出来事があり、それを人は通常は「運命である」というような言い方をします。
そうして、そのような避けられない運命の原因として「前世のカルマ」、あるいは「祖先のカルマ」というような見方をします。

しかしながらスシラ ブディ ダルマの中にはそのような記述は見当たりません。
確かに「祖先からのカルマ」という概念は提示されていますが、それはラティハンにおいてその人が受けるという事を難しくしている要因として扱われています。
あるいはバパによれば、その人の個性の中にある欠点そのものが「個性に染み込んだカルマである」とも言われます。<--リンク

個性が、あるいは性格が持つ欠点はその人の人生にとっては確かにマイナスに作用します。
人はだれでも「良い性格の人を好む」からであります。
好き好んで「悪い性格の人」と付き合おうという人はいません。

そうであれば、どう考えてみても「カルマが原因で発生している性格上の欠点」というものは良い結果をもたらすものではないでしょう。
それを外から見れば「あの人は運命が良くない」と見えるかもしれませんね。

これはカルマが運命に間接的に影響を与えているように見える一例と言えます。
しかしながらそれは「ある事柄が必ず起きる」という状況、「避ける事ができないものとしての運命」というものとはずいぶんと異なっています。
そこには人の自由意思やら努力やらが介入できる余地が相当に残されているからです。

そういう訳でバパにおいてはカルマについての解釈も通常のものとは異なっているという事がわかるのであります。

さてそれで以下はスシラ ブディ ダルマの中にある運命に関連があると思われる部分からの引用になります。

第3章 キナンティ 3節~19節
『3、だから明らかに、運命に対する受容と忍耐と言われているものは、ただひとえに彼の所有する道具(注:財産を含む)に含まれている力(注:物質力)の作用から生じたものである。

4、これでは全く立場が逆である。
人間が当然そうあるべき様には自分の道具を活用できないで道具の方が彼の全存在を支配しているからである。
そのため、彼が生きるも死ぬも全く道具の掌中にあると言ってもよい。
・・・・・
7、また感覚(注:内部感覚Rasa Diri)がかくも深く沈下してしまっている為に、人間存在の内部には燈火に比すべきものがあり、それを見つけ出しさえすれば、自分にふさわしい生き方に導かれるだろうとは思いつきもしない。
・・・・・
11、それゆえ一握りの米で満足してしまう程に、物質の力で容易に支配される事のないようにしなさい。
またあたかも境遇は避けられないもの、神の定めたものであるかのように、いつもすぐに忍耐やあきらめを口にすることの無いようにしなさい。

12、それは見当はずれの意見である。
それらは主として口先だけの能弁から生まれるのであって、運命というものの真の意味がまだ分かってはいない。
・・・・・
15、・・・物質力が人間の自我(Pribadi)に及ぼす作用は、事実このように強大であるが為に、人間はより幸せになる道を求めようと努めるよりも、ことさらに悲惨と貧困の方を好んでいるように見える事もしばしばである。(注1)

16、感覚(注:内部感覚)が物の力(注:物質力)で影響された場合は、人間としての彼の地位(注:ジャスマニJasmaniレベル)から、これほどまでに低く落ち込みかねない。
それゆえ感覚の中で物質力がいかに働くかに気付くようになる為に、自我(Pribadi)の訓練を可能にする真の導きを探すことである。(注:自我の訓練<--ラティハンの事です)

17、そうすればあなたはまた、どのような種類の仕事をすることが自分に本来与えられた権利であるのか、(その仕事に就くためには)どのような道筋をとる必要があるかという事も、見出すであろう。
(注:ラティハンの中で「受ける」という事を訓練されることにより、徐々にそのような導きを見出す事ができるようになる。)
・・・・・
19、あなたが自分にとっての正しい仕事をすることで、自動的にあなたの神への礼拝、これは人間としての(注:Jasmaniとしての本来あるべき)あなたの内部自我(Diri Pribadi)が要求している事ではあるが、それが減ずるということは無くなるであろう。
まことにこれは最善の道である。
なぜならその時人々は世的な目的の為に働くことのみならず、神への礼拝もまた捨てられなくなるからである。(注2)

