( 読売新聞 2012年9月27日)
若狭(福井県)武田氏の武田信広は蝦夷地(えぞち)(北海道)に渡ってアイヌのコシャマインの乱鎮圧に軍功を上げ、花沢館(北海道上ノ国町)主だった蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の婿に迎えられ、蠣崎姓を名乗るようになった。その後、蝦夷地南部、松前の大館に本拠を移し、蝦夷地の中にいわゆる「和人地」を確保して、光広を経て3代目の義広に至る間に、在地領主として急速に成長している。
慶広(よしひろ)は、4代目季広(すえひろ)の三男として生まれたが、永禄4、5年(1561、2年)に長男・次男が相次いで死に、慶広のところに家督の座が転がりこんできた。慶広は弟たちを分家させ、また、姉妹を有力な豪族のもとにこし入れさせて、同族結合を築きあげていった。
こうした同族結合を支配のバネにしながら蝦夷地支配に乗りだした慶広であったが、ちょうど豊臣秀吉による全国統一の最後の総仕上げの段階にあたっていた。機をみるに敏であった慶広は、それまでの侵略によって得た土地を確保すべく、豊臣政権に接近しているのである。
天正19年(1591年)に陸奥国(岩手県)で起きた九戸政実(くのへまさざね)の乱のとき、九戸城攻めに出陣した武将の中に、秋田実季(さねすえ)・津軽為信・小野寺義道らとともに慶広が加わっていた。しかも、注目されるのは、慶広軍の中に、戦闘要員として多数のアイヌが動員されていたことである。アイヌの軍勢は毒矢を使ったことで知られている。
実際、このときの戦いで、慶広が動員したアイヌ兵の毒矢がどれほどの戦果をあげることができたかはわからない。だが、アイヌ兵を多数引き連れていくことによって、秀吉に、慶広がアイヌの頭目であること、すなわち、蝦夷地の領主であることを強烈に印象づけたであろうことは容易に推察される。
2年後の文禄2年(1593年)正月、秀吉から蝦夷地一円の知行を安堵(あんど)されたのは、アイヌ動員のデモンストレーションが功を奏したわけで、実質上の蝦夷島主に認定されたことを示している。なお、蝦夷地安堵は慶長3年(1598年)とする説もある。
秀吉の死後、慶広は徳川家康に接近して、姓を松前と改めているが、これは松前を実質的に支配しているという自負心の表れでもあった。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/busho/20120919-OYT8T00665.htm?from=navlk
若狭(福井県)武田氏の武田信広は蝦夷地(えぞち)(北海道)に渡ってアイヌのコシャマインの乱鎮圧に軍功を上げ、花沢館(北海道上ノ国町)主だった蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の婿に迎えられ、蠣崎姓を名乗るようになった。その後、蝦夷地南部、松前の大館に本拠を移し、蝦夷地の中にいわゆる「和人地」を確保して、光広を経て3代目の義広に至る間に、在地領主として急速に成長している。
慶広(よしひろ)は、4代目季広(すえひろ)の三男として生まれたが、永禄4、5年(1561、2年)に長男・次男が相次いで死に、慶広のところに家督の座が転がりこんできた。慶広は弟たちを分家させ、また、姉妹を有力な豪族のもとにこし入れさせて、同族結合を築きあげていった。
こうした同族結合を支配のバネにしながら蝦夷地支配に乗りだした慶広であったが、ちょうど豊臣秀吉による全国統一の最後の総仕上げの段階にあたっていた。機をみるに敏であった慶広は、それまでの侵略によって得た土地を確保すべく、豊臣政権に接近しているのである。
天正19年(1591年)に陸奥国(岩手県)で起きた九戸政実(くのへまさざね)の乱のとき、九戸城攻めに出陣した武将の中に、秋田実季(さねすえ)・津軽為信・小野寺義道らとともに慶広が加わっていた。しかも、注目されるのは、慶広軍の中に、戦闘要員として多数のアイヌが動員されていたことである。アイヌの軍勢は毒矢を使ったことで知られている。
実際、このときの戦いで、慶広が動員したアイヌ兵の毒矢がどれほどの戦果をあげることができたかはわからない。だが、アイヌ兵を多数引き連れていくことによって、秀吉に、慶広がアイヌの頭目であること、すなわち、蝦夷地の領主であることを強烈に印象づけたであろうことは容易に推察される。
2年後の文禄2年(1593年)正月、秀吉から蝦夷地一円の知行を安堵(あんど)されたのは、アイヌ動員のデモンストレーションが功を奏したわけで、実質上の蝦夷島主に認定されたことを示している。なお、蝦夷地安堵は慶長3年(1598年)とする説もある。
秀吉の死後、慶広は徳川家康に接近して、姓を松前と改めているが、これは松前を実質的に支配しているという自負心の表れでもあった。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/busho/20120919-OYT8T00665.htm?from=navlk