今朝、軽油満タンで7時40分頃三条燕インターから関越高速に乗り、小千谷インターで降り、国道291号に乗り柏崎方面に向かう。途中252号線に乗り、息子の非難場所までたどり着く。途中信号機が停電のため渋滞したが、まあまあ難なくたどり着けたのはラッキーだった。
非難場所の近くの駐車場に息子の軽四、ホンダトウデイの姿を見たら一安心。一緒にアパートに戻る。玄関脇の深夜電力の給湯器の温水タンクが斜めにぶっ倒れて壁にめり込んでいた。部屋の内部は大した損傷は見受けられなかった。
途中、倒壊した小屋とか古い家屋は潰れていたり、倒壊していない建物と何が違うのか判らないが、強度的に違っているのだろうと思うが、かなりの揺れだった事が想像できる。
小生昭和39年の6月16日新潟地震を体験しており、その当時高校1年生で昼頃中間テストが終わってバスから降りて友達と二人で歩いている時突然ドスンと言うショックがあって、後は横揺れで立っているのがやっとだったが、知ってる人も少なくなったと思うがツイストダンス状態だった。
そのうちに昭和石油の貯蔵タンクが炎上真っ黒なきのこ雲が発生、二人で原爆が落ちたか?なんて言ったが、原爆なら生きていないよ!とか言う。そのうち津波が来ると言うデマでも無いが、実際は50cmか1mくらいか、みんな波に飲み込まれるぞーとか言われ、当時の石造りの新潟県庁の屋上に逃げ込んだ。夕方までそこにいたが、守衛さんに門を閉めるので出て下さいとか言われて仕方無くそこを出て、電車が動かないので二人で家に向かって1時間も歩いたか?友達の親父さんが車で通りかかって乗せてくれた。
なぜか今回、月は違うが16日だった。当時の記録では、死者26名、家屋全壊1960戸、半壊6640戸、浸水15298戸だった。
とりあえずアパートに電気や水道が来ないうちは生活できないし、1週間学校も休みらしいので息子も実家に帰ることにして、家財の主要なものを車に積んで帰る事にした。一般道路で帰り、午後2時少し前に無事帰宅出来た。交通情報センターのお姉さんのおかげで息子を無事連れ帰る事が出来た。まだまだ現地では避難所で過ごす人が一杯いると思うと申し訳無い気持ちで一杯だ。