第4章 パンクール 12節~13節
『12、このような訳で多くの人が人生の旅路の終わりにあたって過去の行動の結果を悔やむのである。
その原因はひとえに彼ら自身の誤った行動に起因する。
なぜなら、内部自我(Diri Pribadi)以外の諸力(物質力、植物力、動物力)から来ているという事を知らずに、それらの力で誘発されたハート(Hati)や頭脳の衝動に従って行動したからである。

13、こうした人々は自分自身を責め、また他人や家族をも責める。
これが人間の高貴さを理解せず、従って自分のジワ(Jiwa)の中にある人生の導きを感じ取る事のできない人々の態度である。』

第5章 メガトルフ 4節~7節、15節~17節
『4、子供たちよ、最高の被造物としてもちろんあなた方は内部感覚(Rasa Diri)とあなたを見守る神との間の絆をつよめなければならない。
そうすればあなたがたは、自分が本当に必要とするものは何であれ容易に得られるであろう。
(注:「自分が本当に必要とするもの」というのは単にハートや頭脳が自分本位の欲望で望むものの事ではありません。この点、特にご注意ねがいます。)
そうすることで、あなた方が真に神によって創られた高貴な被造物である事が示されよう。(注:これを「確証:クニヤタンを得る」と言います。)
・・・・・
6、またあなた方のハートや頭脳の命令に従い続けるべきではありません。
ハート(Hati)や頭脳はナフスnafsuで満たされている為に、それらにとっての喜びと思える事のみに関心を持ちクジワアンkejiwaanを退屈なものと見なすからである。

7、だがクジワアンkejiwaanはあなた方の生活を幸福なものとするために無くてはならぬもの、実際にはもっとも必要なものである。
(注:クジワアンkejiwaanとはジワjiwaに関連したもの、という意味でここではラティハン クジワアンを指しています。)
・・・・・
15、さらにジワjiwaに合った仕事をすることにより、人生に対する視野が広がり、人生をどのように役立てるのかという事についての理解が深まり、あなたを見守る神との絆が強められる。
・・・・・
17、今まで述べてきた方法(注:ラティハン)で訓練を受けてきたのであるから、あなたは自分に必要な導きは何であれ受け取る事ができる。』
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まず注意が引かれることは上記の記述はすべて物質力を説明している章に並列して書かれている、ということでしょうか。
人の生活と物質力とのつながりが、これは時代を経るにしたがって弱くなる、ということはなく、強くなるばかりであります。
それだけ物質力と人の生活のつながりというものは重要である、という事を示している様です。

そのような人の生活の中でいろいろな事が起こってくる。
幸運な事や不幸な事が起こってくるのであります。

さてそれで、幸運な事が起きているときはいいのですが、望ましくない状況が訪れた時に、我々はいったいどうしたらいいのでしょうか、という事が問題になります。
その時に「ああ、これは運命なのだから仕方がない」とあきらめるのでしょうか?

そういう忍耐や受容の態度が、そうですね人間力の結果生じてくるナフス ムトマイナの特性ゆえに生じているのであればまあ妥当でありましょう。
しかしながら、そういう忍耐や受容の態度が物質力の影響をうけたものであるとすれば、それは我々人間という存在にはまことにふさわしくない態度である、とスシラ ブディ ダルマは主張しているのであります。

まずもって我々人間存在の中には既に人生を導くものが与えられている。
それは誕生の時に与えられた天運、天命、あるいは使命というようなものである。<--リンク
仕事でいうならば天職とでもいうようなもの、そういうものが予定されている。

しかしながらそれを見出すためにはまずはラティハンをやって内部感覚 Rasa Diriのなかにあるうず高く積み重なった誤りの山、それはカルマとよばれる先祖からのものと今生で自分が行った事に起因するものですが、その誤りの山を浄化しなくては、掃除しなくてはならない。

それができれば各自の中に書きしるされた「導きの書」を読む事ができるようになる。
自分に与えられた運命を理解し、自分に与えられたこの生命を存分に使って生活できるようになる。

そうなってようやく本来の人の暮らしというものができるようになる。
それがあなたの本当の人生である。
だからそうしなさい、とバパは言うし、スシラ ブディ ダルマも言うのであります。

