恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

真理と常識、あるいは問題

2017年03月30日 | 日記
 思うに、「真理」は深さが、「常識」は拡がりが肝要でしょう。

「真理」は多数決で始まりません。誰かがそれを「真理だ」と強く信じれば、そのときに「真理」は成立しています。彼以外の大多数が認めなくても、その時の彼には「真理」以外の何物でもありません(無論、後日「誤りだった」ということになるかもしれませんが)。「真理」は結局「真理だと思う」強度に依存するのであって、いわば質的概念です(「それでも地球は動いている」)。

 これに対して「常識」はまさに多数決です。「常識」がそういうものである所以は、大抵の人がそう思っているということであり、量的概念だと言えましょう(昔の天動説、いまの地動説)。

「真理」は、時には「常識」に試され、抵抗され、それを突破して「常識」になる場合もあります。「時代」を動かすのは、そういう変化です(「コペルニクス的転回」)。

また、「常識」は「真理」に挑戦されれば、それを吟味し、淘汰して、最後に残ったものを新しい「常識」として受け容れるでしょう(地動説の「常識」化)。

 普通、人間の行動の「理由」や「根拠」として意識されるのは、まずこの「真理」か「常識」でしょう。自らの行動が「正しい」と確信できるのは、どちらかに依拠している時だと思います。

 ところが、仏教は「真理」を無条件に受け容れません。「絶対に正しいことがある」とは、決して言いませんし、言うべきではありません。同様に、「常識」も疑います。「常識」は、あくまでも特定の時間と場所に、一定の条件下で、暫時成立するものだと考えます(いま「常識」の地動説が「絶対正しい」根拠はない)。

 すると、この考えに忠実ならば、仏教者は「決然とした行動を、断固としてやり通す」ということは苦手かもしれません。つまり、自分の行動を無条件に「正しい」と確信し難いからです。

「真理」でも「常識」でもない、行動に踏み切る理由があるとすれば、それは「問題」です。目の前に、具体的で差し迫った「問題」が出てきたなら、自分の考えが「正しい」かどうかわからなくても、行動を起こさなければならないでしょう。

 予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、「問題」がある以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。おそらく、多くの人たちは日々そうやって生活を営んでいるのでしょう。

「真理」や「常識」に距離を置く仏教者も、ブッダの教えを参照しつつ(経典とは、とどのつまり「参考文献」です)、同じく試行錯誤を方法として、問題に取り組むのが真っ当だろうと、私は思います。
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174 コメント

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精密 (K)
2017-03-30 04:38:16
真理、常識、問題を描いた精密画のような感じがします。
文字で現象を描く、その極まりのように思えました。
Unknown (海棠)
2017-03-30 07:01:57
『予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、「問題」がある以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。』

おっしゃる通りだと思います。「試行錯誤」だと思われます。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 07:47:37
南直哉さんのブログも とても勉強になりますが、中島義道さんの連載 「悩ましきかな哉 人生」も面白いです。
Unknown (南京ハゼ)
2017-03-30 07:48:21
言葉って不思議だなぁと思います。朝の透明感にヒヨドリの声が響きますが、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 07:54:42
中島義道さんとこそ対談してほしい
Unknown (Unknown)
2017-03-30 11:24:42
「禅と戦争」(ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア著)という本に、鈴木大拙の言葉が引用されています。

≪ 禅とは、武士と永遠の命、正義、神の道、道徳的観念を、必ずしも論じたわけではない。ただ人が一つの結論に達したとき、合理的であろうが非合理的であろうが、直進すべしと励ますのみ。哲学は知識人に安心してまかせればよい。禅は行動取るのみ。決心した以上、最も能率的な行動は、ふりむかず前進するのみ。この意味では、禅こそがまさに武士にふさわしい宗教である。 ≫ (「禅と戦争」114p.)

日本の禅宗特に臨済禅は武士階級に支えられてきたこともあって、必要以上に潔さというものが重要視されているような気がします。ついには、自己犠牲さえ伴っていれば、純粋で美しいものとさえ評価されるようになってしまったことは、釈尊の教えからかけ離れているように思えます。



Unknown (Unknown)
2017-03-30 11:59:58
武士じゃない庶民はどうすればいいんですかぁ?
Unknown (senrigan)
2017-03-30 12:57:22
人を属性で区分することなく見るべきでしょう。無根拠を基底にしている教えである以上、信じる事の出来るものを努力をして得ることしかないのでしょう。そのうえで事に際してはそれに従い、己を信じて、覚悟を持った選択をすることでしょう。本当に仏の教えは厳しいものだと思います。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 14:46:51
覚悟っていうけどなにをかくするわけ?
覚悟って
決心やらそういう意味なのかね?
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:19:52
「真理」とは要するに個人的主観の領域、間違えて自滅する時も有る。
「常識」は要するに客観性の領域、間違えて集団自殺に至る事も有る、という事でしょうか。

処で「真理」に該当する仏教用語は「真如」であり、
仏典の説く真如には、
南無真如、二真如、隨縁真如と不変真如、空真如と不空真如、清浄真如と染浄真如、有垢真如と無垢真如、生空真如と法空真如、依言真如と離言真如、不言真如や三真如や七真如、無相真如、無生真如、無性真如、善法真如、不善法真如、無記法真如、流転真如、実相真如、唯識真如、安立真如、雅行真如、正行真如、~~、などなどと、
真如=真理のオンパレードがあって、それで仏教が成立している様に見えるけど、
此れってみんな主観に過ぎず、参考文献(参考情報)程度に過ぎぬ、という意味となってしまうのでしょうか???
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:31:17
そうだね。
試行錯誤にも覚悟がいるの?

試行錯誤って何だか、迷いの道みたいで気が進まないけどね、、、
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:36:36
何が「適当」なのかが、わからないからね。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:43:13
真如おおいっすねー。
分別越えるんだ無分別だ主体客体こえるんだブラフマニズムとちがうんだ。
概念まみれ。
くそまみれ。
どこでどう考えようがどうもならん。
ねえ仏教てこういうこといいたかったわけ???
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:48:41
以前は、死に対して寂しいとか悲しいなどの感情が強い感じだったけど、今はどこか羨ましい感覚も芽生えたりして、困ったちゃん、だよね。
いつ死ぬか「わからない」けど、よくわからない「試行錯誤」をしてみます。。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 15:58:43
真理って、そんなにあるんだ😲
驚きももの気!!!

真理を、念仏とか人生に置き換える人もいるみたいだね。

ああ、、、
違う!とも言い切れないこの切なさよ(-д- 三 -д-)
Unknown (Unknown)
2017-03-30 16:02:43
真理を連発されると、何かウケるね。

笑っちゃイケナイけど・・・・😆
教えて下さい。 (ムチ)
2017-03-30 16:06:42
参考文献程度のお経を、葬儀や法要の時に読まれるのは、何故ですか?
読経 (Unknown)
2017-03-30 20:00:54
>予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、「問題」がある以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。

試行錯誤されているのかはわかりませんが、死という問題に、真理とも常識ともいえない経典を提供されているのでないですか?
Unknown (Unknown)
2017-03-30 22:00:23
八正道ってそもそもなにが正しいのかわからない。

正思惟にしても正しい思考方法がわからない。
正しい価値判断ができない。

そもそも正誤判断できたら迷わない。
道理、真理を知っていれば苦労しない。
道理、真理つくづく曖昧でわからない。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 22:02:33
真理って 詰まるところ ブラフマニズムに帰結するんじゃないですかぁ?

仏教に真理はないんじゃないですかぁ?
Unknown (Unknown)
2017-03-30 22:04:33
覚悟とは因果の法を受容し今世の業は勿論の事、前世の業も全てを引き受ける事です。悔やむ心を超克する事です。仏さえ頼まず究極の自己責任の決心だと思います。そこに仏の慈悲は注がれるものと思います。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 22:49:03
そんな覚悟できる人いないよ
Unknown (Unknown)
2017-03-30 23:25:33
前世とかいっていいんですか?
南さんて輪廻否定してるみたいですけど。
仏って形而上学否定ならそもそも仏だなんだとは言ってはいけません。
なんですかその仏って?
ヨタ話はしちゃいけません。
仏教は実在論ではないらしいので。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 23:32:14
世間虚仮唯仏是真って実在論なんだとおもっとったんだけどここにいる方々は違うとのことです。
いったいなにがなにやらですわ。
チンプンカンプン。

で道元さんの超越因縁ってありゃなんですかね。
超越!あー形而上学否定ですよねー。
仏の家になげいれてか投げ捨ててかしらんけど仏の家ねええ。
あ形而上学否定でしたね。
Unknown (Unknown)
2017-03-30 23:36:40
連投すんませんー。
あー形而上学じゃなくて形而「外」学でしたね。
カギかっこ大好きなので強調してみました。
私流解釈ならそれは形而「害」学です。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 01:44:21
正語の正しい言葉遣いつったって、
丁寧で上品が「正」とも限らないしね。

育った環境や教育次第で変わるような正しさも、それを支持するかしないかの違いくらいで、いくら試行錯誤したって、本当に正しいかどうかなんてわかりゃしないさ。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 01:55:05
先日、親戚が死去し、通夜などの日程を決める際に、お坊さんから「その日は友引だから、"絶対"にダメです。」と断られました。

この世に"絶対"などあったんですね。
因みに、曹洞宗のお坊さんでした。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 02:01:42
アハハハ。。
わたしも、カギカッコ大好き😆💕
\(^o^)/

「概」学かもしれないね。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 02:18:43
ブッダやナーガルジュナ祖師達は、真理の教えっぽいですが、後日、誤りだとしたら、ショックで寝込むかもしれません。
(´д`|||)
正思惟とは? (keitra02)
2017-03-31 08:42:33
正思惟(正しい思考)とは、欲と怒りと無智(無常と苦と無我を知らない)を捨てて、施しと慈、悲で思考することです。
(出典:バンテ・ヘネポラさん、(仏陀様) )

具体的には、その考え(当然に行為を引き起こす・・・)が、自分にとつて、相手にとって、さらに周りの人にとって、“良い結果”をもたらすかを問うことです。

問いは、行為の前、途中、終つてからもします。

(問いの結果によっては、行為をすることも、やめることもあるでしょう。人は普通、互に、安堵を求めるものですから。)

結果、この実践の継続により、だんだん、正思惟に近づきます。(本人も実感できるはずです。)
Unknown (Unknown)
2017-03-31 15:05:42
良い結果というのも、それが本当に良いのかどうかなど、わからないことだよね。
世間では大体、都合の良さが「良いこと」のようになってるしね。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 15:51:13
心が平常で穏やかであることが、
良いことなんじゃない?

