日本でお経と言えば、突出して有名なのが般若心経でしょう。その心経の中で最も人口に膾炙しているフレーズが、「色即是空 空即是色」だと思います。
常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。
このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。
問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、と考えたくなります。その「空」がそのまま「色」だということになると、「空」からすべての事象が現れ出てくるように思われがちです。これをさらに、「空」は有でも無でもない、有無を超えた真理なのだなどと言い出せば、ほとんどブラフマ二ズムの語り口と変わりません。
ここは、「空即是色」の読み方を変えるべきです。ナーガールジュナ的な「空」のアイデアにより忠実に解釈すれば、「空」は「色」に即して、あるいは「色」においてのみ考えることができる、程度に解すべきでしょう。
「空」そのものなど、あるはずがない。「空」は、仏教が事象の「在り方」を説明するアイデアなのです。事象が実体をもたないまま現前している、その現前の仕方に「即して」「おいて」「ついて」語るときにのみ有効なのであって、「空」それ自体が何なのか意味づけたとたん、実体化して形而上学的理念に転化してしまうでしょう。これは、「無常」「無我」の教えからして、厳に斥けるべき考えです。
常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。
このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。
問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、と考えたくなります。その「空」がそのまま「色」だということになると、「空」からすべての事象が現れ出てくるように思われがちです。これをさらに、「空」は有でも無でもない、有無を超えた真理なのだなどと言い出せば、ほとんどブラフマ二ズムの語り口と変わりません。
ここは、「空即是色」の読み方を変えるべきです。ナーガールジュナ的な「空」のアイデアにより忠実に解釈すれば、「空」は「色」に即して、あるいは「色」においてのみ考えることができる、程度に解すべきでしょう。
「空」そのものなど、あるはずがない。「空」は、仏教が事象の「在り方」を説明するアイデアなのです。事象が実体をもたないまま現前している、その現前の仕方に「即して」「おいて」「ついて」語るときにのみ有効なのであって、「空」それ自体が何なのか意味づけたとたん、実体化して形而上学的理念に転化してしまうでしょう。これは、「無常」「無我」の教えからして、厳に斥けるべき考えです。
この世には自然的領域がある。物体と現象とかはこの自然的領域に含まれるのでしょう。
そして、ある人はこの自然的領域の在り方を根拠づける形而上学的領域を想定する。
さらには、この物体とか現象を我々がどう認識するかという認識の領域がある。
「空」の発想は形而上学の批判ということだと思うのですが、では自然的領域の物体や現象に根拠がないとはどういう意味なのでしょうか。現代人に自然的現象の根拠を述べよと聞けば、おそらく殆どの人は科学的根拠の話をするでしょう。つまりは、人間の認識の仕方に影響されない科学的法則を前提に話を進めるでしょう。その人に対して、「自然現象には根拠がないんだ」と論じても話にならないでしょう。
ですから、「自然的存在の在り方に根拠はない」と言うよりも、「人間の感知の仕方、人間の認識には根拠がない」という言い方をした方が、私には納得できます。虹を構成する「色」の数が文化によって違うのは、その色の数の認識に根拠がないことを端的に示しています。そうすると、「色即是空」は、人間の認識の仕方には根拠がないという意味だと考えられます。では何が人間に認識をさせるのか?その何かは、根拠なく感知されたものとしか現れない、というのが「空即是色」でしょうか。
というように素人の発想で考えるのですが、そもそも、形而上学的領域、自然的領域、認識の領域と区別することに意味がないのでしょうか。
方丈様のように、私は「空」に関する事について語ることはできません。
しかしながら、方丈様の説く「空」により私自身が「救われた」ことだけは、明言できます。
追伸
2010年2月~3月の『弔い問答』、私の記憶違いかもしれませんが、gooブログへの移行時に内容の一部が収まりきらなかったのではないかとも思われます。
「日常」を安逸に過ごしていたのに、何かをきっかけに「日常」を疑うようになってしまった私のような者が、少なからず存在するのではないかと思われます。
(その頃を少し思い出しましたが、未だに冷や汗が出るような思いです)
できればそのような者のためにも、お手数ではございますが、再掲載またはご説法いただければ非常にありがたく存じます。
しかし、もともと仏典は矛盾だらけです。聖典としての般若心経には原著者の意図を超えて解釈が積み重ねられ、禅宗においては「空即是色」には一歩踏み出した積極的な意味が付与されていると私は考えています。
「色即是空」と言いっぱなしでは、「すべてはまぼろし」と解釈する向きも出てきます。釈尊は「ものごとに執着するな」といいましたが、「無視するな」と言ったわけではありません。炎の中に手をかざして、「熱くない」と言ったらそれは悟りであるどころか離人症でしょう。あくまで我々は現実の中に生きる存在者なのですから、現実は現実として認識する。「柳は緑、花は紅」というのはあるがままの現実を受け入れるという意味でですが、禅宗ではこれを「空即是色」に結び付けている。(と、私は解釈しているのです。) 色即是空と空即是色が同時に成立している、そこに中庸があると見ます。
何となく魅力的な表現でもあるため、虜になる部分も否めませんが、そこを打破していくこと、勝手な空想をして、勘違いするな‼ということなのでしょうね。
これも似たようなコトですよね。
「一切皆縁起」だと語呂が悪いのか、
読みにくいからなのかは知りませんが、
なぜ「一切皆縁」にしなかったのでしょうね。
この世は無常なのであって固定的な実体などどこにもない、というのが色即是空の意味です。「一切皆空」と言ってもいいし、「一切皆縁起」と言っても差し支えないのではないでしょうか。
あーヤダヤダ
o(><;)(;><)o