このところ騒動になっているエキセントリックな幼稚園の一件で、急に脚光を浴びることになったのが「教育勅語」です。あれを園児が「合唱」する様子は、確かに見ていてあまり気持ちの良いものではありませんでした。
しかし、「合唱」はともかく、「教育勅語」の何がいけないのかと言われれば、必ずしも即答できないでしょう。
だから、これを「経典」や「聖書」なみに神聖視する方々は、いつの時代にも通じる「イイこと」がたくさん書いてある「立派な文書」と主張するわけです。
実際「イイこと」が書いてあります。「父母ニ孝二兄弟二友二」から「国憲ヲ重シ国法二遵ヒ」辺りまでは、「何が悪い」と言われれば反論が難しいでしょう。
私が思うに、問題は「イイこと」にあるのではなく、「イイこと」が埋め込まれている文脈にあります。この「イイこと」は「皇祖皇宗」と「国体」に規定され、そこに正当性の根拠を持つのです。
つまり、ここで書かれている「イイこと」の肯定は、そのまま文書が言う「皇祖皇宗」主権の「国体」、すなわち戦中戦前の国家体制の肯定になるでしょう。ということは、「合唱」は特定の政治信条の植え付けと言われても仕方ありません。これは現憲法下での教育方法として行き過ぎでしょう(「イイこと」部分だけを抜き読みするならともかく)。
だいたい、部分的に「イイこと」が書いてあるから、その文書丸ごと「立派」と言うのは、「彼は不治の病に罹っていますが、心臓は正常に動いているから健康なのです」、と言うくらいナンセンスです。
「イイこと」が聖書に結びつけば神の言葉でしょうし、仏典で語られればブッダの教えです。「イイこと」には様々な文脈において語りようがあるのに、その中の一つだけを未だ批判精神がほとんどない幼児に刷り込むことは、私としては反対です。それはキリスト教だろうが仏教だろうが同じです(したがって「幼児洗礼」のアイデアは支持できない)。
要するに、子供に「イイこと」を説くのに、今どき何も「教育勅語」なんぞ持ち出す必要はなく(四書五経でも使えばよいのではないでしょうか)、それでもわざわざ持ち出すなら、「イイこと」とは別の「意図」があるのでしょう(「安保法制、国会通過よかったです!」的な)。
「価値観」の教育で大事なのは、それを自分で選べるようにすることだと思います。その場合、方便として、親など大人が最初の価値観を提示するのは当然ですが、いずれそれを一度相対化できるようにならないといけません。相対化した上で、改めて最初の価値観を選ぶとするなら、それがまさに「自分の」価値観になるのです。
相対化とは、要するに鵜吞みにしないことです。鵜呑みにしないとは、批判的な意識を持ち続けることです。それは同時に、反対者の意見に寛容であることです。
したがって、私が支持する思想・信条は、それ自身に対する外部からの批判を最大限に許容するものです(許容できないのは、暴力や差別による一方的排除)。その意味では、言論の自由(当然、批判の自由を含む)について、現憲法に一定の保証があるのに対して、少なくともかつての「勅語」体制とその支持者にそれはまったくなかったし、今後突然寛容になるとも思えません。私が「勅語」及び「勅語」体制を支持しないゆえんです。
誰かが一定の価値観で他人を有無を言わさず縛り続けようとすることは、仏教の立場ではありません。某首相夫人が問題の幼稚園の講演で、幼稚園で植え付けられた「芯」が公立小学校に入ると「揺らぐ」と憂いて見せたようですが、「諸行無常」からすれば、揺らいで当然、揺らいで結構、揺らいでよく考えるべき、それから自分でちゃんと選んでね、という話になるでしょう。
しかし、「合唱」はともかく、「教育勅語」の何がいけないのかと言われれば、必ずしも即答できないでしょう。
だから、これを「経典」や「聖書」なみに神聖視する方々は、いつの時代にも通じる「イイこと」がたくさん書いてある「立派な文書」と主張するわけです。
実際「イイこと」が書いてあります。「父母ニ孝二兄弟二友二」から「国憲ヲ重シ国法二遵ヒ」辺りまでは、「何が悪い」と言われれば反論が難しいでしょう。