生きてたら、そういう訳にはいかないことだらけだけれども、、、だからこそ、坐禅なんだろうね。
Unknown (Unknown)
2017-03-31 23:21:17
昔型の仏教だと、あれが真理だ、これが真理だと真理の押し売り(=仏典製作)を遣ってたと理解してましたけど、
現代仏教では、そういう真理・仏教常識はすべてご破算に成ったって事なんですかね??

それともあくまで南流独自解釈??
Unknown (Unknown)
2017-04-01 05:53:29
臨済宗と曹洞宗が統合されるって本当でしょうか?

http://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/8f3875022a93fcd80a85c2cc35123e50
「正法眼蔵」は道具。「只管打坐」「己証」で読む! (イエスちゃん)
2017-04-01 06:00:21
「釈尊の仏教」では、3種の証明方法がある!
「教証」と「理証」と「己証」である。
・佛陀の教えから
・物事の道理から(理性?)
・自分の実体験から
この3つすべてが揃って、「正しいもの」とされる。

秋月龍珉老師は、いつもおっしゃっていた。
悟りを得る手助けにしようとして、禅の語録を読むと、目が潰れてしまう。

しかし、悟った後に、禅の語録を読むと、自分の悟りが正しい事の確認になる。
禅の語録に頼らずに見下すときに、真に禅の語録が役に立つ。

「悉有仏性」も、
「大乗涅槃経」の原文では
「仏性=仏になれる可能性が、悉く、有る」
の意味であり、それ以外の意味はないが、
道元和尚は、それを否定して、自分の悟りの体験から、
「悉有=あらゆる存在」こそが「仏性」そのものである、
と教える。

「己証」「自分の実体験」が、
今までの「教証」を読み変えてしまうように強要し、
新しい「教証」となって、証明することになる。
これが、仏教の王道である!

仏教では、
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教と異なって、
「正典=カノン」がどんどん創造される理由である。

道元和尚の中国留学中の体験においても、
炊事当番である、或る典座から
「何故に語録を読む」と徹底的に追求され、
結局、語録を読むのを止め、徹底的に坐禅に専念した。
「坐禅」「己の体験」つまり「己証」を得てから、
「教証」つまり「禅の語録の教え」が解った。

「己証」と「教証」と、同時現成、公案である。

親鸞聖人も
「己証」でもって「お経を読み変える」ようになった。
いや、それ以外には、お経を読めなくなった。

「自分では阿弥陀仏を信じる事ができない」という「己証」から、

「信心は、阿弥陀仏が自分に与えて下さる」という「教証」に到達した。
「中国語」「漢文」のお経を、大胆に読み変えてしまった。

親鸞聖人にはそれは必然であり、当然であった。
日本では、臨済宗は将軍。曹洞宗は土民。 (イエスちゃん)
2017-04-01 06:26:07
『日本の禅宗特に臨済禅は武士階級に支えられてきたこともあって…』

中国では、臨済宗は、庶民の「万屋・よろずや・何でも屋」
他方、曹洞宗は、高貴な「貴金属店・宝石商」

お客様が、異なります。
お客様は、何を求めているのか?
そして、お客様が、お店を選びます。
Unknown (Unknown)
2017-04-01 09:13:41
イエスちゃんさん

煩悩即菩提の言葉を 分かりやすく教えていただけませんか?
『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない (御坊哲)
2017-04-01 10:55:46
≪ 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における過誤(あやまり)をみて固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたくしは見た。」(雑阿含経より) ≫-「原始仏教」(中村元)P.50

仏教の根本原理が「一切皆空」であるならば、仏教は絶対的根拠というものを持たないということになります。ものごとをとことん追求していけば、最終的にニヒルに突き当たるしかない。ものごとの根源的理由というものは存在しないのです。ですから、仏教には哲学的断定というものがありません。すべては相対的でしかないのです。

龍樹は「空とは縁起のことである。」と言います。縁起とはものごとの関係性のことです。善悪も人間の欲望やその時代の生活様式、社会制度、通念、言語、法律‥‥、あらゆる要素の関係性の中から生まれてくるのであって、絶対的な善悪というものがあるわけではないのです。つまり、ロゴスによる善悪の規定がないというのが仏教の大きな特徴です。

すべてが相対的であるならば、独自の立論というものもありません。ですから、仏教はイデオロギーを持たないのです。イデオロギーは立場が違えば必ず対立します、各々自分の価値観を絶対視するからです。自分を相対化しない限り、妥協はあり得ません。以上のような観点から、中村元博士は初期の仏教の顕著な特徴として次の2点を挙げています。

 ①無意義な、用のないことがらを議論するな。
 ②われわれは、はっきりした確実な根拠をもっているのでなければ、
  やたらに議論してはならぬ。
  (「原始仏教」(中村元)P.52)
「"ほんとう"を問い続けて」 (ケンジ)
2017-04-01 14:35:08
しまった😵💧

100分de 名著、宮沢賢治を見逃してしまいました😥

次回は、三木清。
本当の幸福とは何か?

幸福も、死と同じくらいに、追究されるテーマのようだね。

和尚さんの幸福論も、伺ってみたいな。。

嫌かもしれないけどね、、。
Unknown (月のような者)
2017-04-01 22:57:48
私の先祖は関東の百姓ですが、江戸時代から大正ぐらいまで東葛の村から代々お嫁さんを貰っていたみたいです。私の一つのルーツみたいな地域ですね。そして山下清ロードでもあると。だからこないだのベトナム人の女の子の事件みたいなものは嫌ですね。数日前に国立で井戸に落ちた子もいましたが、危険は現実にあるということですね。どうしようもないリアルを想定した時に私が選択せざるを得ないのがやはり仏教なのです。安易な言い方ですが死中に活を求める形になっている訳ですね。あくまで果てしない理想、他人に教えた所で即効性は望むべくもないとしても、リアルを見抜き通した先に精神的な苦しみのない境地があるということですね。
この大いなる可能性を井戸に落ちた女の子と共有できる準備をしておきたい。暗い井戸の中で最終的な理想を求められれば、明るい場所を指し示す「正気のリズム」を発信できる態勢を整えておきたい…。
Unknown (Unknown)
2017-04-01 23:53:02
問題というより、ナリでしょ?
Unknown (空のような者)
2017-04-02 00:21:33
ナリって何ですか?
Unknown (Unknown)
2017-04-02 00:29:46
>最終的にニヒルに突き当たるしかない(御坊哲氏)

つまり南師は『ニヒル』の達人????



>和尚さんの幸福論(ケンジ氏)

ニヒルの達人でも幸福論が持てるの????



>己証でもってお経を読みかえる(=お経を読むときは己証で読むべし)(イエスちゃん)

己証の己は自我の事、主観的な個人の確信という妄想の領域…そういう視点でお経を自由に読みかえよと言う事となる。
何故なら「己証」には根拠が無い、単に「真理」だと自分が思っただけに過ぎないから・・・
Unknown (Unknown)
2017-04-02 03:34:11
「人生に満足して安心して死ぬ」と言う事が私の願いならば、
仏教研究して究極のニヒルに到達するなんて事は、
私は仏教思想とは対極の立場にいるようだ。
Unknown (水のような者)
2017-04-02 04:54:26
>「人生に満足して安心して死ぬ」と言う事が私の願いならば

それを、無我の境地と捉えるならば、仏教なのではないかな。
Unknown (火のような者)
2017-04-02 07:44:08
ツァラトゥストラだ!
ニヒルという言葉を使ってしまったので (御坊哲)
2017-04-02 10:45:42
誤解を与えてしまったかもしれません。しかし、ものごとの根拠を突き詰めていけばニヒルに突き当たるというのは本当です。すべて論理の網をかぶせようとすると、どうしても究極的な根拠あるいは最初の理由としての神が必要になります。
仏教思想は超越的な神というものを設けないで、この世界をそのまま受け止めよ、というのが仏教的諦観というものだと私は解釈しています。
この世界の不可思議を受容すること、それが妙ということであろうかと思います。坐禅はそのことに納得するための道ではないでしょうか。
Unknown (Unknown)
2017-04-02 16:02:18
この世の不可思議を受容できたら、「ニヒル」も解体してしまうような気がする。
この世のものに意味?価値?存在することについての何かが、「ある」に対する「ない」だから「ニヒル」なんでしょう?
「『ない』がある」みたいなものでしょう?