PS
人の暮らしは自由意思による日々の選択の上に成立している様に見えます。

そして、この自由意思が本来のその人の内部自我(Diri Pribadi)あるいはジワ(Jiwa)に起源をもつものであればよいのですが、低次の諸力(物質力、植物力、動物力)にその起源があると、それは単にその時々の欲望に従っているだけ、という結果になってしまう。

そのようであれば、人は決して幸せに導かれるということは無いであろう、とスシラ ブディ ダルマは主張しているのであります。
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注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。

それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。

さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。

最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。

そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク

さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。

ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。

さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。

第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。

48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。

49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』

第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』

以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。

そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。

ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク

PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。

第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』

この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。

注2:仕事と礼拝の関係について
第4章 パンクール 21節~22節
『21、そのようにふるまうことが出来れば、あなたはついには人生に平安を見出し、日々の仕事に携わっている間にも、絶えず神の偉大さを思い起こす様になるであろう。

22、つまりあなたは、働いているときはいつでも、おのずと神の偉大さをたたえる気持ちが伴い、それ故にまた何をするにしても、自分に必要な導きが得られるようになるであろう。
これが神の恩寵を与えられた人々の至福の状態であり、それを通して彼らは、すべてについてますます神の力に従順になるであろう。』

世的な仕事が忙しいので、礼拝に割く時間などはない、ということはなくなる。
なぜならば最終的には仕事と礼拝が常に並行して存在するようになってしまうからである、、、というのがバパの説明です。

ところでそのような状況に至った人が自分に常に導きを与えてくれる状況に対して、あるいは存在に対してどのように感じるのであろうか?

バパはイスラムですから、迷うことなく「それはイスラムの神、アッラーである」とするでしょう。
そうして、スシラ ブディ ダルマの中に登場する「神」というのはバパにとっては「アッラー」以外には考えられません。

しかしながら世の中にはイスラム以外にも数多くの宗教が存在します。
そうして、そのような多様な宗教を奉ずる方々もまた「自分を常に導く存在がいる状況」に至るのであります。
そのときにそれらの方々はその存在を「アッラーだ」というでしょうか?
もしそうなら、「自分を常に導く存在がいる状況」に至った人は全て自動的にイスラムに改宗する事になってしまいます。

ですから、そんな事は決して起こらず、それぞれの方が奉ずるそれぞれの信仰対象の名前で呼ぶことになるでしょう。
そうしてバパは「それで良い」というのであります。
そうであればそれぞれの方はどこまでも自分の宗教とともにラティハンを継続していけるのであります。

そうして、それぞれの方の必要に応じた導きがそれぞれの方に与えられる、そうでありますからAさんに与えられた導きを「これはよいものだから・・・」といってAさんがBさんに教えても意味がないのであります。

BさんはBさんで自分に必要な導きを独自に受け取る、それが「ラティハンの道」であります。

もしAさんが「私は○○○という存在からこのような内容のものを受けた。これは人類にとって非常に有効だから皆のものはこれに従わねばならない。」と言い出したとしたら、それは新たな宗教の始まりであります。

そうしてバパはそのような事をすることは決して許可しないでありましょう。
それは「ラティハンの道に反しているから」であります。

注3:人の予想しない災害について
天災にしろ人災にしろ、我々が前もって予想できない様な大きな災害は突然襲ってきます。
(我々の目にはそのように見えます。)

バパが生きておられた頃は、核戦争の危機が叫ばれた時代でもありました。
そんな時のバパのトークに「核ミサイルが飛んで来ても、我々は生き延びなくてはならない」。
「どのようにしてそれが可能になるのか」
「内部からの導きに従って行動する事によって可能となる。」
そのような主旨のものがあります。

「内部で受けたこと」に従って行動せよ。
そのようにバパは言うのです。

しかしこれは我々にとっては難しい事であります。
「今日の予定はこうなっている。」
「これから大事な仕事の話がある。」

そんな時に「急いでこの場をはなれよ」という指示を受けたらどうしますか?
周りを見渡してもそこには「いつもと変わらない日常」があるばかりです。
どこにも差し迫った危険などありそうもありません。
・・・・・
さて、そうでありますから我々にとっては「受ける」ということは本当に大変な事なのであります。


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