ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳19・人と人とを結びつけるもの/

2019-05-14 | 日記
・人を結びつけるもの

通常の我々の社会では考え方、価値観、信ずるもの、信仰する対象が同じ者どうしが仲間として認め合い、和気あいあいとして時間を過ごすのが普通であります。

・中古住宅、プレハブ――日本の「モスク」とイスラム社会<--リンク

それでは、我々の協会はどうなのでしょうか?

一つの価値観、一つの信仰対象を共有するがゆえに、仲間として認め合うもでしょうか?

それでは普通に世間一般にあるグループと大差はありません。


我々が属する協会は、それぞれが自分の宗教をもちながら、あるいはそのような特定の宗教を持つことはなくても、ただ一つの事、同じラティハンを受けている、という事実によって仲間として認め合うのであります。

そうでありますれば、そこには多様な価値観、考え方があるのは当然のことになります。


さて集団ラティハンはそのような人たちが何人集まっていても可能なものであります。

しかしながらラティハンをはなれて、一つの組織として協会を運営するとなると、この多様な価値観、考え方は一見障害になる様に見えます。

しかしながらそのようである協会の在りようが困る、ということで一つの価値観、一つの信仰対象に会員を縛ろうとするならば、それはラティハンに従う者達が作り上げる社会のひな形としての協会の可能性、到達すべき姿からはそれたものになってしまうのであります。

求められているのは、思想、信条、宗教が異なっていても、その状態でどのようにしたら調和を作り出せるのか、と言う事なのであります。


PS:ラティハンの包容力

ラティハンがこの世界に暮らす人間に対応したものであれば、その包容力は全ての人を含む事が出来て当然でありましょう。

それゆえにラティハンはその人が望めばスタートが可能な実習方法として存在しています。

そうであれば当然ながら協会の中には多様な考え方が、価値観が、宗教が存在する事になります。

協会のスタートラインはそこにあるのであって、それで何も問題はありません。

ただしそれはスタートの地点であって、そこから出発してゴールにたどり着く、そこでは多様な思想、信仰があってなおかつ調和が保たれている世界でなければなりません。

そうであるならば、ラティハンが作り出す調和の感覚が協会を一つのものとしてまとめあげるのであって、協会が何らかの思想なりスタンスなり信仰対象なりを提示することで、それを会員が認めることで協会の調和が達成される訳ではないのであります。

PS
そのようなラティハンの包容力、そうしてまた人々を結びつける力が存在し、これがラティハンの一つの長所になっています。

しかしながら、長所というのは見方を変えるとすぐに短所となります。

ラティハンによってもたらされる「お互いが仲間である」という感覚に頼りすぎますと、思考や感情のレベル、コトバのレベルでお互いの信条や考え方を理解し合う、了解し合うという事がおろそかになっている傾向があります。

世間一般では、そのような「信条や考え方がおなじ」という事で了解し合い、たとえば一緒に事業を始めたりと、そう言う具合であります。

これに対して、ラティハンによって生じる「仲間である」という感覚に頼りすぎて一緒に事業を始めるとすると、途中で考え方の相違が明確になってきてうまくいかなくなる、という事がありそうです。

こうして、ラティハンによる長所は時と場合によっては短所になる、という事を理解しておくことは必要な事であると思われます。(2018年9月)


PS
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