おお、これか?
Unknown (風のような者)
2017-04-02 17:56:50
卯月になりましたが、例年より気温が低い地域が多いようですね。

桜の開花が、入学式頃には丁度よいのかもしれません。

あるニヒルで、アヒルでもよいのかもしれません。
Unknown (春のような者)
2017-04-02 18:01:01
「匂い」って何ですか。

これもコトバ?
Unknown (Unknown)
2017-04-03 00:04:26
鼻があるから匂いがある、これも相対的に認識された人間の言葉じゃないのですか。
Unknown (Unknown)
2017-04-03 00:22:41
ほんと、ニヒルがアヒルでもいいし、
アヒルがニヒルでもいいし、
ある、とか、ない、とか、どっちでもよくて、

そんなことより、
ただ自分がどのようにして生きていくのか、何を選択して、信じて、又は賭けて、
自己が死ぬまで、試行錯誤をしながら…
Unknown (子供のような者)
2017-04-03 00:53:11
ヒルおびでもいいじゃない。

あの馬鹿げた国会答弁
いい加減にしてほしい!!!

寄付したとかしてないとか
証明できないもの
アルとかナイとかねぇ・・・

あれに一日
三億の税金かかってるらしいよ😤
Unknown (Unknown)
2017-04-03 16:44:35
「試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。おそらく、多くの人たちは日々そうやって生活を営んでいるのでしょう。」
「仏教者も、(中略)同じく試行錯誤を方法として、問題に取り組むのが真っ当だろうと」

………なんか、いや。
阿含経その古層の相応部「膨大な教えの集まり」「縁起の思想」、道元和尚の「正法眼蔵」は、「このことを説いている」ではないか (イエスちゃん)
2017-04-03 16:54:30
『「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。』

を、まったく誤解する人が、多く、いる。

阿含経その古層の相応部「膨大な教えの集まり」、
「縁起の思想」だけでも、少し表現をかえて「同じ内容」を、釈尊は、弟子たちに繰り返して、教えているではないか!

私は、むかし、増谷文雄先生の翻訳で読んで釈尊の懇切丁寧な熱意と、「それらを全て暗記で伝えた弟子たち」の真剣さに驚いたものだ。


道元和尚の「正法眼蔵」の「旧草75巻」と、
25巻の計画だったが死で未完になった「新草12巻」、一生涯著作し続け、後世に「教え」を残そうとする使命感。

これについては感謝のし様がない。
本当に有り難い事である。

ただ、
「既に他の思想を確信している者」とは、論争をしない、というだけである。
そのような者との論争は無意味であるから。論争が目的の論争となるから。

釈尊は、
何も知らない者、確信の持てない者、真理を求めるものには、
何物も隠さずに、懇切丁寧に、何度も教えている。
阿含経を読んでみよ。如実に知る事ができる。

教える内容が、釈尊には、あるのだ。

そして、一緒に「この説いた道」を歩め、と勧めている。
Unknown (月のような者)
2017-04-03 23:26:17
シベリア出兵から大輝丸事件に至る物凄い報復合戦を見て思うのは、基本的に人間はこの先もずっとこれだなと。自分達の土地や財産がロシアの南下や赤化の伝播で脅かされると思えば、結果的に罪のないよそ様の楽園に残虐なことをやってしまう。そして戦争の無視できない原動力の一つは愛着のある美しい景色そのものであると。EUがどうなっていくかは関心があります。国家という枠は相対化できるのかと。
血盟団の菱沼五郎が後年政治家になって茨城に原発施設を誘致したことと、若き日に團琢磨を撃ち殺した時の気持ちはきっと重なっているのでしょう。そして事件に喝采した多くの一般大衆の心も重なり合ってくると…。しかし結果的に福島の惨状を見れば現実とはなんと複雑で残酷なものなのか。この地球は人間を引き裂く危険な場所であると判断せざるを得ないのです。
現実を精査していけば仏教しか残らないというのが本音ですね。しかし昔から仏教は一番非難されてきたでしょう。人間は現実を見るのが嫌なんですよ。人を教化して世の中を変えるのは無理ですね。リアルに考えれば仏教徒は一番楽ができるに決まっています。ですからそれに感謝しつつ他人にも楽になれるすごい可能性を用意してあげていればいいのです。
Unknown (Unknown)
2017-04-04 00:50:00
世の中を満足して生きてる人が1番楽で、

世の中を捨ててしまってる仏教者が二番目に楽で、

試行錯誤する仏教者が3番目に苦しくて、

試行錯誤する非仏教者が4番目に苦しくて、

結局「楽即是苦、苦即是楽」!!
結局墓場がとっておきの楽チンの場所!!

Unknown (Unknown)
2017-04-04 01:18:40
>まったく誤解する人が、多く、いる・・・

諸行無我=あらゆる事物には、永遠不変な本性である我(=アートマン、魂)がない。

此れが本意ならば、
何故現代の仏教者はやたらと「自我を滅して無我になれ」とか主張するのか??
諸法無我の「無我」という言葉の、全くの誤解ではないのか??
現代語に於いては、生きている人間が生きている事を自我といい、自己が納得した事象を自証と言うならばそれは「無我」では無いでは無いか??


訂正 (Unknown)
2017-04-04 01:21:16
諸行無我・・・>諸法無我
訂正 (Unknown)
2017-04-04 03:00:14
自証・・・>己証
Unknown (大人のような者)
2017-04-04 04:21:39
自ら行った我の割合が高くなるんだね。

無自性>他自性?
Unknown (Unknown)
2017-04-04 04:25:08
墓場が楽チンかどうかは、
本人にはわからないことだよね。
Unknown (Unknown)
2017-04-04 04:49:50
【空】論は空論、とどのつまりは「参考文献!!」
光の真理!! (Unknown)
2017-04-04 06:20:09
生命の営み・・・宇宙の仕組み・・・。
知れば知るほど、それに想いを馳せれば馳せるほど、全てが奇跡に見える。

全ての全てが【無根拠】に出来上がったと思えば思う程、現実に起きたことが、想像を絶する奇跡にみえる。

自分と言う実存が今此処に居て、その奇跡の現場に立ち会えるんなんて・・・

お父さんお母さん私を産んでくれて・・あ・・り・・が・・と・・う・・
(そう言える私になりたい・・・)。
無我とは? (Unknown)
2017-04-04 08:55:02
無我とは、あらゆる現象は、瞬間、瞬間といえども、"固定した実体”を持たない。これだけです。(出典:・・・(仏教徒の常識))

しかし、当然に、いわゆる、“我れ”“己れ”としての自分は、その時、その場では、確かめられる「物」としてあるわけです。(身体、感覚、意識、記憶 、感情、その他で)

(じゃ、どういうことかと言われれば、)

いわば、電車(時間、時刻)に乗っている人が、乗っていることを忘れて、あるいは、生れたら乗っていたということで、「自分は移動していない」、「年をとらない」、「変わらない」 "私” だと頑張っているようなものです。

それで、本人の "私”が、何の不都合も無ければ、無我なんぞ、思い患うことも起りません。

しかし、現実には、あるゆる現象は、瞬間、瞬間、変化し、離合、集散(この集、合で時、”私"となる)を繰り返して、果てしなく続いてゆきます。(だって、「今」あるご自分は、ご先祖様あればこそですし、そのご先祖様も、はるか生命の源泉とも言えるものがあればこそです。また、これで終りということでもないわけですし・・・・。廻りを見渡してもそうですし・・・。


よって、無我は、ご本人としては、その時その時の「己れ」が、気づき続けられる時に在る・・・という訳です。

そして、"無我"は、仏教徒のパスポートの1つともいえます。

Unknown (無我のような者)
2017-04-04 22:30:57
無我でありながら、生きている限りは、無我を実感することはないのでしょうね。

パスポート!!!
上手いこと言いますね(^^)
Unknown (Unknown)
2017-04-04 23:14:53
> 予めそうするのが「正しい」とする「理由」  も「根拠」も言えないけれど、「問題」があ   る以上、試行錯誤を覚悟して、とにかくそ   れに臨む。おそらく、多くの人たちは日々   そうやって生活を営んでいるのでしょう。

 多くの人がそうのようにして場当たり的に日々を過ごしているが、それでは自己の不満、不安は消えない。

> 仏教は「真理」を無条件に受け容れませ  ん。「絶対に正しいことがある」とは、決し   て言いませんし、言うべきではありませ    ん。同様に、「常識」も疑います。「常識」   は、あくまでも特定の時間と場所に、一定  の条件下で、暫時成立するものだと考え   ます。

私はこの前提が重要だと思います。
この前提の知恵があるからこそ

無根拠に希望を持ったり、様々、前進していくことが出来る。

「光の真理!!」と題された投稿者のように、
両親に感謝できるような自己を作っていきたい。…課された自己ではなく…
Unknown (Unknown)
2017-04-04 23:26:13
引用文の空白文字化すみません、私にはわかりません。
釈尊が「普通の人には理解して貰えない」「だから、教えを説くのは止めよう」とした原因 (イエスちゃん)
2017-04-05 07:24:19
普通の人は誰でも、
「自分は「現象」ではなく、「実体」だ。
事実、ここに存在している。ここにこそ、リアリティーがある。」
と考える。

自己を「実体」だと考えるところから、顛倒が起こる、「苦」が起こる、
と釈尊は教える。

「全宇宙のいのち」こそ、「自分」である。
と考えるのは、「梵我一如」思想であり「密教」だが、
これは「全宇宙のいのち」を根拠にして、この「自己」を確実にしたいという欲望である。

「自己」が「実体」と観るから、「自己」に執着する。
「自己」が「現象」と解かれば、執着する対象がなくなり、執着から解放される。

要は、禅定により、血液の巡りを少なくして、
大脳皮質の「一番進化の最先端の」「自我意識機能の部分の脳」を弱めて・機能停止させ、
「自我が崩壊する」「自我が消滅する」体験をする。

