4月27日 死と再生をつかさどる者
羽生選手の、特にここ数年の演技について考察してみます。
そして、わたしも激動の16・17シーズンをひとまず終了したいと思います。
羽生選手の誰も及ばぬところはその技術の高さもさることながら、その演技の質にあると、常々思っています。
そして、彼が目指す演技の質とは、これまでの<いい演技>の概念を突き抜けたところにあります。だからミスをすれば得点が出にくく、完璧であれば、他の追随を許さぬ圧倒的な高得点が出ることになるのです。
いわずもがな、たぐいまれな表現力と観衆を巻きこむ吸引力は、他の選手を圧倒しています。
こうした彼の内面からにじみ出る持ち味と、軽く細く跳びやすい彼の身体の特徴を加味して編みだされた演技の質は、彼にしかできないものとなります。
私の言いたいことは、この方の意見とほとんど同じです。参考までにお読みください。
http://ameblo.jp/poissonbleu/entry-12269120472.html
(ショピンの魚に恋して 様のブログ 敬意をもってご紹介いたします)
ではソチ五輪から今現在のシーズンまで、FPの演目を順を追って見てみましょう。
復興という十字架とともに演じた「ロミオとジュリエット」ソチのロミオ、翌年「オペラ座の怪人」での悲劇の主人公。この年には大けがと大病があります。そして病が癒えたあとの「SEIMEI」で陰陽師を演じます。その後、リスフラン靭帯損傷で2か月休養の後、「Hope&Legacy」の今季は、自然そのものを、あるいは自然と生きるイノチを演じました。
彼の演技を見るたび、二律背反するものの共存が、氷の舞台で繰り広げられます。
死と隣り合わせの生命の煌めき、絶望のあと、再生のよろこびと「希望」。そうした相反するものの共存が目の前に現れて、私のこころに限りない化学反応を呼び起こし、感動であふれる涙をもたらすのです。
「SEIMEI」で、私は男性性と女性性が見事に共存する世界の展開を目の当たりにしました。
氷の上で、彼は中世日本の「シャーマン」清明でもあり、巫女でもあったと思うのですが、そのめくるめく感動をどう表現したらいいのでしょう。プログラムの前半から後半へ移るとき、シャラーンと音楽が変わって、彼がひらりと袂を振る。あの一瞬の所作と表情で、場面がガラリと変わり夢幻の世界に引き込まれてしまうのです。
(お写真はお借りしています)
また、今季の「Hope&Legacy」では、(以前にも書きましたが)彼のスケート人生に重ね合わせて作られたプログラムが、演じるごとに、彼自身が遺産となり、かつ自ら遺産を超える存在となり、プログラムそのものが深みを増して、彼個人の人生を超え自然そのものと調和する世界の表現へと、深化していきました。こんな貴重な体験を、彼以外に現実できる者はいないでしょう。
(世界選手権プログラムより)
一般的な説明を凌駕する普遍性を、彼の演技にみることができます。
それが彼の演技をわかりづらくもさせ、情熱的でないとか、感情表現が足りないように思われるときもあるのです。普遍的であることが芸術の最高の賛辞であるにもかかわらず。
そして、意識的か無意識かわからないけれど彼が選んでくるテーマは、白鳥が示しているように、生と死を乗り越えた、いのちの「再生」、あるは「希望」。
その先にみつめているのは永遠です。
それは芸術家として、彼自身が自ら十字架にかけられた存在であることを自覚しているようにも思うのです。
彼のプログラムは、SPとFP,さらにはエキシビションまでを、一つの作品世界として読み解かなければ、演技のすべてを観たことにはならない。
そんなつくりになっている。
だから、一分たりとも、息が抜けない。それがさらに大きな魅力になっていて、どれだけ語っても語り尽くすことがありません。
2016年 世界選手権 エキシビション「天と地のレクイエム」
死と再生をつかさどるものが神ならばそれを知るものこそ、芸術の真の価値を知る者でしょう。
本日もお読みいただきありがとうございました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます