ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳50・「宣誓する」ということについて//

2019-07-26 | 日記
イスラムでは入信する時に数名のムスリムの前で「信仰告白」と言う形で「宣誓」をします。

さて協会でも入会の時に同じような「宣誓行為が必要である」とされています。

これはそのように決められたバパが熱心なイスラム教徒であった事の影響がかなり大きいからであると、個人的にはその様に思っております。


さて話は変わって二代目の事です。

「入会の時の宣誓の事については、事前にあまり大きな問題にしない様に」と言われます。

これはつまり、宣誓の事についての話には触れずに、さて実際に入会となったら直前に「この宣誓のコトバを言ってください」と入会者に要求すればそれでいい、と、そういう事になります。

さてそのような手順で入会のイベント(オープン)が終了した後で、「あのようなコトバを言うのは本意ではない」とコメントされた方がおられました。

その方は「入会の為にしかたなく本意ではないが示されたコトバを口にした」とそう言っておられるのです。

さてそのようにして口にされた宣誓のコトバにどのような意味があるのでしょうか?


さて二代目におかれましては、そのような宣誓をすることなくラティハンを始められたと承知しております。

そうしてまたインドネシアにおいては「唯一の神に対する信仰」というのは国是であります。

したがいまして「唯一の神を信じます」と言う様な「宣誓のコトバ」には誰も違和感を持たない、ごく自然に言えるものであります。


他方で、インドネシア以外の国においてはそのような「唯一の神に対する信仰」と言うものは一般的ではありません。

そうであればそのような「一種の信仰告白」とでもいえる宣誓行為を行う、という事については「自然な事」でもなければ「たやすい事」でもないという方々がおおぜいおられる事になります。

そうして、そのような状況については残念ながら二代目はしっかりとした現状認識を持ってはおられない様で、「それぞれの申込者の個別の事情に配慮しながらよく話し合い、その方の納得がいく宣誓のコトバを選ぶように」というアドバイスではなく、単に「上手に、入会の支障にならない様に、大きな問題にならない様に、決められた宣誓のコトバを入会希望者が言う様に、うまくやって下さい」というメッセージでお茶を濁しておられる、そのように思えるのでありました。

PS
どのように神秘的な体験をされようとも、あるいは「霊的に高い方」と認められたとしても、その方が経験された事が無い事柄については妥当なコメント、アドバイスなどを期待する方がムリというものでしょう。

たとえばご自分で事業をされた事が無い、霊的な指導者に「商売のコツはなんですか?」と聞く方が間違っている、という事です。

さてそういうわけで、生まれながらにして唯一の神が存在すると信じているムスリムの家庭に育ち、そうしてラティハンを始めるのにあたって宣誓などしなかった二代目に「宣誓する事が難しいと感じている人たちへの対応の仕方を尋ねる」という事がそもそもおかしいのでは、という事を上記の記事では主張しているのであります。

どのような方でも自分が体験していない事については憶測でしか言及できない、これは全く当たり前の事であろうと思われます。

そうして「そうではない、二代目はスーパーウーマンだからなんでも可能なのだ!」と言う方のご意見には残念ながら当方、到底賛同する事は不可能なのであります。

PS
さて以上の事はまた「誰を一番に考えるのか?」という事でもあります。

「何が一番大切なのか」という事でもあります。

どこかの本に書かれた誰かのコトバが常に変わらず一番大切なのか、それとも目の前にいる入会希望者が大切なのか、という事でもあります。

我々、すでに会員になっている者たちの想いが大切なのか、それとも入会希望者の想いが大切なのかという事でもあります。

そういう事を無視して単に「こう言う決まりだから云々」と言うのでは、この会に未来はないなあと、そのように思う次第であります。

PS
どこかの本に書かれた誰かのコトバが常に変わらず一番大切である、という態度は諸宗教が堅持している態度と同じものです。

さて「宗教ではない」という事を売り物にしている協会としてはそのような「諸宗教と同じ態度をとるという事はおかしいのでは」という批判は当然の事ながら発生してくることになります。

そうして、そのような批判に対して有効な釈明と言うものをいまだ協会は提示できてはいない様であります。


PS
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