進化の古い部分の脳、脳幹、小脳、呼吸と心臓と肺と…だけに、成り切ってみる。

その最低のレベルの頭脳状態「禅定」から抜け出して、大脳皮質の「自我意識機能」を回復して、徐々に「自己」が再構築されていくプロセスを体験をする。

「色→受→想→行→識」のプロセス

形あるものすべてを 「色」 (しき)
それをとらえるココロの働きが
「受想行識」

その人の
体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚によって
物事をとらえるレンズ 「受」(じゅ)

レンズでとらえたことを
自分のココロの情報内でイメージする「想」 (そう)

イメージを行動にうつす「行」(ぎょう)

結果を判断する 「識」 (しき)

釈尊の仏教は、
世界に存在するのは
「色受想行識」の5つのみ。

だから、貴方が「実体」と考える「自己」、
「我」「アートマン」など存在しない。

と教える。

これに目覚めて救われる人もいれば、

ぜんぜん関係ない人も多い。

だから、釈尊は、最初は「教えても無駄だ。疲れるばかり。」と考えた。

「縁なき衆生は度し難き」
「釈尊の仏教」は、必要としない人が多い。
釈尊の時代・昔から、今に至っても。
主観から始まる (tail)
2017-04-05 10:36:32
思考する私は、感じる私と同じ主観から始まる。
シナジェティクス現象から原理を発見する場合さえも。

原理を模倣する人々は、客観から始まる。
御坊哲様へ (Unknown)
2017-04-05 21:26:46
>①無意義な、用のないことがらを議論するな。
 ②われわれは、はっきりした確実な根拠をもっているのでなければ、
  やたらに議論してはならぬ。
①に対して 
用があるかどうかは自己都合です。
意義が有るのか無いのかを決める判断基準は絶対的ですか?
判断基準は相対的でしかないというなら条件によって意義が有る無しが分岐すると考えられる。
つまりは条件変更し解釈次第で議論の必要性はどうにでもなるということです。
②に対して
南氏のいうようにすべてが無根拠であれば一切議論してはならぬと結論できますがその点いかが?
はっきりした確実な根拠?そういうものあるんですかね?

あなたは実在論を主張していながら手の平返しで超越云々を否定ですか。
一無位の真人やら持ち出してきたのを拝見したことありますがあれはいったいなんのことですかね?
支離滅裂だと思いますよ。
仰々しく仏教とはといえるなら説明できるでしょう?
Unknown (Unknown)
2017-04-06 00:30:08
イエスちゃんさんの投稿は一貫していて、仏教初心者でも、理解し易く、こちらの様々な問題に繋がり、有り難いです。
Zさんへ (K)
2017-04-06 03:33:45
この前のお返事でパッとなりまして、
物理的な側面でなく、実践的な試みをしたら
何となくですが、このことか~と裏側が見えてきました。
ありがとうございます。
Unknown (Unknown)
2017-04-06 03:44:25
Kさんそういえばアクセスチラ見中毒治りました?
治ってないに賭ける。

賭ける仏教(キリ
賭けてる俺まじかっけええええ
Unknown (Unknown)
2017-04-06 08:05:05
『色即是無常無我』これは真理だ、常識だ!!

じゃあ「空」ってなんだ??
まさか「空」って「常」じゃあ在るまい、「我」でも在るまい。

じゃあ『空即是無常無我』ってなんのこっちゃ?????
Unknown (Unknown)
2017-04-06 08:14:23
正解
「空」は参考文献で~~す!!
「己証」によって「読み替えませふ!!」
おっちょこちょい。「教証」と「理証」と「己証」の3つが揃わなければならない。 (イエスちゃん)
2017-04-06 15:36:38
世の中「おっちょこちょい」が多い。

「教証」と「理証」と「己証」と、
「この3つ」が揃わなければならない。

人間は、なぜ、真剣に、考えないのだろうか?

更に、「己証」は、親鸞聖人の修行、道元和尚の修行が必要である。
と思う。

要は「禅定=坐禅」と同じ体験が必要である。
「自己」が崩壊する体験が。

親鸞聖人も、壮絶な体験の後の心境である。
晩年に、長男に裏切られて、義絶している。
この長男に騙された「関東の教団」にも、絶望している。
この「一生を棒に振る」ような体験の中からの「己証」である。

軽々しい「己証」などは、風に飛んで行くだけ。
虚しい限りである。
Unknown (おっちょこちょい)
2017-04-06 21:26:44
すべてが空で無根拠であれば「教証」と「理証」と「己証」も無根拠です。
「「「「「「「イエスちゃん」」」」」」が考えたことは「「「「思い込み」」」だけです。
なんの「「「「根拠」」」」もありません。
すべて「「「「空」」」」です。
なんの意味も価値も「「「「「「空」」」」」です。
Unknown (おっちょこちょい)
2017-04-06 21:33:22
ねえねえイエスちゃんさん
あなたは朝日の記事をコピペコピペして自分のブログにペタペタ貼っていい気持ちになってるんだよね?
それが生きがいなんだよね。
坐禅なんて2の次なんだよね。
わかります。
仏教の講釈たれるのが生きがいなんですよね。気持ちいいもんね。たまらんよな。
そろそろぶっちゃけ本音トークしようや
Unknown (Unknown)
2017-04-06 23:09:40
「何かしら善なるものを求めて出家をした」

この釈尊の言葉。

釈尊は「空」に留まらず「善」の道を選ばれた。
Unknown (真剣に考えたおっちょこちょい)
2017-04-06 23:16:37
>真理と常識、あるいは問題

我、一生を棒に振るような『己証』によって読み替えた!!!

個人のおもいつきで『真理』っぽい思考が生れ、
共感するヤカラが集まって『常識』に成長し、
やがてそれが『問題化』する、老化し臭くなりうざいモノとなる。
誰もが(旧式の)真理・常識なるものを疑い始める。

そして次世代の真理発明家によって、
すべてが新「己証」によって、新しく読み替えられていく。古き真理は廃(すた)れていく。

実に、時代の流れによって思考も生々流転するのである!!
これぞ即ち「諸行無常ナリ」「諸法無我ナリ」!!「常我」の根拠何も無し!!
Unknown (Unknown)
2017-04-06 23:37:30
>何かしら善なるもの

ってなんだ??
常我??永遠不変の真理??

和尚さんの『善の根拠』本でそんな風に言ってたっけ??
Unknown (Unknown)
2017-04-06 23:39:10
「己証」に固執した結果、行き詰まり、

「諸行無常」「諸法無我」の知恵に至り
「教証」「理証」が生まれそれを基に、

また新たな「己証」を生きる。

ということか。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 00:11:24
「何かしら善なるもの」

私は南さんの動画でこの言葉を知りましたが、中村元訳「ブッダ最後の旅」にもありますし、「涅槃経」にそのような釈尊の言葉があると残されているようです。
すみません、詳しくはありません。

とにかく、全ては無根拠である、「空」から、それでも実存する自己をどのように生きていくか、ということではないのですか。

釈尊は根拠はないけれども、「善」なる道を選ばれた。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 00:27:17
仏教には、自灯明・法灯明、以上に求める知恵はないように思います。

この教えで満足しないのであれば、

形而上学(神)、ニヒリズム、あとは…この現代社会資本主義に適合して金持ち。等…ほかに何かあるかな。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 01:29:47
兎に角
俺が思う事のみが「真理」であると言う、
独善的真理の押し売りは如何なモノか??
Unknown (Unknown)
2017-04-07 02:36:21
今、ヤフーニュースで、
イタリアでロシア人母親が、
拒食症で餓死した娘をスーツケースに詰めて海に投げ捨てた・・・という記事が出ていた。
日本でもドラマ「おしん」直前までは、
姨捨山に年寄を捨てて餓死させるのが、
善であり真理であり常識である時代があった・・・今でこそ問題だが・・・。

考えて見ると釈迦時代の古代インドでは、死者を袈裟(けさ)にくるんで森の中に捨てて、バラモンたちはその黄ばんだ袈裟をはぎ取って自らの寒さを庇い、死者の乾燥した頭蓋骨を使って食器としたのだから、
それが当時の善であり真理であり常識であり、それで何の問題も無かったのだから・・・
人生いろいろ、時代さまざまだね・・・それがなにか!!
『ゲンロン0』 (Unknown)
2017-04-07 03:09:10
とある記事にて。

「有るという認識はどのようにして生じるか?また、有るの否定としての無いという認識はどのようにして生じるのか?そして何故その認識が問題なのか?」という問いかけに答えたのが中道である。

当時のインドでは、アートマンが有るか?という論争が激しく行われていた。

アートマンが無い、という主張は、アートマンが有ることを前提としてしまう。否定神学的な論理である。

更に、認識不可能なアートマンが存在する。というのも否定神学的な言説である。
有無二辺の中道 (Unknown)
2017-04-07 03:16:36
とある記事にて。

中道とは「左右ではなく真ん中」、「白と黒ならグレー」、「何でもほどほど」というような意味ではない。

仏教的な視点で読めば、慈悲と智慧の推奨とも思える。

智慧とは、否定神学的な思考を越えること→有無二辺の中道。

慈悲とは、我が子を想う母の気持ち。
「世界を再誤配しよう!但し、慈悲と智慧によって」

メディアの誤配は、問題だね。
 (月のような者)
2017-04-07 04:29:19
よく目にする話として、ある人が関東大震災の火炎と烈風の中を逃げ回っていた時、飛んできた焼けトタンが友人の首を跳ね飛ばしたというのがありますね。繋いでいた友人の手がなかなか離れず、やっと引き離して逃げたと。友人が死んだことを悲しむ余裕もなかったようですが、私の推測ではその人の頭の中では友人が一体どこへ行ってしまったのか、そもそも友人は何者だったのかという混乱も生じていたのではないかと思います。結論を言ってしまえば、何者でもなく、どこにも行っていないのではないでしょうか。
自分が死ねば武蔵野の夜空に吸い込まれてどこか遠くへ流れていくのかと思いますが、仏教徒としてはそんな自らの想像にも苦笑せざるを得なくなる訳で、死んでもただただそれなりの次の瞬間が生成されるのみであり、「自分」が「どこかに行く」という陳腐な図式に興味がなくなる状態になるだけであると。たとえ瞬間瞬間でもその図式が当てはまる道理はないんだと。
ある夜たまたま隅田川の汚い水を見て気分が混乱したのですが、よく考えればここは相変わらず命の現場であると。もし全滅するのなら、なおさら命の本質に接近できるリアルな現場ではないかと。魚の女の子がまた会えるよと私に呼びかけているような気がしたんですね(笑)それから店で「かわうそタルカの大冒険」という五百円の安いDVDを見つけて「これで感傷に浸るか」と購入したのですが、次の日にニホンカワウソが絶滅したというニュースが…!
人が何かに安住し切れないという事実が真理であり問題でもあるのではないでしょうか。解決があるとすれば自分のいない境地にあると思います。
「行」が重要!「怠ることなく、努力せよ。」 (イエスちゃん)
2017-04-07 05:28:47
「釈尊の仏教」では、「行=修行」が最重要である。

古来、仏教は次の3っつのプロセスを経る。
「教」→「行」→「証」
教えを学び、修行して、覚者=仏陀に成る。

1200年代、日本の親鸞聖人は、これを
「教」「行」「信」「証」
と把握して、「信」の重要性を発見した。主著の題名が『教行信証』と呼ばれる所以である。

部派仏教の「涅槃経=遊行経」では、歴史上の釈尊の最後の言葉を記録している。

「諸々の現象は滅びてゆくものです。
(だからこそ、生きている間に、)
「怠る」ことなく、「努力=精進」せよ。」

この「怠ることなく、努力せよ。」の結果が、
「己証」なのである。

つまり「頭で考えだしたもの」ではないのである。
それが本当に解かっているのだろうか?

『仏教には、「自灯明・法灯明」、以上に求める知恵はないように思います。』

これの基盤こそは、
「諸々の現象は滅びてゆくものです。
怠ることなく、努力せよ。」
なのです。

(この2つは、遊行経の同じ場所に書かれています。
だから、切り離してはいけません。)

この「修行」を遂行する「主体=エンジン」として、
一時的に「自己」が「仮設」されるのです。

仏教では、「行=肉体」を真剣に考える必要があります。

仏教は「こころ」と「肉体」とは分けて考えません。
道元和尚の『身心学道』、身で学び、心で学ぶ。

死んで「肉体」が滅び、「魂」だけが生き続ける。祖先の霊となる。
これは仏教ではありません。

ですから、「日本人の古来の信仰」とは、まったく異なります。
「袈裟」は「福田」、『正法眼蔵』「袈裟功徳」の巻 (イエスちゃん)
2017-04-07 06:08:11
『考えて見ると釈迦時代の古代インドでは、
死者を袈裟(けさ)にくるんで
森の中に捨てて、
バラモンたちはその黄ばんだ袈裟をはぎ取って』

死者を包んだ布、汚れた不浄の布、
「人々の執着心が全くなくなった布」

その中から「まだ使用できる部分」だけ切って取り出した「小片」、
これを「パッチワークで継ぎ足して」大きくして、
汚れているので、全体を「カーキ色に染めた」のが「袈裟」色。

これの「内布、外布」の2枚だけが、全財産。
これを、寒さを防ぐ「衣」とし、寝るための「シート」とし、坐禅のための「座布団」とし…

このような「ボロボロの袈裟」は、誰も盗もうとはしない。
(現在の「絢爛豪華な袈裟」は、自己矛盾)

道元和尚は、中国に留学して、「袈裟」を身に着ける作法を知って、泣いて喜んだ。一歩でも半歩でも釈尊に近付きたいと考えていたから。

昔、水野弥穂子先生が、大森の自宅で「袈裟を縫う会」を開いており、通っていたが、会員の人が、「無数の、色とりどりの小片」を継ぎ足して「大衣」を完成した時などは、それは素晴らしいものでした。
「袈裟功徳」の巻の説明もありました。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 07:35:16
行の達人の南和尚さんが、

坐禅行は「或る特殊な身体操作によって得られる変性意識だ」と確信をもって言っておられるのだから(=人はその変性意識に自分の好きな名称をつける・・・)、

それが『己証』って事なんじゃあないんですか??
Unknown (Unknown)
2017-04-07 07:44:14
自灯明、自灯明って偉そうに言っても、
トコトン過去の自分を眺めれば、
結局の処、自力で生きて来た部分はごくごく僅かで、

大部分の処は他力本願して生き抜けたに過ぎない。
それが縁起と言う事だし・・・謙虚にならないとね!!
Unknown (月のような者)
2017-04-07 07:50:17
ああそうだ、私が言ってる武蔵野とは今のいわゆる武蔵野地域ではなく、東京辺りという意味です。古い武蔵国の空ってイメージですね。下町だとか郊外辺りの暗くてズシッとくる宵闇や夜空がたまらんのですよ。すぐ明治時代に繋がることができるんで(笑)
Unknown (おっちょこちょい)
2017-04-07 09:20:34
>つまり「頭で考えだしたもの」ではないのである。
それが本当に解かっているのだろうか?

こういうと頭で考えた領域を越えたなにかを想定せざるを得ないわけ。
だから形而上学につながっていくわけよ。
思考ではないっちゅう話はスピ系でも散々いうとるよ。
頭、思考を越えたなにかを「気づき」で説明するわけだ。
徹底した無我説を唱えるなら正念とする気づきをどのように表現するのかい?

>この「修行」を遂行する「主体=エンジン」として、
一時的に「自己」が「仮設」されるのです。

これさ仮設という文字で自我を言い換えただけじゃん。
努力するのは自我。修行すればするほど自我肥大だ。
己と無我と矛盾しないように仮設という言葉で自我の表現を変えたものにすぎない。
つまらん言い換えで満足するのは「おっちょこちょい」である!!!
Unknown (おっちょこちょい)
2017-04-07 10:39:59
>道元和尚の『身心学道』、身で学び、心で学ぶ。

身から学ぶのであれば私は身でないといえる。
心も同様にいえよう。
ヴェーダ系では身体は私ではない。
心は私ではない。
と自己同一化を解除していく。
どうヴェーダ系と違うんですか?

身心脱落となった私は誰になるんだ?
言語は虚構ですか。そうですか。
それって言葉のせいにしているだけで説明回避してるだけだ。
おっちょこちょいさん がんばってくださいね。
おっちょこちょいは「仮設された」俺なのかもな。

さあて朝日の記事をコピペして「おっちょこちょい」を治癒してこよっと。
ふんぞり返るの気持ちいいっすよねー。
観光客の視点 (Unknown)
2017-04-07 11:35:36
とある記事にて。

ー「ゲンロン0 観光客の哲学」再読。
ツーリズムは、イズムを含むが決してイデオロギーにならない。
観光客の哲学は、世界を郵便空間として、再起動させる試み。
厄介なのは、憐みをどう起動させるか?欲望が暴力に転嫁する手前でどのように?第7章は躓きの石だ。連帯の手前で死と復活を、インストールすること。
根源的思考。ー

まだ読めていないですが、つまりは、慈悲と智恵の実践というところでしょうか。

来週には著書の読書会が催されており、東浩紀氏はゲンロン友の会などもあり、幅広く活躍されているようです。

院代様との対談も聴いてみたいです。
Unknown (無のような者)
2017-04-07 11:40:52
>身心脱落となった私は誰になるんだ?

それを「無我」というんじゃないのかな。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 12:24:25
お釈迦さんはなぜ書き物をしなかったんだろうね。
王家の人なんだから文盲ってわけじゃないんでしょ?(当時、文字ってあったよね?)
…文才がなかった、とか…?

待機説法?とかって、お釈迦さんは相手によって説き方を変えたみたいな話として聞いてたけど、
待機説法以外になんかあるのか?みたいなことだったりしないのかしら?
Unknown (Unknown)
2017-04-07 12:35:13
思考を超えたものって、やっぱ身体とか、そうだよねーって思うよ。
「わたし」って言い出す前から身体はあったらしいし。
「わたし」がのばさなくても爪のびるし髪ものびるし。

で、修行とか言い出すとわけわかんなくなるのね。
仮設された自己って、なんで「された」なの?
自己が仮設したものではない、ってことなの?
じゃあ、仮設したのは「自己」を超えたなにかってこと?

「わたし」を超えるんだ、って修行すると「わたし」がたなぼたでふってくるの?
どっから?
Unknown (Unknown)
2017-04-07 12:37:50
あ、まちがい
ふってくるのは「わたし」じゃなくて
「あたまで考えたんじゃないもの」ですね。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 12:41:54
>更に、認識不可能なアートマンが存在する

これな。
ヤージュニャヴァルキヤを検索してみてよ。

アートマンは認識の主体であるため対象にはなりえない。
ここが核。

釈尊の生まれるはるか前にあった思想なんだよね。
ウパニシャッドってさ。
Unknown (おっちょこちょい)
2017-04-07 13:00:34
>当時のインドでは、アートマンが有るか?という論争が激しく行われていた。
アートマンが無い、という主張は、アートマンが有ることを前提としてしまう。否定神学的な論理である。

「Aがない」ということはAというなにかを知っていることが前提となる。
Aがなにものか知っているのではなければ「Aがない」とは言えない。
論理的にいえばAがなにか知らないならば「Aがない」とは言ってはいけない。
Aを言及してもならないとなるわけだ。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 14:43:23
>仮設された自己って、なんで「された」なの?