私が思うに、問題は「イイこと」にあるのではなく、「イイこと」が埋め込まれている文脈にあります。この「イイこと」は「皇祖皇宗」と「国体」に規定され、そこに正当性の根拠を持つのです。
つまり、ここで書かれている「イイこと」の肯定は、そのまま文書が言う「皇祖皇宗」主権の「国体」、すなわち戦中戦前の国家体制の肯定になるでしょう。ということは、「合唱」は特定の政治信条の植え付けと言われても仕方ありません。これは現憲法下での教育方法として行き過ぎでしょう(「イイこと」部分だけを抜き読みするならともかく)。
だいたい、部分的に「イイこと」が書いてあるから、その文書丸ごと「立派」と言うのは、「彼は不治の病に罹っていますが、心臓は正常に動いているから健康なのです」、と言うくらいナンセンスです。
「イイこと」が聖書に結びつけば神の言葉でしょうし、仏典で語られればブッダの教えです。「イイこと」には様々な文脈において語りようがあるのに、その中の一つだけを未だ批判精神がほとんどない幼児に刷り込むことは、私としては反対です。それはキリスト教だろうが仏教だろうが同じです(したがって「幼児洗礼」のアイデアは支持できない)。
要するに、子供に「イイこと」を説くのに、今どき何も「教育勅語」なんぞ持ち出す必要はなく(四書五経でも使えばよいのではないでしょうか)、それでもわざわざ持ち出すなら、「イイこと」とは別の「意図」があるのでしょう(「安保法制、国会通過よかったです!」的な)。
「価値観」の教育で大事なのは、それを自分で選べるようにすることだと思います。その場合、方便として、親など大人が最初の価値観を提示するのは当然ですが、いずれそれを一度相対化できるようにならないといけません。相対化した上で、改めて最初の価値観を選ぶとするなら、それがまさに「自分の」価値観になるのです。
相対化とは、要するに鵜吞みにしないことです。鵜呑みにしないとは、批判的な意識を持ち続けることです。それは同時に、反対者の意見に寛容であることです。
したがって、私が支持する思想・信条は、それ自身に対する外部からの批判を最大限に許容するものです(許容できないのは、暴力や差別による一方的排除)。その意味では、言論の自由(当然、批判の自由を含む)について、現憲法に一定の保証があるのに対して、少なくともかつての「勅語」体制とその支持者にそれはまったくなかったし、今後突然寛容になるとも思えません。私が「勅語」及び「勅語」体制を支持しないゆえんです。
誰かが一定の価値観で他人を有無を言わさず縛り続けようとすることは、仏教の立場ではありません。某首相夫人が問題の幼稚園の講演で、幼稚園で植え付けられた「芯」が公立小学校に入ると「揺らぐ」と憂いて見せたようですが、「諸行無常」からすれば、揺らいで当然、揺らいで結構、揺らいでよく考えるべき、それから自分でちゃんと選んでね、という話になるでしょう。
よかった よかった ちゃんと読んでくださってたんですね。
コメントに応えてくださっでありがとうございます
有象無象のコメントを削除した上で
あらためてわざわざ言わなくちゃならん、と。
なにごとかしらね。
あたし、こないだの震災系の話もちょっとやだったわ、じつのところ。
今後そのつもりでヨロシク、的な?
削除して下さいっていってた人のリクエストにお応えしたのね。
ぜんぶまとめて。
伝統だから?形式だけ?
「オレもまだまだだな、がんばって稽古しよ」って思ったんだって。
よし、わかった。
その思想信条のとおりにやっているかどうかは
別のことだわな。
教育というより、「軍事勅語」の方が適切のように思える映像でしたね。
戦前戦中の歴史からいえば、戦後の人々は、国(政治)が変わると、アッサリ?変わっていたように思います。
ただ、そこの園児達が、イイ迷惑な「教育」を強いられている、ということなのでしょうね。
批判を最大限に許容し寛容性をもつことを支持はするがコメントを削除しないとはいってない。
相依性縁起ですべての事物は関係をもつが南氏の扱う話題と関係のないコメントは除外される。