恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

お地蔵さま開眼

2012年07月30日 | インポート

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 今年の恐山例大祭も24日に無事終了しました。その中日、22日には、宇曾利山湖畔の極楽浜で、新しく造立した地蔵菩薩像の開眼法要が行われました。これは恐山山主の発願による、東日本大震災犠牲者追悼のためのものです。

 すでにご承知の方も多いかもしれませんが、この度の震災被災地は、ほぼそのまま、歴史的に恐山に篤い信仰を寄せていただいている方々がお住まいの地域です。 

 昨年は、ともかく参拝の方にどこかで犠牲者を慰霊していただきたいものと、山門前に卒塔婆を建立しましたが、いかんせん、これは木材です。山主は震災直後から、末永く震災を記憶にとどめ、犠牲者を追悼するための地蔵菩薩像を安置する気持ちを固めておりました。 Img_0016

 実際、昨年後半から、被災地からのお参りは目立って増え、今年は開山まもなく団体のご参拝があり、以後、個人団体をとわず、多くの方々がお身内のご供養に来られます。

 出来上がったお地蔵さまは、高さは3メートルほど、蓮華の花の中に坐しています。その両側には、「鎮魂の鐘」「希望の鐘」と名付けられた、実に美しい音色の鐘が一対、もうけられています。焼香の代わりに、お参りの方に鳴らしていただければ幸いです。 

 Img_0021お地蔵さまの背面は、非常に珍しい意匠で、大小数十の手形が彫り込んであります。これは実際に老若男女数十人から手形を取らせていただいて作ったもので、皆様参拝の折りには、それぞれに大切な方のことを偲んで、お地蔵さまに手を触れていただけたら有り難いものと、山主は申しております。おそらく、どこかには、参拝の方の手の大きさに合う手形があるのではないでしょうか。

 当日非常に驚いたのは、被災地から二つの団体が開眼法要にご参拝になり、生花のご供養をいただいたことす。このお地蔵さまと開眼法要については、ほとんどまったく事前の告知を行っていなかったにもかかわらず、多くのご参列いただいたことは、驚くとともに大変幸甚に存じました。Img_0013

 仄聞するに、大祭前に被災地からお参りなさった方が、湖畔の地蔵像に気づき、お帰りになって現地の方々にお話しなさったようです。

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 法要には、関係者のほか、この日参拝の大勢の皆様にご参列とご焼香を賜りました。また、式後は、それぞれに鐘を鳴らし、お地蔵さまに触れていただきました。院代といたしましては、大変ありがたく、嬉しく存じております。Img_0095_2

  ここにあらためまして、震災犠牲者諸精霊のご冥福と被災地の早期復興、さらにご遺族・被災者の方々に平安の日々戻らんことを切に祈念申し上げ、当日ご参拝各位への御礼とさせていただきます。


「考える」を考える

2012年07月20日 | インポート

 人が思考する場合に基軸となるのは、因果関係を設定することと、比較対照を行うことでしょう。このとき、忘れてはならないのは、その思考を規定している条件であり、そう考える目的あるいは意志、もっといえば欲望を評価することです。

 昨年の大震災と原発事故の後、原子力関係の某学者が、原発に対する厳しい批判を受けて、「事故と言っても、死者がでたわけではない(だから、それほど大騒ぎしなくてもよい)」という趣旨の発言をしたと、新聞が報道していました。

 もしこれが事実だとすると、いわゆる「専門バカ」の典型例だと思います。つまり、彼はその結論を出すにいたった思考の前提条件について、まるで無自覚なのです。

 この発言は、結果的に「事故の悲惨さや深刻度は、死者の数で計られる」ということを、比較の基準として選んでいます。まず問題なのは、この基準選択が妥当かどうか、です。

 これに対しては、たとえば、「事故の悲惨さや深刻度は、その事故が起こった結果、居住不可能になった地域の広さで計られる」という立場をとることができます。

 この立場からすると、「交通事故で人が死んだからといって、事故地域一帯の住民が丸ごと我が家を失うことにはなるまい(だから大したことはない)」、という話にもなるはずです。

 このどちらが比較基準として適当で、事故の悲惨さや深刻度を正確に計測できるか? この問いに理屈や論理で決着がつくことは、決してありません。すなわち、どちらの基準も適当とは言えず、また、条件の取り方によっては、どちらも適当です。

 である以上、そもそも原発事故と交通事故の悲惨さを、事故の質的差異を無視して、量的に比較して結論を出すという行為自体が無理で、間違っているということになるでしょう。

 その無理を敢えて冒すのは、理屈以前に意志や欲望があるからであり、件の学者の場合は、実に言うまでもなく、「原発を維持したい」がそれに当たります。

 およそ論理は主張の道具であり、主張の元はと言えば欲望です。論理の整合性だけ見ていても、論理の妥当性はわかりません。実に当たり前ですが。


積年の疑問3つ

2012年07月10日 | インポート

 いまさら他人に聞きにくい長年の疑問。

その1

 ドイツ人はジャガイモを、イタリア人はパスタを、本当に「主食」として食べているのか? それは日本人にとってのご飯のようなものなのか? するとパンとの関係は? 確か、ドイツ人もイタリア人もパンを「主食」らしく食べていたが? ひょっとすると、ジャガイモやパスタは日本人の場合の「麺類」にあたるのか? でも、日本人はそう頻繁にご飯と麺を一緒に食べないのではないか? まさか味噌汁と同じ、ということはないだろう?

その2

 なぜ世間の特に男衆は、宴会の後、2次会・3次会が終わってから、「シメにラーメン!」と言うのか(「シメに牛丼」もあるらしい)? しかもそのラーメン屋で、なぜ「じゃあ、とりあえずギョウザとビール!」と言うのか? この場合、「シメ」とは何か? かりに「シメ」が飲酒のことなら、本当に、ラーメン屋の後は酒を飲まないのか? 一人で帰る途中でも、家に帰ってからも?

その3

 そのとき特にお腹が空いているわけでもないのに、駅などで立ち食いソバ屋を見ると、なぜあれほど強烈に惹きつけられるのか? 食事時でもなく、もっと言うと、食事の前後にさえ、抗いがたい引力を感じるのは、私だけなのか? 母親から「その格好で立ち食いソバはヤメなさい」とよく叱られるが、やはり常識的にまずいだろうか? ところで、立ち食いソバは、はたして「食事」として認められるものなのか? ひょっとして「おやつ」か?