自分が、自己を仮説したわけでもないし、生かしてるわけでもないし、結局、生かされてるってことでしょね。
梵我一如 (Unknown)
2017-04-07 14:50:02
アートマンとはいかなるものか?と問われ、ヤージュニャヴァルキヤは「あなたは見るという作用の主体たる『見る者』を見ることはできません。

聞くという作用の主体たる『聞く者』を聞くことはできません。
思うという作用の主体たる『思う者』を思うことはできません。
知るという作用の主体たる『知る者』を知ることはできません」という。
そして「万物を認識する認識主体を、どうして認識することができるのでしょうか。
だからこれを、『ではない、ではない、のアートマン』というのです」と説く。

「ではない」をサンスクリットでは「ネーティ」という(日本語で「非也」と表現されることもある)。真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。

「~である」と表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。この考えによれば、私の身体は真の自己ではない。私は私の身体を知覚できるから、認識対象であって認識主体ではない。

また私の思考も認識対象であって認識主体ではない。アートマンは不可捉であるということになる。

ネーティ、ネーティと、自己の否定を重ねれば、意識は特定の何かに向かうことがなくなり、やがて自己と宇宙が一体として感じられる境地にまで至る。その境地こそがブラフマンとアートマンの合一、梵我一如の境地である。

(wik引用)
Unknown (無のような者)
2017-04-07 15:18:12
認識対象とか認識主体とかって、何なんですか?
存在論と認識論 (Unknown)
2017-04-07 16:02:06
とある記事にて。

西欧の哲学の歴史は基本的に存在論の歴史です。
認識論というのは近世に登場したものです。
それまでは、神が存在し、その神が世界を創造したと考えられていましたから、認識論は必要ではありませんでした。
ところが近世になって、神の存在が疑わしくなって、その結果、認識論が登場しました。
デカルトが言うように、私の思考が対象と一致するのを神が保証している限り、認識論なんて必要ではありません。
だけど、その保証している神の存在が疑わしくなると、私の思考と対象の一致を保証しているものがいなくなり、その一致をどのように考えたらよいのか、という認識論が始まります。

認識論はそれを認識する主観(主体)の存在と対象の存在を必要とします。
つまり、心と身体・物体の二元論を前提にしています。
そして二元論は古代ギリシャのプラトンとアリストテレスに始まり、それ以前のイオニア派自然哲学の自然の一元論を批判して出てきたものでしたので、ハイデガーは、そのプラトン・アリストテレスの二元論を批判し、イオニア自然哲学を見直そうとして存在論を唱えたのです。

デカルトから始まる心身二元論と、カントの主観と客観の二元論が古代ギリシャの二元論の延長にしか過ぎないということを見破って、それが近代の、殊に20世紀の二度にわたる世界大戦と人間の大量虐殺と人間による自然破壊・環境汚染の原因だと考え、それを批判するために、その近代を超克するためにイオニア自然哲学の一元論に戻ろうとしたのです。

プラトンとアリストテレスによって「存在忘却」が始まり、それが西欧の哲学の歴史にずっと引き継がれていることに危機感を抱いて、それをひっくり返すために認識論を否定して、存在論を復興しようとしたのです。

話がズレてますか?
Unknown (Unknown)
2017-04-07 17:21:24
みんな 死んだ
Unknown (Unknown)
2017-04-07 17:54:29
西洋哲学って、そんなこと(どんな?)してるのか。
全然わからん。

「私の思考が対象と一致するのを神が保証している限り」
これ、どういうこと?
たとえばわたしのどういう思考が神に保証された思考なの?(どういう場合に思考と対象が一致しているということになるの?)
「(神がゆらいでしまったら)その一致をどのように考えたらよいか」
んんんと、一致は、してるんだ?
一致してないかもしれないとかもあり?

認識って何?
意味を与える、みたいな感じ?

認識するものとされるもの、が「主体と対象」とするじゃん?
で、それは「心」と「身体・物体」にわかれてることを前提としてるとするじゃん?
そいで、わたしが、誰でもいいんだけど「あ、○○だ」って誰か(人間)を認識したとするじゃん?
認識された人は「物体」なの?
Unknown (Unknown)
2017-04-07 18:01:09
「自分が、自己を仮説したわけでもないし、生かしてるわけでもないし、結局、生かされてるってことでしょね」

だとすると、仮設しなくても、まんまそうじゃない?
Unknown (Unknown)
2017-04-07 18:06:36
眼自体は鏡なしじゃ見れないじゃん。

耳自体を聴くことはできんよね。

そんな感じで考えてみて。

例えば痛みを感じる場合「私は痛い」
というのが普通なんだけどこれが自己同一化ね。
私と痛みを紐つけて関連づけたってこと。
私は痛みを観ることができるということは
対象化できるということなんで痛みは私ではないとなる。
まあ観念操作の類だけど自己同一化をしないための方便みたいなもんと考えるとよろし。
痛いことをやせ我慢して強弁するのも違うきがするけどね。
ゲンロン0 (Unknown)
2017-04-07 21:16:51
東浩紀著『ゲンロン0』、今日から発売されてた。
面白かったけど、観光客、郵便的、誤配、とかいうのは、結局のところ「縁起」のことだと思った。
トランプ現象に見られるナショナリズムの台頭、それからテロ、という世界的にヤバい問題を、ヴォルテール、カント、シュミット、コジェーヴ、アーレント、ネグリ、といった西欧思想の文脈の中で、どう解決するのか?
その原理を問う本だったけど、結論が「憐れみ」だったのが興味深かった。
『ゲンロン0』p198より、「人間は人間が好きであるはずはないと考えていた。人間は社会をつくりたくないはずだと考えていた。にもかかわらず、人間は現実には社会をつくる。なぜか。ルソーが『人間不平等起源論』で提示した答えは「憐れみ」だった。、、、(中略)もし憐れみがなければ、人類はとうの昔に滅びていただろうとルソーは記す。、、(中略)観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。」引用終り。
もし仏教が慈悲から始まる教えだとすると、逆方向での論理展開が興味深かった。
・・・みたい、いやみたくない (Unknown)
2017-04-07 22:19:16
皆さん一生懸命、自灯明法灯明でせっせと頭を悩ませておりますなァ~。

エリート集団が世界をハスに見て、ただ頭の良さを競い合っているみたい・・・
ノータリンの俺には、君らの方がおれより更にバカみたい・・・
誰かの真理が誰かさん達の常識になって
今は社会の問題になってるみたい・・・
みんな無用の長物みたい・・・
俺には全然かんけいね~やみたい・・・

仏教の論理展開の最終結論 (Unknown)
2017-04-07 22:24:50
眼は横に在り鼻は縦にある、
そして腹が減ったら喰らい寝たかったら寝る
日々是好日!!
これぞ仏教の極意なり、最終結論なり。。。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 22:54:20
いあー俺はイエスちゃんを煽って矛盾をあぶり出して勝利の雄叫びをあげようと目論んでただけでさ。
のってこないから残念すぎる。
論争は血がたぎる。
やつはおそらくほとぼりが冷めたら何食わぬ顔でコメントに1万ペリカ。
まあ冗談半分なんだけどさ。

つーか俺は梵我一如を信仰してるわけではないけど真理くさい響きはあるんだなぁ。
仏教徒は露骨に排除しにかかるからおかしいと思うんだ。
そういうのお前が仏教徒を自称するから守りたくなるんだろって突っ込みたい。
なんだろうな。信者じゃないけど。否定が真理っぽさを演出しとるのかね。
仏教もその点否定ばっかりだしのぉ。
どっちの思想も矛盾おおすぎだ。
神秘主義はうそくさい、かといって哲学は矛盾ばっかりだしよお。
どっちがいいんだよって。
考えれば考えるほど遠ざかる気がするよ。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 22:56:28
眼は鏡なしでみれないどうのこうの、って
何の説明なんだろう?

痛みはわたしではない、っていうのが認識論なの?
心身二元論が前提の?

それは「『私』がある」んだよね?
不滅の?普遍の?核となる?なんかそんな感じの「私」?
えーーー、うそくさい。
私的には、却下。
Unknown (Unknown)
2017-04-07 23:05:01
あー、わたし、わりと一神教つーか、キリスト教とか、やばいって思ってるからかも。

…あら、「うそくさい」仲間がいたわw
でも、梵我一如とかまた専門用語が出てきたよ…


Unknown (Unknown)
2017-04-07 23:07:08
あ、そうだ。
「私の思考が対象と一致するのを神が保証している」
ってどんなのか教えて欲しい
Unknown (Unknown)
2017-04-07 23:33:48
あーそれ俺が書いたの。
認識論じゃないっすよ。
確かにうそくさいわね。
梵我一如は身体との自己同一化が最悪な誤解といわれとるんだよ。
私は身体だと強く思い込んでるでしょ?
それを誤解と言い聞かせるために痛みと分離させる。
無理やりくさいけど。
だから自己同一化を否定すると強烈な違和感がある。
腕動くやんみたいなツッコミ。
禅も同じように無!無と自分に言い聞かせることあるらしいけど似たようなもんじゃん。

熟睡、気絶状態は自分の身体も時間観念もなにもないけど目覚まし時計のアラームは聞いてるよね。気づきは先行する。
あの現象考えたら私は身体ではないとは言えなくもない。

それいうんだったら完全な無我ってのもそれはそれでおかしいと思うが。
まあ無理強いはしないけどね。

脳が私じゃないのかという説も自明なようでそうでもない。
りんごの赤がなぜああ赤いのか、意識とはなにかの答えがまだない。
Unknown (Unknown)
2017-04-08 00:50:05
今回、和尚さんは、

既存な仏教真理や仏教常識から遠ざかれ、
そして今、眼の前に存在している様々な問題を試行錯誤して探れ、って言ってるんじゃあないの??

仏教の既存真理や仏教常識は
今眼の前にある問題の解決には何の役にも立たないから・・・
Unknown (Unknown)
2017-04-08 01:02:41
「私」とは「この身体」のことである(?)っていうのが梵我一如的にNGだっていうの?


なんか、けっこうみんな、確固としてんのね。

わたしは、わたしのことをわたしだと思ってるけど、
わたしってなんだろう?みたいなことは
なにかとの関係の中で思うようなことみたいな気がするんだけど。

わたしは、「わたし」って言い出す前からおっぱい飲んでねんねしてっていう身体があったからこそ、今、「わたし」って言ってられると思うので、
わたし=身体っていうのはやっぱり
えーーーー、うそくさすぎる
と思う。

梵我一如って、あの、ノンデュアリティみたいなの?
Unknown (Unknown)
2017-04-08 01:07:27
「試行錯誤しろと言われたので試行錯誤しなきゃだわ」
とかさ。頼むよ。もう。
Unknown (Unknown)
2017-04-08 01:22:07
頼まれなくても、もう、
仏教が役にたたね~んじゃあ、
試行錯誤もしょうがね~ヨな
Unknown (Unknown)
2017-04-08 02:28:12
もともと釈迦の仏教は死の受容、
生の受容にはなり得ない。
いくら自灯明法灯明を言っても、
ダメなモノはダメ、出来ない事は出来ない。
個人の努力も善意も報われない時は報われない。
大きな社会の変動や時代のうねりの前には全く無力、自灯明も法灯明も屁の如し・・・

今はそんな問題があふれている・・
Unknown (Unknown)
2017-04-08 04:54:46
どれもこれも読みづらいわ

何が言いたいのか分からんし
Unknown (Unknown)
2017-04-08 11:33:42
>「私」とは「この身体」のことである(?)っていうのが梵我一如的にNGだっていうの?
NGみたいね。この心も私じゃないとかいうみたい。
ここでなにかおかしいと思わないだろうか。
「~は私ではない」ということもやはり心。
心で心を否定する構図になるわけ。
これはどうもおかしい。
ラマナ・マハルシは「~は私ではない」で残るものこそ自我なのだという。
「~は私ではない」で思弁的観念操作したところでその程度。
だから「私は誰か?」と自問し源泉を探求するか「私は在る」という想念にとどまれという。

もっともらしく聞こえるがラマナがほんとかどうかは知らない。

>梵我一如って、あの、ノンデュアリティみたいなの
ネタ元が梵我一如の系統と思われる。実在論系仏教も含まれると思う。
ほとんど昔の経典か聖者の言葉のコピペ。
もろ引用はバレバレだからちょっと言い方を変えてみるテクが必要。
誰かさんが大好きなコピペコピペ。(イエスちゃんちっすちっす。)
ツギハギだらけのパッチワーク。
スピ系ってだいたいそういうごった煮状態。
なんちゃらワークショップ、なにかと理由つけては金むしる系。
自己陶酔型アセンションなんちゃら。
意識高い系、スピ系女子が最大のターゲットの不安解消ビジネス。
じゃ大本のほうは正統かといえば更にカオスという。。。
Unknown (Unknown)
2017-04-08 12:28:26
>もし仏教が慈悲から始まる教えだとすると、逆方向での論理展開が興味深かった。

逆方向って
どんな方向だろうね??
Unknown (桜のような者)
2017-04-08 16:30:34
釈尊の生誕祭を祝う花祭りにて
甘茶を何杯も頂いてきました😋

美味しゅうございました🙏

桜も見頃でした🌸🌸🌸
仏向上事(真理) (Unknown)
2017-04-08 17:01:36
「それを話す時、お前には、それを耳では聞こえぬだろう」

「私が、それを話さない時は、それを聞くだろう」

それは、言葉の全てが仏向上事なのだから、その言葉と仏向上事とは一体であり、そのため言葉自らが、仏向上事になりきっており、仏向上事が言葉そのものであるということである。

「仏向上の人があることを知るべきである」

「それは、非仏のことだ」
釈尊の「問題」は、「生老病死」の「苦」、「四苦八苦」であった。試行錯誤6年間で「問題」を解決した。 (イエスちゃん)
2017-04-08 18:29:47
『予めそうするのが「正しい」とする「理由」も「根拠」も言えないけれど、
「問題」がある以上、
試行錯誤を覚悟して、とにかくそれに臨む。』

道を求める途中段階で「釈尊」は、既存の方法を全て実施してみたが、解決不可能だった。
29歳から35歳までの6年間も、試行錯誤し、四転八倒した。

最後に、「苦=苦行」と「楽=放逸」の「2つの端」から離れて、
「禅定=坐禅」という行為によって、
「この世の見方=観」に「コペルニクス的転回」が生じた。

それは「自分の能力の向上によって」「自分の努力によって」ではなく、
突然、「もたらされたもの」であった。
突然、「その事実であることを発見した」のであった。

「発見」だから、この世そのものが変化して別のものに変わったのではない。
「この世は、何一つ変化せず」に、
「そのまま」にあって、しかも、
「生老病死」の「苦」から、突然、解放されていたのである。

それは、後に「仏教の法印=旗印」と言われる。
「諸行は、無「常」」
「諸法は、無「我」」

釈尊の「問題」は徹頭徹尾「生老病死」であった。
それ以外は「問題」にならなかった。

もしも、自分の「問題」が釈尊「の」と同じならば、これを参考にできる。
有難いことである。
Unknown (Unknown)
2017-04-08 20:04:52
イエスちゃん先輩こんばんわ。
このたびはスルーしていただき誠に感謝しております。合掌。
>突然、「もたらされたもの」であった。
突然、「その事実であることを発見した」のであった。

詳細に説明ありがとうございます。
南大先生がおっしゃるにはニルバーナはなにかわからないということですけど。
わからないなら言及不可のはずですがイエスちゃんはご存知なんですね。
そんなことどんな「「根拠」」でいえるんですか?
出典明らかにしてください。
まさか「無根拠」でってわけでもないでしょう。
あれ?すべては「無根拠」と誰かいってたような。

コペルニクス的転回は「なにから」もたらされたのですか。私ではないものなどといった解答はなしです。踏みとどまるべきでスルーですか?

>「発見」
見性は否定するが発見は認めるわけですね。観方が変更されるだけであって見性とはいってないとか言うんですか?ふーん。

誤字訂正です。 (イエスちゃん)
2017-04-08 20:45:39
『四転八倒』→『七転八倒』
Unknown (Unknown)
2017-04-08 22:53:54
ほー。やはりスルーですか。
みなさん仏教論理の屁理屈にうんざりしてるでしょうからこの辺で失礼しまーす。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 06:27:02
自分が考えている事が一番正しいなんて思い込んじゃうと人は不幸になると言うらしいですから、皆さん気を付けましょう
人は、自分が立っている大地が猛烈なスピードで移動していることを知る事ができる。同様に… (イエスちゃん)
2017-04-09 08:59:07
人は、「自分が立っている大地」が猛烈なスピードで移動していることを知る事ができる。

この事実は、日本を襲う台風が「回転している事実」から知る事ができる。
当然、反対側の南半球では、「逆方向に」回転している。

重要な事は、
自分が立っている大地は「少しも動いていない、ように見えている」
にもかかわらず、「動くと知る」である。

同様に
この「自分」が「実体」ではなく「現象」であることを、
「現象である」「自分」が知る事ができるのである。

普通の人は、大地は不動だという。
同様に、普通の人は「自分は実体だ」という。

「自分が現象であることを知る」と、
「この世界」が「今までと違って」見えてくるようになる。

その人の生き方が変わってくる。
コペルニクス的な回転である。

今までの
「実体である自分」の「それの否定=消滅」への「苦」=つまり、死への恐怖

これから解放される。


なお、
「見「性」成仏」
は、言葉を正しく理解しなければならない。
この「性」は「自性」であり、「不変なもの」であり、
つまり「実体として観た自分」の事であり、
道元和尚は、それを否定した。

要は、「性」言葉をきちんと学ぶ必要がある。
禅の語録の中で、問答していて、この「性」の意味は対話者の間では理解されている。

現代人が、勝手に「妄想して、解釈して」「空転してはならない」。
と思う。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:08:47
見性に関しては知らなかった。
でイエスちゃんよ。
性は自性の性とのことだが仏性は道元さんいうとるよな。
見性否定するなら仏性も否定するはずだが?
仏性概念持ち出してくるのは道理にあわん。
仏性に言及しながら解釈を「全存在は仏性だ」なんだと変えて仏性否定する構造とするのはおかしいだろ。
ましてや常住常在?なんだそれ
まさか無常が常に在るみたいな理屈か。
そんな屁理屈通用するかって。

でさあんたのいう妄想じゃないならコペルニクス転回がおこったであろうニルバーナの内容は観点変更だけだったというわけ?

今いきとる人間にあってその経験を言葉でいったとしても正確に伝わらない。
ましてや会ったこともなく文献でしか知り得ない伝説化した仏陀。そして仏陀ご自身も言及していないとされるニルバーナの内容をあんたなぜしっとるんだ?
根拠を明示せよ。妄想か?思い込みじゃないんだろ。しかるべき根拠だせ。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:12:04
「桜」で誰か なにか道うてくれ
Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:20:57
じじいの妄想につきあって自己満しちゃだめだ。
仮設された俺ちゃんとしろ!
実相の俺と仮設された俺が分裂した!
統合失調症のようです。
みなさんさーせん。

じじいより桜を如実知見したほうが心が癒やされそうで。

Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:28:02
あとさ地球の自転とかいっても所詮例えだ。
例えは例え。
なんの根拠になりえない。

要は文献だせってこと。
あるいはその結論にいたったプロセスを明示せよ。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:48:04
あとさ新陳代謝だとかなんだとかで自己は無常なのですなんて陳腐な例えも却下。
例えは例え。根拠にならず。
そんなもんで満足しませんから。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 10:51:42
あとさ脳の電気信号オンオフなんちゃらかんちゃらで現象ですも却下ね。
残念聞き飽きた。

Unknown (Unknown)
2017-04-09 13:06:58
「無常が常に在る」という論理がまかり通るなら
「仏性が常に在る」
「無仏性が常に在る」も同じ理屈になるけど。
そうすれば
無自性が常に在る=無自性という自性があるとも解釈できるが。
無自性を論理的に矛盾なく見せるための詭弁だろこれ。
なんか屁理屈にしかうつらないね。
どう考えても言葉遊びやんこれ。
仏教は言語パズルである!!

Unknown (仏のような者)
2017-04-09 13:35:02
常識化された自分は、無自性ですよ。
常識化された日常は、無常ですよ。
常識化された桜は、花びらだけではないですよ。
常識化された言葉は、真理ではないですよ。

ということを知っていく作業が
仏教というものではないでしょうか。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 14:09:19
例えば地球の自転に関してもさ。
実際僕らは宇宙飛行士でもないからいったことないわけ。
肉眼で確認したわけでもなんでもない。
自転していると皆がいうからそれを信じてるだけ。
実際そうなのかと言われたら「らしい」でとしか言えないわけよ。
天体の相対的動きであるとかをヒントにして推察し宇宙にでていって不動の視点による観察があったからこそなんでない?
地球にいながら地球の動きを見れるもんだろうか?
地球外の視点が必要だけどそんなもの仮想でしかないと思うが?

Unknown (Unknown)
2017-04-09 14:18:09
あとさ、宇宙自体が地球と等速度で逆に回転していたととしたら地球は自転しているといえるかなんて考えたらおもしれえな
仏教でも (rui)
2017-04-09 15:15:45
他人と自分を比べる煩悩(慢)は、最上位の覚者(阿羅漢)にならないと除去できませんし、人間は社会的な動物ですから、解脱でもしないかぎり、他者の承認によって幸福を感じることはやめられないと思う
Unknown (Unknown)
2017-04-09 16:19:29
「宇宙自体が地球と等速度で逆に回転していたととしたら」

宇宙全体がすごい勢いで遠ざかり続けている?とかなんとか、なかったっけ?
じゃあどっこも止まってないのかい?みたいな。
でも、そういう話は否定されたとかいう話も聞いたことがある。
最近じゃあどおなってるんだろ。

例えじゃダメだちゃんとオレを納得させてみろちゃん
別に、あんたなんか何一つ納得できないとしてもどってことないんで、
納得しなくていいよ。当たり前でしょ。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 16:33:53
納得なんか最初から期待しとらんよ。
このイエスちゃんとかいうのがてきとーに言いっぱなしだからさ。
もっともらしくいうなと。
まあおそらく涅槃の前後は明らかに違うのだろうがそれがなにかわからん。
観点やらでそう簡単に生き方がかわるはずがない。
悟りとか身心脱落だ涅槃だニルバーナだ三昧だとか言葉ばかりでわかりゃしない。
梵我一如じゃ過去の自己は完全に抹殺されるという。
観点がかわるとかなまぬるいわな。
主体が完全になくなった説やらなんやらいっぱいありますやん。
あくまで説だからなんとも言えんのだが

Unknown (Unknown)
2017-04-09 16:44:41
いくら天体のことを知ったとしても、それ自体を変えられるわけもなく、研究とか開発とかいって科学が進むにつれ、宇宙(地球も)にとっては悪影響で、ダメージを与え続けているように思う。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 16:50:44
固定概念が「本当」ではない、ってことかな。
「私」というのも固定概念だよね。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 17:05:30
滅尽定とか非想非非想やらなんやらどうちがうわけさ。
なんか悟りのグレードあるんですかね。
優劣つけちゃってさ。うそくさいったらありゃしない。
ヨーガにしても禅、瞑想にしてもただ座ってるだけじゃない。
概念多すぎ。
Unknown (ム)
2017-04-09 17:08:21
それではもう
考えなさんな。

万事休す。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 17:18:32
あれ?阿羅漢って最上位だったっけ?
上座部じゃ仏陀が最上位なんでしょ?
ブッダになろうとする野望自体滅尽するべきともいえるが。
なんかこんなんやったら却って自我肥大しそうな予感するんだけどみなさんどうお感じ?
Unknown (Unknown)
2017-04-09 17:21:31
「わしこそ悟った」
「いや俺こそ思考の悟り!」
「おまえらは偽、わしこそ究極の真理」
こんなマウンティングかましあいの猿芝居が関の山くさいぞ。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 18:50:26
なんちゅうか

「どの思想が正しいか」みたいなことなら
マウンティング合戦になるでしょう。
そいで、だいたいそんなもんなんでしょ?って気がする今日この頃。

正しさを主張するために正しそうなところだけピックアップして切り貼りするんでしょ。
正しけりゃいいんだってわけで。

「思考の悟り」っていいっすね。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 18:53:45
てか、
「俺の思考が悟ってるんだよ」みたいな?
Unknown (Unknown)
2017-04-09 18:54:54
「常識」とは、人と人との間に共通する感覚である。その感覚とは、それ以外には考えられないような、証明不要と誰もが思える、ほぼ真理と思えるような感覚のことである。
感覚である以上、他人との比較は不可能であり、その不可能を可能にしていることの本質は「ことば」である。
「ことば」に頼らない仏教の教義からすれば、真理や常識を疑うのは至極当然のことであり、そのこと自体、屁理屈にしか思えないのであれば、もはや仏教は無用である。無理に分かろうとする必要もない。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 19:01:03
あ、いやごめん思考じゃなくて至高(照
つーかさ。言いながら自分いいこと言ってる系で自己陶酔型もよくいるよね
アレは見苦しい。
そう俺です。(照
Unknown (Unknown)
2017-04-09 19:04:44
つーかさ。マウンティング合戦を横目で観ながら苦笑しつつ「あいつらばかだ」という無攻撃型マウンティングもあるから気をつけるんだ
Unknown (Unknown)
2017-04-09 19:10:42
文面から気づきの閃光がきた。
2017-04-09 18:54:54あなたはzipさんか?

>仏教は無用
うーん。わかっちゃいるけどなんか気になるんだわね。もう病気だ。
だめだだめだ(内心もっともっと
だめだろほんとに。
正直いおう。禅が退屈(照
刺激がほしいの
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:06:35
あれがあれで、それがそれの確認が、
師匠と弟子との間で、意思疎通できた時に、印可状が渡されてたんだよね?
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:09:31
禅に刺激を受ける人もいるよ。
合わないなら、密教あたりがいいんじゃない?
滝にでも打たれてきたら?
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:10:15
煩悩即菩提について誰かわかりやす〜く教えてくらさい
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:14:44
「みんな違って、みんないい」
みたいなのも、何が"いい"んだろね。

「みんな違って、面白い」
にしたらどうかな。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:16:16
わかりやすかったら、苦労しないよ。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:17:51
常識は人と人との間における相互了解に基づく規範とも言うべきものであり、その規範からの逸脱が「問題」として問われているのであって、「問題」は即ち「非常識」なこととして「ことば」という規範からの逸脱、言うなれば「ことば」によっては理解できない事態を指している。
「ことば」は思うほどに事態を的確に表現することはできないのである。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:19:47
千日回向行とまでいかずとも
山の一つでも登ってきたらどう?

雪崩れには注意してね。
Unknown (Unknown)
2017-04-09 20:44:14
難しく言うだけなら誰でもできるだろ

分かりやすく説明できてはじめて理解してると言えるんじゃないのか

いちいちあげ足取りやがって 間抜け
Unknown (moi)
2017-04-09 22:37:35
人を物理的に殴り倒すのは法律で厳しく罰せられるが、人を知性で殴り倒すのはOKみたいなの、賢い人に有利すぎでしょ
阿羅漢 (あらかん) (Unknown)
2017-04-09 22:40:53
arhat (arhan) の原意は「(応供の)資格を有する(者)」という意味で、仏教成立以前から存在した述語であることはほぼ間違いない。釈迦の時代にはすでに不用意に自称することのできない尊格であったことが、釈迦の初転法輪を巡る伝承・記述から示唆される。
Unknown (Unknown)
2017-04-10 00:01:16
井筒俊彦さんは

「禅に至っては徹頭徹尾、実存的主体性が関心の焦点なのであって「我」の真相開顕の課題をよそにしては禅そのものも無い、といってもよいほどである。」と言われている。

「私」はない 「私」はないと言ってばかりの誰かさんはアホですな。
Unknown (Unknown)
2017-04-10 00:07:12
ちなみに岩波書店の「コスモスとアンチコスモス」のP343ね
Unknown (マヌケ)
2017-04-10 00:10:08
難しく言えないアタシって😱

どうなるの😭

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